この本が読みたくなったのは、毎日新聞の連載「没後120年・八雲を探して」を読んで。
有名な「雪女」は、今の東京・青梅市の百姓が八雲に語った話で、意外と近いじゃんと思ったり、島根県・松江の海沿いにある自然洞窟に亡くなった子たちが集まっているという話が今でも伝わっていたり。
その連載でも紹介されていましたが、八雲の夫人・節の話にも興味が湧きました。
私が本を見ながら話しますと、「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません」と申します故、自分のものにしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました。 229ページ15行-230ページ3行
八雲は、聞いた話をただそのまま書き写していたのではありませんでした。
換骨奪胎というのでしょうか。どこにでもあるようなちょっと不思議な言い伝えが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を経由することで、類まれな文学作品に仕上がり、今でも本屋で買うことのできる本として生きているわけですから。
じゃあ、何が「そこら辺に転がっている話」とは違うのでしょうか?
私が一番に感じたのは「人間臭さ」です。
例えば「雪女」では、吹雪にさらされた少年が小屋を見つけて一命を取り留めますが、そのとき扉を開けて入ってきたのが「雪女」でした。彼女は言います。「お前はまだ若いから生かしてやろう。そのかわり、私のことを喋ったら、その命はいただくから覚えておけ!」と。どこかヤンキー的な勢いで。
少年は青年になり、肌が雪のように白い女と出会い、結ばれ、子宝に恵まれます。幸せで、口が緩んでしまったのでしょうか。奥さんに向かって言ってしまいます。
「昔、お前のように肌の白い女と会ったことがあってね。あれは本当に酷い吹雪の夜だったよ」
ついうっかり、わかります。心を許している人だから言えたのだということも。死ぬか生きるかのときでしたから、彼にとっても忘れられない思い出です。
「お前、しゃべっちまったね。それは私のことだよ!」
「ひー」(この辺は、私の換骨奪胎です。原文のままではありませんのでご承知ください)
でも、雪女も長年の共同生活で情が移ったのでしょうか。まだ小さな子達を見て、こう言います。
「でもまあ子供もいることだし、命を奪うのは勘弁してやろう」
そう言い残して、雪女は雪が溶けるように消えてしまいました。
大事な約束を忘れるんじゃねえぞ! という強いメッセージを雪女から受け取ります。
それは大きな地震がきたら海から離れるんだ、というような自然災害への警告とも受け取れます。
「耳なし芳一のはなし」も有名ですね。
この話の「ミソ」はどこにあるのでしょうか?
芳一は目が見えません。
だから滅亡した平家の亡霊たちが語りかけたとしても、目の前にいるのは人魂だけだとはわからない。
人魂に導かれ、墓地へ赴き、得意の平家物語を琵琶をかき鳴らしながら熱演。亡霊たちを泣かせまくります。
芳一は、亡霊たちの引っ張り凧になってしまいました。
それに気づいた師匠である坊さんが、芳一の全身にお経を書き、亡霊の誘いをとにかく無視するように諭します。そうしなければ、芳一もまた亡き者にされてしまうから。
ここでもまたうっかりミス。坊さんとその弟子たちは、芳一の耳にだけお経を書き忘れていたことを見逃してしまいました。
その夜、またやってきた亡霊。彼には、芳一の耳しか見えませんでした。仕方ないから、耳を引きちぎって持っていった。
芳一は、ちぎられた耳から血を流し、痛みに耐え、坊さんたちが帰ってくるまで一言も喋らないで待っていた。
発見された芳一は助かりました。その後、亡霊たちからのお誘いもありませんでした。
「耳なし芳一」は、口コミによって全国区となり、引きも切らない人気者となりました。
目が見えないから亡霊だとわからない。その芳一を助けようとして見える人たちがバリアを張ったのに、見落としがあった。
目で見えることだけが全てではなく、耳で聞こえることだけが全てでもない。
平家たちだけではありません。いなくなったはずなのに現れる者たちは、他にも普通に描かれています。
共通しているのは、強い思い。信念。執念。その人をその人たらしめている魂。存在の根源のようなもの。
それがこの世で果たされていないと、次に行けないようです。
逆に、切願を叶えるために、命を差し出す人も描かれています。
生きていたときの我利私欲の妄念によって、死ねずに食人鬼と化した者もいる。
妻が、実は柳の精だったという話もあります。木と、いかに親しんできたかが伝わってきます。
「人間臭さ」とは、「人間性の回復」でもあるのかもしれません。
経済最優先で、効率第一だと、切り落とされるのは人間性。
人間は、本来はもっと豊かだったんだと、豊かな物語に触れるたびに思い出します。
心は、自然の一部だったんだよな。自然は全部つながっていて、割り切れるものではないんだよな、と。
ラフカディオ・ハーン作 平井呈一訳/岩波文庫/1940
有名な「雪女」は、今の東京・青梅市の百姓が八雲に語った話で、意外と近いじゃんと思ったり、島根県・松江の海沿いにある自然洞窟に亡くなった子たちが集まっているという話が今でも伝わっていたり。
その連載でも紹介されていましたが、八雲の夫人・節の話にも興味が湧きました。
私が本を見ながら話しますと、「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません」と申します故、自分のものにしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました。 229ページ15行-230ページ3行
八雲は、聞いた話をただそのまま書き写していたのではありませんでした。
換骨奪胎というのでしょうか。どこにでもあるようなちょっと不思議な言い伝えが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を経由することで、類まれな文学作品に仕上がり、今でも本屋で買うことのできる本として生きているわけですから。
じゃあ、何が「そこら辺に転がっている話」とは違うのでしょうか?
私が一番に感じたのは「人間臭さ」です。
例えば「雪女」では、吹雪にさらされた少年が小屋を見つけて一命を取り留めますが、そのとき扉を開けて入ってきたのが「雪女」でした。彼女は言います。「お前はまだ若いから生かしてやろう。そのかわり、私のことを喋ったら、その命はいただくから覚えておけ!」と。どこかヤンキー的な勢いで。
少年は青年になり、肌が雪のように白い女と出会い、結ばれ、子宝に恵まれます。幸せで、口が緩んでしまったのでしょうか。奥さんに向かって言ってしまいます。
「昔、お前のように肌の白い女と会ったことがあってね。あれは本当に酷い吹雪の夜だったよ」
ついうっかり、わかります。心を許している人だから言えたのだということも。死ぬか生きるかのときでしたから、彼にとっても忘れられない思い出です。
「お前、しゃべっちまったね。それは私のことだよ!」
「ひー」(この辺は、私の換骨奪胎です。原文のままではありませんのでご承知ください)
でも、雪女も長年の共同生活で情が移ったのでしょうか。まだ小さな子達を見て、こう言います。
「でもまあ子供もいることだし、命を奪うのは勘弁してやろう」
そう言い残して、雪女は雪が溶けるように消えてしまいました。
大事な約束を忘れるんじゃねえぞ! という強いメッセージを雪女から受け取ります。
それは大きな地震がきたら海から離れるんだ、というような自然災害への警告とも受け取れます。
「耳なし芳一のはなし」も有名ですね。
この話の「ミソ」はどこにあるのでしょうか?
芳一は目が見えません。
だから滅亡した平家の亡霊たちが語りかけたとしても、目の前にいるのは人魂だけだとはわからない。
人魂に導かれ、墓地へ赴き、得意の平家物語を琵琶をかき鳴らしながら熱演。亡霊たちを泣かせまくります。
芳一は、亡霊たちの引っ張り凧になってしまいました。
それに気づいた師匠である坊さんが、芳一の全身にお経を書き、亡霊の誘いをとにかく無視するように諭します。そうしなければ、芳一もまた亡き者にされてしまうから。
ここでもまたうっかりミス。坊さんとその弟子たちは、芳一の耳にだけお経を書き忘れていたことを見逃してしまいました。
その夜、またやってきた亡霊。彼には、芳一の耳しか見えませんでした。仕方ないから、耳を引きちぎって持っていった。
芳一は、ちぎられた耳から血を流し、痛みに耐え、坊さんたちが帰ってくるまで一言も喋らないで待っていた。
発見された芳一は助かりました。その後、亡霊たちからのお誘いもありませんでした。
「耳なし芳一」は、口コミによって全国区となり、引きも切らない人気者となりました。
目が見えないから亡霊だとわからない。その芳一を助けようとして見える人たちがバリアを張ったのに、見落としがあった。
目で見えることだけが全てではなく、耳で聞こえることだけが全てでもない。
平家たちだけではありません。いなくなったはずなのに現れる者たちは、他にも普通に描かれています。
共通しているのは、強い思い。信念。執念。その人をその人たらしめている魂。存在の根源のようなもの。
それがこの世で果たされていないと、次に行けないようです。
逆に、切願を叶えるために、命を差し出す人も描かれています。
生きていたときの我利私欲の妄念によって、死ねずに食人鬼と化した者もいる。
妻が、実は柳の精だったという話もあります。木と、いかに親しんできたかが伝わってきます。
「人間臭さ」とは、「人間性の回復」でもあるのかもしれません。
経済最優先で、効率第一だと、切り落とされるのは人間性。
人間は、本来はもっと豊かだったんだと、豊かな物語に触れるたびに思い出します。
心は、自然の一部だったんだよな。自然は全部つながっていて、割り切れるものではないんだよな、と。
ラフカディオ・ハーン作 平井呈一訳/岩波文庫/1940
これは私にとって初めて?のお話です。
でも、似たようなお話を聞いた事(読んだ事)がある様に思いました。
「遠野物語」でしょうか、はっきりは分かりませんが。間違っているかも・・・
お蔭様で楽しませていただきました。
私の母方の祖父が、岩手の水沢出身で、遺品としてあった遠野物語を受け継いでいます。
久々に本棚から引っ張り出しました。まためくってみようと思います。