梅雨明けから猛暑日が続いています。
みなさま、暑中お見舞い申し上げます。
土曜は朝ラン。で、五時半には起きて、七時前から走り始めましたが、滝汗。10キロ走るのがやっとでした。
家の近くには八国山という小さな山があります。
山の中は緑がいっぱいで、尾根を中心に走ることもできます。
夏場ほど、この山、森、木々のありがたさを強く感じます。
強烈な日差しの下、火傷しそうなアスファルトの上を、木陰なしに走ることはもうできなくなってしまったから。
その八国山は、映画「となりのトトロ」で登場する「七国山」のモデルです。
監督の宮崎駿さんもその近くに住んでいらっしゃる。
所沢、東村山界隈では、あちらこちらで監督の目撃情報がささやかれています。
私にとっても、身近な創作者。
1941年生まれなので父と同い年。で、私とは誕生日(1月5日)も同じで。
その人の最新作が公開されました。観に行かない理由はありません。
写真の映画ポスターを使ったコースターは、映画館の売店でソーダを買った特典でもらいました。イオンの武蔵村山店です。
観終わってから十日経つのですが、まだ余韻が残っているというか。
書店でも、仲間たちとよく話しました。
話したくなる映画なのですね。
で、私もここに書いて、ひとまず昇華を試みようと。
ここから先は、映画の内容に触れますので、読みたくない人は読まないでください。
題名は「君たちはどう生きるか」です。これは吉野源三郎の作品と同じです。
が、中身は違います。海外向けのタイトルは「The Boy and the Heron」。「少年とサギ」です。
映画を観てみると、確かに「少年とサギ」だなあと。
サギは、映画の唯一のポスターとなっているアレです。
そのサギと、主人公の少年「マヒト」との関係が物語の軸になっています。
戦時中、疎開先でマヒトは新しいお母さんのナツコに迎え入れられます。
戦火によって、マヒトのお母さんは亡くなっていました。
実の母親を亡くした喪失感も癒えないうちに、父はもう次の妻を作っていた。
父は軍需産業で儲かっており、車でマヒトの疎開先の学校に乗りつける。
地元の子たちにすれば面白くない。マヒトはすぐ攻撃の的になってしまう。
新しい母との関係も冷えたまま、マヒトは学校の帰り道で、石で自分の頭を打ちつける。
そして嘘をつく。自分はただ転んだのです、と。
自作のケガのために学校に行かないマヒトを誘うものがいた。それがサギです。
お屋敷の前に池があり、その奥には塔が立っていました。
サギはマヒトにしつこくからむ。「お待ちしてますぜ」と、塔に入るように誘い続けます。
マヒトは興味本位で一度塔に入った。でも地元のおばあちゃんたちに封じられていたので奥まで入れなかった。
結果的に塔の奥まで入るきっかけとなったのは、重いつわりとマヒトを傷つけてしまったことを苦しんでいたナツコだった。彼女が行方不明になり、塔に向かっていくところを見たマヒトが助けに行く。
ちなみにこの少し前、マヒトは実のお母さんから贈られた「君たちはどう生きるか」を発見して読むシーンがあります。
塔の内部では、あのサギが待っていた。そしてサギに導かれて、「もう一つの世界」に旅に出る。マヒトだけでなく、最後まで行かせまいと抵抗していたおばあちゃんの一人、キリコさんも巻き込んで。
「もう一つの世界」をなんて言えばいいのか。そこは食料が少なく、海が広がり、人食いインコが増殖しており、「わらわら」たちが成熟して飛ぼうとしている。そんな「わらわら」たちを食べてしまうペリカンたちもいる。「わらわら」たちの旅立ちを助ける「ヒミ」がいる。
後でわかることですが、その「ヒミ」が、亡くなったマヒトのお母さんの若いときです。
マヒトはインコに捕まって危うく食べられそうにもなります。が、ヒミやサギや若かりし頃のキリコの助力をえて、その国を保っている「大叔父様」に会う。
その「大叔父様」は、その国を保つことを「マヒト」に継いで欲しかった。「悪意に染まっていない石」を積み上げることによって。
そこでマヒトが言う。頭についた傷は悪の象徴です。そんな僕にはできません、と。
そのとき、インコの王が、「もう一つの世界」を保っていた石たちを切ってしまう。その世界は崩壊を始める。
脱出の際、「時の回廊」で、ヒミとマヒトは違う扉(時間)から出て別れる。
マヒトが現実に戻るとき、ナツコもサギもキリコもインコたちもペリカンたちも、毒が抜けて出てくる。
と、こんな流れです。
様々なことを思い出します。
サギに名前がないのは、夏目漱石の「猫」の影響だし、自分の中の悪意とどう折り合っていくのかというテーマは、漱石の「こころ」に通じる。なのでサギは「こころ」の使いなのかな、とか。
「わらわら」たちは、成熟したら飛ぶ。この「成熟したら飛ぶ」という言葉自体がとてもよいな! と思っているのですが、飛んだ「わらわら」たちは上の世界で人間になる。途上の「わらわら」たちを食うペリカンたちは、上の世界でやっていけなくなって仕方なく下の世界で「人になる前の人」を食って生きている。「わらわら」たちの世話をしているのは、マヒトとともに「もう一つの世界」に来てしまったキリコの若かりし姿。キリコにも、マヒトと同じ頭の傷があった。
自分だけが悪い、と思って頭につけた傷を、違う人も持っていた。それ自体が大きな発見であり、助けとなるものです。
そんな傷を負った人が「わらわら」を飛ばそうとしている。そのシーンは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が重なってくる。
サギやペリカンやインコと鳥たちが多く、「人間になる前の人間」を描いていたメーテルリンクの「青い鳥」も透けて見えます。
塔は、江戸川乱歩の「幽霊塔」とそっくりだし、「もう一つの世界」に「降りていく」シーンは、ゲーテのファウストの第二幕に似たシーンがあります。
物語の構図は、ジョン・コナリーの「失われたものたちの本」がかなり参照されています。
そしてラストの、「悪に染まってない世界」を拒絶し、崩壊させる場面は、宮崎駿さんの「風の谷のナウシカ」を思い出したし、私にとっては大事な作品の一つとなっているヘルマン・ヘッセの「ガラス玉遊戯」を追体験させるには十分な力を持っていました。
そもそも、「悪に染まっていない世界」とは、頭の中でしか存在せず、その理想を強制する世界は、現実の人間の世界で何度も繰り返されてきたことなのではないでしょうか。「共産主義」もそうでしょうし、「過度の理想の押し付け」によって生じるのは「しつけ」という名の虐待ですし、「愛国主義」が必然的に作り出すのは「敵」でしかありません。かつてのオウム真理教を信じる人たちは、自分たちは迫害されていると信じてもいました。「自分たちの完璧な世界を守るため」あらゆる攻撃が正当化されます。ここには悪がないことになっているので、全ての悪は敵が担う。かつての戦中の日本も、我々は天皇を頂点に持つ神の国であり、鬼畜米英に勝つまでは何も欲しませんと暴力で誓わされた。暴力が正義の代弁者だった。でも、そんなことって、本当にありますか?
どの絵もどのシーンもどのセリフも、背後にある思いや経験やエネルギーの質量が半端なく、高カロリーという印象です。だから噛み砕くのに時間がかかる。
様々なことを思い出させ、頭が沸騰するような鑑賞後。それは、「私がどう生きてきたか」を総点検させるような効果ももたらしたのかもしれません。
自分の中に残っている大事なこと。心から感じ入って「永久保存だ!」と仕舞っていたものたち。それらが一斉に騒ぎ出す。
再び光り始める。
隠れていたかもしれない光源を再発見して、再出発の起点となる。そんな映画。
サギには、古来から様々な意味を託されてきました。
その一つに「再生」があります。
人が成熟すること、成長することは大変なことです。私自身、今、直面しているとも言えます。
本来、人は成長できる備えがあるはずなのですが、様々な阻害にあうことも珍しくありません。
マヒト自身、最初は拒みました。自分に嘘をついて。サギの誘いにも散々抵抗しました。サギを、自前の弓で仕留めようともして。
抵抗は、この映画の中では、強い向かい風や巻きつく紙としても描かれていたと思います。
観た人は、マヒトとサギとともに、「再生」を果たすことができる。
「人を人にする力」が、この映画にはある。
その力は「千と千尋の神隠し」にも十分あったと思いますが、今回はより先鋭化していると言いますか。装飾が削ぎ落とされたという感じです。
観た人それぞれが感じるところがあると思います。
その感じたところを拠り所にして、生きていって欲しい、という宮崎監督の思いも伝わってくるようです。
まだの方、ぜひ。
子供と一緒に観ると、あれはなんだったんだろう、これはどうだったんだろうと話が弾みそうです。
その姿を見て、にこにこしている宮崎監督の顔が思い浮かんできます。
みなさま、暑中お見舞い申し上げます。
土曜は朝ラン。で、五時半には起きて、七時前から走り始めましたが、滝汗。10キロ走るのがやっとでした。
家の近くには八国山という小さな山があります。
山の中は緑がいっぱいで、尾根を中心に走ることもできます。
夏場ほど、この山、森、木々のありがたさを強く感じます。
強烈な日差しの下、火傷しそうなアスファルトの上を、木陰なしに走ることはもうできなくなってしまったから。
その八国山は、映画「となりのトトロ」で登場する「七国山」のモデルです。
監督の宮崎駿さんもその近くに住んでいらっしゃる。
所沢、東村山界隈では、あちらこちらで監督の目撃情報がささやかれています。
私にとっても、身近な創作者。
1941年生まれなので父と同い年。で、私とは誕生日(1月5日)も同じで。
その人の最新作が公開されました。観に行かない理由はありません。
写真の映画ポスターを使ったコースターは、映画館の売店でソーダを買った特典でもらいました。イオンの武蔵村山店です。
観終わってから十日経つのですが、まだ余韻が残っているというか。
書店でも、仲間たちとよく話しました。
話したくなる映画なのですね。
で、私もここに書いて、ひとまず昇華を試みようと。
ここから先は、映画の内容に触れますので、読みたくない人は読まないでください。
題名は「君たちはどう生きるか」です。これは吉野源三郎の作品と同じです。
が、中身は違います。海外向けのタイトルは「The Boy and the Heron」。「少年とサギ」です。
映画を観てみると、確かに「少年とサギ」だなあと。
サギは、映画の唯一のポスターとなっているアレです。
そのサギと、主人公の少年「マヒト」との関係が物語の軸になっています。
戦時中、疎開先でマヒトは新しいお母さんのナツコに迎え入れられます。
戦火によって、マヒトのお母さんは亡くなっていました。
実の母親を亡くした喪失感も癒えないうちに、父はもう次の妻を作っていた。
父は軍需産業で儲かっており、車でマヒトの疎開先の学校に乗りつける。
地元の子たちにすれば面白くない。マヒトはすぐ攻撃の的になってしまう。
新しい母との関係も冷えたまま、マヒトは学校の帰り道で、石で自分の頭を打ちつける。
そして嘘をつく。自分はただ転んだのです、と。
自作のケガのために学校に行かないマヒトを誘うものがいた。それがサギです。
お屋敷の前に池があり、その奥には塔が立っていました。
サギはマヒトにしつこくからむ。「お待ちしてますぜ」と、塔に入るように誘い続けます。
マヒトは興味本位で一度塔に入った。でも地元のおばあちゃんたちに封じられていたので奥まで入れなかった。
結果的に塔の奥まで入るきっかけとなったのは、重いつわりとマヒトを傷つけてしまったことを苦しんでいたナツコだった。彼女が行方不明になり、塔に向かっていくところを見たマヒトが助けに行く。
ちなみにこの少し前、マヒトは実のお母さんから贈られた「君たちはどう生きるか」を発見して読むシーンがあります。
塔の内部では、あのサギが待っていた。そしてサギに導かれて、「もう一つの世界」に旅に出る。マヒトだけでなく、最後まで行かせまいと抵抗していたおばあちゃんの一人、キリコさんも巻き込んで。
「もう一つの世界」をなんて言えばいいのか。そこは食料が少なく、海が広がり、人食いインコが増殖しており、「わらわら」たちが成熟して飛ぼうとしている。そんな「わらわら」たちを食べてしまうペリカンたちもいる。「わらわら」たちの旅立ちを助ける「ヒミ」がいる。
後でわかることですが、その「ヒミ」が、亡くなったマヒトのお母さんの若いときです。
マヒトはインコに捕まって危うく食べられそうにもなります。が、ヒミやサギや若かりし頃のキリコの助力をえて、その国を保っている「大叔父様」に会う。
その「大叔父様」は、その国を保つことを「マヒト」に継いで欲しかった。「悪意に染まっていない石」を積み上げることによって。
そこでマヒトが言う。頭についた傷は悪の象徴です。そんな僕にはできません、と。
そのとき、インコの王が、「もう一つの世界」を保っていた石たちを切ってしまう。その世界は崩壊を始める。
脱出の際、「時の回廊」で、ヒミとマヒトは違う扉(時間)から出て別れる。
マヒトが現実に戻るとき、ナツコもサギもキリコもインコたちもペリカンたちも、毒が抜けて出てくる。
と、こんな流れです。
様々なことを思い出します。
サギに名前がないのは、夏目漱石の「猫」の影響だし、自分の中の悪意とどう折り合っていくのかというテーマは、漱石の「こころ」に通じる。なのでサギは「こころ」の使いなのかな、とか。
「わらわら」たちは、成熟したら飛ぶ。この「成熟したら飛ぶ」という言葉自体がとてもよいな! と思っているのですが、飛んだ「わらわら」たちは上の世界で人間になる。途上の「わらわら」たちを食うペリカンたちは、上の世界でやっていけなくなって仕方なく下の世界で「人になる前の人」を食って生きている。「わらわら」たちの世話をしているのは、マヒトとともに「もう一つの世界」に来てしまったキリコの若かりし姿。キリコにも、マヒトと同じ頭の傷があった。
自分だけが悪い、と思って頭につけた傷を、違う人も持っていた。それ自体が大きな発見であり、助けとなるものです。
そんな傷を負った人が「わらわら」を飛ばそうとしている。そのシーンは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が重なってくる。
サギやペリカンやインコと鳥たちが多く、「人間になる前の人間」を描いていたメーテルリンクの「青い鳥」も透けて見えます。
塔は、江戸川乱歩の「幽霊塔」とそっくりだし、「もう一つの世界」に「降りていく」シーンは、ゲーテのファウストの第二幕に似たシーンがあります。
物語の構図は、ジョン・コナリーの「失われたものたちの本」がかなり参照されています。
そしてラストの、「悪に染まってない世界」を拒絶し、崩壊させる場面は、宮崎駿さんの「風の谷のナウシカ」を思い出したし、私にとっては大事な作品の一つとなっているヘルマン・ヘッセの「ガラス玉遊戯」を追体験させるには十分な力を持っていました。
そもそも、「悪に染まっていない世界」とは、頭の中でしか存在せず、その理想を強制する世界は、現実の人間の世界で何度も繰り返されてきたことなのではないでしょうか。「共産主義」もそうでしょうし、「過度の理想の押し付け」によって生じるのは「しつけ」という名の虐待ですし、「愛国主義」が必然的に作り出すのは「敵」でしかありません。かつてのオウム真理教を信じる人たちは、自分たちは迫害されていると信じてもいました。「自分たちの完璧な世界を守るため」あらゆる攻撃が正当化されます。ここには悪がないことになっているので、全ての悪は敵が担う。かつての戦中の日本も、我々は天皇を頂点に持つ神の国であり、鬼畜米英に勝つまでは何も欲しませんと暴力で誓わされた。暴力が正義の代弁者だった。でも、そんなことって、本当にありますか?
どの絵もどのシーンもどのセリフも、背後にある思いや経験やエネルギーの質量が半端なく、高カロリーという印象です。だから噛み砕くのに時間がかかる。
様々なことを思い出させ、頭が沸騰するような鑑賞後。それは、「私がどう生きてきたか」を総点検させるような効果ももたらしたのかもしれません。
自分の中に残っている大事なこと。心から感じ入って「永久保存だ!」と仕舞っていたものたち。それらが一斉に騒ぎ出す。
再び光り始める。
隠れていたかもしれない光源を再発見して、再出発の起点となる。そんな映画。
サギには、古来から様々な意味を託されてきました。
その一つに「再生」があります。
人が成熟すること、成長することは大変なことです。私自身、今、直面しているとも言えます。
本来、人は成長できる備えがあるはずなのですが、様々な阻害にあうことも珍しくありません。
マヒト自身、最初は拒みました。自分に嘘をついて。サギの誘いにも散々抵抗しました。サギを、自前の弓で仕留めようともして。
抵抗は、この映画の中では、強い向かい風や巻きつく紙としても描かれていたと思います。
観た人は、マヒトとサギとともに、「再生」を果たすことができる。
「人を人にする力」が、この映画にはある。
その力は「千と千尋の神隠し」にも十分あったと思いますが、今回はより先鋭化していると言いますか。装飾が削ぎ落とされたという感じです。
観た人それぞれが感じるところがあると思います。
その感じたところを拠り所にして、生きていって欲しい、という宮崎監督の思いも伝わってくるようです。
まだの方、ぜひ。
子供と一緒に観ると、あれはなんだったんだろう、これはどうだったんだろうと話が弾みそうです。
その姿を見て、にこにこしている宮崎監督の顔が思い浮かんできます。