泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

君たちはどう生きるか

2023-07-29 17:07:56 | 映画
 梅雨明けから猛暑日が続いています。
 みなさま、暑中お見舞い申し上げます。
 土曜は朝ラン。で、五時半には起きて、七時前から走り始めましたが、滝汗。10キロ走るのがやっとでした。
 家の近くには八国山という小さな山があります。
 山の中は緑がいっぱいで、尾根を中心に走ることもできます。
 夏場ほど、この山、森、木々のありがたさを強く感じます。
 強烈な日差しの下、火傷しそうなアスファルトの上を、木陰なしに走ることはもうできなくなってしまったから。
 その八国山は、映画「となりのトトロ」で登場する「七国山」のモデルです。
 監督の宮崎駿さんもその近くに住んでいらっしゃる。
 所沢、東村山界隈では、あちらこちらで監督の目撃情報がささやかれています。
 私にとっても、身近な創作者。
 1941年生まれなので父と同い年。で、私とは誕生日(1月5日)も同じで。
 その人の最新作が公開されました。観に行かない理由はありません。
 写真の映画ポスターを使ったコースターは、映画館の売店でソーダを買った特典でもらいました。イオンの武蔵村山店です。
 観終わってから十日経つのですが、まだ余韻が残っているというか。
 書店でも、仲間たちとよく話しました。
 話したくなる映画なのですね。
 で、私もここに書いて、ひとまず昇華を試みようと。
 ここから先は、映画の内容に触れますので、読みたくない人は読まないでください。

 題名は「君たちはどう生きるか」です。これは吉野源三郎の作品と同じです。
 が、中身は違います。海外向けのタイトルは「The Boy and the Heron」。「少年とサギ」です。
 映画を観てみると、確かに「少年とサギ」だなあと。
 サギは、映画の唯一のポスターとなっているアレです。
 そのサギと、主人公の少年「マヒト」との関係が物語の軸になっています。
 戦時中、疎開先でマヒトは新しいお母さんのナツコに迎え入れられます。
 戦火によって、マヒトのお母さんは亡くなっていました。
 実の母親を亡くした喪失感も癒えないうちに、父はもう次の妻を作っていた。
 父は軍需産業で儲かっており、車でマヒトの疎開先の学校に乗りつける。
 地元の子たちにすれば面白くない。マヒトはすぐ攻撃の的になってしまう。
 新しい母との関係も冷えたまま、マヒトは学校の帰り道で、石で自分の頭を打ちつける。
 そして嘘をつく。自分はただ転んだのです、と。
 自作のケガのために学校に行かないマヒトを誘うものがいた。それがサギです。
 お屋敷の前に池があり、その奥には塔が立っていました。
 サギはマヒトにしつこくからむ。「お待ちしてますぜ」と、塔に入るように誘い続けます。
 マヒトは興味本位で一度塔に入った。でも地元のおばあちゃんたちに封じられていたので奥まで入れなかった。
 結果的に塔の奥まで入るきっかけとなったのは、重いつわりとマヒトを傷つけてしまったことを苦しんでいたナツコだった。彼女が行方不明になり、塔に向かっていくところを見たマヒトが助けに行く。
 ちなみにこの少し前、マヒトは実のお母さんから贈られた「君たちはどう生きるか」を発見して読むシーンがあります。
 塔の内部では、あのサギが待っていた。そしてサギに導かれて、「もう一つの世界」に旅に出る。マヒトだけでなく、最後まで行かせまいと抵抗していたおばあちゃんの一人、キリコさんも巻き込んで。
「もう一つの世界」をなんて言えばいいのか。そこは食料が少なく、海が広がり、人食いインコが増殖しており、「わらわら」たちが成熟して飛ぼうとしている。そんな「わらわら」たちを食べてしまうペリカンたちもいる。「わらわら」たちの旅立ちを助ける「ヒミ」がいる。
 後でわかることですが、その「ヒミ」が、亡くなったマヒトのお母さんの若いときです。
 マヒトはインコに捕まって危うく食べられそうにもなります。が、ヒミやサギや若かりし頃のキリコの助力をえて、その国を保っている「大叔父様」に会う。
 その「大叔父様」は、その国を保つことを「マヒト」に継いで欲しかった。「悪意に染まっていない石」を積み上げることによって。
 そこでマヒトが言う。頭についた傷は悪の象徴です。そんな僕にはできません、と。
 そのとき、インコの王が、「もう一つの世界」を保っていた石たちを切ってしまう。その世界は崩壊を始める。
 脱出の際、「時の回廊」で、ヒミとマヒトは違う扉(時間)から出て別れる。
 マヒトが現実に戻るとき、ナツコもサギもキリコもインコたちもペリカンたちも、毒が抜けて出てくる。
 と、こんな流れです。

 様々なことを思い出します。
 サギに名前がないのは、夏目漱石の「猫」の影響だし、自分の中の悪意とどう折り合っていくのかというテーマは、漱石の「こころ」に通じる。なのでサギは「こころ」の使いなのかな、とか。
「わらわら」たちは、成熟したら飛ぶ。この「成熟したら飛ぶ」という言葉自体がとてもよいな! と思っているのですが、飛んだ「わらわら」たちは上の世界で人間になる。途上の「わらわら」たちを食うペリカンたちは、上の世界でやっていけなくなって仕方なく下の世界で「人になる前の人」を食って生きている。「わらわら」たちの世話をしているのは、マヒトとともに「もう一つの世界」に来てしまったキリコの若かりし姿。キリコにも、マヒトと同じ頭の傷があった。
 自分だけが悪い、と思って頭につけた傷を、違う人も持っていた。それ自体が大きな発見であり、助けとなるものです。
 そんな傷を負った人が「わらわら」を飛ばそうとしている。そのシーンは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が重なってくる。
 サギやペリカンやインコと鳥たちが多く、「人間になる前の人間」を描いていたメーテルリンクの「青い鳥」も透けて見えます。
 塔は、江戸川乱歩の「幽霊塔」とそっくりだし、「もう一つの世界」に「降りていく」シーンは、ゲーテのファウストの第二幕に似たシーンがあります。
 物語の構図は、ジョン・コナリーの「失われたものたちの本」がかなり参照されています。
 そしてラストの、「悪に染まってない世界」を拒絶し、崩壊させる場面は、宮崎駿さんの「風の谷のナウシカ」を思い出したし、私にとっては大事な作品の一つとなっているヘルマン・ヘッセの「ガラス玉遊戯」を追体験させるには十分な力を持っていました。
 そもそも、「悪に染まっていない世界」とは、頭の中でしか存在せず、その理想を強制する世界は、現実の人間の世界で何度も繰り返されてきたことなのではないでしょうか。「共産主義」もそうでしょうし、「過度の理想の押し付け」によって生じるのは「しつけ」という名の虐待ですし、「愛国主義」が必然的に作り出すのは「敵」でしかありません。かつてのオウム真理教を信じる人たちは、自分たちは迫害されていると信じてもいました。「自分たちの完璧な世界を守るため」あらゆる攻撃が正当化されます。ここには悪がないことになっているので、全ての悪は敵が担う。かつての戦中の日本も、我々は天皇を頂点に持つ神の国であり、鬼畜米英に勝つまでは何も欲しませんと暴力で誓わされた。暴力が正義の代弁者だった。でも、そんなことって、本当にありますか? 

 どの絵もどのシーンもどのセリフも、背後にある思いや経験やエネルギーの質量が半端なく、高カロリーという印象です。だから噛み砕くのに時間がかかる。
 様々なことを思い出させ、頭が沸騰するような鑑賞後。それは、「私がどう生きてきたか」を総点検させるような効果ももたらしたのかもしれません。
 自分の中に残っている大事なこと。心から感じ入って「永久保存だ!」と仕舞っていたものたち。それらが一斉に騒ぎ出す。
 再び光り始める。
 隠れていたかもしれない光源を再発見して、再出発の起点となる。そんな映画。
 サギには、古来から様々な意味を託されてきました。
 その一つに「再生」があります。
 人が成熟すること、成長することは大変なことです。私自身、今、直面しているとも言えます。
 本来、人は成長できる備えがあるはずなのですが、様々な阻害にあうことも珍しくありません。
 マヒト自身、最初は拒みました。自分に嘘をついて。サギの誘いにも散々抵抗しました。サギを、自前の弓で仕留めようともして。
 抵抗は、この映画の中では、強い向かい風や巻きつく紙としても描かれていたと思います。
 観た人は、マヒトとサギとともに、「再生」を果たすことができる。
「人を人にする力」が、この映画にはある。
 その力は「千と千尋の神隠し」にも十分あったと思いますが、今回はより先鋭化していると言いますか。装飾が削ぎ落とされたという感じです。
 観た人それぞれが感じるところがあると思います。
 その感じたところを拠り所にして、生きていって欲しい、という宮崎監督の思いも伝わってくるようです。
 まだの方、ぜひ。
 子供と一緒に観ると、あれはなんだったんだろう、これはどうだったんだろうと話が弾みそうです。
 その姿を見て、にこにこしている宮崎監督の顔が思い浮かんできます。
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あん

2015-06-11 13:51:56 | 映画
 

 映画館に行ったのが4年ぶりなら、パルコ新所沢店に行ったのは24年ぶり。
 駅からこんなに近かったけ? ぶらぶらしながら、意外に小さいなと思ったり。
 お目当ては『あん』の映画版。原作については以前書いているのでこちらを参照ください。
 やはり、よかった。
 うるうるしてしまって、映画館を出たときは清々しい気持ち。
 映画館って、セラピーなんだなと思った。
 映画では、最後に「どら焼きいかがですか」と呼びかける。
 それは千太郎が、やっとたどり着いた意味。
 私は、静かに思った。やっぱり、そんな小説が書きたいと。
 観た人の中に、その人の芯のような核のようなものが現れてくる、すばらしい映画でした。
 昨日も池袋に行き、池袋帰りは、いろんなことを感じてしまうからかとても疲れるのですが、自分に生き続けるものをまた感じることができました。
 配役もどんぴしゃりで、原作との違和感を何も感じませんでした。
 さあ、また、それぞれの持ち場で、活躍しましょう。
 
 河瀬直美監督/樹木希林、永瀬正敏他出演/ドリアン助川原作/新所沢レッツシネパークにて
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英国王のスピーチ

2011-06-01 21:29:16 | 映画
 すばらしい映画でした。
 この作品の存在を教えてくれた人に感謝します。
 実際にあった話。英国王、ジョージ6世がジョージ6世となる過程を描いています。
 どの人生も同じだろうけど(と思わせるのがこの映画の素晴らしいところです)、人が成長する最中には、一人では乗り越えられない危機が訪れる。その時、人には支えが必要。ジョージの支えとなったのは、妻のエリザベスであり、言語聴覚士のライオネルだった。仕事上、ジョージは演説をしなければならない。なのに吃音(いわゆる「どもり」)という障害を抱えていた。マイクに乗って国民に流れてしまう「あ、う、ええ」。伝えたいことがあるのに伝えられない。どの「英国公認の医師」にかかっても症状が治らない。ジョージは人への不信感を深め、自信を失い、怒りにさいなまれている。そんな夫を見かねた妻が一人のセラピストを見つける。「変わった」治療(褒め言葉)をする人。ライオネルはまずジョージに、大音量のモーツァルトをヘッドフォンで聴かせてその状態でシェイクスピアを朗読させる。ジョージは自分の声が聞こえない。その朗読を録音しておく。ジョージはやっぱりだめだと絶望し、こんなバカげた治療はできないとライオネルを否定する。
 しかし、またしても演説に失敗したのち、お土産にもらったレコードを聴いてみると、ジョージはよどみなくシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を朗読することができていた。やればできるのだ。問題なのは意識なのだと気づく。そして、治療できるのは彼しかいないと知る。
 日々の特訓が始まる。体を柔軟にさせる体操、発声練習、そして、心理療法。大事なのはやはり心。治療者のライオネルは、戦争体験があり、PTSD(心的外傷後ストレス障害)によって発話できない人たちをたくさん見ていた。たまたま彼には演劇の才能があり(本当は役者志望なのだがオーディションに落ち続けている)、苦しむ彼らの声を聴くことができた。ジョージのどもりまくったスピーチも聴いていた。そのとき一緒にいた息子から「あの人を救ってあげて」と頼まれていた。
 信頼関係が深まっていく中で、ジョージの抑え付けられていた体験が徐々に露わになってくる。乳母に食事を与えられないといういじめを受けていたこと、本来は左利きなのに右利きに強制されたこと、華やかな兄(エドワード8世)にいつもどもりをからかわれていたこと。そしてプライド。「こうあらねばならない」という固さ。ライオネルとともに乗り越えていく。封じていた悪態や歌とともに。
 治療自体が順風満帆に行くわけじゃない。時代も、父を失った直後にヒトラーの台頭という大問題があった。そんな中でこそ、ジョージとライオネルの関係の深まり、対等な友人関係の構築には感動を覚えた。
 そして、ドイツとの正式な開戦が決まって、国民に向けたスピーチがやってくる。全長9分という大演説。
 マイク室に、ファミリーとなったライオネルとジョージの二人きり。マイクの前にライオネルが微笑んで立っている。私に向かって語れと。その時、ライオネルは完全に黒子であって、一才ラジオには現れない。しかし、指揮者のように彼はいて、ジョージを支え続ける。結果、大成功。ジョージは、本当に英国王ジョージ6世となる。
 以後もジョージとライオネルとの友人関係は続いた。
 危機は、今までの方法で乗り越えられないからこそ危機となります。1人では前進できないからこそ誰かとの新たな関係が必要になってきます。
 今のぼくもまた、成長の分岐点にある。竹の節の中の混沌にある。混沌の中に、恐れと希望がある。
 ぼくがなりたいのは作家。カウンセラー。一方で日々仕事の責任や量の増えていく、食っていくための書店業がある。
 賃金が上がるのを自ら拒むようにして、それでも結婚への強い突き上げがある。
 ぼくの第二の故郷の大被害があり、両親の老いがある。
 今年からまた心理療法を学び始めた。一方で小説をなんとか書こうと動き始めた。
 同時進行で愛情の対象への関わりが収まることを知らない。
 危機が訪れたということはこれから伸びるということ。
 多くの人たちに支えられながら、手探りで挑戦し、失敗し、学び、挑戦し、を謙虚に繰り返したい。
 自分を否定する必要はない。相手に怒る理由もない。
 今だって、一日に100人以上、このブログには訪問者がおります。
 本当にありがとうございます。
 ともに、支え合って生きていきましょう。
 孤立して自分を責めるより、誰かに迷惑をかけた方がいい。
 そんなすがすがしい気持ちにさせてくれる、ユーモアもたっぷり含まれた、それでもじんと目が潤んでしまう、尊い作品でした。

トム・フーパー監督/コリン・フォース、ジェフリー・ラッシュ、ヘレナ・ボナム=カーター他出演/池袋シネマ・ロサにて
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重力ピエロ

2010-09-04 18:42:05 | 映画
 一年ぶりのツタヤの会員更新にともなうサービスで借りた一本。新パソコンで初めて映画を観た。最初は慣れずに座り位置も定まらなかったけど、いつの間にか引きつけられていた。
 伊坂作品に初めて触れた。思っていたよりえぐられた。
 「思っていた」こととは、卒業大学が同じということもあって、いろんな読者(支持者)からの声を聴いていたり、実際に書店での売れぶりを肌で接していて出来上がっていたことたち。具体的に言えば、奇想天外、おもしろいが深みがない、僕には合わないだろう、というような感じ。
 『重力ピエロ』という題名は知っていた。しかし、そこから「レイプ(強姦)」という言葉は一度も漏れてこなかった。
 「春が二階から落ちてきた」と春(人名、母が名づけた)の兄(泉水(いずみ))が言う。原作を読んではいないけど、冒頭がそうなのですね(読んだ人から聞いた)。印象的に映画でも何度も使われていた。それは、春がレイプによって授かった命だということ。
 犯罪をどう考えるのか、裁くことができるのか、また更生は可能なのか、どんな罰が必要なのか、当事者の苦しみはいかばかりか、周りの好奇の目・・・。伊坂さんは法学部を出ている。きっと自ら抱えているテーマを小説という形にして社会に訴えたのだと思う。だから浅くなんてなかった。とても深かった。関連して思い出したのが、三浦綾子さんの『氷点』(殺人犯の娘が主人公)、法学部的といえばベルハルト・シュリンクの『朗読者』。
 興味深く観た。そして考えさせられた。自分の愛する妻がレイプされたら。よりによってそいつの精子が受胎したら。許せるだろうか? 許せるものなのだろうか?
 多くの人は許せないと思う。殺したいとも思うだろう。そして息子二人は、実際に(物語のなかで)父殺しを実行する。
 映画を観る限り、父殺しは正当化されている。これは一種の敵討ちの話なのか。
 遺伝上の父の犯したレイプ現場に火をつけて回り、最後は母の犯された家でレイプ犯である父を、育ての父が誕生日にくれたバットで殴り殺し、燃やす。浄化する。
 そして、育ての父もがんで亡くなる。残されたのは泉水と春。そして春のストーカーである夏子さん(これが解せない)。神は何も言わない。
 なんといったらいいか、アイデアはよくて、読ませるテクニック(謎作りと解明)もあって、頭がよくて、でも、なにか不満足。
 実際にレイプされた人の苦しみはどうなってしまうのだろう? というような苛立ち。
 母は事故死している。サーカスを家族で観て、空中ブランコでピエロが楽しそうな顔をしているから、母は落ちても大丈夫と心配する春に言う。
 レイプされて、それでできた子を産み育てることなんてできるのか?
 「愛は重力を超える」なんていう宣伝文句は、実際に被害にあわれ、家族に支えられたかったけど「お前の不注意だ」などと言われ責められた人に対して届くだろうか? むしろ犯人や裏切った家族に対する憎しみを増やすだけなのではないか? 心的外傷は、結局癒えることがなかったのではないか? 当事者に、だから私はだめなんだと、さらなる否定を強いるのではないのか?
 小説を書くことは難しい。書くのが楽しいからだけで書いてはいけない。フィクションだから何でも許されるのではない。
 映画の感想が、結局書く自分への戒めとなってしまいました・・・。
 感動しそうで感動できない作品でした。

加瀬亮、岡田将生他出演/森淳一監督/アスミック・エースエンタテイメント配給/2009/伊坂幸太郎原作(新潮文庫)
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愛を読むひと(The Reader)

2010-07-06 11:55:55 | 映画
 日曜日にDVDで観たのですが、いまだに残像が胸に漂っています。じわじわと染みてくる。全世界で500万人が読んだというベルンハルト・シュリンクの『朗読者』(新潮文庫)が原作。この本が登場したときは、クレストブックという海外翻訳シリーズの目玉となっていて、買って読んだことがあった。でも、読書では映画ほどの感動は得られなかった。僕の読みが甘かったのもあるだろうし、おそらくは映画での新たな創作やスタッフの充実が大きな効果を上げていたのだと思う。僕自身も、素直にもなった。
 一言で言って、この映画の主題は「恥」にあるのだと思う。恥じるがゆえに誰にも言えなかった。知られたくがないゆえに嘘を飲み込み、自らを不利な立場に追い込んでしまう。それでも明かされないことよりはましという意識。俳優も見事で、見えないはずの「恥」をよく表していた。
 その「恥」とは何なのか? 一つは「セックス」であり、一つは「文盲」であり、もう一つはドイツにおける「ナチ」という罪。主人公の一人であるハンナは、その三つを身に抱き、絡まった重みによって亡くなっていく。
 ミヒャエルの立場もきつい。15歳でハンナと知り合い、男女の仲になり、突然にハンナは消え、法学生のときゼミで傍聴した裁判で、被告人席にいるハンナを見つける。彼は苦しんだ。助けようとした。しかし、彼女自身が明かされることを望まない恥を、公に曝さなければ判決を覆すことはできない。彼はハンナとの面会を希望したが、思い直して辞める。
 それでも、ミヒャエルのハンナへの思いは続いた。密会を重ねていた夏、ハンナはミヒャエルに本の朗読を頼んだ。ある程度満足して、性交に移った。若いミヒャエルにしてみれば朗読は一つの労働だった。対価が成熟した肉体だった。しかし、朗読は重要な意味を担っていく。ハンナは本を読めなかった。ハンナが刑務所に入って、ミヒャエルは朗読したテープを送り届けた。やがて、ハンナからの手紙が届く。「テープをありがとう、坊や」と。
 二十年続いた刑務所暮らしと朗読の日々も終りが近づいた。やっと再会した二人。来週ミヒャエルがハンナを迎えに行くことになっていた。花束を持って行くと、・・・。
 愛情がまたよく描かれている。被害者と加害者との違いもまた、如実に。現実が虚構を引き締めている。大人の映画。
 本の役割も具体として示していた。『愛を読むひと』という訳も適切だと思った。
 すばらしかった。文句のつけようがありません。

スティーブン・ダルドリー監督/デヴィッド・ヘアー脚本/ケイト・ウィンスレット、レイフ・ファインズ他出演/ショウゲート配給/2009
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キャピタリズム

2010-01-25 19:20:51 | 映画
 「キャピタリズム」とは、「資本主義」のこと。
 「資本」とは、「お金」のこと。
 自由競争や職業選択の自由が保障されるなど美化されるけど、要するに「お金主義」のこと。お金のない人は不幸になるということ。それを認める精神のこと。
 この映画を観ると、それがほんとによくわかる。
 1%の人たちがお金を信じられないくらい得て、手放そうとしない姿が。
 99%の人たちが、自由以前に、家を奪われ、職を取り上げられている姿が。
 マイケル・ムーア監督の映画は初めて観たけど、子どものような人だと思った。
 一体、お金はどこに行ったの? 僕らの税金は、僕の有限の時間は、一体誰の元へ?
 子どもなら、僕らだって子供だったはずなのに、純粋な質問の数々を、そのまま保険会社や銀行の頭取に、強制退去させられる住民に、教会の司祭に、政治家に、父に、また自分に向ける。インタビューや自ら考えたことを中心に映画は展開されていく。
 カメラは、どこまでも純粋です。なんの脚色もない。歪曲も操作もない。現実の鏡になっている。
 だから、ほんとに民衆の代弁者として、代理として、仕事している。好感が持てるし、ほんとは自分だってやれば得られる情報を、作品として提示してくれている。適切な料金で。
 アメリカという国は、要するに戦争勝利国でした。勝ったことで正しいとされ、富みを得て増やすことに罪悪感は覚えなかった。むしろお金持ちになることが称揚された。アメリカンドリームとはよく言ったものです。常に世界の一番でなくてはならなかった。プールつきの豪邸を持たなければならなかった。強迫観念のように。
 しかしそれは、洗脳であり、暗示でしかなかった。持てる者の自己弁護でしかなかった。
 負けなかったということ。痛い目に遭わなかったということ。
 人は誰だって進んで痛み苦しみを得たいとは思わない。快楽主義が根本にある。
 でも、それだけでは足りないのだ。想像が育まれないのだ。
 苦しいからこそ、何とか抜け出そうと必死で試行錯誤する。その中でしか、有益なものは生まれない。必要は、発明の母。
 負を認めるということ。
 傷口にお金を当てて、血が止まるでしょうか?
 映画の中に出てきた、あるワクチンを発明した人の言葉が忘れられない(誰だったか、は忘れてしまいました!)。「太陽には、特許があるかね?」
 まったくその通り。
 その精神を、忘れまい。
 民主主義であるということ。
 民が、一人ひとりの人間が、主人であるということ。
 一人の人間の声を聴き取るということ。
 怒ってもいいということ。

マイケル・ムーア監督/ショウゲート/2009/新宿武蔵野館
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沈まぬ太陽

2009-11-09 19:30:51 | 映画
 このブログに、2008年8月16日、小説『沈まぬ太陽』の感想を書いています。改めてそれを読み、現代に必要な作品なのだという思いを強くした。
 主人公恩地は、会社のため、働く人たちのため、またお客さんの安全、幸せのために、労働組合の委員長を務め、ストライキを辞さず、労働条件の改正に尽力した。しかし、会社側は、報復人事として、彼をカラチへ、テヘランへ、ナイロビへ、島流しとも言える対応をした。さらに労働組合の切り崩しを行い、自殺者まで出した。
 恩地は、ただ単純に、いいものを実現しようとし続けた。大勢に流されることが危険なことを、戦争によって知っていた。心身でわかっていることを行動し続けた。だから経営者側への詫び状など書けるはずもなかった。
 それでも、家族もばらばらになり、追いつめられた彼は、アフリカの大地に救われた。そこには、懸命に生きる命があった。神々しく輝く太陽があった。
 この世界で一番危険な動物である人間の所業を見せつけられるたび、また、ほとんど人災であったジャンボ機墜落事故の犠牲者、遺族の悲しみが深まるたび、大地はより広く、どこまでも人間を包み込む。人間の中に、太陽の光が差し込んできてありがたい。それはほんとにあったかい。
 そこには『大地の子』へも通ずる感動がありました。人間が、より大きな器に変容した瞬間というのでしょうか。僕もまた、夏に行った沖縄の大自然を思い出したのでした。
 配役がまたはまっていました。自信のなさゆえに昇進にこだわる行天には三浦友和、息子夫婦と孫を一気に失った遺族として宇津井健、事故後の再建を首相直々に頼まれた会長に石坂浩二、などなど。どの俳優もぴったりでした。それはスタッフを含めて、この映画に関わった人すべてが気持ちをひとつにして取り組んだ結果でしょう。
 沈まぬ太陽とは、どんな境遇にあってもめげない、投げやりにはしない、違うものには違うと言う、よりよい社会を志向する希望のことなのではないでしょうか。あるいは、人間の持っている強さへの信頼とも言えるのかもしれません。
 それでも、犠牲者は帰ってきません。その重さを、僕ら一人ひとりが、少しでも分かち合おうとする、聴こうとする、その心が大切だと思いました。
 恩地のようには強くなれないかもしれない。でも、人間としての芯を通す意志を持っていたい。
 会社員、社会の一員として、観た人それぞれに励ましをもたらす作品なのではないでしょうか。
 疲れた心身に、よく入ってきました。そして深いところまで、根付く力がありました。
 人間は、失敗から学ぶしか、成長する術はない。
 自信のなさとは別に、謙虚で、低くいたいものです。

山崎豊子原作/若松節朗監督/西岡琢也脚本/渡辺謙、鈴木京香他出演/東宝/2009
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ショーシャンクの空に

2009-08-27 00:00:06 | 映画
 特に観るつもりはなかったのですが、ツタヤのカード更新をしなくてはならず、サービスの一本無料を利用して(100円でしたが)借りました。
 2回目でした。最初に観たのはいつだったか? 高校生か浪人時代か。
 ものすごく「スカッと」したことを覚えています。姉から勧められたのも覚えてる。でも、細部は忘れていた。
 主人公のアンディの妻は不倫していたこと。その現場に、彼はいたこと。不倫相手ともども殺した罪に問われたこと。検察官に騙されて(!)、陪審員たちも彼を有罪(終身刑)に処したこと。
 送られたショーシャンク刑務所。いきなり暴力によって、初めての夜に泣き出した太った囚人(ほんとは無実かもしれない)が、刑務官によって殴り殺されたこと。
 50年に渡って刑務所暮らしをした老人が仮釈放され、シャバになじめず、不安に駆られて安住の地を求めて自殺したこと。
 アンディは銀行員だった経験をフルに生かして、刑務官ばかりでなく、所長の脱税を手伝ったこと(それも自分のためだったと後でわかる)。必死に勉強して高校卒業の資格を得たトミーが、真実を語ったために(アンディが犯したとされる殺人の真犯人を知っていた)、アンディの無実だったことがばれるのが面倒なため、脱獄したために射殺されたと所長によって捏造されたこと。
 聖書を盾にした悪魔が所長だったこと。彼に逆らう者は殺されるということ。
 人間のくずたちによって、力ずくで犯された(レイプ)こと。
 アンディは、しかし、希望を失わなかった。
 希望こそ、誰からも、どんな仕打ちを受けようと、奪われることのない唯一の宝、永遠の命だと信じていた。
 彼は、図書係になり、週に一通州議会に手紙を書き送り、図書の充実を求めた。6年続けて古本と200ドルを得た。そして彼は、週に二度手紙を書き送った。ついには500ドルを獲得した。囚人たちの自立を促す学問を整えた。一方で、所長に表面的に従い続けた。心の芯は、しっかりと彼が彼を握ったまま。
 東京大学の社会学専攻の人々が最近『希望学』という本を出しています。それは「希望」に関する研究の結果報告です。中身まで読んでませんが、頂いたパンフレットに、この映画のことも出ていたのでした。そしてもう一度観てみたいなと思っていました。
 フランクルの『夜と霧』を思い出しました。
 まったく地獄としか表現しようもない世界。自分を出せば鞭打たれる。拷問が待っている。殺される。その世界では、殺されても、殺した側は罰せられない。殺される理由もない。
 そんな世界にいて、でも人は、心に希望を持つことができる。
 心の自由を、誰も奪うことはできない。
 自分である理由のところ。胸の中の泉。
 音楽の源。詩の故郷。
 そこに働きかけるのが芸術なんだと、改めて思う。
 希望は誰にでもある、生きるためのチケットなのだと、それを奪うことは誰にでもできないのだと、この映画は思い出させてくれます。
 僕の希望とは、なんだろうか?
 アンディが19年、毎日一握りの石を砕いたように、僕もその道を、進めているだろうか?

フランク・ダボラン監督/脚本/スティーブン・キング『刑務所のリタ・ヘイワース』原作/ティム・ロビンス、モーガン・フリーマン他出演/コロムビア映画/1994
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スラムドッグ$ミリオネア

2009-06-02 19:34:07 | 映画
 「スラムドッグ」とは、「貧しい負け犬」とのこと。
 そう言われる彼「ジャマール」が、人気のクイズ番組に出て、2000万ルピー(1ルピー=約2円)を獲得することになります。
 その過程、なぜに彼は、質問に対する答を知ることになったのか、詐欺容疑で警察で尋問される中、答の一つ一つが具体的に語られていきます。その積み重ねが、結果的にクイズへの回答につながり、ジャマールの生い立ち、彼という人間を知っていく物語になっています。
 映画が始まると、あっという間でした。それだけ没入することができました。
 獲得金額が上がっていくというクイズ番組のスリルとも呼応して、飽きることはありません。スラム街に生まれ、生きるために必死で行動してきたジャマール。過酷な、選びようのない、経験の塊たちは、受験や就職のための勉強とは雲泥の違いの、彼そのものの中にある知恵を育んでもいた。彼の価値は、お金では計り知れないほど大きいものであることを、知らしめることになります。
 僕の感じたそういう映画のポイントのようなものを、これでもかと説教臭く表現はしていない。音楽もヒップホップのようで、疾走感があります。クラシックを好む僕は、この手のうるさ型の音楽にあえて近づかないけど、この作品の中ではとても合っていた。気持ちよく身を委ねることができました。
 ジャマールがなぜ「クイズミリオネア」に出ることにしたのか? それは言わないことにしましょう。
 ただ複線に、恋人がいます。
 彼はただ単純に、人を愛し、生きてきた。
 生まれがどこであろうと、親を殺されようと、嘘を覚えようと、兄がやくざになろうと、また拷問を受けようと、彼は彼だった。彼以外にはなりようもなかった。あの人以外を愛することもできなかった。
 それが「運命」。
 僕の言葉でいえば、「なるようになる」。
 その意味で、スカッとしましたね。最後のダンスなんかも素直に楽しめた。
 貧困や暴力が、この世界に存在しているのは事実です。アメリカのかつての某大企業のように、嘘偽りで凝り固まって金だけを最高の価値だと思い込んでいる大人もいっぱいいる。
 そんな世界で、何が大切なのでしょうか? また何なら僕にはできるのでしょう?
 自分が自分であること、です。そして今までの道は、どの人の道にも、2000万ルピーもの価値がある、ということです。

ダニー・ボイル監督/サイモン・ビューフォイ脚本/池袋シネリーブルにて
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駅路/細雪

2009-04-21 22:34:01 | 映画
 雨だったので、銭湯行ってからは、続けて2本の映画を観ました。
 1つ目は、『駅路』で、先週土曜日、9時からフジテレビで放映された作品です。これはもう「映画」と言ってもいいのではないでしょうか。それくらいによかった。
 原作は松本清張で、脚本が向田邦子、主演が役所広司、これだけで観ようと思った。そして、そのカンは正しかった。
 演出が杉田成道という、あの『北の国から』を担当した人なのだそうですが、大晦日の紅白歌合戦で、谷村新司が『群青』を歌っている姿が、池袋の飲み屋の片隅に置かれたテレビに現れて、消息不明になった愛人を思う女性と重なって、まさに誰かの心情を代理で歌っているようで、歌の力を感じた。
 それと、佐藤春夫の詩『よきひとよ』。佐藤春夫の詩集を持っていないけど、これもまた定年を迎えた男の気持ちをよく代弁しているように思った。
 ゴーギャンの絵もまた効いていた。彼は37歳で、妻子、仕事(証券会社)を捨て、タヒチに行った。これから毎日描くつもりだ、子に犠牲にされて、誰が芸術や美を創っていけるのか、と言って。
 深津絵里が演じた女性もまた具体的だった。定年を迎えた男と、駆け落ちしようとして、土壇場で近所の友人が生後8ヶ月の赤ちゃんを連れて遊びに来る。そこで、ふっと気が変わる。女に生まれたからには、子供を産んで抱いてみたい。先の短い男と一緒になって、果たして幸せになれるのか?
 待ち合わせ場所に行った男は、金目当てで殺されてしまう。沈められた湖から、「よきひと」とのツーショット写真が、ゆらゆらと浮かんでくる。
 事件後、帰路の車内で、1年後に定年を控えた刑事と青年刑事の会話も沁みた。
 ああそうだよな、我慢しながらも生きていくんだよな、うんうんそうだ。
 そう感じたおじさんたちは多かったのではないでしょうか。
 男の側と女の側、双方の心的現実が、こみ上がった。海底と海面の水がかき混ぜられたような感じ。そうした黒潮(暖流)と親潮(寒流)が混ざる海域に、魚もよく育つ。そんな魚になった気分です。

 続けて『細雪』を観ました。これは親しくさせていただいている出版社の代行さんから頂いたDVDです。映画好きな彼に、何がよかったかと聞かれ、最近では市川崑さんかなと応えたら、まだ観てないものでいいのがあるということで、わざわざダビングして持ってきてもらいました。
 原作は谷崎潤一郎なのですが、だいぶ僕の谷崎観が変わりました。と言っても、ほとんどその作品にはまだ触れていないのですが。優しいというかきめ細やかというか。
 谷崎の3人目にして最後の妻、松子の姉妹(4姉妹)がモデルとなっています。本家と分家、本家の奥にいる「筋を通す」祖母、世間体、家政婦がつい見てしまう、姉妹間の愛憎、家に入った男たちの葛藤、義理の妹への愛着、戦中の空気、もちろん京都の美しさ、などなど、見所満載で飽きませんでした。
 3姉妹の3番目を吉永小百合が演じているのですが、4姉妹の中でも彼女が、僕はやはり引かれました。日本女性の美というのでしょうか。どの女性だって美しいのですが。
 谷崎観が変わったというのは、4姉妹それぞれの、それぞれの葛藤と行く先、落ち着きどころまで描いているということです。それはとても親和的で、写実的でもあります。幻想や性癖とは距離ができていた。身内を題材にしているから現実的になるのでしょうか。
 画面がすっきりしていて、人物、風景、言葉が、寸分の隙もなく動いていく。着物やぼんぼりもまた、それだけで絵になっていた。
 3女の雪子を吉永小百合が演じているのですが、30を過ぎていて(そのようには見えない)未婚で、上の2人の夫婦がさかんに縁談を持ってくるのですが、ことごとく断る。でも、ついに意中の人が現れて、結婚することに。上の姉たちは、「よくねばったわね」と関心する。そんな姿勢が、30を越え、周りがいい人紹介するよなどと言われ始めたひとりものとして、共感したりもする。
 女性のありのままを、その人にとっての大事なものを、谷崎も書いていた。1886年(明治19年)に生まれた日本男児として、それはかなり異端で、今から見れば現代的。マゾヒズムやフェティシズムの気があったにしても、個人を大切にしていたのがわかります。
 また、谷崎を激賞したのが永井荷風だった。谷崎を三島由紀夫は当初はわが師として仰いでいたようですが、川端康成に移っていった。谷崎の最初の妻千代を、友人の佐藤春夫が受け継いだ。川端の家に行った壇一雄は相手にされず、佐藤家に行ったら歓待され、師とした。その佐藤の詩『よきひとよ』を向田邦子が好きで、松本清張のドラマに使った。三島の恋人(?)だった美輪明宏は、江原啓之と心通わせ、あんな姿になっている・・・。谷崎の影響を受けた江戸川乱歩の作品を、美輪明宏は舞台で演じてもいる。
 そんなつながりが、また発見できて面白いのです。
 まったく新しいものなどないのです。温故知新。

 やっぱり、文学はいいなあ。

駅路/松本清張原作/向田邦子脚本/杉田成道演出/役所広司、深津絵里他/フジテレビ
細雪/谷崎潤一郎原作/市川崑監督/佐久間良子、吉永小百合、石坂浩二他/東宝
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おくりびと

2009-03-09 00:13:05 | 映画
 レイトショーで観てきました。
 とてもよかったです。
 本木雅弘演じるだいちゃん(大吾)は、チェロ奏者でした。いや、それは生涯そうなのでしょうが。所属していたオーケストラが、ある日突然解散されてしまいます。そして、妻を伴い、故郷の山形へ帰る。父は幼い頃に蒸発し、母はすでに亡くなっており、唯一の財産である元喫茶店兼用の家が残されていて、そこに二人で住むことに。失業した夫は、新聞広告で「旅(立ち)のお手伝い」に引かれ、それは給料もよいのです、面接に行きます。そこに待ち受けたのがNKエージェントの社長(山努)でした。即採用。そして、だいちゃんの「納棺師」としての仕事は、まったくの偶然(運命)から始まることになります。
 あっという間の二時間でした。そしてその時間は、とても深かった。
 深刻な場面ばかりではないのです。コミカルな描写もあり、山努と本木雅弘の度量の広さというのでしょうか、感心しました。
 亡くなった人には、もちろん遺族がいます。おまえがちゃんと育てなかったからだ、それでも俺の子だ、ごめんなあごめんなあ、納棺の儀(体を清め、衣装を換え、化粧をし、棺にみなで納める)の間に、人々は気持ちを整理していく。
 人は木のようだ、と思った。
 死も、あるいはその人の生のある一面も、最初は拒んでしまう。受け入れられない。自分の枠、思いには合わない。しかし、人は現実と直面し、幻想が薄れていくとともに、目の前の事態を受け入れていきます。年輪が、また一つ重なるように。
 抵抗もする、逃げもする。でも、現実はありのままそこにある。思うようにはならない。あきらめる。そして、受け入れている。気づけば、大きくなっている。
 だいちゃん自身がそういう過程を辿ってもいきます。自分を捨てた(と信じていた)父を、父が死んで初めて所在がわかって、自分の仕事として父を浮かび上がらせていく。
 この人が父なんだと、やっと入ってきて、でも戸惑って、振り向くとそこに身ごもった妻(広末涼子)が微笑んでいる。だいちゃんもまた受け入れられ、その子はまた両親に手を当てられる。
 自分が一生の仕事として何をしていくのか、を、問われもしました。死というのは、やはり、生を自覚させもするのでしょう。
 思い出すのは『悼む人』の静人です。納棺師の大吾と、ひたすら死者を悼む静人。ヒットする作品は、多くの人たちの潜在的な願望を代理しているのだと思います。僕が死んだとき、覚えていてくれる人がいるだろうか、心を込めておくってくれる人がいるだろうか。たとえ今死んでも、あの人が来てくれる。悲しんでくれる。感謝してくれる。また会おうと言ってくれる。そんな人がいるだろうか。いて欲しい。
 不安の裏返しでもあるのでしょう。でも、観た人たちそれぞれが、大吾の役目を引き受ければいい。ほんの少しでも。できるだけ。
 僕の父と母。まだ健在ですが、いつか、嫌でも、別れなくてはならないときが来る。そのとき、自分がおくっていく姿というのを、一瞬ですが、垣間見もしました。そしてそれは、やはり悲しいけど、しっかりと引き受けないといけない。だから僕が映画館を出たとき、いい顔をしていたのかもしれない。
 みんな一人ひとりに、重い使命がある、尊い価値がある。彼ら(大吾と静人)は、僕らを認めてくれる、大切に扱ってくれる。たった一つ、として。
 また賞の意義というのもわかりました。僕はおそらく、この作品がアカデミー賞外国語映画賞を受賞し、広く報道されなければ観ていなかった。今最も観たい、観て欲しい作品を知らしめるのが賞の意義。純粋にそれは、僕ら観衆の感謝の贈り物でもあるのでした。
 実際に大切な人を亡くした人にとっても、安心して観られる、何らかのカタルシスをもたらすであろう、優れた映画です。

滝田洋二郎監督/小山薫堂脚本/久石譲音楽/本木雅弘、広末涼子、山努他出演/松竹/T・ジョイ大泉にて
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となりのトトロ

2009-02-24 15:56:28 | 映画
 時間があり、外出するにも寒く、運動するにも疲れがあり、読み書きもするのですがいまいちで、以前からもう一度しっかり観ようと思っていた『となりのトトロ』を、レンタルして観ました。
 これを書くために、インターネットでこの映画について調べたのですが、裏話や都市伝説も出てきました。一通りそれも読みましたが、人は噂話が好きなのですね。「実は・・・」 原作があり、似通った(同じではない)事件もあり、それは悲惨で、あえてここでは取り上げません。わかったようなつもりになるけど、それ以上ではない。そもそも作品を、それぞれが感じるのがいいのであって、一つの固定化した解釈を共有することが怖い。いじめもまたしかり。悪意を発散させるには、スポーツや祭りがあるではないか。心は一筋縄ではありません。
 さて、以前に観たのは何年前でしょうか。「トトロ」があまりにユニークなので、そのイメージばかりが残っていたのですが、よく観ると、不安がしっかりとすくい取られていました。お母さんは、入院していたのですね。結核のためで、病院の名前が七国山病院。僕の実家の近くにあるのは八国山で、新山手病院が現存しています。草壁一家が引っ越した「お化け屋敷」にもモデルと言われる家があり、それは残念ながら最近焼失してしまいました。ここにも悪意を感じます。が、それはさておき、トトロを思いついた淵の森も含めて、当然のことながら、監督の経験や想像が、複雑に絡み合い、統合されて作品に仕上がっています。「トトロの森」という名前の森もありますが、それだけがトトロなのではなかった。トトロと言われるような(それもメイが勝手につけた)存在が、誰の心にもある、そこを打った、だから大ヒットになった、ということなのでしょう。また様々な解釈を生むような深さ、言い換えれば幅があることも確かでしょう。
 で、お母さんですが、思うようには回復しない。週末に帰ることになってサツキとメイ姉妹を喜ばせますが、体調が悪くなり、延期になってしまう。そこでメイは病院にトウモロコシを届けに行こうとするけど迷子になってしまう。サツキも走って探し回るけど見つからない。そこでトトロにお願いに行く。サツキに抱きつかれてトトロの頬がぽっと赤くなるのを見逃しませんでした。トトロも男なんですね。ガオーを吠えると猫バスがやってくる。「めい」行きになり、一目散に探し当てる。二人の願いを叶えに病院にまで行く。お母さんの笑顔を見て、二人はほっとして家に帰る。心配していた隣のおばあちゃんとカンタというサツキの同級生と合流する。エンディングでは、「お化け屋敷」に来たお母さんと姉妹がそろってお風呂に入っています。ハッピーエンド。
 トトロとは、人知を超えた奇跡なのではないでしょうか。僕らの力の及ばないもの。でも、そこから人も来て、帰っていくところ。トトロは、その象徴なのだと思いました。絶望にあっても希望を失わないこと。お父さんが新居に移った夜、森の闇や風に震える古びた家の風呂で、あえて笑ってみせるシーンがあります。子供も釣られて笑ってしまう。すると不思議と不安が消えていく。
 宮崎作品を観て、安心できると言った人がいました。僕もそうだと思った。
 でも、単純に楽園を描いているのではありません。深刻な病気や自然破壊を、決して見ないようにはしていない。今ある問題を飲み込んだ上で、登場人物たちが活躍している。そこに、観客の希望も刺激されるのではないでしょうか。
 それと、やはり絵がすばらしいです。音楽もまたすばらしい。
 人物や自然と、絵と音が見事に合っている。統合された姿、調和した地球、破壊が進むと修復しようとする動きが自然に出てくる。それがそのままドラマの筋書きになっているようです。そして観る者もまた、癒えていく道を辿るのではないでしょうか。それぞれの道において。
 お父さんは、設定では32歳なんですね。僕と同い年です。考古学という専門に没頭しつつ、大学で非常勤、また翻訳のバイトもしているようです。病の妻を気遣いつつ、娘たちと存分に遊び、必要な知識も伝えていく。決して否定はしない。ただ修正していく。信じていく。森に感謝していく。
 そんなお父さん。いいなあ。
 なれるかなあ。

宮崎駿監督/糸井重里他/東宝/1988
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ご縁玉

2008-12-26 00:24:46 | 映画
 エリック・マリア、山田泉。この二人が、しっかりと、僕の心に根付くことになりました。
 この映画の存在自体、「ご縁」から知りました。ヤマちゃん(山田さんの愛称)もケンちゃん(エリック・マリアの日本での愛称)も、そのようにして出会った。
 ヤマちゃんは、乳がんのため、今年11月に亡くなりました。教師で、自らの体験から「命の授業」を行っていました。死が近づいているのを知り、彼女は憧れの地、パリに赴きます。そこで共通の知人を介して、二人は巡り会いました。ご縁があるように、と、彼女は彼に五円玉を渡したのでした。
 ケンちゃんは、昨年12月末、その五円玉を手に、本当にヤマちゃんに会いに旅に出た。チェリストである彼は、ただチェロを楽しんでもらいたくて、はるばる日本までやって来た。その様子が、このドキュメンタリー映画になっています。
 エリック・マリアがケンちゃんとなった間、ヤマちゃんは孤児院に、ホスピスに、寺に、生家に、彼を連れて行きます。彼は、そこここで、チェロを演奏する。戦争のベトナム生まれで孤児となり、フランスで育ての親を持った彼が、孤児院で、日本の子供たちのために覚えた「君を乗せて」(「天空の城ラピュタ」より)を弾き語りする場面は、人間の人間たる芯にまで届き、僕もまた思わず涙しました。
 ケンちゃんはヤマちゃんの家で、毎日、彼女のために、その子供のために、チェロを弾きました。ときには彼女のおなかにチェロを乗せて。自分のことは何も考えず、ひたすら彼女の呼吸となるために。彼女の目には、驚くほど美しい、きらきら光る水滴がたまっていく。
 チケットを頂いた、彼女の本を出版している営業さんから、僕は何度も聞いていました。山田泉のこと、本のこと。でも、正直言って、そのよさは、僕には伝わっていなかった。彼が言うから、本も大きく展開し、映画も観に行った。しかし・・・。
 この映画には、まったく作者がいません。あえて言えば、「縁」が主人公になっている。それだけに、自然な、深い、温かい、生の人と人との交流が、直に流れてきます。
 二人と、支えあう周囲の人々から、僕は何か、無形の財産を頂いた。だからこれからは、自発的に、この作品の素晴らしさを、受け取ったものを誰かにつなぎたい、と思ってこれを書いています。
 文学にも通じる芸術の含む力を、改めて捉えなおすこともできました。表現したいものは、やりたいことは、決して売名のためとか印税のためとかではない。いつだってそうだけど、行為が先にある。目の前に、僕のできることを欲している人がいて、僕にはそれができる。だからできるだけのことを尽くす。ひたすらその質と量を上げるためだけに、日々研修している。私とあなたが、その行為によって、何かを捨て、何かを得る。僕らの生にとって、欠かすことの出来ない何かを。
 僕にも、がんを患った友人がいる。彼女のために、何ができるのか、できているのか。
 また、いつでもバイオリンを持ち歩いている、バイオリンがなかったら死んでいた、と言った女性の切実さが、やっとわかった。
 ヤマちゃんにとってそれが教育であり、ケンちゃんにとってそれがチェロであり、ある女性にとってそれがバイオリンであり、僕にとってそれが本であるということ。
 一瞬一瞬が、ヤマちゃんの言うように、とてもいとしくなります。

江口方康監督/渋谷ユーロスペースにて/10時半からのみ
山田泉著/「いのちの授業」をもう一度/いのちの恩返し/高文研
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アキレスと亀

2008-10-03 22:02:21 | 映画
 「アキレスと亀」というパラドクス(逆説)があります。それは先に亀が歩いていて、後から走り出したアキレス(人間)が、理論上、時間上は、永遠にアキレスは亀を追い越すことはできないというものです。アキレスが進み、でも亀も進んでいる。その差は、限りなくゼロに近づくけれども、ゼロになることはない。この問題を、北野監督は、「芸術(夢)と人間」に置き換えています。
 宣伝では、監督自らが演じる中年期が目立ちますが、この物語の中核は、主人公真知寿(まちす)の幼年時代にあります。父は生糸で成功していた会長。彼は芸者たちと酒宴に興じている。騙されていることも知らずに、芸術を理解しているつもりで。息子はとにかく絵が好きだった。父は可愛がった。絵だけ描いていればいいと教えた。それが、その後の悲劇の始まりです。
 蚕が一夜にして全滅してしまう。会社は倒産し、父は首をくくる。残された母(後妻)は、親戚(父の弟)に真知寿を預け、自らは投身自殺。唯一の友達となったちょっと変わったおじさんもまた、バスに跳ねられ(真知寿が去ろうとしたのを止めようとして?)死んでしまう。
 青年時代、新聞配達や工夫をしながら、彼は創作を続ける。学校で知り合った仲間たち、そこでも行き過ぎた熱で、絶望で死ぬ人が二人出る。そんななか、職場で知り合った女性と彼は結婚。幸せだが、絵は一向に売れない(実は騙されている)。
 二人が作った娘が高校生になり、両親を嫌悪するようになる。小遣い欲しさに売春、家出。それでも夫婦は作品にのめりこむ。挙句に、娘も死んでしまう(ドラッグによる中毒死か?)。これには夫婦も参った。さすがに奥さんも夫の狂気についてゆけず別れる。真知寿も死のうとする。しかし、死ねない。
 川沿いのフリーマーケットで、彼は半分焼けたコーラの空き缶を20万で売っている。包帯ぐるぐるで。それは自分そのものだったのでしょう。
 「それください」という人が現れる。その人と彼は、手をつないで帰っていく。
 と、粗筋を追体験すると、この物語は「承認」の物語なのではと思えてきました。真知寿は、どんなことをしてでも、受け止めてくれる人が欲しかったのではないか。いい絵だね、買うよ、ぜひ続けてくれ、楽しみにしてる。そう心から応じてくれる人。それがかつての父だった、母だった。
 その絶対的な存在を、妻が引き受けている。彼は結局、求めていたものを得たのではないか、と思った。だからその後、もう彼は作品を作らなくてもいいのかもしれない。夫婦で、慎ましく、労わりあって生き続けていく、それこそが二人の最高傑作なのではないか。そうなってしまったら、もう「作品」はいらない。と言っても、彼らは作り続けるのでしょう。今度こそ、最高傑作だと信じて。
 生まれ持った業から抜け出る物語でもあるのかもしれません。それが芸術だ、と監督は思っているのかもしれない。
 僕の勝手な想像があるとは思いますが、こうした想像を促したのはこの作品です。
 最後に、「そしてアキレスは亀に近づいた」。
 夢、目的に近づこうとする人間たち。僕もまたその一人。それは決して一致するものではない。一致したと思ったら次の瞬間にはわからなくなっているもの。
 「紙一重」の大切さ、と、やっぱり社会に適応するための基礎は身につけていないと、という現実感覚、逆説的に教えられたようです。

北野武監督・脚本・絵/樋口加南子・伊武雅刀他/テアトル新宿にて
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崖の上のポニョ

2008-09-03 02:21:00 | 映画
 やっぱり気になっていて、観てきました。
 とてもよかった。映画館を出たときの気持ちをなんと表現したらいいのか。心が澄んでいて、自信がいつの間にか増えていて、人に優しくなれて。
 全体のテーマとして伝わってきたのは、人間の人間による人間のための「肯定」です。ポニョは魚の子なのですが、人間になりたい。そのために必要な条件がある。正体(魚、人面魚)を知っていてなおその存在が好きである自分以外の人間がいること。宗介(5歳の男の子)は、見事にその試練に耐えた。なんて言うのは、周りの大人の取り越し苦労だけなのかもしれません。子供時代、自他の区別もわからず、他を排除するなんてことがあったでしょうか。
 と書いて、幸せな環境(両親、それに変わる大人に愛されるということ)に産まれなかった、排除された人のことが思い出されます。そんな人にとって、この映画は辛いのだろうか? わからない。でも、環境を突破する力があるように感じます。自己以外をすべて取っ払ってしまって、今の人としての私に入る力。それこそ親代わりになりうる力というのでしょうか。それが芸術の役割でもあるのでしょう。それが確かにあった。あっという間で、周りなんか見えない、そんな状態の持続。感情にふっと触れる感覚。
 魔法とはなんだろう、とも思いました。それは自分の願望がすぐに実現してしまうということ。それは未熟な心の夢見ることなのかもしれません。自己中心で、むかついたからやった、みたいな犯罪の心理、または正当化する倒錯とも通じているようです。ポニョは、人間になる引き換えに、魔法を失った。それは思った通りに人生を進める、という幼い幻想から、他との共存、出会いに乗っていくという相互関係への発展を意味しているように感じます。
 振り返って自分のこと。精神科医が、カウンセラーが、また書店が、友が、家族が、作品が、自然が、僕を受け入れてくれなかったら、と思うとぞっとする。人が人になるために、その人として生きていけるために、絶対に他者からの受容が必要です。存在が尊重されるということ。その実感を他から受けると、その人もまず自己を尊重、肯定するようになる。母なるもの、生命の母である海、そこが率直に描かれていました。人として大切なものを、製作者たちがしっかりと把握していたのではないでしょうか。そうでないとこれほどの信頼を寄せることはできません。
 あと、これは『崖の上のポニョ』の公式ホームページを見て知ったことですが、前作『ハウルの動く城』以降、宮崎監督は夏目漱石全集を読みふけっていたそうです。あの『門』の主人公は「宗助」。しかも「崖の下」に住んでいた。そして漱石の誕生日は旧暦の1月5日。宮崎監督は新暦の1月5日。そして、なんと僕の誕生日も1月5日・・・。たまたまでしょう。でも、ね。なんか感じないわけにはいきません。通じるものというのでしょうか。過去からしっかりと新しいものを生み出すということでしょうか。この人は、これだけは、という敬愛や関心の近似というのでしょうか。
 それにしても生き物が、ほんと生きていました。波も月も花も。これがすべて手作りの業かと思うと途方もないものを感じますが、確かに職人芸。こんな素晴らしいものを人間は作ることができる。誇りに感じます。
 僕も保全のために募金した「淵の森」。そこで監督はごみ拾いしながら着想を得たようです。『となりのトトロ』もまたそうだった。自然と人間の融和。その創造力。独創性。見事と言うしかありません。そこから学ばないといけません。
 とにかく、よかった。まだの方、ぜひ。

宮崎駿監督・原作・脚本/久石譲音楽/山口智子他/東宝/2008
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