泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

共同執筆者

2024-09-28 13:55:20 | フォトエッセイ
 先日、忘れ難い夢を見ました。
 私は少し賑やかな出版社らしきホールにいて、そこの人から紹介されたのでした。
「共同執筆者のヘルマン・ヘッセさんです」と。
 ああ、ついにヘッセに会えたのだという喜びで、私はうれし涙が止まらなかった。
 ただ会えたのではなく、「共同執筆者」として。
 しかも、ヘッセは後ろ姿しか見せてくれませんでした。
 髪の薄くなったご年配の男性で、意外と小柄でした。
 それが何を意味するのか?
 ヘッセ最後の小説「ガラス玉遊戯」を読了したのが2011年の8月17日でした。それから先、私はランナーとなり、小説家見習いとなりました。あれから13年経ったことになります。ヘッセ最後の小説を読んだからには「私が書かなければ」と思ったことを覚えています。
 さかのぼれば仙台の学生時代。私はいつどこでヘッセと出会ったのか覚えていません。が、一人で不安で寂しいとき、枕元にはヘッセの詩集を置いて横になったことを覚えています。
 いつの間にか、ヘッセは私と共生していた。私の大事なときにはヘッセがいつもそばにいてくれた。そんな魂の友情とでも言うべきでしょうか、ああそうかヘッセがいたと、改めて認識を深めた夢でした。
 それは私の創作物が一通り書けた後の夢でもありました。ヘッセが後ろ姿だったのは「やっと追いついたか」というメッセージなのでしょうか。「さっさと追い抜けよ」と言ってもいるのでしょうか。
 創作物というものは、このように本当に心の奥深くで、その人の生き様の伴走者となりうる。私にとって、それは言葉であり詩であり小説だったわけですが、人によって心の奥深くまで入るものに違いはあるでしょう。どれ一つとして同じ心はないのですから。
 書き抜くことによって自分のより大事なものが見えてくる、ということもあったのかもしれません。
 そのように、読んだ人の支えに少しでもなれたらうれしいなあと思います。
 今は、文章の精度を上げているところです。構成はもうほとんど変えられないだろうけど、もっと具体的に文章を開けるところを開いているという感じです。
 そして来週あたりから、協力者に原稿を託していきます。いよいよ他者の目も入ってきます。私はもうまな板の上の鯉。「来い!」という開き直りしかありません。
 でも絶対に必要なことです。提出までまだ半年あります。十分に他者の感想や意見やご指摘を受け止めて、さらに改良したいと思います。
「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、その言い伝えはまだ生きているようです。こちらも23日からは冷房なしで眠れるようになりました。「暑くない」それだけでホッとしてストレスが減ります。それだけ夏の厳しさは増してしまいました。
 今日は朝から20キロ走りました。涼しくなったのでまずは20キロ。神戸マラソンは11月17日。気づけばもう二ヶ月を切っています。しっかりと準備を。
 近くの公園で彼岸花が咲いていました。
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もう一年

2024-03-13 20:46:21 | フォトエッセイ
 この写真は、2022年11月7日、宮城県気仙沼市の大島にある亀山山頂から撮ったものです。
 今年も3.11が来ました。もう13年になりますが、あの日は昨日のことのようです。
 その日を意識し始めると、変に肩に力が入って、鼓動も早くなる。落ち着かなくなって、書きたくなります。
 様々なことを思い出します。
 現地に行って撮った写真も見返していました。
 この写真の左手前の砂浜は田中浜、その上は小田の浜、田中浜の右側にある湾が浦の浜です。
 田中浜から上陸した津波は、坂を乗り越え、浦の浜からの津波と合流したそうです。
 浦の浜近くで料理屋を営んでいた私のおじさんは、間一髪で津波から逃げることができました。
 お店の片付けをしていたと言います。
 山に逃げていた人に声をかけられて、助かりました。
 しかし、災難はそれだけに止まりませんでした。
 気仙沼湾が燃え、亀山にも火がついてしまいました。
 写真で言うと、手前から奥へ、火は移動していきました。
 田中浜と浦の浜をつなぐ道、ここを越えさせてはならんと、住民は総出で火消しに追われました。
 協力のかいあって、火は消し止められました。
 多くの木々(特に松)は、無惨にも燃えてしまいましたが。
 写真を撮った時点で、それから11年経っていますので、火事の傷跡はだいぶ目立たなくなってはいます。

 13年前、私はまだ走っていませんでした。
 あの大震災が、私に「走るスイッチ」を押したとしか思えません。
 あるいは、走り始めたのはその年のお盆すぎからなので、走りたくても走れなかった誰かが、私に入ったのかも、と、半ば本気で思ったりもしています。
 走ることによって、東北の各地だけでなく、熊本や高知にも行けた。
 私と共にしている誰かと、見たかった景色を見に行くようになった。
 そして書くことで、語ることで、まだ見ぬ誰かにも伝えていくことができます。
 大袈裟ではなくて、3.11によって、私は生まれ変わりました。
 だから私にとって、3.11は特別な日であり続けます。
 心理的誕生日と言えばいいでしょうか。ランナーとしての誕生日でもあります。もしかしたら小説家としての誕生日かもしれません。
 でも、めでたくはない。22,222人、亡くなっているのですから。
 福島では、ふるさとを奪われたままの人たちも数多くいらっしゃいます。
 この現実があまりにも重くて、私は進化せざるを得なかった、と言うのが正直なところかもしれません。
 走ること、書くことで、やっとその重さに耐えられるようになった、と。

 2011.3.11が、私にとって特別であり続けるように、他の人にとっては3.11だけじゃなく、他の日が特別な日であり続けます。
 能登地震、熊本地震、阪神淡路大震災。自然災害だけではありません、大空襲、軍事侵攻、交通事故、テロ。戦地では今でもミサイルによって人々は爆死させられています。その家族、親友たちの気持ち。その日はずっと悪夢になるでしょう。
 動物と人とで、何が違うのでしょうか?
 想像力なのではないでしょうか。
 人の痛みを人は我が事として感じることができます。その力が強ければ強いほど、人は人を殺せなくなるのではないでしょうか。
 私だったらどうなのか?
 想像力があるからこそ、人は人を思うことができ、お互いが生きやすいように協力して交渉して妥協することもできます。
 失われているものがあるとすれば想像力だけなのではないでしょうか。

 


 この碑は、亀山山頂に行く山道の脇にあります。
 水上不二は、1904年、大島に生まれました。詩人で童話作家でした。
 小学校の先生を務めていました。東京の小金井市で暮らしており、1965年に亡くなっています。
 その12年後、1977年に、私は小金井市で生まれました。両親は気仙沼出身で、父は大島出身です。
 たまたまですが、自然が豊かなところを両親と水上さんも選んだのかもしれません。
 小金井市は緑が多く、特に小金井公園は、今でも私のお気に入りです。
 水上さんは気仙沼と小金井でいくつか校歌を作詞しています。
 詩人のまど・みちおさんと友達だったそうです。
 たまにこの写真も見返すのです。私の机の前の壁に貼ってあります。
「海はいのちのみなもと 波はいのちのかがやき 大島よ 永遠(とこしえ)に緑の真珠であれ」
 海という「いのち」との付き合い方も、人は忘れてしまっていたのでしょうか。
 いや、忘れていたというより、知らなかった。
 人は、人を愛することさえも、学ばなければできない生き物ですから。
 だから伝え続けていくことが大事なのでしょう。
 謙虚に学ぶ気持ちも忘れないで。



 これは大島の南端にある龍舞崎で撮ったもの。
 冒頭の写真で言うと、左上の一番奥にあります。
 険しい崖で、打ち寄せる波が砕け、龍が舞うように見えることから。
 龍舞崎には灯台もあります。
 父の父は船頭でした。
 船頭は船乗りで、船長で、漁師でもあり、乗組員の世話係でもあり、魚を売る商人でもあり、気象予報士的な知識も必要とされました。
 この龍舞崎を見るたびに、ほっとしたのかな、何度見たのかなと想像します。
 その祖父は、戦地に船で荷物を運ばされました。民間の補給船をやらされた。寄港中、戦闘機に撃たれ、海に沈みました。
 骨は帰ってきていません。薄っぺらな紙だけが、お骨を納める箱に入っています。父の兄に見せてもらったことがあります。
 どんなに無念だったか。
 陸に上がっていた乗組員が帰国して、祖父の最期を伝えてくれたそうです。

 今、生きている私たちにできることは何でしょう?
 ここから、もう一年、始まります。
 一年終われば、もう一年。
 そしてまたもう一年。
 一年一年、振り返って、また始める。
 一年一年を積み重ねていく。
 私の暮らす東京や埼玉では、ずいぶん3.11への関心は薄れてきていると感じます。
 今、大地震が東京に起きたらどうなるだろう?
 私が、今まさに津波に飲まれそうになっていたら、何を思うだろう?

「津波だって来たくなかった」
 そうつぶやいた友人の息子さんの言葉を思い出します。
 地面が大規模に陥没し、海は仕方なく凹み、そして盛り上がって津波となり、陸に上がった。
 自分たちが陸に上がれば、多くの人たちを飲み込んでしまう。それは私たちも本望ではない。
 そんな津波の気持ちになった子供の想像。全く私にはなかった視点でした。
 海が悪いわけではありません。
 海は、多くの恵みを人々にもたらしてきました。
 海もいのちですから、人のいのちを奪うことには抵抗があったのでしょう。
 悪は、人間にしかありません。
 その悪と闘えるのも人間しかいません。

 私が今、津波に飲まれそうだったら何を思うか?
 大切な人たちに、何を願うか?
 ずっとやりたかったことを、やって、やって、やり遂げて!
 私の中に浮かんだ言葉はそれでした。
「ずっとやりたかったことをやれる」ということは「自分が自分を生きる」と言い換えることもできます。
 じゃあ、自分とは何か? 私とは何か?
 この問いへの答えが分厚いほど、その人は「その人度」が高いと言えます。
「その人度」が高いほど、「幸福度」も比例して高くなるのではないでしょうか。

 私が私になっていくこと。
 それは当たり前で、とても簡単なことに思えますが、私にはとっても難しかった。
 この道に完成はありません。
 ただ行こうと思います。
 このいのち尽きるまで。
 
 
 
 
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変化は痛みを伴う

2024-02-06 14:04:47 | フォトエッセイ
 昨日は関東も大雪でした。
 仕事で、帰りの電車は少しずつしか進みません。通常の2倍はかかったでしょうか。
 今日は、もうずいぶん雪も溶けています。車を出すのも問題はなさそうです。
 写真は先日の晴れの日のものです。

 年末年始の書店は大忙しでした。
 それだけお客さんが来てくれたので良かった。
 とは言え、疲れます。
 冬休みが終わってひと段落したころ、やっと温泉だ! と喜んでいつものところに行きました。
 温泉と岩盤浴と。美味しいものもいただいて、ゆっくりと心身を温めてほぐして伸ばして。
 はあー疲れとれたー。でも次の日、右ふくらはぎが痛いのです。
 それは秋からの古傷でした。
 11月5日の東北・みやぎ復興マラソン。その前の練習から右ふくらはぎを痛めており、レース当日、20キロ手前の陸橋を登っているとき、「ブチッ」と言いました。
 あの恐ろしい音は今でも耳に残っています。
 それから右ふくらはぎには力が入らなくなっていました。
 歩き歩き、いちおう「完走」はできたわけですが、負傷箇所の痛みは相当なものでした。
 ホテル近くで湿布を買って貼りまくる。
 そして温泉に入って温めて、揉んで、ストレッチで伸ばす。
 12月も累計で100キロ走っていました。痛みは引いてはいなかったのですが、軽く、無理のない範囲で。
 で、お楽しみの温泉の後、走れないほどの痛みが再発しました。
 さすがにこれはおかしい、と思い、ネットで調べました。
 そしてやっとわかったのでした。
 その痛みは「肉離れ」であるということが。


 


 温泉・岩盤浴に行けば、今までの疲れや痛みは治っていました。
 しかし、「肉離れ」には有効じゃなかった。
 ネットの先人いわく「患部を冷やし、固定して安静にすること」。
「温めると傷口から流れる血が増え、固まってしこりとなり長期化するリスクが高まる」
 さらに「ストレッチは傷口を広げることになり逆効果」。
「ブチッ」と言ってから、かれこれ2カ月以上も「肉離れ」であると認識できず、症状にとって「逆効果」である対処法をしていたのでした。
 足だけでなく、胸も痛かった。冷やして欲しかったのに温めてしまって。
 静かに固定していて欲しかったのに、しつこく伸ばしてしまって。
 すまん。
 それからはすぐに湿布とサポーターを買い、使用しました。
 そして丸2週間走らなかった。
 2週間走らないって、走り始めてからなかなかない。最近では記憶にないくらい。
 今までとは違う方法をしないと、右ふくらはぎの痛みは取れなかった。
 痛みが、私に変化することを求めていました。




 痛みが引き、ランニング用のサポーターをつけて、おそるおそる走り始めました。
 ゆっくりゆっくりと。
 幸いなことに、今のところ再発はしていません。
 再スタートできて、そのランニング中に出会ったのが、ここに載せた花々です(蝋梅、水仙、白梅)。
 今月の18日には初参加となる「高知龍馬マラソン」が待っています。
 先日の3日には、32キロ走ることもできました。油断は禁物ですが、完走できる自信は持つことができました。

 変化と言えば、もう一つ。
 年始でしたか、通勤電車はがらがらでした。
 で、ふと思ったのです。ここでも原稿は書けるのではないか、と。
 ノートパソコンですから、混雑してない車内なら、本を読むだけでなく書くこともできそうだ、と。
 すぐ試すと、書けました!
 出勤前の朝は、一番体調も良いところ。集中力もあって、本屋で働き始めてからずっと(もう23年になります)続けてきたこと。
 その習慣を変えるというのは、なかなか思いつかなかった。
 冬休みが終わり、学生たちが戻ってくると、車内も混雑してきてノートパソコンを開くのも気が引けてくる。
 ならば、一番後ろに行けばいい。
 今までは、一番前の車両に乗っていました。降りる駅は終点で、改札は一番前にあるから。
 そんなことは多くの人が考えている。だから乗っている人も多い。
 案の定、一番後ろの車両は、同じ電車とは思えないほどがらがら。気兼ねなく書けるだけでなく、歩く距離も増えるという一石二鳥なのでした。
 今では一番後ろまで歩き、書き、一番後ろから歩いて前の人たちをどんどん抜いていく。それでも十分に次の電車には間に合っています。
 そうさせたのは、「もっと書きたい」という欲求でしょうか。
「家でないと書けない」という思い込みもありました。それを打ち破ったのは、昨年の熊本城マラソン。
 長い新幹線タイムで「書けるのではないか」という予感があり、実際に書けました。その経験が、通勤時間や仕事の休憩時間にまで及んだということでしょうか。
 家にいるとどうしても休みます。その中で小説を書く時間を作るのはなかなか大変です。
 休むことも必要なのに、休んだだけで書けないと、次の書店勤務の日、なんかもやっとしてしまう。
 朝の集中できる車内の時間は20分くらいでしょうか。休憩時間中も、せいぜい10分。
 でも、5日✖️30分=150分=2時間30分です。
 大事な2時間30分。集中できる2時間30分。
 この1カ月、朝電車で書くことはできた。これからも続けたいと思います。
 読むことは、帰りの電車でもいいし、ちょっとしたバスや待ち時間でもできます。
 ただ、23年間読む時間があったからこそ書く時間へ移ったことは確かでしょう。「十分読んだ」自信がなければ書けない。慎重な私はそう思ってもいました。
 
 書く背後には、無数の読みの支えがあってこそやっと成り立ちます。
 今年も、大学の先生から、一番最後に年賀状が来ました。
 大学卒業してから23年。先生に賀状を出したくて続けてきました。そして必ず、遅れて、友人知人たちの後、一番最後にやってくる。まさにラスボスという風格で。
 最初の10年くらいでしょうか、いつも先生は書かれていました。
「賀状ありがとうございます。お元気そうで何よりです。一歩一歩、着実に進んでください」
 焦って不安に駆られて、あるいは夢が先立ってしまって、宙吊りになってしまった私を知っている先生だからこその助言。
 一歩一歩、着実に。それは私のモットーになりました。走るときも読むときも書くときも、いつも先生の言葉は私の中にあります。
 最近は「お元気そうで何よりです。より一層の御活躍を祈ります」から「お元気で御活躍の様子何よりです。御健勝を祈ります」へ微妙に変化。
 そして今年。「お元気で御活躍の様子何よりです。御健勝と御健筆を祈ります」
「御健筆」……。
 今まで、あえてでしょうか、「書くこと」には触れてこなかった先生。
 その先生が「御健筆を祈る」だなんて。
 泣けてきます。
 やっぱり先生は、ずっと見守ってくれている。そう思えます。
 たった一枚の年賀状でも、私の現状を鋭く読み解いておられる。
 私の拙い文章を、作品とも言えない落書きを、最初に見てくれたのも先生でした。
 がんばろう。がんばれます。
 私は、私にできる最大限の仕事をしていく。それが、お世話になった方々への恩返しになるから。
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小さな幸せ

2023-12-23 18:00:36 | フォトエッセイ
 先週の土曜日、朝7時半くらいでしょうか、起きると世界が回っていました。
 左から右へ、エンドレス。
 何とかトイレは済ませましたが、立っていられません。
 気持ち悪くもなり、また横になる。
 気持ち悪さがすぎると、冷や汗が。
 それもすぎて落ち着くと、無性に眠くなって眠る。
 それを5回くらい繰り返したのでしょうか。
 やっと起きて歩けるようになったのは13時を過ぎていました。
 お腹は減っているのですが、ほとんど食べられず(トマトとりんごは食べられました)、14時過ぎに病院へ。
 めまいでした。
 月曜の午前に耳鼻科にも行き、いくつか検査してもらいました。
 結果、「良性発作性頭位めまい症」とのこと。
 耳にある「耳石」というカルシウムの小さな粒が剥がれ落ち、三半規管に迷い込むことで生じます。
 原因はよくわかっていませんが、年のせいとも、ストレスのせいとも。
 めまいを抑える薬を飲むだけで再発はしていません。今は元気です。
 思えば、先週は6日連続で予定が入っていました。
 さらにこの時期の書店は、通常の2倍以上の回転率。おまけに、熱を出して欠勤した仲間がいたりもしました。
 4連勤で次の日は朝から父の手術に付き添い。まぶたが下がって見えずらいので、切って上げてもらうというものでした。術後の経過は良好です。
 その後も遅番があり、やっと休みだという朝、めまい。きつかったのだろうと思う。
 連勤もきついですが、通常のシフトではないことも強いストレスになっていました。



 右ふくらはぎの怪我はもうほとんど治ったと言っていいでしょう。
 こちらの原因は、新しいランニングシューズが足にぴったり装着されていなかったから。
 初めてのカーボンシューズで、クッションもアッパーも固い。そして滑りやすいのでした。
 解決策は、意外と簡単でしたが、見つけるまでに2ヶ月はかかったのでしょうか。足まで痛めて。
 それは、通常は通さない一番上の穴にまで靴紐を通す、ということでした。
 一番上でしばると、足首が痛くなることが多いのですが、新しいランニングシューズ(アシックスのマジックスピード3です)では、あくまでも私の場合ですが、必須でした。
 それで走ってやっと「あっ、これ!」という感じ。
 やっと靴と足が正しく結ばれて、靴の潜在能力が目覚めました。
 ポテンシャルが高いほど弊害も大きいのかもしれません。ただ、正しく身につければその力はいかんなく発揮されます。
 プロ野球の「現役ドラフト」みたいなものでしょうか。その球団では芽が出なくても、必要とされる新しい球団では能力が開花することも多い。
 この経験を活かして、ミスマッチの芽というものは早く摘めるようになりたいものです。




 で、今日、9日振りに走れました。クリスマスだからじゃないけど25キロほど。
 気温は8度ほど。風はなくお日様も出ていたので「やっとランニングシーズンが来た!」という感じで気持ちよく、ゆったりと長く走れました。
 雪国の方たちには申し訳ないほど。雪かきだけでも大変なことです。
 私のしたいことができるのは本当に幸せだなとしみじみしました。
 走り終えて、デザートに昨日買ったクリスマスケーキを食べ(明日から3連勤なので)、コーヒーをすすりながら。
 古びたラジオからは、雑音も入りながらベートーヴェンの「第九」が。
 めまいも経験し、書店の多忙もあればこそ。
 私のしたいことが私の道になる。それもまたますます感じることです。
 次の小説の主人公というものも、先日ふと現れました(頭の中に)。
 支えてくれる、応援してくれる、ともに生きている、今年出会った人たちのことを思います。
 今度の休日には年賀状を書きます。もうそんな時期なのですね。
 冒頭の写真は「南天」です。難を転ずる縁起物。その花言葉は「私の愛は増すばかり」。
 創作は愛です。本当に。
 小さな幸せを創作で増やす手伝いができる。そう信じています。
 ミスマッチが大きくなればなるほど、その人の不幸も大きくなります。
 人と人の間に生まれたミスマッチなら、紛争にもなる。
 人は幸せになりたいもの。でなければ、どうして怒るのでしょう、恨むのでしょう、嘆くのでしょう、復讐するのでしょう、固執するのでしょう、自責するのでしょう、やる気を失うのでしょう。
 小説が万能ではありません。私が万能ではないように。
 ただ、私にできることをしたいから。私にできることを最大にしていきたいから。
 そして、それぞれの人が、持った能力を最大に発揮できたなら、この世界はもっとマシになると思うから。
 2度目の荒浜に行って、私も更新されました。小説も、一から見直して細部の書き換えが始まっています。
 どうかみなさまお元気で。
 よいお年を。
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夏の思い出

2023-08-30 18:48:21 | フォトエッセイ
 今、これを書いている机から、顔を上げればスーパームーン(今年一番大きく見える月)が、窓の外に見えています。見るたびに、少しずつ、右上に移っています。
 今年の夏、暑かった。都心での猛暑日は22回を数え、最多記録を更新中。
 それでも今月は83キロ走った。これは朝ランができるようになったことが大きいです。
 7時前くらいに出ても、気温27度、湿度90%だったりもしますが。
 今日は風が涼しく感じられました。ほんの少しだけかもしれないけど、確かに秋は近づいている。
 私は冬生まれ、東北人ということもあり、暑いのは苦手です。7月から8月は、ほんと魔のときと言ってもいいくらい。
 今年の東北に北海道も暑かった。まだまだ続いていますが、心身ともに堪えている人たち多いのではないでしょうか。
 私は都会の夏が本当に嫌いだった。
 私にとっての都会は、新宿や池袋になりますが、コンクリートジャングルの照り返しに冷房の排熱、車の排気ガス、それに満員電車。「オラこんな村イヤだ!」みたいな感じで、大学は仙台に決めました。でも、涼しいはずの仙台も過酷な暑さに見舞われるようになってしまいました。
 思い出すのは18歳の夏。池袋の予備校に通う浪人時代。
 やっぱりこの机を前にして、コンビニかどっかで買った小さなノートに日記をつけ始めたときのこと。
「君たちはどう生きるか」を読んだからか(コペル君も書き始めるようになります)、やたらとあのときの気持ちを新たに味わっています。
 夏は、私にとってピンチなのです。実際、うつ病を患って危なかったときもありました。
 それは22歳の夏。しっかり座ることすらできなかったけれど、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」と、河合隼雄の「大人になることのむずかしさ」を読んで救われたこともありました。
 東日本大震災のあった2011年、34歳の夏には「走ること」が始まった。
 2006年、29歳の夏、このブログが始まった。
 必要は発明の母と言います。
 何かが始まって、それが続いているのなら、それはその人の生存にとって必要なこと。
「生存」よりもっと深い次元からの要求かもしれません。
 言葉でうまく掬うことは難しい。でも、私にとって必要な「それ」が、適切で配慮に満ちた言葉で掬われて保存されていたらありがたい。
 自分もまた一つの海なのかもしれない、と思うようになりました。
 豊かな生き物が住み、美味しい食べ物もたくさんある。
 だけど、海底火山が噴火するときもあれば、巨大津波もまた発生する。
 暑すぎれば台風が発生して、底の冷たい海水を引き上げようともする。
 凪のときもある。潮の満ち引きもある。
 海の豊かさは、山の豊かさによって育まれてもいます。
 山からの栄養が豊富なほど、私の大好きな牡蠣も大きく育ってくれます。
 私にとって、山の栄養とは、やっぱり本なのでしょう。
 栄養を補給しつつ、自分という海を、まず知らなくてはなりませんでした。知らなければ、溺れもするし、流されもする。
 やっと、この海で、陸にあげるだけの価値あるものが見えるようになったということでしょうか。
 今、書いている小説は、2021年の夏に着想したもの。
 書く前に自分の中で温めて、一年以上も書かずに発酵させて。
 前半のクライマックスまで来ました。
 その場面というのも、夏のある一日です。
 主人公にとっては忘れがたい一日。
 その場面と、私の夏たちが共鳴して、しばらく前に進むことができませんでした。
 そして思うのは、私にしか、主人公のその後を追うことはできないのだということ。
 いつまでもこのままでいさせてほしい、と願うときもあります。でも、そのときにも終わりはある。
 その物語を終わりまで書けるのも私しかいません。
 そんな、今まで感じたことなかったような責任感を覚えています。
 暑すぎて、力が出ない。出せない。それもあった。
 生きてあるだけで精一杯。そんなときもあります。
 ただ、もう、その物語を書き始めています。
 書きたい、書き抜きたい、と切望する自分がいてこそ物語も進んでいく。
 最後には、この書く自分を信じるしかありません。
 書き進むその文を、大事に見つめ続けることしかできません。
 そのことで、「これは違う」という文に気づくことができるようにはなりました。
 一つ一つ、乗り越えていくしかないんだなと、改めて思います。
 ときには波に乗って、ときには荒波に抗って。
 そしてときには「グチ」を吐かせてください。
 どんなに強く、自立し、どこまでも走れるようになったように見えても、弱い自分もまた、いつまでも自分の中に住んでいますから。
「評価」に縛られない居場所が、人には必要ですから。

 
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写真は今しか撮れない

2023-07-08 14:37:12 | フォトエッセイ
 当たり前のことなのですが、「写真は今しか撮れない」のでした。
 今日、ふと思って、書いておきたくなりました。

 しばしば書いてきましたが、このブログが始まったのは、私のカウンセリングが終わるとき。
 カウンセラーを相手に充分に語り尽くして、表現の場を自分で作りたくて。
 そして、ブログとともに始まっていたのも写真でした。
 今はスマホで撮っていますが、かつてはデジカメ。初めてカメラを買って、撮りまくった。
 被写体は花が多かった。
 どうしてでしょう?
 これもカウンセリングが終わるとき、道端に咲いている花に気づいたのでした。
 今でも鮮明に覚えています。
 目白のカウンセリングセンターからおとめ山公園の脇を通り抜け、右手にあったマンションの生垣。
 鮮烈な赤だったので、おそらく椿だったのでしょう。
 その花を撮りたい! と強く感じたのでした。

 過去に縛られなくなった。足を引っ張られなくなった。
 未来が怖くなくなった。蓋が外れた。
 過去と未来に挟まれて身動きできなかった。
 そこに風穴を開けることができたのは、薬ではなく、人間を相手に語り尽くすことだった。
 語って語って語って、今が広がっていった。
 そしてやっと見えた。あの花が。

 自分の人生を切り開くには、どうしたって語ることが必要です。
 語ることによってしか、自分の人生は紡げないのではないかと思います。
 人にはその物語を紡ぐ力が備わっている。
 のですが、充分に語る機会に恵まれないと、充分に発達することもできません。
 そこで「小説」が役に立つわけですが、そこかしこに「陰謀論」も待ち伏せしています。
「陰謀論」って、遠い世界の話だと思っていましたが、そんなことはありませんでした。
 インターネットの広がりによって、とても身近なものになったように感じます。
 物語の力は、常に陰謀論と闘っていると言っても過言ではないかもしれません。

 何かうまくいかないことが重なったとき、「呪われている!」と思ったことはありませんか?
 あるいは教室や社内で、「あいつのせいだ!」と決めつけたり。
 それらは「陰謀論」の発端かもしれません。
 不特定多数の人たちが共有し始め、ほんの発端だったものが誠にそれらしく膨張し形を整えていくと、さらに大きな力を持つようになる。
「陰謀論」が恐ろしいのは、人々を動かす力をも持ってしまうこと。
 それらは「陰謀論セット」のようになってしまい、どっぷり浸かってしまった人を「素に戻す」のは大変な労力を要すると想像します。
 内面を鍵で閉められてしまったかのように。その鍵とは、「陰謀論という物語」。
 そう、陰謀論にも物語の力は働いています。
 優れた小説と違うのは、同じ物語であっても向こうは悪役ということでしょうか。
 あるいは、個人の自由を尊重しているかしていないかの違い。
 陰謀論は悪の存在が前提であり、悪をあぶりだすために必要とされるとも言えます。
 だからそこに処罰や粛清や殺しはつきものだし、人々を分断させずにはいられません。
「正義」の振りをして誹謗中傷、というのも、知らず知らずに陰謀論に絡め取られてしまっています。
 その人たちの言説は、もはや「大きな物語」という肥大化した陰謀論の中にしか留まらず、陰謀論自体を拡大させることはできますが、その人の人生を生きることからは益々遠くなってしまいます。自分の人生から遠のけば、自然と不安は強くなる。そしてもっと強い陰謀論に縋ることになってしまいます。

 この尊い一回だけの人生を、納得して生き切るために、花と写真が助けてくれています。
 多くの花たちは、年に一回しか咲きません。
 その一瞬のために、一年間準備しています。
 その長い助走期間を思うと、花々の美しさと可愛らしさは何十倍にも増します。
 だから私は花々に引きつけられる。
 そして撮らずにはいられない。
 写真は、私の中に記憶されていきます。
 そしていつか物語を支える基礎となってくれる。
 目に見えない大切なものを、私の中の目に見えない大切な場所に写すように。

 今日も、蓮が見たいがために早起きして走りに出たようなものです。
 蓮は、やっぱりありがたく、美しかった。
 美しいからこそ、撮りたくなる。
 その命を大事にしたいと感じる。
 美しさ、可愛さもまた、共存の鍵でもありました。
 私は、花々の美しさ、可愛さを通して、私の中に共存できる場所を増やしていったのかもしれません。
 そしてその共存できる場所は、物語のための舞台になってくれます。
 そのように私は私を作ってきたのかもしれません。
 混沌の世界に、一つずつ秩序を生み出して。
 綿や繭から糸を紡ぐように。
 その貴重な糸を編み込む作業が、私にとっては書くことでした。
 紡いでは書き、紡いでは書き。そのように途方もなく繰り返して、編み込んで編み込んで、やっと私は私になっていきます。
 小説ができていきます。一枚ずつ。
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「本」ではなく

2023-06-21 16:37:16 | フォトエッセイ
 この前の日曜日、働いている本屋でこんなことがありました。
 カウンター内のパソコンで作業をしていると、小学校低学年くらいの男の子が、ご両親に見守られながらおずおずと近づいてきました。
「お問い合わせですか?」
「『おばけずかん』を探しています」
 パソコンで確認してご案内。
「この本で大丈夫?」
 男の子はかすかにうなずきました。
「ごゆっくりご覧ください」
 ここまではよくある接客です。が、続きがありました。
 引き続きカウンターで仕事していると、さっきの男の子が本を持ってやってきた。
 何かと思って顔を近づけると、
「見つかりました! ありがとうございました」
「いやいや、こちらこそありがとう」
 そんな言葉を返して、その後1分くらい、にやにやが止まらなかった。
 うれしかったから。
 お客さんが探している本がどんな本であれ、出会う手伝いができたときは純粋にうれしい。
 で、思った。
 私は、本屋として、お客さんが探し求める本と出会う場を作り、保ち、お問い合わせに100%回答をしようと努めてきた。
 でも、本って、要するに「言葉と絵」だ。「言葉と絵」が、木から出来た紙に載ってまとまっている。
「言葉と絵」の配分や配置によって、小説だったり詩だったり絵本だったり漫画だったり図鑑だったり参考書だったりに変わるだけのこと。
「木で支えられた言葉と絵」を売ってきたのだ、と、その男の子とのやりとりを反芻する中で開けてきました。
「本」の因数分解が起きた、と言えばいいのでしょうか。
 大学在学中から「物書き志望」で、「食い扶持」として本屋を選び、必要に迫られてカウンセリングの体験学習も経験してきました。
 本屋とカウンセリングと創作と。その三つは、最初ばらばらだった。ばらばらであることで、それぞれを守ってきたとも言えます。
 でも、そのうち、カウンセリングの仲間や先生が本屋に来たり、創作物を本屋に置いてもらったり、仲間に読んでもらったり、本屋の仕事で作家さんと会う機会があったり、出版社の人たちと信頼関係を育んだり、また出版社の人に原稿を見てもらったり、また今回のように、本屋でお客さんとの出会いがあったり。
 要するに、私は絵は描けないけど、主に言葉を提供してきたのだ。言葉を売ってきたのだ。人が、必要とする言葉と出会う手伝いをしてきたのだ。
 ならば、書くことも、カウンセリングすることも、本屋で働くことも、すべてつながっている。つながっていた。
 カウンセリングでやっていたことも、ひたすらよき聴き手となることであって、語り手の中に埋もれている主人公の物語を語り手が十分に語り味わい尽くすことができるようにそこにいることでした。
 木が好きで、森林の中を走ることが何より好きな私にとって、木で出来た本に囲まれる環境というのは、落ち着かなければ嘘でした。森林の中の一本の木に登り、高いところでくつろぎながら、言葉で出来た果実(本)が手の届くところにたくさんあるようなもの。
 本屋に行く前の電車では、必ず本を読む。一番読める時。自宅でも読むけど切りがないから、自宅では基本読まず、書くことにしています。
 毎日のように本(言葉)を読み(聴き)、やがて書く(語る)ことを仕事にしたいと願ったとして、それはとても自然なことと思った。
 ある男の子の「見つかりました! ありがとう」を通じて、私の歴史が垣間見えた、というお話。
 見つかったのは彼自身であり、彼の純粋さに打たれて、私も私を再発見できたというか。
 本は木からでき、「言葉と絵」と、そして作者たちの「思い」が詰まっています。
 必要な思いに支えられた、適切な本を届けられるように。
 言葉と絵(イメージ・想像)が有機的に結びついて命(時間)が宿るとき、そこに自ずと物語(小説)は生まれます。
 今までやってきたことが一つにまとまって力強くなった感じ。それは、物語を書くことのできる小説家だけの特権ではないと思いますが、十分に味わいつつ、まずは一つ目の「小説(『大説』では決してない!」を仕上げたいと、やっぱりそこにたどり着きます。
 暑くなってきました。
 蒸し暑いのも苦手ですが、紫陽花と出会ってからそんな苦にならなくなりました。
 走って汗を流すことも、夏場は心地よいものです。
 涼しい朝を活用しながら。
 写真の「アナベル」は、アメリカ原産の紫陽花。
 花言葉は、「忍耐強い愛」です。
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下積みは嘘をつかない

2023-05-10 20:47:13 | フォトエッセイ
 写真は、少し前の「もみじ」です。
 正確には「いろはもみじ」。春に小さな花をたくさんつけ、その後に実を結びます。赤くなっているところが実であり、種。
 これが風に乗って飛んでいく。「タケコプター」みたいな形ですが、そのように飛ぶのかは、確認したことがないので不明です。

 で、書いておきたいことは、タイトルにある通り。
「下積みは嘘をつかない」 今の私を支えている言葉。
 小説は、日々、少しずつ進んでいます。ひねり出して一日二行という日もありました。
 たかが二行、されど二行。
 今は対話の場面で、とても慎重になっています。
 人と人が向かい合い、話し合うとき、いろんなことが流れている。
 その人の歴史が滲みもする。欲望がちらつきもする。己が縮んだり、伸びたり、怒ったり、震えたり。
 その生きた蠢きを、どう書くのか。どう書けるのか。
 そもそも、この主人公を、自分はどれだけ理解できているのか、いつも問われています。
 で、書けなくなる。じっと、想像する。
 それでいいんだとも思います。集中力が必要とされる仕事だから。
 思っているだけで、次への準備となってつながっていくから。

 そう、下積みは嘘をつかない。
 木を見ていればわかる。種から芽を出して、立派な一本の木になるまで、どれだけの水と土と光が必要だったか。
 私の二行も、山から滲み出した清水のよう。あるいは、長い年月を経てできた地層から滲み出す、ほんの一滴、一滴。
 そう、人にも地層がある。
 書く上では、やはりどれだけ読んできたか。何を、どう読んできたか。
 それに経験。どれだけ、なぜ、どのように体験したのか。その適切な言語化はできているのか。

 先日、市議会議員と市長の選挙がありました。
 いつも近くの母校の中学校に投票に行きます。
 そこにはいつも同級生で公務員の彼がいます。S君と言っておきます。
 S君とは、中一と中三で同じクラスだった(らしい)。
 彼は、選挙会場の設営と管理の責任者になっていました。
 で、少し立ち話をしました。
 S君は、こう言ってくれました。
「もどかしいかもしれないけれど、大器晩成が一番だよ」と。
 また救われました。
 S君は、いつも、と言っても選挙のときしか顔を合わさないけど、軽妙に励まし、応援してくれる。ありがたい同級生。

 ほんの一滴、一滴でも、コップに溜まればおいしいコーヒーにもなる。
 大河が、もともとは山から滲み出た一滴、一滴の集まりであるのと同じで、小説も、一行一行が、やがて大きな流れとなって、作者も読書も見たことのない景色に連れて行ってくれる。その大きな流れを作り出してくれるのが、日々の一滴、一滴、一行、一行。マラソンでも、その一歩ずつが、着実にゴールに近づけるように。
 フルマラソンを、9回も完走できた。
 応援してくれる人がいる。楽しみにしてくれる人がいる。心身の健康を保つ術も身につけた。息抜きの方法も持っている。
 だから、大丈夫。
 そんなことを思いながら、小説を進めております。
 一行、一行。
 
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一番高く飛ぶためには一番低く沈む

2022-12-31 20:21:53 | フォトエッセイ
 今年も残すところあとわずか。
 悔いなく、過ごすことができたでしょうか?
 思い出すのは、仙台の荒浜。仙台の街並み。仙台の古書&カフェ「マゼラン」の店主(大学の先輩)との会話。学生時代からの友人と再会し、一人でスイーツをむしゃむしゃ食べたこと。中尊寺の金色堂。
 ずっとネットでしか見たことのなかった気仙沼の「かなえ大橋」を渡ったこと。たくさんの父の親戚たちと再会して、やっとお顔とお名前が一致したこと。帰ってきたら体重が1・5キロ増しになっていたこと。
 夏の甲子園、東北勢の仙台育英高校が初優勝を成し遂げたこと。
 書店勤めに穴も開けなかった。今年最後、挨拶して、その仲間が笑顔だったことが私への信頼を語っているように思った(そう思いたい)。
 母はついにコロナに罹ってしまったけれど、皆で協力して乗り越えることができた。
 こつこつ本を読み続け、着々と走行距離も伸ばした。今日は「しめ」のランをして、大好きな小金井公園をぐるっと二周して戻ってきた(30キロ)。写真は小金井公園で撮ったものです。写真のインスタグラムも本格的に始めて、少しずつですが、相互フォローする人も増え、楽しむことができました。
 今年の累計走行距離は979キロ。昨年は届いた1000キロにわずか足りず。これは6月と7月の酷暑によります。
 昨年の梅雨時くらいから始めた懸垂と腕立て伏せと垂直跳びも継続しています。それで気づいたのが、「一番高く飛ぶためには一番低く沈む」という事実。
 自分の影を見ながら、近くの小さな公園で、走り終えたあと、垂直跳びを繰り返します。一番高いところに手が届く前には、一番深く沈んでいました。「ため」が必要というか。
「ため」を「準備」とも言い換えられます。
 来年、うさぎ年。そこで「ジャンプ」という標語も目につきますが、私も乗っかりたい。
「小説」を飛ばしたい。小説家になりたいのなら小説を書くしかない。そして、そこで認められること。
 十分にためた一年でもありました。仙台に行き、一段小説も進み、気仙沼に行き、もう一段小説も進みました。もう書き始めています。
 遅くとも来年には完成するでしょう。その新作とともに、私も飛びたい。飛躍の年に。
 たくさんの仕込みや失敗があり、変わらず応援してくれる人たちの支えがあり、そして何より自分自身が大事に抱えてきた夢があるから。
 一日一日、一歩一歩、一行一行、大事にして。大事な一行一行の積み重ねが、きっと読者の一人一人の、一つ一つの共感につながっていく。
 新しい場所を走りたくもなってきています。その一歩として、来年2月19日に、熊本城マラソンを走る予定です。
 新しい収入源を得ることも目標です。
 新しい家族を作っていくことも。
 どれも一つ一つの積み重ね。いきなり高みには届きません。簡単に目標は達成しません。マラソンでも失恋でも就活でも、そのことは十分に経験しました。
 今年は、行きたかったところに行き、会いたかった人たちに会うことができた年です。その意味で、夢を叶える体験を積めた。夢を叶えるコツは、小さな夢を実現させていくことだと思った。
 これからだって間違うでしょう。ちくちくと、痛いところをついてくる人も減りはしない。自分はまだまだなのだと「無知の知」で、謙虚ささえ失わなければ、人に感謝することもできるし、自分の修正を重ねていくこともできます。
 読んで走って書いて。この一連の動作が、本当に好きなのだと実感したのも今年であり、このコロナ禍での収穫でした。
 こんな私でよければ来年もお付き合いください。
 今年も読んでくださり、本当にありがとうございました。
 みなさま、よいお年をお迎えください。
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100年開かなかった扉

2022-08-22 20:17:14 | フォトエッセイ
 久々に、テレビで野球観戦をしました。試合開始に間に合うようにランニングも軽めに切り上げて。
 夏の高校野球決勝に、宮城県代表の仙台育英高校が出ていたので。
 ばっちり私の休日とも合い、観るしかないと。
 タイトルにさせてもらったのは、仙台育英高校野球部の須江監督の言葉。
 東北勢に、甲子園の優勝経験はなかった。
 春は3回、夏は9回、決勝戦に進出して敗退していた。
 仙台育英は、夏、3度目の決勝進出。そして、ついに優勝。頂上にやっとたどり着いた。
 まさに悲願達成。優勝旗は初めて白河の関を越えた。100年かかって。どれだけ悔しさを溜めてきたことだろう。
 素直に、うれしい。東北の人の一人として。
 野球自体が見事だった。
 そつのない攻撃、打撃も狙い球を絞って、一球でしとめる集中力の高さ。
 バントや盗塁、ヒットエンドラン、ランエンドヒット、スクイズ、多彩な攻撃は長打力のなさを補って余りあった。
 守備もミスなく、よくゲッツーもとり、守備位置も外れがなかった。
 強力な五人の投手陣にも驚いた。今はもう絶対的な一人のエースに頼る時代じゃないんだなと思わせた新しさと力強さを感じた。
 そして、何より「つなぐ」意識の徹底。
「つながり」は、何も打線だけじゃない。ピッチャーがつながる継投もそうだった。
 そもそも「控え」という存在が決まっていない。
 背番号「1」が控えで準備しており、「10」が頭から7回まで投げ抜き、「11」が残りを締める。結果1失点のみ。
 甲子園で初めて出たホームランが満塁でしかも「14」番だったのも印象的。
 私が中学のとき、野球部の現役だったわけですが、もらった背番号は確か「13」。
 1〜9番が、レギュラーなわけです。それが常識だった。そしてその常識は不動だと思っていた。
 仙台育英の野球は斬新だった。みんなが切磋琢磨しあうライバルであり、同時にかけがえのない仲間だった。「つながり」は、確かな信頼関係のことでもありました。どこにも不動のレギュラーは存在しなかった。それが強さの秘訣でもあった。
 高校生たちに学ばせてもらった。競い合う仲間がいることの仕合わせ。目標となる憧れのチームがあることの仕合わせ。
 あきらめなかったからこそ、優勝できた。夢をつないできた継続の力。
 いつ扉が開くのかはわからない。
 でも、開けたい扉があるのなら、挑戦をあきらめないこと。少しずつでも続けていくこと。
 おめでとう。
 そして、ありがとう。
 私も、確かに、感動しました。人が夢を叶える姿は、何度見てもいい。
 それが、一番、不足していることなのかもしれないから。
 夢を叶える人が近くにいれば、感化された人も夢を叶えていく。
 それが、本物の持っている本当の力。
 写真は、先日の、台風一過の青空です。
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文化が人を育てる

2022-08-08 18:30:19 | フォトエッセイ
 残暑お見舞い申し上げます。
 またしても30度越え。もう十分なのですが、1週間くらいは続きそうです。お体お大事に。
 昨日は、気仙沼で3年ぶりのみなとまつり。仙台では今日まで七夕まつり。東北でこの時期に祭りがあるのは邪気を払うためとも言われています。
 東北人は暑さに弱いのか。私はほんと苦手で、うつ病になったのも夏なので、もしかして季節性なのかもと思い、このつらい暑さの中に祭りを楽しむ文化に、改めて共感する次第です。鬱々としていても、どかーんと花火が上がれば、気持ちも晴れるもの。

 原爆が落とされたのも夏でした。あれから77年。
 6日に広島で行われた式典で平和への誓いを述べたこども代表に感動しました。翌日の新聞で全文を読んだのですが、ここに一部抜粋します。
「大切な人を一瞬で亡くし、当たり前の日常や未来が突然奪われました。
 あれから77年たちました。
 今この瞬間も、日常を奪われている人たちが世界にはいます。
 戦争は、昔のことではないのです。
 自分が優位に立ち、自分の考えを押し通すこと、それは、強さとは言えません。
 本当の強さとは、違いを認め、相手を受け入れること、思いやりの心を持ち、相手を理解しようとすることです。
 本当の強さを持てば、戦争は起こらないはずです。
 過去に起こったことを変えることはできません。しかし、未来は創ることができます」
 広島の小学6年生、バルバラ・アレックスさんと山崎鈴さんの言葉。

 私に特に刺さったのは、「本当の強さとは、違いを認め、相手を受け入れること、思いやりの心を持ち、相手を理解しようとすること」。
 これは、まさに自分がしてもらってきたことで、救われ、育つために必要だった土壌。
 そして、十分にしてもらったから、自分もまた他者を理解しようと努力するようになった。
 理解が足りなかったことはたくさんあった。というか、この理解力向上に終わりはありません。
 その実践として、今の私には小説の執筆があります。
 登場人物を、どれだけ理解できているか。その理解力が、文章に乗って、読者の心にどれだけ届いて広がるのか。
 小説の出来不出来に色々な尺度はあるでしょう。でも、何より、人物だと、私は思う。
 自分は無力だと打ちひしがれたときもあった。負の連鎖にはまって抜け出せなかったときもあった。
 そんなつらい時間のことも、しっかりと私の脳内に映像と言葉がセットで収納されている。
 そして必要なときに使うことができる。もしかしたら似たような状況にある人を支えることができるかもしれない。
 想像力と理解と言葉がかけ合わさったものを文化と呼ぶのかもしれません。

 本は値引き販売ができません。それは本は文化的価値が高いためと法律上は定められています。
 本当に本で人を救うことができるのか?
 本に関わる仕事をしている身として、常に持つべき視点。
「本当の強さ」を、日々たくわえ、使い、補っているか。
 夏だからこそ、より強く、思い返します。
 私にとって、夏は苦手だからこそ、様々なものが生まれる原点ともなっています。
 恋も、病も、日記も、ブログも、ランも、そして小説も。
 本当の文化が成熟していけば、人はもっと暮らしやすくなり、戦争もずっと遠ざかる。
 微力ではあるけれども、私もまた、文化に貢献することで戦争を遠ざける仕事をしていくと、ここに誓います。
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縦糸と横糸

2022-07-25 22:50:13 | フォトエッセイ
 写真とは関係ないかもしれませんが、最近思っていることを少し。
 新しい小説の着想を得てから、もうすぐ1年。この間、ひたすら「想造」をしていました。
「想造」は、小説家の松岡圭祐さんの造語。「小説家になって億を稼ごう」(新潮新書)に出てきます。
 12人の登場人物をネットからお顔をお借りし、プリントアウトして名前とプロフィールを記入して壁に貼る。
 3つの舞台もネットから拝借し、壁に貼る。
 あとはひたすら「想造」。要するに頭で物語を作り出すこと。
 人物から何が聞こえてくるか。人物に何を投影しているか。
 この人はどこからきて何をしているのか。誰が主人公で、視点は誰か。
 いつ物語は始まり、いつ終わるのか。どのように?
 重要な場面は繰り返し浮かんでくる。そして細部まで見えてくる。
 逆に、ただの思いつきは、時間と共に自ずと消えていく。
 12人のうち、1人だけが最後までうまく動かなかったのですが、突如として重要人物となった瞬間がありました。
 そこから一気に「想造」は進み、物語の道筋は定まった。
 ここでやっと文章を使う。
 5W1Hで、40字3行で物語をまとめる。5Wとは、Who/When/Where/what/whyで、1Hは、How。誰が、いつ、どこで、何を、どうして、どのように。
 そうしてできた40字3行を、40字10行と20行と10行に分解。最初の2行目が20行になる。物語の中盤なので厚く。
 他にも注意点はありますが、ざっとこんな工程を今、辿っています。
 で、まだ途中ですが、3行が40行となったら、その文章の合間に描きたいものをどんどん書き足していく。不足なく書き込んで、やっと下書きの完成となります。
 この一年、よく待ったなという気持ちと、いよいよ本番だというわくわくと。そして思うのは、小説は縦糸と横糸でできているという学び。
 今まで、ペンさばき(?)や華麗な文章力(?)を見せたいばかりに、小説の構成がおろそかになっていた。小説には構成もあると気づいたのも前作の仕上げと提出があったからこそなのですが。
 で、縦糸。縦糸は、建築で言ったら建物を支える柱たち。大黒柱でもあり鉄骨でもある。小説で言ったら、あらすじ。ビジョン。
 縦糸には視点も関係している。視点が定まらなかったのがこれまででもありました。小説を書いてみればわかると思いますが、意外と視点を固定するのは難しいです。視点が定まれば、あるいは語り手が決まれば、自ずと始点と終点も定まってくる。なぜ、語り出し、どういう道筋を辿って終わるのか。
 マラソンで培った経験も生きてくる。コースをあらかじめ頭に入れ、イメージトレーニングをすると、本番では冷静に走れ、結果最高の成績を収めることもできる。それを体験できたのが前回の仙台でした。
 小説は描写だけじゃなかった。当たり前のことなんだろうけど、やってみなければ私にはわからなかった。描写は横糸。
 納得できる安定した筋や語り手といった縦糸があって、初めて人物描写やセリフといった横糸が立つ。
 思えば、昨年の暑くなった頃から、ランニングとセットで腕立て伏せ、腹筋、背筋、垂直跳び、懸垂を始め、今でもやっていますが、これもまた縦方向のトレーニングでした。横方向の移動は、マラソンやカウンセリングなどで鍛えられていました。が、縦方向は盲点だったというか。
 というか、ジャンプしたかった。実際、垂直跳びはジャンプでしかないのですが。
 しがないカエルが、風に触れる柳の葉に飛びつこうとするみたいに。
 つかみたいものが確かにある。そこにどうしても行きたい。掴み取りたい。
 私の、切実な気持ちの身体表現でもあったのかもしれません。
 縦方向というのは、日常生活であまり意識しないことかもしれません。
 が、だからこそ、意識して可動域が広がると、より生きやすくなるのかもしれません。
 圧力にも負けず、何かと横のつながりが重要視される社会で、うまく頭を引っ込めて避けることもできるから。逆に飛んで避けることも。次の島に渡ることも。
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書くことが希望

2022-07-11 17:29:56 | フォトエッセイ
 暑中お見舞い申し上げます。
 今日は暑すぎて、走ることを断念しました。仕方ない。こんな日もあります。
 走らないでできた時間、ぼーっとするのも好きですが、今日はピクルスを作りました。

 さまざまな、信じられない事件が起こります。
 事実を事実のままに報道しないメディアもある。
 家の近くでは、一家心中という火事がありました。
 元首相の銃殺事件は言わずもがな。大国による軍事侵攻(パワハラ以外の何ものでもない)も終わっていない。
 衝撃を受けるたび、胸の中がざわめき、不快な空気が充満します。
 なぜ、なぜと一人問い、テレビやネットを見ても、溜飲が下がることはない。理解し尽くすことなどできない。
 時とともに、事件は忘れ去られていく。また衝撃的な事件に上書きされもする。
 でも、自分の心に残った傷は、ずっとそのまま。降り積り、降り積もって自分というものが見えなくなってしまうこともあります。
「拡大自殺」なんていう聞きたくもない言葉も聞くようになってしまった。
 そこまで行ってしまうのは、そこまで行かせてしまった人たちがいるから。
 目に見えない、でも切実な闘いが、今でも行われているのを感じます。
 文学に集う人たちは、いち早く危険な空気を感じ取り、言葉にして人に知らしめていく。
 炭鉱のカナリアみたいに。

 昨日の選挙の投票率は52%だそうです。
 約二人に一人は行っていない。
「どうせ変わらないから」という声を聞きました。
 それは変わらないことに同意していること。
 どうしてなんだろう?
 もっといい、住みやすい、多くの人たちが幸せを感じやすい暮らしの土台を作るための改善策が見えていないから?
 もっと納税者が納得する、税金の使い道を明らかにしてくれる人がいないから?
「変わらない」ではなく、本当は「変わりたくない」だったら?
 投票に行かない人は、投票に行けないだけかもしれない。仕事が、育児が、介護が、あるいは足が不自由で、とかいろいろ事情はあるでしょう。
 そんな人たちに多くの人たちの理解は届いて、希望が叶う仕組みはできているのでしょうか?
 私が投票に行ってもしょうがない。そう思う人は、もしかしたら自己肯定感や効力感が育っていないだけかもしれません。
 投票するという行為は、自分の意思を表明すること。もしかしたら、それが苦手、あるいはわからないという人たちもいる。
 投票に行かない、行けない人たちを責めても逆効果。北風と太陽のように。
 個人の気持ちが組織票に負ける。思い返せば、哲学の祖とされるソクラテスもまた圧殺された一人でした。
 書くことが、書くことそのものが希望。
 昨日だったか、今まで、いろいろ書き散らしてきましたが、そんな心境に達しました。
 少なくとも、今の日本でも、こうして書いた文章が検閲され、黒塗りされることはない。
 不断に続く人の歴史において、やっと獲得された(はずの)個人の自由。
 その恩恵に感謝し、私にとっては書くことそのものが希望。この真実を、これからの文筆生活の基としたい。
 たとえ短い文章でも、長い小説でも、いつどこで誰の心に触れるかわかりません。
 希望がこもった文章ならば、きっと読む人に希望が伝わる。
 千人に一人かもしれない。五十年後かもしれない。それでもいい。伝わる希望はゼロにはならないから。
 希望は、今日を生き、明日も生きてみようかと思い、行動できること。
 誰をも殺す必要もなく。

 いつか見た夕焼けの写真です。
 行き詰まり、どんな言葉(人)も信じられないとき、自然の中に入ればいい。
 人を拒絶しているとしか思えないときもあるけれど、そのときはそのときでわかってあげて。
 人は、永遠に自然の子だから。
「美しい」と感じること。またその景色を見たいと願うこと。
 それだけで希望は回復しています。
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時を忘れること

2022-06-27 22:10:13 | フォトエッセイ
 梅雨が終わってしまった。早過ぎますね。
 まだ6月なのに。関東では、最速の梅雨明け。
 まだ心身とも夏を受け入れがたい感じ。で、紫陽花の写真をあげました。
 これは16日に撮ったもの。あれから10日で梅雨明けするとも思わず。
 ジメジメした梅雨は、一年で最も苦手な季節だった。
 でも、紫陽花のおかげで、少なくとも苦手でも嫌いでもなくなった。
 不思議なものです。好きなものを見つければ、嫌いなものは気にならなくなる。
 夏もまた苦手な季節です。
 苦手だからこそ、生まれるものがあった。
 日記もランニングも、これから執筆する小説も8月に始まった。
 年中走るようになったから、年中好きになった。
 凍てつくような冬も、溶けそうな酷暑も。
 今日も11キロ走った。流石にまだ暑さに慣れておらず、かなり消耗しましたが。対策や休息を十分すれば、走れるものです。
 夏の暑さすら忘れてしまえるもの。時の経つのを忘れてしまえるもの。
 それがその人にとっての本物。
 ささやかなこと、変なこと、なんでもいい、一つでも二つでも、時を忘れるものと出会ってほしい。
 私は、花と写真とランニングと小説と。他にも、岩盤浴や音楽を聴くことや絵を観ること、野球観戦にプロレス観戦(女子の団体「スターダム」にハマってます)など。プロレスで新人が勝てない試合を観ていると、焦って、技のつなぎがバラバラで、とにかく必殺技を出したくて、ダメージを積み上げることを知らず、一瞬の間を生かすこともできず、攻め疲れたり。やる気だけはみなぎっているのだけど、試合の組み立てが下手。とにかく、そんな内容は、私がかつて書いていた小説を思い出させて、思わず応援してしまうのです。
 好きな食べ物も大事ですね。
 今日は、昼、卵かけご飯にキムチと梅干し、しじみ汁。冷やしたスイカもあって最高に美味しかった。梅干しの素晴らしさは、マラソン大会で知りました。好きな食べ物は挙げれば切りがない。トマト、レモン、りんご、鯖、鰹、栗、さくらんぼ、蜂蜜、ほや、ずんだ、胡桃、桃、コーヒー、お寿司、ケーキ、まだまだまだまだ。
 好きなものを増やしていく。それはそのままその人の充実を物語るのかもしれません。それだけ多くのものに支えられているのもわかるので、自ずと感謝の気持ちも芽生えます。
 そんなことで、長くて過酷になりそうな夏。なんとか乗り越えていきましょう。
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梅雨になりました

2022-06-06 21:28:58 | フォトエッセイ
 最近、写真をブログに載せていませんが、ご覧のように写真は撮っています。
 インスタグラムが楽しくなってきて、そっちに載せることが増えました。
 インスタグラム、知らない人もいるでしょう。私も、少し前までは初心者でした。
 今でも、魅力的な写真を載せている人を真似たりしています。#(ハッシュタグ)、どれが有効なのか、とか。
 インスタでは、#のついたキーワードで検索できます。
 例えば「紫陽花」。すると紫陽花の画像がたくさん出てきます。
 そして、少しでも「いい」と感じたものには「いいね❤️」をします。すると、昔の(今もだったらすいません)、ミクシイのように、足跡じゃないけど、訪れた人がどんな人だかわかる。写真を公開していれば写真を見ることができる。そしてもっと見ていきたいと思えばフォローする。ダイレクトメッセージを送れたりもするようになります。
 写真は、このブログとともにあり、また私の創作とともにもあるので、私の大事な表現の一つです。不思議なもので、写真には同じものが一つもない。そして、撮った人の心が表れる。最初はまったく写真だけ載せていましたが、最近はごく短い文章もつけるようになりました。日本語だけでなく英語も。
 その写真にどんな言葉がふさわしいか、探す時間も楽しい。その母語を、英語に翻訳するのも楽しい。その写真と言葉に「いいね❤️」してくれた人の写真を見るのも楽しい。どこに住んでいる人で、どんなことに興味があるのか垣間見ることも。
 で、何を言いたいかというと、私が「いいね❤️」をしまくるようになったということ。これは、仙台から帰ってきてからの変化。
 このブログを見てくれた人の足跡を追ってもそうだし、「読書メーター」という読書管理アプリでもそう。それまで、ほとんど「いいね❤️」してこなかったのに。
 だって、「いいね❤️」としか思えないのだからしょうがない。私よりよっぽど上手な写真を撮る人はたくさんいるし、そもそも花や雲や風景にカメラを向けること、そこに、その一瞬に感動し、つかみ、記録し、伝えたいという気持ちが動いているから、その気持ちに「いいね❤️」を捧げている。「読書メーター」も、本を読むこと自体がもう「いいね❤️」。読んだ感想文は、大した問題じゃないと思えるようになっていた。
 このことをある人に話したら、それは菊田さんがより自分自身に「いいね❤️」できるようになったからだよ、と言われた。
 言われてみて、確かに、そうか、と。
 小説を一生懸命書いて提出できたことから始まり、仙台で、十分に受け入れてもらった、待っていてくれた、大事なことを共有できた、という経験も大きかった。
 僕は、いつだって受け入れてもらってきた。
 受け入れてもらうたびに、新しい何かを受け入れることができるようになった。
 梅雨は、昔ほど嫌いだった。でも、今は嫌いじゃない。
 紫陽花が、嬉々として咲くのを知ったから。その姿を写真に収めて、私も楽しむようになったから。
 自分にとって嫌な季節も、他の生き物にとってみたら最高な季節ってことはある。そしてその生き物を、私も好きだったなら、共有した瞬間に受け入れている。この雨を。じめじめを。
 受容してもらうためには飛び出さなければなりません。
 飛び出すための勇気と相手への信頼は、やっぱり受け入れてもらった体験から培われる。
 がんばってがんばってがんばって、一人で生きてきた人ほど、受容されることに飢えているのに、怖くて飛び込めない。最悪、マンションから飛び降りたり、電車に飛び込んだり、してしまう。かつての僕もそうだった。
 受容は、SNS上でぶちまけることとも違う。誰かを炎上させることとも違う。
 理解してくれていると、飛び込む側が感じ取っていること。
 受容されたいとき、その人の中で、新しく生まれていることともう投げ捨てたいことがごっちゃになってわけわからなくなっている。
 捨てたいものを捨てられたとき、また行きたいところに行けたときも、自ずと新しく生まれているものが心の中で見えてくる。そこに従っていけば、自分本来の流れに乗っていける。
 小説によって、「俺のことわかってくれた!」と感動することはあります。その確かな体験が、明日の生きる力になることも。
 究極的に、私がしたいことはそれ。この欲求の源に、かつての受容に飢えまくった自分がいることは言うまでもありません。
 と、言いながらも、こうして書いて、誰かに受け入れてもらいたいと思ってもいる。
 その相手は、自分自身でもある。
 書くことでしか呼吸できない部分が自分にはあることも、あらためて、感じます。
 そして、それでいいんだ、と。
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