泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

火車

2025-01-11 20:53:04 | 読書
 昨年末に読み終えていたのですが、感想を書く余裕がなく、年始になってしまいました。それでもこの作品のインパクトは絶大で、読後感が消えることもありません。
 私が応募しようとしてる「小説すばる文学賞」の選考委員には宮部さんもいらっしゃるのです。宮部さんの作品に触れるのは「ソロモンの偽証」(新潮文庫)以来でしょうか。文庫で全6巻もある大作ですが、あの時も夢中で読んでしまった記憶があります。
 今回もしかり。本当に久しぶりに、就寝前に布団で読むということをしました。続きが気になって。
 ネタバレになってしまうので結末は書きません。少しづつ少しづつ真相に近づいていきます。主人公は子持ちの中年刑事(本間俊介)なのですが、足をピストルで撃たれた後のリハビリ中なので休職中です。そのタイミングを狙って、遠い親戚の若い男が訪ねてきます。「婚約者が失踪してしまったので探して欲しい」と。
 探し人(関根彰子)を痛む足を引きずりながら勤務先や知人などを訪問し、話を聞いて彰子(しょうこ)がどんな人間なのかを浮き彫りにしていきます。彼女の理解を深めていくことで自ずと今どこにいるのかが見えてくると踏んで。
 実際にそうなっていきます。まったく読者の想像を超える形で。
 大きなテーマになっているのはクレジット破産です。
 この作品が発表されたのは平成4年(1992年、文庫化はその6年後)ですから、私は高校一年生。バブルが弾ける寸前でしょうか。
 クレジットカードの発行枚数は鰻登りでした。作中に弁護士による詳しい説明があります。
 彰子の「しあわせになりたいだけだった」というセリフがあります。それが本心でしょう。特技もなく地味な生活をしている人たちにクレジットカードは魅力的に迫ってくる。ブランド品を買う。ちょっといい生活をしてみる。カードで。
 いつの間にか返済ができなくなっている。それでまた借金。気づけば取り立て屋に追われている。
 彰子はそういう人でした。とても真面目だから追い込まれてしまう。
 読んでいて思い出したのは松本清張の「砂の器」(新潮文庫)でした。その主人公も誰にも知られたくない過去を持っていました。そしてその過去というのは、誰でもなりうるものです。宮部さんは松本清張をとてもリスペクトされていますので、自ずと作風が似てくるのかも知れません。骨太な「社会派」です。
 が、それだけでなく、物語を支える細部の表現がまた素晴らしかったです。たぶん宮部さんでしか書けない的を得た、かつ繊細な言葉。物語を支える様々な人物たちの描き分け。ストーリーが小説の骨組みなら、壁紙や床板、間取り、インテリア、設備なども整っていなければ住み心地のいい家にはなりません。小さくても気持ちのいい庭や緑も欲しいですが、そんな思いにも言葉が届いているというか。
 一人のカリスマ刑事(あるいは探偵)が謎解きをしていくというスタイルでもありません。真相に至るヒントは、日頃接している家族や友人、知人との対話から生まれます。刑事の仲間、子供、子供の世話をともにしてくれている同じマンションの住人夫婦、彰子の同級生やその妻、その他にも。出てくる人たちみんなの証言がラストに向かっていく。だから読むことを止めることが難しくなってしまう(しあわせなことですが!)。
 種明かしできないモヤモヤが残りますが、気になった方はぜひ読んでみてください。
 ある意味ホラーでもあります。私も読後、嫌な夢を見ました……。
 ですが、借金への見方は変わると思います。その人だけが悪いのではないのだと。
 ミステリーの謎とは、要するに人間のことなのだと。

 宮部みゆき 著/新潮文庫/1998
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ツナグ

2024-12-18 20:23:06 | 読書
 寒さが厳しくなってきました。北国や日本海側では大雪も降り、毎年のことながら関東に住む私は冬場にたくさん走ることができてありがたいと感じています。そんななか、私が応募しようとしている「小説すばる新人賞」の選考委員をされている方達の作品を読もう強化期間に入りました(ごく個人的に、です)。
 まず一作目がこちら。
 作者の辻村深月さんは「傲慢と善良」(朝日文庫)が映画化もされ、今よく売れてる作家のお一人です。私はまだ読んだことがありませんでした。
 たくさんある著作からこの本を選んだのは、私が一番読みたい作品だったから。
「使者」と書いて「ツナグ」と読みます。ツナグとは、一体何者でしょうか?
 何と何をツナグのでしょうか?
 様々な主人公が登場しますが、同じ強い思いを持ってツナグの電話番号に辿り着きます。強い思いがなければツナグと接触することもありません。
 それは「死んだ人に会いたい」という強い思い。ツナグは、生きている者と死んでいる者を一晩だけ会わせることができます。光の強い満月の夜、一番長く時間を持つことができ、夜明けまで会いたいと願いあった二人はホテルの一室で再会を果たします。
 家族に受け入れられることなく、会社でも居場所の限られた女性が、テレビで見た女性タレントに街中で助けられ、それをきっかけにファンとなって、タレントの急死を知ってツナグに連絡をする「アイドルの心得」。
 長男として工務店を引き継ぎ、口は悪いが腕のいい仕事人の男性が心に引っかかっていたものを確かめたくてガンで亡くなった母と会う「長男の心得」。
 婚約した女性が失踪し、七年経っても現れず、ついにツナグを頼った男性の「待ち人の心得」。
 二人の演劇部の女子高校生の一人が通学路で自転車事故のため亡くなってしまった。その親友は大事な舞台の主役を奪われたことを根に持ち、「事故でも起こればいい」と思ってしてしまった行動が事故死の原因になってしまったのではないかと恐れ、ツナグと出会う「親友の心得」。
 以上の4編は連作短編で、ここまでで終わってしまうと物足りなさが残るかもしれません。が、さすがは売れているだけはあります。次の5編目はツナグが主人公となっているのです「使者の心」。
 ツナグは、ある男子高校生が務めているのですが、その子がどうしてツナグを引き継ぐことになったのかが少しずつ明らかにされていきます。そしてツナグであるために必要なこと、またしてはいけないことも祖母から教えられていきます。
 その子の名は歩美(あゆみ)と言いますが、彼の両親はすでに亡くなっていました。父の浮気が原因の痴情のもつれとかなんとか、死に方が普通ではなかったので周りにささやかれたりして。その謎も解され、歩実は自らツナグとなる決心に至ります。
 歩美の前の4人も主人公ですが、やはりタイトルになっているようにツナグである歩美が主人公だったのだと読み終えて思います。彼の物語を読んでやっと全体が腑に落ち、「よき物語を読んだ」という充足感が湧いてきます。そしてこの作者の他の作品にも手が伸びていく、という感じです。
 小説は、文章の巧拙や人物造形の明確さ深さ、表現力語彙力、動機の切実さだけでなく、その物語を最も有効に機能させる構成を作る力が必要だと改めて思います。長い文章だけの世界ですから、いかに飽きさせない工夫ができるか。せっかく手を伸ばしてくれた人に、どれだけ親切でいられるかということにもなってきます。
 あと辻村さんの作品から感じたのは、登場人物が実に丁寧に描かれているということ。それは他者への敬意が滲み出たものとも言えそうです。その気持ちだけで上手に人物が描けるというわけではないと思いますが。
「私のために書いてくれた! というたくさんの幸福な勘違い読書体験が血肉となっている」とご本人は言っています。そう、あれこれ言ってみて言語化してみても、結局はどれだけ読んで自分のものになっているか。それらはいざ自分が書いたとき、支えとなっていると実感するものです。
 ということでもう次の方の作品は読んでいる最中です。あと少なくとも3冊は、「選考委員の方々の作品を読もう強化期間」シリーズとなる予定です。

 辻村深月 著/新潮文庫/2012
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死の森の犬たち

2024-12-14 20:55:31 | 読書
 読み出したら止まらなくなってしまいました。
「動物もの」と言っていいのかどうか。そんな単純な枠にははまらないように思います。
 主人公は確かに犬です。犬と言っても、「犬」とくくれるものじゃない。それぞれに個性があります。その個性の違いがドラマを生んでいるとも言えます。
 ゾーヤと名付けられた雌の子犬は、ナターシャの一家にあたたかく迎えられます。
 でも、その幸せはほんの一瞬でした。その後、長く過酷なサバイバルが待っていました。
 ナターシャの家は、チェルノブイリ原発のすぐ近くにありました。爆発、そして突然の避難。福島の記憶が蘇ります。
 ペットを連れて行くことは禁止されていました。しかし、ナターシャはこっそりゾーヤを連れてきました。とても置いていくことはできなかったので。
 バスに乗るとき、ゾーヤは見つかってしまいます。外に置かれたゾーヤは、バスが走り始めると一心に追いかけます。何かの遊びだと思って。だけど、バスは一向に止まらず、やがてゾーヤは追いかけることをやめてしまう。
 ナターシャとゾーヤのその後が展開していきます。
 ナターシャは人に本心を見せない勉強一途な科学者になっていきます。原発から避難してきた運命を受け入れてくれる人たちばかりではありません。変わった人と見られても、ナターシャは一人で過ごすことに慣れていきます。理解者であった父は、被曝の影響で早くに亡くなってしまいます。母は再婚しますが、その義理の父とナターシャは距離を置いたまま。ナターシャは父の勧めもあって核エネルギーの生みの親である物理の研究に邁進します。この道のりは、先にノーベル平和賞を受賞されてノルウェーで演説された日本原水爆被害者団体協議会の田中さんと似ています。成績は優秀で研究職にも恵まれますが、心には大きな穴が空いたままです。彼女は決して幸せではありませんでした。
 ゾーヤは、「魔女」と言われていたお婆さんのカテリーナに拾われます。カテリーナは避難を指示されても従わず、残ることを選んだ人でした。カテリーナは結婚相手を亡くしており一人。ゾーヤはカテリーナに懐いて、カテリーナもゾーヤがいることで孤独を癒されていました。
 が、狼がやってきます。そしてゾーヤは、雄の狼の魅力に抗えず、付いて行ってしまいます。そう、ゾーヤの中にも元々狼の血が入っていました。目の色が左右で違うのが証拠です。片方は冷たい青、もう片方は温かい茶色。
 ゾーヤは子供を二匹産みました。森の中の洞穴で。ミーシャとブラタン。ブラタンは弟で、生まれつき後ろ足が弱くて早く歩けず、その代わり噛む力は犬一倍強い。
 来る日も来る日も獲物探し。小熊と出会ったり、山猫に襲われたり。その中でも一番の強敵がやはり狼でした。
 雌の狼、クロスフェイスがミーシャの宿敵となっていきます。
 老いたゾーヤはカテリーナの家にかろうじて戻り、そこで安らかな最後を迎えますが、残されたミーシャとブラタンは、クロスフェイスから逃げるように住処を探す旅に出ます。
 無人となった農家に出会います。そこには野生化し生き残っていた犬たちがいました。ミーシャとブラタンは、そこのボスのコーカシアンシェパードに認められて仲間となることを許されました。コーカシアンシェパードは、狼を退治するために改良された品種です。
 ミーシャはそこで伴侶となるサルーキと出会う。
 サルーキは、この本の表紙の右側で走っている犬ですが、狩猟犬で顔が小さく足が長く、人との歴史が七千年もあると言われている最も古い犬種です。
 農家の地下室にソーセージを見つけてひとときの幸福を味わいますが、犬たちはまたしてもクロスフェイスが引きつれる狼軍団と戦うことになります。この場面は作者も一番力が入ったらしく、ハラハラドキドキの連続。かつての仲間だった馬が活躍したり、かつての遊び仲間だった小熊が助っ人に来たり。
 その後も息をつかせない展開が続きます。
 最終的にゾーヤの子であるミーシャはどうなったでしょうか?
 大人になったナターシャは、故郷に放射線を測定するボランティアとして戻ってきます。それは野生化した動物たちの保護が目的だったのですが。
 人間の活動によって「死の森」と化した場所が、かつてのペットたちの野生を取り戻す場所ともなったことが印象的です。犬が犬になり切れず、狼と連れ添うというのもこの作品では大きな特徴です。私は知りませんでした。狼と犬が、完全には別れていない種だったということが。人がいなくなったことによって動物たちが主導権を取り戻すかのように生き生きとする。それはいつも死と隣り合わせなのですが。
 動物たちが決して擬人化されていません。動物は動物として、その個性を尊重されて描き分けられていることもこの作品の美点だと思います。だからこそ、読者は一つの動物に感情移入してページをめくる手が止まらない。
「たましいのきずなはけっして消えない」
 愛された記憶は決して消えません。それが人を、人だけでなく動物も、生かしていく原動力なのだということを「死の森」が浮かび上がらせています。

アンソニー・マゴーワン 作/尾﨑愛子 訳/岩波書店/2024
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中空構造日本の深層

2024-12-04 20:25:51 | 読書
 少し前に読んでいたのですが感想がまだでした。
 前から気になっていて、執筆がひと段落して、やっと手が伸びました。
「中空」とはなんでしょうか?
 著者の河合隼雄さんはカウンセラーで、面接を重ねるうちに日本人独特の心があると気づきます。その典型を昔話や神話に見出してきました。
 中空のヒントは古事記から。アマテラス、ツクヨミ、スサノオという三神がおりますが、活躍し記述されるのはもっぱらアマテラスとスサノオ。同様の構造は、ホデリ、ホスセリ、ホヲリ、また、タカミムスヒ、アメノミナカヌシ、カミムスヒの三神(ホスセリとアメノミナカヌシがツクヨミに該当)にも当てはまります。
 日本神話に登場する神でありながら、なぜほとんど注目されないのでしょうか?
 空だから。特にないから。
 え? 神なのに特に記述すべきことがないって。
 いや、そうだからこそ存在意義がありました。
 西洋ではどうでしょうか?
 一神教ではどうでしょうか?
 神は一つ。それが当たり前で育つとどんな考え方になっていくのか?
 少し想像すれば見えてくるのではないでしょうか?
 異教を排除する。異端を追い出す。違う神を認めない。ジハードとか聖戦とかが正当化される。善と悪がはっきりと別れ、分断されることになっていくのではないでしょうか。
 一方で、三神のうち一つの神が無力だとしたら。
 善と悪だけじゃなく空が最初から入っていることで、善と悪の固定化が防がれる。善と悪が入れ替わる余地が生まれる。ちゃらになるというのでしょうか、空があることでリセットが可能になる。そして善と悪など対立する者同士の共存が可能になるのです。
 大した知恵だと思いませんか?
 それは環境の要因も大きいと思います。
 日本は島国です。地続きの国境というものがない。
 それに地震と津波と火山に台風まである。一つの建物が何百年と残ることはほとんどありません。むしろ定期的に建て替えるのが当たり前。
 自然は豊かです。一方で、人間の持つ力を肯定的に受け止めることは難しかったのかもしれません。すぐに震災でゼロにされてしまうから。
 そして天皇制という仕組み。天皇は国民の象徴で権力を持ちません。明治時代、天皇を神としてまとまろうとした日本は、海外の方達をことごとく敵視し、今思えば無謀としか言えない戦争に明け暮れました。
 中が空であることで、対立する者同士が共存できる。相反する力を象徴に統合することで乗り越えることができる。そんな日本という島国ならではの心の深層。
 一方で、短所もあります。
 無気力、責任感の欠如、自分の課題を棚上げしてしまうこと、過度の依存、意思が弱い、自分が何をしたいのかわからない、ミートゥーイズム、みんなと同じじゃないと不安、などなど。
 河合さんの提案は一つだと私は思いました。
「個々人が自分の状態を明確に意識化する努力をこそ積みあげるべきであろう。これは遠回りの道のように見えて、実は最善の道と考えられるものである。そのような意識化の努力の過程において、中空構造のモデルは、ひとつの手がかりを与えてくれるものとなるであろう」 77ページ4行〜7行
 何でもかんでも「やばい」ではなくてね……。もっと言葉(心)はあるから。
 カウンセリングも小説も「個々人の自分の状態を明確に意識化」するお手伝いができます。私もその努力をこそ積み上げてきたのだと思います。毎日日記をつけたり、こうして読書感想を書いたり。
 人の心というのは、それほどまでに不可解で広大で、無限とも言えるものだから。
 海のようなものです。海は広くて大きいから冒険に出たくなる。でも海のことを知らなければ、飲み込まれたり流されたりしてしまうことも起きます。
 一つずつ、知ったことを書いていく。その積み上げが、その人の人間の幅や奥行きともなっていきます。自分がしあわせになり、しあわせを他の人に運べるようにもなれるかもしれない。
 まずは自分から。自分という海を知っていくことから。
 人のせいにするでもなく、自分のせいにするでもなく。
 河合隼雄さんの書いたものを読むと、やっぱり心のどこかにピッタリと収まっていく感じがします。

河合隼雄 著/中公文庫/1999
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点子ちゃんとアントン

2024-11-02 17:29:23 | 読書
 子供向けに書かれたものではありますが、大人が読んでもおもしろく、ハッとさせられるものがあります。
 点子ちゃんはある日、壁に向かってマッチを売る練習をしています。それをお父さんは見て不思議がるのですが、どういう訳なのかすぐにはわかりません。
 お父さんは実業家でお金持ち。奥様は社交に忙しく、夜はいつも夫と外出しています。点子ちゃんの面倒を見るのは、家庭教師と家政婦とピーフケという犬だけです。
 そんな点子ちゃんには大事な友達がいました。それがアントンです。
 アントンは母子家庭で、お母さんが病気療養中のため料理を自分でし、靴紐を売ることで家計の足しにもしています。そんなアントンは学校で疲れてしまって居眠りしてしまいます。先生はアントンはけしからん子だと思い、親に手紙を書こうとしていました。それを知った点子ちゃんは、先生と直談判し、アントンに内緒でアントンの真実を先生にわかってもらいます。アントンは先生に真実が知られるくらいなら舌を噛み切った方がいいとまで思っていました。先生はそれからアントンに対して思いやりを持って接するようになりました。
 一方で、点子ちゃんは夜になると家庭教師に連れられて一番賑やかな橋の上で練習した演技を披露していました。「私のお母さんは目が見えません。哀れだとお思いになるならどうかこのマッチを買ってくださいまし!」
 家庭教師の若い女性には彼氏がいましたが、その男は女から金を要求し、女は金を渡すことで「一人でいるよりはマシ」な状態を作っていました。点子ちゃんは利用されていました。でも点子ちゃんは半ばおもしろがって。
 アントンは橋の向かい側で靴紐を売っていました。ある夜、アントンは、家庭教師の女の男が点子ちゃんの家の鍵を奪うのを目撃します。アントンは急いで点子ちゃんの家に電話しました。家政婦に、今から強盗が入るからと知らせるためです。
 アントンの知らせによって、強盗は未遂で終わりました。警察が駆けつけ、点子ちゃんの両親も帰ってきます。すべてが明らかになり、家庭教師は逃げ出し、アントンとお母さんは点子ちゃん家族と共に暮らすことになります。
 章ごとに、作者のケストナーの「立ち止まって考えたこと」が付されています。「義務について」「誇りについて」「空想について」「勇気について」「知りたがりについて」「貧乏について」「生きることのきびしさについて」「友情について」「自制する心について」「家庭のしあわせについて」「うそについて」「ろくでなしについて」「偶然について」「尊敬について」「感謝の気持ちについて」「ハッピーエンドについて」
 これらはどれも一読の価値がありますが、私が一番引かれたのは「尊敬について」で触れられている「ばかやさしさ」についてです。
「ばかやさしさ」耳慣れない言葉ですが、作者のケストナーの地元にはある言葉なのだそうです。その意味はこんな感じです。

 だれかがだれかにたいして心が広すぎる? そんなことがあるだろうか? あるんだ。ぼくの生まれ故郷には、「ばかやさしい」ということばがある。人は、友情や好意をよせるあまり、ばかになることがある。そして、それはまちがっているのだ。子どもたちは、心が広すぎる人には、すぐにぴんとくる。子どもたちは、こんなことやったらおこられると、自分たちでさえ思うようなことを、してしまうことがある。なのにおこられないと、子どもたちは、へんだなあ、と思う。そして、そんなことが何度もあると、子どもたちはだんだんと、その人への尊敬を失っていくのだ。
 尊敬するということは、たいへんたいせつなことだ。ほっておいても、だいたいいつも正しいことをする子どももいるけれど、子どもなら、なにが正しいか、学ばなければならないほうが、まずふつうだ。それには、ものさしが必要だ。ああ、しまった、自分がしたことはまちがってる、これはおこられる、と子どもが感じなければならないのだ。
 なのに、もしもおこられたりしかられたりしなかったら、それどころか、もしも横着なことをしたのにチョコレートをもらったりしたら、子どもたちは思うだろう。
「またこんども横着してやろう、そしたらチョコレートがもらえるんだもん」
 尊敬は必要だ。尊敬できる人は必要だ。子どもたちが、いや、ぼくたち人間が未熟であるかぎり。  167ページ7行〜168ページ5行

 とても興味深い「ばかやさしさ」ですね。
 思うに、相手に好かれたいばかりに、自分の心をはみ出して大きく見せようとすることを「ばかやさしさ」と言うのではないでしょうか。私にも心当たり、あります。そしてそんな態度を見せた相手とは(ほとんどが女性だったと思いますが)うまくいかなかった。そりゃそうでしょう。見せかけの自分が続く訳がない。もし続いたとしたら、それだけ見えない病を抱えることになるだけでしょう。
 自尊心が弱いから、何が大切なのかわかっていないから、子供に対する「ものさし」を見せられないのかもしれません。じゃあ自尊心を育むにはどうしたらいいのか? それはやっぱり尊敬できる人たちと出会うことであり、自分自身が他者から敬意を持って接してもらう体験を重ねることしかないように思います。点子ちゃんの家庭教師が最も自尊心が低いという設定は、ケストナーらしい皮肉です。
「ろくでなし」たちはいつの時代も巧妙に「自尊心の低い」人たちを操ります。「ろくでなし」を減らしていくためには「ろくでなし」に引っかからないこと。無視して気にしないこと。そして、どんなことがあっても自分には価値があると信じること。
 どのようにして?
 例えば、この本を読んで。
 アントンから勇気を分けてもらって。

エーリヒ・ケストナー 作/池田香代子 訳/岩波少年文庫/2000
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デミアン

2024-10-23 20:49:44 | 読書
 3度目の読書。
 書いていた小説がひと段落し、「共同執筆者」の夢にも促されてこの『デミアン』に手が伸びました。落ち着いたら読もうと買ってはいたのですが。
 3度目なのですが、だからか今回はずいぶんと細部が見えた感じがしました。今までの読書では見落としていたのではないかというような。それは新潮文庫ではなく初めて岩波文庫にしたからかもしれません。訳者が違うので、全体的な雰囲気も変わります。岩波版の方が丁寧で柔らかい印象です。例えば新潮文庫では、最後に登場する重要な人物の一人であるエヴァ夫人が主人公を呼ぶとき「シンクレール」と呼び捨てですが、岩波文庫では「ジンクレエルさん」とさん付け。名前も若干変わっていますが、ドイツ語をかじった身としては「ジンクレエル」の方が原文に近い感じがします。
 ジンクレエルは少年時代、クロオマアという年上の男に苦しめられます。クロオマアは暴力を振るってカツアゲしたわけでもいじめたわけでもありません。ただ、ジンクレエルが裏世界ではボスのクロオマアに認められたいがためについた嘘を利用してどこまでもたかるのです。少年らしい冒険譚の披露大会。そこでジンクレエルは農園からりんごを盗んだと言ってしまいます。クロオマアは、そのりんご園の主人が泥棒を捕まえるために賞金を出していたことを知っていました。ジンクレエルの嘘なのに彼は嘘ではないと誓ってしまう。クロオマアは言うぞ言うぞと脅してジンクレエルからお金をむしり取っていく。うちは貧しくてお前は裕福だという理屈もつけて。
 ジンクレエルはどれだけ両親に真実を告げたかったか。だけど自分は嘘をつき、ごろつきとも付き合っている。自分はもう両親たちの住む「明るい世界」には戻れないのだと悲観する。びくびくとして過ごし、体まで病んでしまい、どうすればいいのかわからない。そんなとき、学校に転校生がやってきた。少し年上で、その名をデミアンと言った。
 デミアンはジンクレエルと付き合うようになり、彼が苦しんでいることをも見抜いてしまう。そして聞き出すのでした。クロオマアのことを。
 デミアンがクロオマアに何をしたのか記述はありません。が、ジンクレエルが道端でばったりとクロオマアと鉢合わせたとき、彼は渋い顔をして、ジンクレエルから逃げ出したのでした。
 それからデミアンとの交流は続きますが、進学を機に離れてしまう。ジンクレエルは安い飲み屋に入り浸るようになり、勉学にも身が入らず孤立し、またしても精神の危機に陥ります。そのとき、彼は街中で見かけた女性(ベアトリイチェ)をモデルに絵を描き、その絵を心に掲げることで危機を乗り越えます。そのあと、もう一枚重要な絵を描きます。それは鳥が卵の殻を破って外に出ようとしている姿。その鳥は、ジンクレエルの実家の門に掲げられていた紋章でもありました。
 印というのが作品の鍵にもなっています。その鳥が飛んでいく目的の神「アブラクサス」もそうですが、カインの額の印も重要なモチーフです。
 カインとアベル。聖書に出てきます。カインは兄でアベルは弟。アベルへの両親の愛に嫉妬したカインが弟を殺してしまう。人類初の殺人と言われています。神はカインの額に印をつけた。それはカインに危害を加えさせないため。心理学では、兄弟間の親の愛をめぐる葛藤をカインコンプレックスと呼びます。
 デミアンは、カインを擁護したのでした。それは学校での教えには反することでした。カインは悪者と相場は決まっていたから。デミアンとジンクレエルが目指していた神はアブラクサスであり、要するに善と悪が融合した神なのでした。
 ヘッセの作品では、己の心にある「明るい世界」と「暗い世界」、「善」と「悪」の葛藤、その克服が大きなテーマになっています。それは彼自身が牧師の子であり、それだけにこの悪を見ないわけにはいかないじゃないか! というような心の叫びに敏感だったからかもしれません。それに大きな善と悪の混沌=戦争が目と鼻の先にありましたから。戦争は、この作品でも大きな影を落としています。
 ジンクレエルは、デミアンと離れている間、二人の友人に恵まれていました。この期間が、私の中では希薄になっていた箇所です。一人がピストリウス。もう一人がクナウエル。
 ピストリウスはオルガン弾き。教会から溢れてくるオルガンの音楽にジンクレエルは引かれて彼と出会います。ピストリウスも牧師の子で牧師になる道を歩んでいましたが脱線した口でした。ピストリウスの家で、ジンクレエルはじっと暖炉の炎を見る。心を見る。自分と向き合う。ピストリウスはそのように導く。彼はたくさんの知識も持っていた。こんな秘宝もある、あんな術もある。宗教っていいな。そんなピストリウスに救われたジンクレエルでしたが、ピストリウスが「古さ」から出てこないことを見抜いてしまう。

「ピストリウス。」とぼくは不意に言った——われながら意外な、おそろしい勢いで、悪意をほとばしらせながら。「また何か夢の話を、聞かせてほしいな。あなたがゆうべ見た、ほんとうの夢の話をね。今あなたの話していることは——じつにたまらなく古めかしいんでね」 213ページ15行〜214ページ2行

 ピストリウスは反撃しなかった。そのことで、ジンクレエルは人を傷つけてしまったと悔やむ。
 クナウエルはジンクレエルをつけてきた。そしてジンクレエルに期待していた。この人は知っていると。何を? 禁欲を。性的な欲求とどう向き合えばいいのか。
 しかしクナウエルは失敗した。ジンクレエルから何かを得ることを。性的な欲求に身を任せること=豚という激しい思い込みから解き放たれることを。彼は死ぬことも失敗する。ジンクレエルは何が何だかわからないままに夜中歩くと、そこにクナウエルがいたのでした。

 かれは細い両腕で、けいれんでも起こしたように、ぼくを抱きかかえた。
「そう。夜中だ。もうじき朝になるにちがいない。おお、ジンクレエル、よくぼくを忘れずにいてくれたねえ。ぼくを許す気になってくれるかい。」
「許すって、何をさ。」
「ああ、ぼくはほんとうにいやなやつだったなあ。」
 この時ようやく、ぼくらの対話のことが記憶に浮かんできた。あれは四、五日前のことだったろうか。あれいらい、一生涯がたってしまったように、ぼくは思った。しかしそのとき突然、すべてがわかってきた。ぼくらのあいだに起こったことだけでなく、なぜぼくがここへ来たか、そして何をクナウエルがこんな町はずれでしようとしたか、ということも。
「じゃ、きみは自殺しようと思ったんだね、クナウエル。」
 かれは寒さと不安で、身をふるわせた。
「うん、そう思ったんだ。できたかどうか、それはわからないがね。ぼくは待とうと思っていた——朝になるまでね。」
 ぼくはかれを、屋外へひっぱりだした。朝の最初の水平な光のしまが、言いようもなく冷たく、味気なく、灰色の大気の中で、微光をはなっていた。
 ぼくはわずかな距離だけ、この少年の腕をとって、引き立てるようにした。ぼくの胸の中から、何かがこう言った。「これからきみ、うちへ帰るんだよ。そうして誰にもひとことも言うなよ。きみは間違った道を歩いていたんだ。間違った道をね。ぼくたちだって、きみが思っているような豚じゃないさ。ぼくたちは人間なんだ。ぼくたちは神々をつくって、神々と一緒にたたかうんだ。そうすれば神々はぼくたちを祝福してくれるさ。」
 無言でふたりは歩きつづけて、やがて別れた。ぼくが帰宅したときには、もう明るくなっていた。  207ページ3行〜208ページ10行

 以上のようなピストリウスとクナウエルとの関わりがあって、ジンクレエルは一つの認識に至ります。もちろん、その前のクロオマア、作品を通してデミアン、象徴としてのベアトリイチェとの出会いと関与があってこそなのですが。少し長いですが、ここがこの作品の核だと思われるので、書き写しておきます。

 そしてこのとき突然、激しい焔のように、つぎの認識がぼくの身を焼いた——どんな人間にも、なにかの「任務」はあるが、自分でえらんだり、限定したり、勝手に管理したりしていいような任務は、誰のためにも存在してはいない。新しい神々を欲するのは、間違っている。世界に対して何物かを与えようとするのは、まったく間違っている。めざめた人間にとっては、自分自身を探すこと、自分の心を堅固にすること、自分自身の道を、それがどこへ通じていようとも、手さぐりで前進すること、それ以外に決して決して、なんの義務もありはしないのだ。——これがぼくを深くゆすぶった。そしてこれが、ぼくにとって、この体験の成果であった。ぼくはこれまで何度も、未来の映像をもてあそんだことがある。自分にふりあてられそうな役割を、夢想した。あるいは詩人として、または予言者として、または画家として、または何なりとしての役割である。そんなものはみんな無意味だ。ぼくが存在しているのは、詩を作るためでも、説教をするためでも、画をかくためでもない。ぼくにしろ、ほかの人間にしろ、そんなことのために、存在してはいないのだ。そんなことはみんな、ついでに生じてくるだけである。どんな人間にとっても、真の天職とはただひとつ、自己自身に到達することだ。かれが詩人としてまたは狂人として、予言者としてまたは犯罪者として、終わろうと構わない——それはかれの本領ではない。それどころか、そんなことは結局どうでもいいのである。かれの本領は、任意の運命をではなく、自己独得の運命を見出すこと、そしてそれを自分の中で、完全に徹底的に生きつくすことだ。それ以外のいっさいは、いいかげんなものであり、逃れようとする試みであり、大衆の理想の中へ逃げもどることであり、順応であり、自己の内心をおそれることである。おそるべき、神聖なすがたで、この新しい映像は、ぼくの目前にのぼってきた。いくたびとなく予感され、おそらくはたびたびすでに口にも出されながら、それでも今はじめて体験された映像なのである。ぼくは自然の手で投げ出された者だ。新にむかってか、あるいは無にむかってか、漠然たる境へ投げ出されたのであって、この投げた力を、深い深いところから思うさま作用させること、その意志を自分の中に感じること、そしてそれを自分の意志とすること、それだけが、ぼくの天職なのだ。それだけが。
 多くの孤独を、ぼくはすでに味わってきた。今ぼくは、もっと深い孤独があること、そしてそれが逃れがたいものなのを、おぼろげに感じた。  219ページ5行〜220ページ16行

 最後にもう一つだけ。
 ジンクレエルはデミアンと再会し、デミアンの母であるエヴァ夫人とも知り合いになります。デミアンの家でのひとときは、ジンクレエルにとってしあわせな時間でした。が、戦争が始まり、ジンクレエルとデミアンは戦地へ。
 ジンクレエルの戦争体験で得たことには希望があります。

 そして世界がいよいよ頑なに、戦争と武勇、名誉、そのほかの古い理想を、めざしているかに見えれば見えるほど、外見的な人間らしさの声という声が、いよいよはるかに、いよいよ嘘らしくひびけばひびくほど、それらはすべて表面だけのことにすぎなかったし、それと同様、戦争の外面的な政治的な目標というものも、表面だけのものにとどまっていた。深いところには、何かが生じかけていたのである。何か新しい人間らしさといったようなものが。なぜならぼくは、多くの人たちを見ることができたが——しかもかれらの中には、ぼくのかたわらで死んで行った者も、ずいぶんある——かれらには、憎しみと憤怒、殺害と破壊というものが、対象物にむすびつけられてはいない、という洞見が、感情をとおしてさずけられていたのである。そうだ。対象物は、目標と同じく、まったく偶然的なものだった。原始的な感情は、どんなに荒々しいものでも、敵をめざしてはいなかった。その感情の血なまぐさいしわざは、内的なもの、自己分裂を起こしたたましいの、放射にすぎなかった。たましいは、新しく誕生するために、荒れ狂ったり、人を殺したり、破壊したり、死んだりしようとしていたわけである。巨鳥がむりに卵からぬけ出ようとしていた。そして卵は世界であった。そして世界はくずれ去るほかはなかったのである。  280ページ13行〜281ページ11行

 負傷したジンクレエルとデミアンは、いっとき横に並ばされます。デミアンは、おそらく死んでしまう。またしても一人になってしまうであろうジンクレエルにデミアンは語りかけます。

「ジンクレエル。」とかれはささやき声で言った。
 ぼくは目で合図をして、かれの言うことがわかると知らせた。
 かれはまたほほえんだ——ほとんどあわれむかのように。
「おい、坊や。」とかれはほほえみながら言った。
 かれの口は、このときぼくの口のすぐそばに来ていた。小声で、かれは話しつづけた。
「きみ、フランツ・クロオマアのことを、まだおぼえているかい。」とかれは聞いた。
 ぼくはかれにまばたきをしてみせた。そして同じくほほえむことができた。
「ねえ。小さなジンクレエル、しっかり聞くんだよ。ぼくはいずれここを出てゆくことになる。きみはたぶん、いつかまた、ぼくを必要とすることがあるだろうね——クロオマアやなんかに対してさ。そうなってぼくを呼んでも、ぼくはもうそんな時、そう手がるに、馬にのったり、または汽車にのったりして、来はしないよ。そんな時はね、きみ自身の心に耳をかたむけなければいけない。そうすればぼくがきみの心の中にいるのに、気がつくよ。わかるかい。——それから、まだ言うことがある。エヴァ夫人が言ったんだが、きみがいつか困るようなことがあったら、そのときは、夫人からのキスを、ぼくがきみにしてあげるようにってさ。そのキスを、ぼくは夫人から渡されてきたんだよ……目をつぶりたまえ、ジンクレエル。」
 ぼくはおとなしく目をとじた。かるい接吻をくちびるに感じた。そのくちびるには、たえずすこし血が出ていて、それがいっこうに減ろうとしないのだった。  284ページ13行〜285ページ14行

 そして、作品の冒頭に掲げられた言葉。

 ぼくはもとより、自分の中からひとりでにほとばしり出ようとするものだけを、生きようとしてみたにすぎない。どうしてそれが、こんなに難しかったのだろう。  7ページ1行〜3行

 この作品が書かれたのは1919年、第一次世界大戦の直後のこと。
 いまだに、どうして、自分が自分として生きることがこんなにも難しいままなのでしょう?
 一つ一つ、書かれていくしかないのかなと思います。地道に、コツコツと。
 その仕事が、年を経てもこうして文庫本として残り、次の世代のヒントとなって生きている。
 読んでよかった。本当に。
 また読みたくなるのでしょうか?
 読みたくなったら何度でも、読めばいい。それだけ価値がある本です。

 ヘルマン・ヘッセ 作/実吉捷郎 訳/岩波文庫/1954

 

 
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まっすぐだけが生き方じゃない

2024-10-09 18:56:51 | 読書
 60種の木が紹介されています。
 木の特徴を解説するとともに人として学べるところが取り出されています。
 例えば、最初に登場するイロハモミジ。「最初から美しいもの、なんてない」という題で、忍耐の大切さを教えてくれる。冬の厳しい山で、イロハモミジは急いで枝を伸ばしはしない。じっくりと日の当たる場所を見極めて少しずつ伸びて葉を茂らせ、不要になった場所は枯らせてしまう。ただ待つだけでなく、じっくりと着実に成長する。その結果があの美しい姿なのだと。
 次のイチイも着実さの重要性を教えます。広範囲に根を張り、幹や枝に傷を負っても地下が支える。2000年も生きることができるのは、少しずつしか成長しないから。成長がゆっくりだからこそ、細胞は緻密になり腐りにくくなる。
 オリーブやアサイーは栄養価の高い実を提供することで他の生き物との共存を実現している。与えることの豊かさを教えてくれます。
 共存ということで言えば、ハンノキで出てくる根粒菌とダグラスモミの菌根菌(キンコンキン)。
 根粒菌は窒素からアンモニアを生成し植物へ供給し、植物から光合成産物を得て共生していました。菌根菌はリンを吸収して植物に供給し、植物から光合成産物を得ている。知りませんでした。土の中のカビが植物と手を結び、そんなにいい仕事をしているとは。
 知らないことだらけなのですが、一番驚いたのはコルクガシでしょうか。あのワインの栓になっているコルクの原料は、コルクガシの皮なのでした。実際の写真を見るとかなり衝撃なのですが、ぐるっと身包みを剥がされてしまいます。でも、コルクガシはくよくよしない。どんどん皮を再生していく。通常より二酸化炭素をより多く吸収するというからあっぱれです。「木の王様」とも言われ、原産国のポルトガルでは大事にされています。元々、コルクガシの皮が柔軟なのは、適度に空気を含むことで断熱効果を生み、山火事から身を守るためと言われています。コルクガシの題は「立ち止まらずに、立ち直ろう」。
 もう一つ挙げるならアカシアでしょうか。アカシアは葉を食べられるとエチレンガスを発生させます。そして他のアカシアに危険を知らせ、草食動物には毒にもなる苦いタンニンを生成する。「ひとりで無理せず、助け合おう」 本当に、見習いたいことばかりです。
 私という木は、どれだけ成長できたのでしょうか。小説という実がやっと成りましたが、まだまだこれからです。一つできたとしても継続が力になります。
 読書することで地下に根を張り、強風を凌ぐ柔軟さを心身に持つように努め、辛抱強く日の当たる場所へ枝を伸ばし、自分の芯を着実に緻密にし、微生物や昆虫や鳥や花たち、書店で本とお客さんと仲間とともに。走ることで自分を守り。休むときはしっかり休み。
 木々とは、これからも、ますます親密に付き合っていく相手になりそうです。
 名前をなかなか覚えられないから、少しずつ、何度も確かめて。
 今はやっと涼しくなりましたが、夏の酷暑では木陰のありがたさを実感します。
 紙もまた木がなければ生まれない。神社も大木があってこその神社です。
 木のない生活は考えられません。
 木のことを知るために、きっかけになる一冊です。

アニー・デービッドソン 絵/リズ・マーヴィン 文/栗田佳代 訳/文響社/2022

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牧野富太郎 なぜ花は匂うか

2024-09-28 20:04:11 | 読書
 前回の「植物知識」に続いて牧野さん。「バナナの皮」についての記述は重複していましたが、他は初読みと思われます。
「植物に感謝せよ」では次のように書かれています。
「人間は生きているから食物をとらねばならぬ、人間は裸だから衣物を着けねばならぬ。人間は雨風を防ぎ寒暑をしのがねばならぬから家を建てねばならぬのでそこで始めて人間と植物との間に交渉があらねばならぬ必要が生じてくる。
 右のように植物と人生とはじつに離すことのできぬ密接な関係に置かれてある。人間は四囲の植物を征服していると言うだろうがまたこれと反対に植物は人間を征服しているといえる。そこで面白いことは植物は人間が居なくても少しも構わずに生活するが人間は植物がなくては生活できぬことである。そうすると植物と人間とを比べると人間の方が植物より弱虫であるといえよう。つまり人間は植物に向こうてオジギせねばならぬ立場にある。衣食住は人間の必要欠くべからざるものだが、その人間の要求を満足させてくれるものは植物である。人間は植物を神様だと崇拝し礼拝しそれに感謝の真心を捧ぐべきである」
 こんなにもはっきりと植物愛を語る人を他に知りません。でも、確かにそう。植物がなければ、人は呼吸すらできなくなってしまいます。
 身近に植物があれば落ち着く。それは人の本能と言えるのかもしれません。
 その植物のことを知ることがその人の人としての幅になるような気もします。人と植物は切っても切り離せませんから。
 様々な植物のことが語られています。松竹梅、椿、山茶花、スミレ、カキツバタ、浮き草、蓮、菊、イチョウ、ススキ、富士山の植物などなど。
 表題の「花はなぜ匂うか」。それは虫に花粉を運んでもらうためです。そのために様々な色も花は身につけます。風を頼りにする花は、匂わなければ目立ちもしません。
 意外に知らなかったのは「浮き草」。浮き草はどうやって増えているのか?
 分裂を繰り返していました。
 では、浮き草は冬どうしているのでしょう?
 寒くなると、浮き草は沈むのだそうです。水中でじっと耐え忍び、春になるとガスを出してまた浮き上がってくる。なんてしたたかなのでしょう。
 松がなぜめでたいのか?
 生命力が強いからです。津波でも生き延びた松があることは有名になりました。
 そして菊。私は「菊田」なのでどうしても意識してしまいます。
 菊は、花の中でも上等なのだそうです。どうしてでしょうか?
 実は、菊の花。花びらの内側部分に花がぎっしりと詰まっています。小さな花々が寄り集まって一つの大きな丸い花を作っています。そうすることで、虫が来たら一斉に受粉できるようになっていました。効率的に種ができるように進化していました。
 まだまだ無数に、植物の数ほど「へえ」があります。その一つ一つを知っていくことが楽しくないはずがありません。人の抱える孤独も植物と戯れていればいつの間にか消えてしまいます。ヘッセもガーデニングが趣味でした。
 やっぱり、植物に感謝しかないですね。

牧野富太郎 著/平凡社/2016

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海よ光れ

2024-09-07 20:30:14 | 読書
「課題図書」小学校高学年の部の中の一冊です。
 今まで課題図書を読んだことはありませんでした。もう70回になるのですね。私が学生の頃もあったはずですが、学校で取り組むことはなかったと思います。最近は店頭に出したら瞬く間に売り切れるほどなのですが。自分が学生のとき、学校からの宿題として出されていたらどうしただろう? 読み書きは好きですが、強制されたら反発したかもしれません。
 今回読む気になったのは、3・11が主題だということと、児童書を担当している同僚が「号泣した」ということで買う気になりました。
 岩手県の山田町にあった大沢小学校が舞台です。
 山田町は、釜石と宮古の間にある太平洋に面した港町。山田湾は突き出した半島に囲まれて穏やかなので養殖業が盛んでした。
 大沢小学校には二つの「海よ光れ」がありました。一つは演劇、もう一つは新聞。
 学校新聞というのがありました。内閣総理大臣賞を受賞するような細やかな配慮に満ちた、でも力強い手書きの新聞です。もちろん小学生たちが作っています。
 演劇の方は津波から逃げる話。明治の三陸大津波の教訓を後世に伝えることが主な目的のようです。
 大津波に襲われた山田町で、大沢小学校は地域の避難所となります。高台にあったので直接津波の被害は受けませんでした。大人たちが食糧を持ち寄って食事の用意をしてくれました。その姿を見て、子どもたちも何か自分たちにもできるはずだと思い、新聞を作り、学校以外の家にも配達に行きます。その他の子たちはトイレ掃除を始める。その姿を見て、低学年の子たちは「肩もみ隊」を結成し、お年寄りたちをほぐしていきます。そしてお年寄りたちも何かできることをと思い、ボロ切れを集めて雑巾を縫い上げます。その雑巾は掃除する子たちに渡されます。
 今まで当たり前にできていたことができなくなった中で、初めて自分と出会うかのように今できることの連鎖が生まれた。そんな好循環の空気を作る土台となっていたのだろうなと思うのが、先にあげた二つの「海よ光れ」でした。
 大沢小学校は廃校になりました。当時の卒業生たちはもう成人し、警察官になったり自衛官になったり看護師になったりと活躍している様子。その卒業生たちが作った「海よ光れ 号外」がこの本に挟まっています。
「感謝を忘れない」「無理ではなく難しいと言い直す」「楽しく生きる」
 それぞれが学んだことを書かれています。立派です。
 正直、立派すぎて、私は感動できませんでした。
 大沢と比べてもしょうがないのですが、それはよくわかっているのですが、犠牲者の出た地域を肌でわかっているのでどうしても。
 劇の「海よ光れ」は3・11後も実演されたそうですが、津波のシーンはカットされたそうです。「思い出させてはいけない」からと。
 重松清さんの『また次の春へ』(文春文庫)に『カレンダー』というタイトルの短編が収められています。その中で、被災地に都市部から不足しているカレンダーをボランティアで送ることになります。そこで、3月から前のカレンダーは破棄した上で送ったところ、3月から前の方が欲しかったという声が返ってきます。なぜでしょうか?
「先だけを見てがんばれ!」というメッセージを暗に送っていたからです。言い換えれば「3月から前はなかったことにしよう」と。
 過去がなくてどうして今、これからを歩いていけるでしょうか。
 耐えられないような傷にあえて塩を塗る必要はありません。だけど、その傷があればこそ、悔しくて仕方ないからこそ、乗り越えていくばねにもなります。傷にはいい面も悪い面もある。どちらか一方だけから物事を見ると、見えなくなるものがある。私は、自分の経験から、そう思っています。
 津波で、思い出の品や人々や場所を、ある日突然ごっそりと持っていかれてしまったのです。せめてカレンダーだけは、「あの日」以前も当たり前についているものが欲しかった。そうすれば、あんなこともあった、こんなこともあったと思い出せるから。
「思い出させてしまってごめんなさい」と言われ、むかっとした、という話も聞いたことがあります。思い出して当然です。何が悪いのでしょうか。むしろ、今だって一緒に生きてますから。
 そんなこんな、きれいにまとめられた「感動のノンフィクション」だからこそ、そこからこぼれ落ちるであろう様々を逆に想起させられました。私の役目は、そういう一つ一つを拾って言葉で構築していくことでもあると、改めて思わされました。
 弱音をもっと聞きたかったかな。
 そうだと子供向けにならないのでしょうか?

田沢五月 文/国土社/2023
 

 

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植物知識

2024-08-28 18:49:14 | 読書
 今年の2月に高知県の牧野植物園を訪ねましたが、牧野さんの文章に触れるのはこの本が初めてかもしれません。改めて、花とはなんだろう? 植物とはなんだろう? と思い、買っておいたこの本に手が伸びました。
 昭和24年、当時の逓信省(ていしんしょう)が『四季の花と果実』と題して刊行したものが改題され、講談社学術文庫に収められました。そのとき牧野さん、御年88歳でしょうか。95歳まで元気に生きられました。表紙の「いとざくら」も牧野さんが描かれたものです。
 身近な花と果実について、紹介されています。
 花は、ボタン、シャクヤク、スイセン、キキョウ、リンドウ、アヤメ、カキツバタ、ムラサキ、スミレ、サクラソウ、ヒマワリ、ユリ、ハナショウブ、ヒガンバナ、オキナグサ、シュウカイドウ、ドクダミ、イカリソウ。
 果実は、リンゴ、ミカン、バナナ、オランダイチゴ。
 花は生殖器だと、牧野さんは言います。そうでしょう。子孫を残すために花は咲く。この事実を汎用して、人間も男と女があるからには子を授かるのが当然で、独身者は反逆者と言います。しかし、花にも子孫を残すためでなく咲く花もある。ヒガンバナです。地下の球根が分裂して増えるためです。花は咲いても種子はできない。じゃあ、ヒガンバナはどうして咲くのでしょうね? あんなに見事に、目立つ姿で。
 ヒマワリは回らない。えっ、と思いました。もう少し調べると、茎が伸びている間は動くそうですが、立派に花が咲くともう動かないそうです。牧野さんは花をじっと観察し、動かないことを証明していました。向日葵という漢字は中国由来です。外国からの知識を鵜呑みにするなということでしょうか。
 果実は、花よりも刺激的でした。
 私たちは果実を食べているわけですが、リンゴは茎を食べていました。果実は、種として取り除いている部分です。詳しくは、茎の先端の花托で、偽果とも言われます。ナシやイチジクも同じ作りです。
 バナナは、皮を食べていました。外果皮は皮として捨てているところ。中果皮と内果皮を私たちは食べています。種の名残が真ん中に黒い粒として残っていることもあります。ちなみにバナナは10メートルにもなりますが、木ではない(果実的野菜)そうです。木の幹のように見える部分は葉が重なったもので、偽茎や仮葉と言われます。もう一つ、白い筋がありますが維管束と言って、カリウムや抗酸化成分が豊富なので食べた方がいいみたいです。
 最後にミカンはどこを食べているのでしょう?
 果実は種です。種を守るように外果皮(むいて捨てるところ)、中果皮(中の白い筋)、内果皮(袋状のもの)があり、内果皮の外側から内側に向かって毛が伸びています。その毛に果汁が蓄えられていました。なので正解は毛でした。
 毛を食っているなんて、他の食べ物であるでしょうか?
「もし万一ミカンの実の中に毛が生えなかったならば、ミカンは食えぬ果実としてだれもそれを一顧もしなかったであろうが、幸いにも果中に毛が生えたばっかりに、ここに上等果実として食用果実界に君臨しているのである。こうなってみると毛の価もなかなか馬鹿にできぬもので、毛頭その事実に偽りはない」
 と牧野さんも書いています。ダジャレも好きだったようで。

牧野富太郎 著/講談社学術文庫/1981

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ふたりのロッテ

2024-08-10 18:12:41 | 読書
 ケストナーの作品は「どうぶつ会議」「飛ぶ教室」「人生処方詩集」を読んだことがあります。没後50年ということで、また注目を集めています。
「ふたりのロッテ」は初読み。二人の少女が主人公というところと、ケストナーの代表作の一つに挙げられることも多いので読んでみたくなりました。
 なんでこんなに子どものことがわかるのでしょう?
 子どもは親のために病気にもなりますが、そのことが実によく描かれています。
「訳者あとがき」でわかったことですが、この作品は第二次世界大戦中に書かれています。著者のケストナーはドイツ人で、その時代ナチスが政権を握っていました。ケストナーは「危険思想の持ち主(政権に反対していたので)」とされ、ナチスから発禁処分を受け、命すら危ない状態でしたが、国内に留まり、この作品の完成に集中していました。外圧が強いだけに純度が高いと言うか、何を書くべきなのか明確になっていたのかもしれませんが、並のことではありません。現在にまで残る作品の生命力の強さを刻んでいたことに違いはありません。
 夏の、日本で言ったら林間学校でしょうか、湖のほとりにある子ども学校から物語は始まります。見た目がそっくりの女の子が出会います。一人はロッテ、一人はルイーゼ。ルイーゼは明るく陽気ですが気性が荒く、すぐに手が出るタイプ。一方のロッテは計算や料理が得意ですが感情表現は苦手。ルイーゼは、私とそっくりなロッテを見て腹を立てます。ロッテはルイーゼを見て怯えてしまいます。ロッテは夜、一人ベッドでしくしく泣くのでした。その手をルイーゼはそっと握ります。そこから二人の親密さが増していきます。
 表紙にもある二人の作戦会議。二人は何を一生懸命にノートに書いているのでしょうか?
 夏の子ども学校が終わり、それぞれが家に帰っていきます。ロッテは母と、ルイーゼは父と暮らしていました。父と母は離婚していて父母ともに、自分の子どもに姉妹がいることは黙っていました。
 そうです、ロッテとルイーゼは双子でした。そして綿密な情報交換と作戦会議の末に、ロッテはルイーゼとなって父のところへ、ルイーゼはロッテとなって母のところへ帰ったのです。
 なぜそうしたのかは、最後に明かされます。父母が子どもたちに黙っていたように、子どもたちもまた父母に入れ替わったことは決して言いません。やがて子どもたちの秘密は明かされるのですが、それは作家の構成の妙。忘れた頃にしっかりと伏線は回収されます。無駄な挿話は一切ありません。
 子どもたちは鋭い感性を持ち、人として何が間違っているのかを大人たちに全身で教えます。言語化能力はまだ発達していませんが、危険察知能力は大人よりも優れています。
 どれだけ子どもたちの訴えを感じて寄り添えるのか。ときに誤る大人の考えと行動を変えていけるのか。ロッテとルイーゼの果敢な挑戦に、父母はついに動かされました。考えを改め、家族4人のしあわせを引き寄せることができました。
 ケストナーは自分の思いを子どもに託したのではないかと思います。人殺しばかりする大人たちよりも子どもや動物の方がよっぽど信頼できる、と思ったのかもしれません。ケストナーの生きた時代に、確かに大人のヒーローは描きづらかったでしょうから。
 だからこそ胸に迫り、残るものがあります。異変は細部から起こるのだと。
 必要なのは敬意です。子どもだからといって軽視していい理由はどこにもありません。
 小さかろうが大きかろうが、一人の人間であることに違いはありません。
 夏休み、子どもたちが本屋にあふれています。敬意を持って接することができているでしょうか? 危ないとき、この本を思い出せ自分!

 エーリッヒ・ケストナー 作/池田香代子 訳/岩波少年文庫/2006
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戦争は、

2024-08-03 17:58:35 | 読書
「戦争は、」というタイトルの絵本です。
「戦争は、」で始まる短文と、戦争を表現した象徴的な絵で構成されています。
 読んで感じていくと、「戦争とは何か」が、読む人の心に形成されていく仕掛けです。大人が読んでもちろんいいのですが、子どもと一緒に読むと、いろんな質問が飛んできそうです。「知らないこと」「無垢であること」が、戦争の忍び込んでいく「余地」になります。読んで質問して対話して、「戦争は、」と自ら語れるようになることが「反戦争」を育むことにつながっていきます。
「戦争」が好むものは何でしょうか?
 逆に「戦争」が嫌うものは何でしょうか?
 この絵本を読むと、「戦争」は生き物だと感じます。
 確かにそうでしょう。どんな人にも忍び込むことができるウィルスのようなもの。
「戦争は、」で始まる短文が、読むものの想像を刺激します。
 一つだけ紹介します。私が最もずしんと来たところです。
「戦争は、物語を語れたことがない」と書かれています。山積みにされた本が燃やされそうとしています。
 何度か読むうちに、私の中にも「戦争は、」の続きが生まれました。
「戦争は、嘘で塗り固められた正義。自らの失敗を全て他人のせいにする」
 たったの79年前まで戦中だった日本が、また戦争をしない保障は、一人一人の心にしかありません。心は、それぞれの異なる物語でできている、と言ってもいいのではないでしょうか。
 一つの出版物に心を込めて世界に送り出す。受け止めた人が、私に必要だったものとして大事に自分のものとする。そのとき、新しい絵と言葉が、その人に宿ります。
 自分に宿った絵と言葉が、その人を守り、育て、または導く。自分の中にどんな世界を作っていくのか、それは実に何に接したか、何を取り入れてきたかによるでしょう。
 良くも悪くも、です。人は弱く、一人では生きられず、人からの影響を受けないわけにはいきません。
 地道な営みの継続しかないのだ、と思います。
 平和を維持するのは、当たり前に誰かがしてくれているのではなく、一人一人が意識して作っていくものだということ。平和であることはものすごく大変なことだからこそ、実現する価値があるということ。
 夏に花火があり、祭りがあるのは、死者と交わり弔うためであり、また魔除けのためでもあります。食べ物も傷みやすく、酷暑で人も疲弊しています。人が集まるイベントは自然発生的に生まれたのかもしれません。他者と何かを共有し協力すれば、生きる活力も自ずと湧いてくる。
 孤立もまた古代から続く人の抱える魔の一つ。本は、物語は、人と人を結びます。
「戦争は、」どうでしょうか?
 この夏、読んでほしい一冊の絵本です。

ジョゼ・ジョルジェ・レトリア 文/アンドレ・レトリア 絵/木下眞穂 訳/岩波書店/2024
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思い出のマーニー

2024-07-31 12:33:45 | 読書
 この本は、NHK教育番組「100分で名著」で紹介されていて知りました。
 その番組を見たわけではないのですが、お勧めしてたのが心理学者の河合俊雄さんで、なんかそれだけで気になっていました。
 河合さんは、私が大きな影響を受けた河合隼雄さんのご子息。なのでその人が大事にしてきた本なら、私にも刺さるだろうと。
 その予感はやはり当たっていました。
 ものすごく面白かったです。
 10年ほど前にジブリでも映画化されたそうです。そちらも観ていませんが観てみたくなりました。
 内容ですが、アンナという小学校高学年くらいでしょうか、女の子が主人公です。
 ある夏、海辺の町で暮らすことになりました。その一夏の忘れられない体験が描かれています。
 アンナは複雑な環境で過ごしていました。両親は若くして離婚し、母は再婚しましたが自動車事故で亡くなってしまいます。
 母の母、アンナの祖母が大事に育てていましたが、祖母も病のため亡くなってしまいます。
 孤児院に預けられ、養父母に引き取られましたが、アンナはそれまでの体験で「裏切られた感」を深めており、「ふつう」を装って心を開くことができずにいました。
 自分から何かしたいとは一切言わず、人を(自分を)信じることができません。その心構えがトラブルを引き寄せ、だからまた殻に閉じこもる。そんな鬱屈した日々でした。
 海辺の町でアンナを受け入れてくれたのはペグおばさんとサムおじさん。二人はアンナを歓待し、心配はしますが強制は一切しません。
 ふらふらと潮の引いた海を歩くアンナはマーニーと出会います。マーニーは「湿っち屋敷」に住む女の子。二人は意気投合し、ボートに乗ったり、砂浜で城を作ったりして遊びます。お互いに相手のことを知りたがり、少しずつ距離を縮め、やがて無二の親友になっていきます。
 マーニーは大きな屋敷に住み、一見恵まれているように見えましたが、海軍に所属する父はほとんど帰らず、若くて美しい母は、マーニーを粗野なばあやと召使に預けてほとんど家にはいませんでした。言ってみればネグレクト。マーニーの不幸せを、アンナは鋭く理解し、共鳴もしていました。
 マーニーは風車小屋を恐れていました。ばあやと召使に、言うことを聞かないとあそこに閉じ込めると脅かされて。そんなマーニーの恐れを解きたくて、アンナは風車小屋に行きました。しかし先にマーニーが風車小屋にいて、恐れのあまりパニックに陥っていました。なんとかアンナは救出しようとするのですが、マーニーはそのまま眠ってしまい、アンナも仕方なく風車小屋で一晩を明かしました。
 翌朝、アンナが目覚めるとマーニーはいなくなっていました。マーニーの知り合いの男子が助けに来ていました。
 アンナは怒ります。私だけを置いて行った、と。これまでも繰り返されてきた「裏切り」をまたしてもされて。
 アンナはマーニーを許せない。だけど、アンナはマーニーに会いに行きました。
 マーニーは部屋に閉じ込められ、でもそこで泣き叫んでいるのがアンナには聞こえました。アンナはマーニーを許します。
 その後、アンナは寝込んでしまい、その間にマーニーもいなくなってしまうのですが、そのマーニーを、ペグもサムもその他の人たちも見たことがないと言います。
 アンナとマーニーのことは二人だけの秘密ではあったのですが、それが本当にあったことなのか、アンナ自身もわからなくなってきていました。
「湿っち屋敷」を買って移り住んできたリンゼー家とアンナは知り合いになります。
 リンゼー家には子供が5人おり、その一人が改修工事中の屋敷からノートを見つけます。それはマーニーの日記でした。
 日記を読みながらアンナは記憶を取り戻していきます。マーニーのボートも発見されます。
 最終的にはマーニーの古くからの友人がやってきて、その後のマーニーのことを教えてくれます。
 で、マーニーとは誰だったのか、わかるわけですが、それは読んでのお楽しみということで。
 前半は、ぼやっとして「?」が多く、読みづらいと思われるかもしれません。「?」が読み進めるエンジンにもなるのですが、どうか前半で読むのを諦めないで欲しいと思います。後半、怒涛の伏線回収がありますから。それはアンナとは誰なのか、にも通じていて、全て明らかになったときのアンナの喜びは私にも伝わってうるっと来ました。
 マーニーは実在の人物です。しかし、アンナが体験したのは時を越えて、その土地の持つ力と人々の温かく支持的な関係が呼び水となって生まれたものです。アンナにはマーニーを体験する種は植っていた。でも、発芽する土と水と太陽が十分ではなかったという感じでしょうか。
 人を憎んですらいたアンナ。愛されることに飢えていたマーニー。二人は出会って、一生懸命に支え合って、アンナはマーニーの至らないところを許すことができました。
 大事にされている実感の貯金が、人の至らなさを許す元手となっていました。
 健全な自己肯定感を積み上げるのが難しくなってしまった今こそ読んで欲しい物語になりました。
 大人も、改めて、自分はどのようにして自分になれたのか、読み直す時間もあってはいいのではないでしょうか?
 マーニーは、本でもあり小説でもあるなあと思います。
 私にとってのマーニーは誰かな? どの本かな?
 そんな思いを巡らすのも楽しいです。
 またこの本が、もちろん大事なマーニーになる力を秘めています。
 この夏、お勧めです。ぜひ、お手に取ってみてください。

 ジョーン・G・ロビンソン 作/松野正子 訳/岩波少年文庫/1980
 
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椿の海の記

2024-06-29 18:50:46 | 読書
 少しずつ読み進めていました。また、ゆっくりとしか読めない本でもあります。
 石牟礼道子さんの4歳のときの体験記、なのですが、『苦海浄土』と同様に文体が独特で比類がありません。
 エッセイでもなく、あえて言えば詩と小説が混ざったもの。音楽で言えば「交響詩」でしょうか。
 とにかく4歳のときをこんなにも記憶しているのかと驚きます。
 近くにあった「娼家」のこと。そこに務める女性たちを「淫売」と呼ぶ人の「淫売」に込められた気持ちを読み、それによって大人への好悪を決めていたこと。
 一番美しいと言われていた子が殺されたこと。
「娼家」から聞こえた「おかあさーん」という声。
 自ら花魁の格好をして、道を練り歩いたこと。
 髪結さんが「トーキョー」へ行こうと試みたけれど、親に連れ戻されたこと。
 深く焼酎を飲んだ父から杯を受け、飲み、1週間に渡って吐いていたこと。そのとき、もう「不幸」を感じ取り、小川に身を投げたこと。
 数を怖がる子であったこと。数には終わりがないので。
「花のように美しい子」と自分を比べ、生まれ持った差があると知ったこと。
 家業の道作りが負債を出し、家と土地を没収されて没落したこと。
 他にもたくさんのエピソードがありますが、特に印象深いのは道子のおばあちゃんのこと。
 祖母の「おもかさま」は、長男を若くして亡くし、夫には妾を作られ、正常な意識から追い出された人でした。
「神経殿(どん)」とも呼ばれた祖母は、目の見えない人でもありましたが、夫の気配を察知すれば雪の日も裸足で家から出てしまう。道子もまたおもかさまを連れ戻しに外に出ました。
 そんな祖母に、心無い子たちから石を投げられたこともあります。
 そんな祖母を、娘二人と孫との三人でおさえ、伸び放題の髪を洗う場面も印象深いです。
「無限の共感」と言った人がいましたが、後に『苦海浄土』を描く少女は、すでに魂への憧れも芽生えていたのでしょうか。
 目に見えないけれどもいる、人よりも位の高い存在への敬意。山から山桃を取ったなら、まず山の神様にお礼を伝えなければならない。そう教えられて育てられました。
 椿の咲く海岸沿いには、たくさんの神様たちがいました。神様たちとともに生きているのが当たり前でした。
 水俣は、清らかな水が豊かに流れていました。その水資源が目当てで、「会社」は電気を発電するためにやってきたのでした。
「神様」への畏敬はいつしか「会社様」へ移っていきます。
「会社様」は、化学肥料を作るために出た水銀を、生き物にとって有毒と知りながら川に流しました。
 挙げ句の果てが、水銀の毒に侵された魚たちをドラム缶に生きたまま詰め、海岸沿いに埋めることでした。
「椿の海」は、コンクリートの下に生き埋めにされてしまいました。
 それで終わったわけでもなく、今でも被害者からの救済の申し立ては続いています。国による詳細な調査がないためでもあります。
 石牟礼さんが書いて証明して見せたのは、いくら生き埋めにしようとも、ここに生きていた世界があったということ。
「前の世界」が何であったのかを知らなければ、「今の世界」が良くなったのか悪くなったのかもわかりません。
 昔だけが良かった、という話でもないでしょう。
 電気も必要だし化学肥料も必要です。でも、だからと言って犠牲にしていい生き物や土地があるわけではありません。
 ものすごい力技の一冊と言うべきでしょうか。
 ずいぶんと「神」が軽くなってしまった現代において、錨のような重さを備えた作品です。
 共感力と記憶力と描写力の賜物。
 どこか、この本を良さを伝えられそうな箇所を探したのですが、どこか一部を切り取ってみても、どこも違う気がします。
 もうすっぽりとこの『椿の海の記』にはまり込むしかありません。
 それでいいのだと思います。

 石牟礼道子 著/河出文庫/2013
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しずかなところはどこにある?

2024-06-19 18:16:11 | 読書
 大きな耳を持ったキツネが主人公。
 キツネは、大きな音が苦手でもありました。
 穴を掘って、掘って、地中深くに静かに暮らしていました。
 住んでいる森は大きな音でいっぱいだったから。
 大きな音にいつもびくびくしている自分が見られるのを恥ずかしく思ってもいました。
 そんなある日、キツネは静かなところを探そうと勇気を出して森に出かけました。
 意外と身近なところにあるんじゃないかなあ?
 すると、見つかりました。あちらにもこちらにも。
「どくのあるベニテングタケのかさのした」
「そっととじためのおく」
「はっぱのうえでそろりとうごくガガンボ」
「よつばのクローバーがはさまれたほんのページ」
「ひとやすみしているちょうちょのしょっかくのさきっちょ」
「めがさめてしんしんとゆきのふるあさ」
 キツネは、さらに見つけた。
「おもいでのなか」
「すずらんのかおり」
「まっくらなところ」
「ひるまのひかり」
「だれかによんでもらうおはなし」
「ゆらゆらゆれるいなほ」
「やさしいことばのなか」
「ひんやりしたまどガラス」
 キツネは、さらに地中深く掘っていきました。
 すると、大きな岩にぶつかり、その上からダンプカーのとても大きな音が響いてきました。
 キツネは泣いてしまいました。大きな声をあげて。
 すると、地中のお隣から「しずかにしてくれー!」と言ってミミズが顔を出しました。
 ミミズもまた大きな音が苦手なのでした。
 そこでキツネは、地中から出て、森で叫びました。
「しずかにしてくれー! おおきなおとは もう たくさん」
 それから、森は大きな音をあまり出さなくなりました。
 大きな音が苦手だった他の生き物たちと、キツネは仲良くなりました。
 特にミミズとは友達になって、楽しくおしゃべりするようになりました。
 そんなお話です。
 この絵本を読んで、あー私にもあったなあと、思いつくままに「しずかなところ」を書き出してみました。
「打ち鳴らされたゴング」
「黒板に書き付けられたチョークからこぼれる粉」
「日記帳の空白に下された万年筆のインク」
「コーヒーから立ち上る湯気と香り」
「ピッチャーマウンドとホームベースの間」
「映画館の照明が消えるとき」
「親しくなった人とする食事」
「マラソンのゴールテープ」
「走って風になれたとき」
「開店前の本屋」
「屋根を軽々と越えていく虹」
「本を開いた人の耳」
「つやつやして甘酸っぱいリンゴのかけら」
「絵の前」
「音楽の奥」
「真夏の夜のよく冷えたスイカ」
「風に揺れるコスモスの細くしなやかな茎」
「お昼寝」
 まだまだありそうです。
「しずかなところ」は、「物理的な静寂」だけを意味しなかった。その発見が、この絵本の最大のメッセージだと思います。
「しずかなところ」は、「美しいところ」「私を感じられるところ」「大事なところ」「夢中になれるところ」「落ち着くところ」「感心するところ」でもありました。
「しずかなところ」が一つでも多く見つかると、私たちは生きやすくなります。
「しずかでないところ」で生きなければならない人たちに、この絵本は大きな支えとなってくれそうです。

 レーッタ・ニエメラ 文/島塚絵里 絵・訳/岩波書店/2024
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