泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

バッハ/シャコンヌ

2012-03-11 22:23:39 | 音楽
 ピアノ曲では一番好きな作品です。
 何度聴いたかわからない。この一週間は毎日のように聴いています。
 ヴァイオリンでも味が出るけど、ピアノの方がちょっとだけ好き。
 うねり、くじけそうな気持ちを奮い立たせる励まし、大きな悲しみを乗り越えていく力強さ、切れそうで決して切れないつながり。そんな生きて行く上で欠かせない精神の動きをこの曲からいつも感じる。
 演奏者の個性、心持ちが最も出る曲でもあるかもしれません。
 ぼくが動画を調べる限りでいいなと感じたのが大塚純子さんの奏でるこの曲でした。
 「戦場のピアニスト」シュピルマンが弾くシャコンヌは生命力があふれていてすごい。ヴァイオリニストの川井郁子さんのシャコンヌは本当に切ない。若手の庄司紗矢香さんのシャコンヌはとても深く哲学的だ。どれも好き。
 モーツァルトの気分になれないとき、むしろ静かに一人で考えたいとき、バッハを聴きます。
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涙そうそう/新垣勉

2012-03-07 19:23:12 | 音楽
 新垣勉というテノール歌手をご存知でしょうか?
 何度聴いても聴き足りません。
 ぼくの拙い「涙そうそう」を聴かれた方もいるかと思いますが、ぼくが歌に目覚めた(?)のは新垣さんのお蔭です。新垣さんの歌を聴いていると共に歌いたくなるのが不思議です。
 もっと紹介したいけど、一つだけ
 昨年の夏、聴いていて涙が出た。泣かすことのできる歌手、この日本に何人いるのでしょうか?

森山良子作詞/BEGIN作曲/2000
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糸/Bank Band

2012-03-03 11:30:09 | 音楽
 Bank Bandの歌う『糸』。作詞作曲は中島みゆきです。
 ラジオから流れてきて、中島みゆきのCDを引っ張り出し、何度も聴き直して歌った。
 Bank Bandの桜井和寿(ミスターチルドレン)さんの歌う方がしっくりときた。

 震災以後、歌、音楽の力に改めて気づかされました。
 それまでだっていつも音楽とともにあった。原稿を書くときだっていつもなにか聴いている。
 思いっきり歌うことの爽快感は他に代えがたいものがあります。 
 音楽は人生の意味の比喩である。これはヘルマン・ヘッセの言葉です。
 生きる意味を、いつも確認していないと生きていけない。ぼくが毎日日記をつけているように。
 そんな思いから、ささやかながら今ぼくのなかにある音楽、みんなに聴いてほしいなと思う音楽も、できれば週一で紹介したいと思います。

 ぼくは音楽が好きだった。ぼくは音楽ができないからいつも音楽に恋してきた。
 音楽のできる人が好きです。
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弦楽セレナード・革命

2011-01-22 12:07:35 | 音楽
 音楽についてはもう2年半も書いていなかった。かといって聴いていなかったわけではない。ほぼ毎日聴いていたといって過言ではない。
 最近のお気に入りはチャイコフスキーの「弦楽セレナード」。ある日、NHKのN響アワーで紹介され、一発で参ってしまった。何度も聴いている。そのよさとはなんだろう。バイオリンやチェロがただの音ではなく、人の大切な何かに触れる。痛切な心。消えない思い出。叶わない願い。元気が出るというより凝り固まった感情が解かれる。胸が広がる。語り得ないけど確かにある働き。優れて情に深い。いくらぼくが言葉を並べたところでそのよさは伝えられない。つかみ切れない。だからまた聴く。貸し出しもする。
 昨年からよく聴いているのはショスタコーヴィッチ。この人の作品は痛みを覆うユーモアを感じさせる。知的に興奮させられる。展開が読めずおもしろいなあと聴きほれてしまう。同音の連打が魅惑的。中でも繰り返し回しているのが交響曲第5番の「革命」。これは昨年末、実際に所沢のミューズで生で聴いた。西村知美さんという日本人が、ラトビア国立交響楽団を引き連れての凱旋公演。女性の指揮者というのを初めて見た。優雅で、洗練されて、細やかで、力強かった。演奏の終わった後、鳴り止まない拍手の中で、今やっと会場の人たちを見るように、ゆっくりと四方に挨拶している姿が忘れられない。自分たちの仕事の実りを確かめていた。「革命」もまた何度聴いても聴き尽くせない。消え入りそうなか弱い声。吹っ切れたように突進する勢い。力が寄り集まって小爆発が繰り返される終焉。見えてきそうな物語がある。男女の交わりのようにも聴こえる。
 今年になってはまっているのがプロコフィエフ。ピッコロなのでしょうか、笛による甲高い鳴き声が印象的。この人の音楽には創造を感じる。これが創作なのだというような凄み。こうなってしまうのかというような驚き。行ったことのない世界に連れて行かれる楽しみ。まだ聴き始めだからこれくらいしか言えないけど、なにかぴったりくるものがある。創作を促すような力がこもっている。
 と、上に挙げた三人はいずれもロシア人なのでした。これは偶然でしょうか。
 ラフマニノフも相変わらず好きで、シャガールも一層好き。カンディンスキーもまたびびっとくる。
 性質、の問題なのでしょうか。ぼくの根本に関わる体質。雪国、東北出身であるということ。何世代か前は、雪の降り積もる土地で暮らしていたということ。田を耕し、菊を愛で、わずかな収穫にも感謝する一農民。冬生まれでもある。
 音楽にもまた作曲者の体質が出る。文章とそれは同じでしょう。合う合わないという問題もそこから生まれるように思う。
 音楽も文学も、基本的には相手を支え、励まし、生産的に感情を掻き回すものだと思う。生きるための補助だと。
 ぼくがこんなにもクラシック音楽に浸ってしまったのは、音符を言葉と等しく聴いているからなんだろう。
 作曲者の個性がありながら、紡がれた音符は、多様な楽器、演奏者を通り働きかけながら一つとなり、全体の流れの中で奇跡的な感動をもたらす。
 クラシックだからこそ、ぼくに届くまでに無数の人々の心を通り抜け、時間の風化にも耐えた力がある。壊すべき壁を壊し、無知による弾劾も内側から効いて無効にした。
 この価値は、ぼくにとっては本の持つ力と同じ。目や手や口を使わなくても、死ぬ間際まで機能するという耳さえあれば接することができるという点では、本よりも身近で親密で原始的なもの。
 言葉もまた声から生まれたということを思い出す。最近音読をしていなかったのではと反省する。
 だからぼくにとって音楽はきょうだい。あるいは伴侶のようなものなのかもしれません。もう、なくてはならない。本とCDはいくらあってもよい。
 最近、このあまり共感されにくい、共有することの希なクラシック音楽の世界を聴いてくれる人ができました。ありがたいことです。一つのことを共有するうれしさをしみじみ噛みしめる。今のその人にとって何が一番必要か、援助的なのか、思いながら曲を聴き選ぶ楽しさ。大切に、この関係を育てたい。
 音楽は楽しむもの。楽しいという状態は、人が生命体としてよりよく機能していることの証なのかもしれません。各人がよく働くために、音楽は必要とされ続けるのでしょう。ぼくもまた、飽くことなく。
 それでも、ぼくには文学が似合う。ぼくは間違いだらけだから。学び続けなければならない人だから。前回、愛ってなんだろう?と辞書を引いた後、一体ぼくは今まで何度失恋してきたかと数えてみた。覚えているだけで8度。中学時代Sさん、高校でSさん、大学でTさん、その後A、K、O、N、Y。末広がりでよかったということで。
 一方で逆バージョンもけっこうあったのでした。強烈なのは小学校の時、まったく不意打ちで自宅の郵便ポストにバレンタインチョコレートが入っていた。同級生のTさん。ぼくは面食らっておろおろし何もできなかった。チョコはしっかり食べたけど、お返しできなかった。何をすればいいのかわからなかった。大学の時もAさん。あの八木山動物公園&ベニーランドにデートを誘われた。このときも僕は身を固くして、何もできなかった。申し訳ない。その後N、Y。その一人とはホテルまで行った。しかし切れた。後悔したけれど、もう仕方ない。ぼくは確かに彼女たちを愛してはいなかったのだから。愛していないのに愛されるというのも辛いものです。しかししっかりと刻まれています。あなたたちを忘れたことはありません。
 行き違いが生じてしまうのはやはりコミュニケーションの問題だったのでしょう。そして様々な自己中心的な想像が介在して邪魔していた。自分が何者なのか伝え、相手がどんな人なのか知る。この根を下ろそうとする相互作用の試みの数々。誰も責めることはできない。むしろ関わり合えたことに感謝する。そうした他にどうしようもなかった動きこそが大切だったと思う。いとおしい身体の記憶。記憶がぼくを作り続けている。あなたたちがそこにいて、ぼくと関わったからこそ、今のぼくとあなたはいる。日々生まれ変わっている。
 と書いてきて、このブログに集中し始めてからはいわゆるあからさまな「失恋」をしていないことに気づく。もちろん今でもいろいろ起きていますが、関係は続いている。必要なものと必要でないものがはっきりしてきたということでしょうか。焦りや不安からは何も生まれないということ。本当に大切なものしか残っていかない。音楽の一つの音にしても、小説の一つの言葉にしても。
 大切なものとはなんでしょうか? 人が死なないでいられるために。それらを一つずつ書き残し、いつでも再生可能なものとして形作ることがぼくの務めなのかもしれません。
 プロコフィエフの荒々しいラッパが鳴り響き始めました。
 促されて、また原稿に向かうとします。
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新世界

2008-08-13 12:20:07 | 音楽
 ヴァイオリニストで作曲家の川井郁子さんの新譜が発売されています。そのタイトルが「新世界」。はまっています。
 川井さんにとっての「新世界」とは、子供を授かったことのようです。それは、まさに新世界なのでしょう。
 彼女のCDはほとんど持っています。関心するのは、何度聴いても飽きないということ。今回のアルバムも、繰り返し再生しています。
 子供を授かって(それは向こうから来る)、創作の源泉が増えたと言っています。なんだかうれしいですね。結婚や出産、子育てはわずらわしい。負担ばかり増える、と、経験のない私は案じてしまいがちですが、そうした母でありながら芸術家として機能している人がいると知ると励みになります。
 そして聴き込んでいるうちに、「新世界」の原作者が気になり始めました。その人は、ドヴォルザークでした。
 交響曲第9番が「新世界より」。1892年9月26日、彼はニューヨークの埠頭に初めて立った。それまでヨーロッパではゆるぎない名声を確立していたにも関わらず。「新世界より」は、翌年5月完成し、12月、開場間もないカーネギーホールで初演された。聴衆の熱狂的な喝采。この曲を世界で初めて聴いた人たちの感動がわかるような気がします。
 力強いティンパニ、泣くようなヴァイオリン、第二楽章の、日本では「遠き山に日は落ちて」として詞もつけられ親しまれている、オーボエの郷愁、思い出と交じり合いながら生起するトランペットは、好奇心や勢いや刺激、避けられない運命を暗示しているようです。
 戻りながら進みながら、主題は変化していく。支流が集まって大河になっていく。弱まったり強まったりしながら、人生が堂々と歩いていく。
 僕にとっての「新世界」。
 それは自己中心から関係中心への移行ということになるのでしょうか。
 人間関係こそがすべてなのではないでしょうか。
 そのなかに入るまでが今までの課題だったのかもしれない。
 今までだって社会の中で生きてきたはずなのです。
 しかし、なんだろう、例えばとなりに誰かが眠っている、という状態を、すんなり受け入れられなかった。人一倍淋しがりやなのに。親に甘えてばかりきたのに。
 僕らは、確かに一人ひとり違う。かといって、違うことがもとで、分断されたり差別されたりされる存在ではない。森のように、すべてが絡み合って、持ちつ持たれつになっているのが自然。あまりに人工すぎた。それは自信がないゆえに。自分の思う範囲内で事を済ませたいために。未知は、他は怖いから。何が起こるかわからないから。
 でも、そんな時代は終わったようです。小説を書いて、読んでもらって、感想を聴いたり、それによって他者の物語が喚起し、聴かせてもらうたびに、僕らは同じ地平に立っているんだと実感する。連帯感というのでしょうか、親しみというのでしょうか、「よくがんばってきたね」と素直に言える。
 自分にできること、役割は、聴くことであり、書くことです。その分を果たしていくことで、日々生まれている「新世界」を、より豊かに、広げていきたい、と思っています。
 ここに今生きて存在しているということ。それ自体がすでに「新世界」なのかもしれません。それでも、区切りがある、節目がある。入っていこう、と思う。音楽に促されて、励まされて。

川井郁子/The New World/ビクター/2008
ドヴォルザーク/交響曲第8、9番/カラヤン/ウィーンフィル/ユニバーサルミュージック/2007
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モーツァルト ピアノ協奏曲第24番

2008-03-22 16:49:53 | 音楽
 今年から、引きつけられるように、N響アワー(NHK教育テレビ、毎週日曜日、午後9時から放送)を欠かさず観ているのですが、この前の日曜日に放映された2007ベストソリスト特集で第1位に輝いたのが、アンドレ・プレヴィン指揮、ピアノによるこの曲でした。第3楽章だけでしたが、聴き終わったら買おうと即決していました。そして池袋西武の12階へ。ありました。指揮振りはマウリツィオ・ポリーニという人で、ウィーンフィルでしたが。はまりました。何度聴いたか。やはり特に第3楽章。つぼに指圧されるような。
 まだ聴き足りてはいないのですが、主題が変奏され、ピアノと木管楽器が対話し、竜巻のように舞い上がって散るラストは、人間の一生のようでもあり、何十億年とつながってきた生命のドラマの音そのもののようでもあります。悲しげでもあり、楽しげでもあり、心打たれるのは、ピアノソロの絶対的な孤独感というのでしょうか、それ以外は考えられない、ありえないという一つの命の存在感、その美しさが伝わってくるからなのでしょうか。バッハのようでもありベートーヴェンのようでもあり、でもその軽やかさ、深さはモーツァルトのもの。彼は30ものピアノ協奏曲を書いたそうですが、初めから20までは、当時の上客である貴族を喜ばせる傾向が強かったようです。実際彼らに受け入れられ、気に入ってもらえなければ音楽家として生活することはできなかった。でも、それで満足はできなかった。20番目以降、特にこの曲からは、彼は芸術家として、自分の書くべき、書きたいものを書いた。その切実な気持ちも曲にこもっているのでしょう。彼の孤独、絶対性、命としての自分。どうしようもなく表現しなくては済まないものが、天才的な技術と絡まって、見事としか言いようのない作品として結晶している。その時は1782年、秋、ウィーン。226年経っているわけです。でも、今もその第3楽章を聴きながら書いているのですが、時間ってなんでしょう? そもそも存在してはいないのではないでしょうか? 現実に今、僕はこうして226年前に作られた曲を聴き、大層感激している。してみれば僕が思い悩む明日なんて、ダニのうんちよりも小さくて、くだらないものなんじゃないか。そんなどうでもいいことを発見しようしようとして、実際はそうではないものをそうだと信じ、誤ってばかりいたのではないか、そんな思いにもなってしまいます。
 ところで、春ですね。暖かくなり、今日なんかは日向で読書してモーツァルトを聴いていると、自分が確かに回復していくのが感じられた。モーツァルトは、特に春に似合う作曲家なのかもしれません。命そのものを聴かせてくれるのが彼です。そこには不安もあるし、情念もある。でもそのリズムは、テンポは、決して僕らから外れることがない。命に触れると命は喜ぶものなのでしょう。赤ちゃんや小さな子供がやってきて、にぎやかにならないことはありません。がんばらなきゃと思うし、自分ができるものを意識せずにやっている。そうさせるなにかが、優れた音楽にはあるのですね。
 今の僕には、どんどん音楽が入る。言い換えれば、そのスペースを今まで発見できずにいた。使えずにいた。音楽を聴いて、体に入れて、自分が回復することがまず大事ですが、その分だけ人にもやさしく、軽やかに、ときに重苦しさまでを引き受けて、関与し続けられればすてきだと思う。
 文章のリズムにしても、生活そのもののリズムにしても、言葉にならない感情の育成にしても、音楽はすばらしい機能を持っていると、聴くたびに確信するこのごろです。

モーツァルト/ピアノ協奏曲12番&24番/ウィーンフィルハーモニー/マウリツィオ・ポリーニ/ユニバーサルミュージック/2007
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あこがれ、愛

2007-10-13 13:22:38 | 音楽
 やっと、見つけました。
 「あこがれ、愛」 といっても、これはピアノ曲です。
 僕と同年代の人、もしくは上の方でも、一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
 こんなメロディーです。確か、小学生のとき見た、民放の3分間お天気予報で、使われていたような。

 たらららんたらたんたらたららら たらららんらんたらたらたら

 わららないですよね。すいません。
 いつも聴いている小原孝さんの「弾き語りフォーユー」というラジオで、秋になると思い出す曲ということでリクエストされていて、紹介されていました。それで僕も思い出し、CD屋で見つけたわけです。
 だから、もう十年以上、忘れていたはずなのです。なのに、この復元力は。自分でも不思議です。それだけメロディーが、深く奥底まで刻まれていたということなのでしょう。3分間だけだとしても。
 原題は、「Longing/Love」でした。ロングの動詞があるとは知らなかった。その意味は、思い焦がれる、切望する。だから、思い焦がれ、切望している、愛。
 もちろん、かつて思い焦がれ、愛した異性を思い出しもしますが、それだけじゃない。愛するのは異性ばかりじゃない。かつて打ち込んだスポーツ、しがみついた勉強、学生生活を送った仙台、教授への尊敬、作家への憧憬など、自ら願って必死になって追い求めた、がんばっていた、でも自分のものにはできなかった、今でも死んでいない、長く長く続いている情熱、愛情、強まったり弱まったり、延びたり縮んだりした夢、それらをこの曲は、見事に表現している。
 一度聴けば、ああこれかとわかると思います。
 一度でも、みなが経験したであろうあこがれ、愛。
 すばらしい曲です。
 ちょっと切なくなるけど。あこがれ、愛したものを、心の隅から、浮かび上がらせる。
 いや、そう、この曲は過去形じゃなかった。今、あこがれ、愛しているもの。
 僕にも、みなさんにも、ありますよね。

ジョージ・ウィンストン作曲・演奏/アルバム「オータム」より/BMGファンハウス/2003
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マーラー 交響曲第9番

2007-10-09 12:59:14 | 音楽
 マーラー最後の交響曲。実際は、第10番も書かれていましたが、未完で、彼は彼岸に旅たたれました。
 この曲が作られたとき、死期を予感していたようです。だから、「最大限の狂暴さ」で奏でられる旋律は、死そのものを表している。これが僕を揺らし、崩し、そこにこの世とは思えない美しいメロディーがはさまれる。マーラーの人生の集大成なのでしょう。1番も5番も7番も好きだけど、この9番の迫力、生と死のうねりにはかなわないように感じます。
 これでマーラーの交響曲、全部を聴いたことになります。出会いは去年の12月。ある女性からもらったのが始まりでした。それからもう10か月経ったことになります。
 本を読むとき、書くとき、通勤で、この間、マーラーとベートーヴェン(こちらもすべての交響曲を聴いた)ほど身近にいたものもない。なんでこんなにはまったんだろう? 必要とするんだろう?
 心身に合った、あるいは欲するリズムがある。人は止まると、必ず腐敗する。動きすぎても、それが本来のリズム、テンポから逸脱していれば、僕は、僕らは壊れるだけ。だから、自分を整え、正しい、性に合った流れ、波に乗るため、効果的に活動するために、彼らの音楽が必要だったのかもしれない。
 あと、調和。交響曲は、マーラーの第8番が、「千人の交響曲」と呼ばれるように、多くの人々が、力を合わせないと、息を合わせないと、いい作品はできない。参加するひとりひとりが重要な役割を担っていて、そこには人間の大小なんてない。聴衆も含め、集まった者たちすべてが関与し、精一杯に音を編み上げ、人が自発的に動き、明日の生活の元気につながる。芸術という通路、器、装置で、人と人が交わり、つながることができる。その営みに参加し、術を身につけることが、僕には必須だったのかもしれない。
 それにしても、耳は心に近いと思う。
 文章を黙読するときも、ほとんど自動的に音声化されていて、僕は聴くように読んでいる。
 心(自己)と関わること、逃げずに、参加して。それがこの10か月の、交響曲三昧の、内的な意味だったのだろう。
 自分に聴き入れた交響曲たち。それが、いつか必ず、発酵し、自分から出るだろう。自分の書くものに反映されるだろう。いいものを出し続けるには、いいものを入れ続けないといけない。そうやって、自分が日々、いいものになってゆくように。
 自分がいい作品を味わい、飲み込み、胃に落とし、腸で消化するということ。そういう地道な生活でしか、いいものは作られない。
 思えば、人はみな、無力な赤ん坊から、そうやって自分以外のものから与えられた作品(それは食事、思いやり、ダッコされる、叱られる、教えられるとか全部)を体に、心に入れて、血に肉にして、自分というものを作ってきたのではないのか。だから芸術は、とても普遍的なことであって、誰にでも共通するものを扱っていて、当たり前の行いでもあったのだ。
 与え合う、それで人の世は回っている。いや、自然はすべて。その具体が、やっと見える。
 僕には、何が与えられるだろう?

サー・ジョン・バルビローリ指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/TOSHIBA-EMI/2006
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ベートーヴェン 交響曲第五番 運命

2007-07-12 17:10:42 | 音楽
「ジャジャジャジャ~ン」
 このフレーズは、誰もがご存知でしょう。
 それを「運命動機」というのだそうです。
 そして、作者のベートーヴェンが、弟子のシントラーという人に、こう言ったそうです。
「運命はこのように扉を叩く」
 それで、交響曲第五番は、「運命」と呼ばれるようになったそうです。

「運命動機」は、しょっぱな、第一楽章に現れます。緊張した面持ち、受け入れがたい驚き、そんな気持ちが感じられます。
 第二、第三楽章は、運命を反芻するように、ゆっくりと、沈みがちに進みます。ときに起こる高鳴る鼓動。ほんとにそうなのか、迷うようでもあります。
 そして最終の第四楽章。そこには突き抜けた喜びが満ちている。空を舞うように、自由に動き回る人間の歓喜が鳴り響く。

 ベートーヴェンが好きになったのは、彼の音楽に物語があるからなのでしょう。苦悩から迷いを経て歓喜へ。苦しみだけ、歓喜だけ、いいとこどりではない。交響曲のすべてで、一つの物語を作っている。聴き終えて、初めて感動が押し寄せる。もう一度、最初から聴きたくなる。

 彼の言うように、運命は確かにそのように扉を叩くのでしょう。僕の今までを振り返っても、運命としか言いようのない、かけがえのないシーンに、いくつかぶつかります。運命を否定している間は、歓喜も訪れない。受け入れ、乗っていけて初めて幸せが見えてくる。この第五番は、その道筋を、確かめるように、慈しむように、奏でている。何度も聴きたくなるのは、第九が毎年末に繰り返し演奏されるように、私たち人間が、幸せへの道筋を見失いがちだからなのかもしれません。

「幸せ」なんて書いてしまいましたが、実際「幸せ」ってなんなんでしょうね?
人の数だけあるのでしょう。
 ここで思い出すのがフロイトの言葉。「仕事」と「愛」。この二つ。この二つに関与してこそ、健康であり、幸せ。その通りだと思います。
 今の僕は、この二つを実現させようとがんばっている。自分の中にあるものを、外に出そうとしている。他者とのあいだに。そこを実らせようとしている。具体的で、手で触れられるものとして。
 やるべきことはたくさんある。生きている目的がある。それははっきりしている。日々、できるだけ行っている。前進の実感がある。それだけでも、まずまず幸せと言えるのかもしれません。

スクロヴァチェフスキ指揮/ザールブリュッケン放送交響楽団/BMG JAPAN/2006
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ポル・ウナ・カベーサ

2007-06-07 16:49:54 | 音楽
「頭一つの差」という意味だそうです。川井郁子さんのアルバム「オーロラ」の9番目に入っています。
 CDを買うのは、一つの賭けなのですが(本のように書評を頼ったり、読んでから決めることができないので)、今回は大当たりでした。
 どの曲もよくて、何度もリピートして聴いています。特に震えてしまったのがこの「ポル・ウナ・カベーサ」 アルゼンチンタンゴでありながら、なんなのでしょう、このヴァイオリンの音は。「競馬になぞらえて失恋の切なさ苦しさを、訴えるように表現した曲」と、本人は書いています。表現しがたい心の襞を、見事に歌い上げている。飲み屋で愚痴をこぼすのとも違う、人に染みる、人を貫いていく音色。誰にでもある人生の忘れられないワンシーンが、まるで映画のように蘇り、噴水のように感情があふれ出し、収まるべき場所に落ち着いていく。
「ヴァイオリン・ミューズ・ドラマティック」というタイトルで、川井さんもまたバッハのシャコンヌを弾いています。彼女の祈りの曲だそうです。
「祈り」 祈りとはなんでしょう?
「詩は償い」と言った谷川俊太郎さんの言葉も忘れられません。
 あらゆる芸術は、祈りとつながっているのかもしれない。
 私をしっかりととらえ、守り、心を沈静化させ、体の余分な力を抜き、一方で誰かの平和、幸せを強く望む。私にはたいしたことができないからこそ、私にできる精一杯のことをする。世界の中で。
 それにしても川井さんにはヴァイオリンがぴったりです。みなにそれぞれ、ぴったりの何かがある。
「ヴァイオリンがなければ死んでいたかもしれない」と言った人がいました。音楽は人を生かす。人の生活力になる。小説もまた。そうでなければ芸術じゃない。
 川井さんの演奏を聴きながら、そんなことを思いながら、今日もまた、これから書きます。

川井郁子/オーロラ/ビクター/2004
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シャコンヌ

2007-05-31 16:54:53 | 音楽
 激しい雷雨のなか、小説を書き進めるのに疲れ、バッハ作曲のシャコンヌを、シュピルマン(映画「戦場のピアニスト」のモデル)のピアノ演奏で聴いています。
 繰り返されるリズムが、少しずつ変わりながら、力強く弾かれ継がれていく。
 終わりそうで終わらないうねり。それは満ちては引く、波のようでもあります。
 何度でも聴きたくなる。終わるとまた最初から聴く。そんなことを何度繰り返してきたのかわからない。
 地獄を通過してきたシュピルマン。何人もの死を乗り越えてきた、見てきた、家族を失った彼の演奏は、理屈なく、聴きたくなります。聴いてしまいます。
 戦争前も、戦争後も、彼はラジオ番組を持ち、生演奏していた。

 小原孝というピアニストご存知でしょうか? 彼もまたラジオ番組を持っています。NHKFMで、毎週月曜から木曜、午前の11時半から20分。「弾き語りフォーユー」という番組です。
 仕事の都合上、遅番がほとんどの私は、いくら「ねぼすけ」とはいえ、この番組の前にはぱっと目覚め、寝ぼけ眼でラジオのスイッチを入れるのでした。
 ぜひ聴いてみてください。僕は大好きです。
 そこで小原さんは、いつも言っています。
「音楽は、いつもあなたに優しい」
 音楽に拒まれたことって、そういえばなかった。

 雷が頭上で鳴りました。バケツをひっくり返したような雨が、空気を冷やしています。
 シャコンヌは終わり、また最初に戻しました。
 何度聴いても、ほんとに飽きない。
 そういうものだけが、残っていくんだろうな。

 ほんとによくわからないのですが、シャコンヌは、生命に訴えかけてくるようです。そして、毎回、栄養になる。
 シュピルマンとシャコンヌ、ほんとにぴったりです。
 そしてありがとう。それこそ芸術です。

 それにしてもすごい雨。みなさん、お気をつけて。

シュピルマン:オリジナル・レコーディング/バッハ:パルティータ第2番ニ短調BWV1004よりシャコンヌ/ソニー・ミュージック・エンターテイメント/2002
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幻想小品集

2007-04-19 14:07:46 | 音楽
 すっかり、ラフマニノフが好きになってしまいました。
 彼を教えてくれた人に、この場で、改めて感謝。ありがとう。
 最近は、毎日のように、ラフマニノフの、交響曲、協奏曲、狂詩曲など聴いています。仕事に行くときも、読書しているときも、書いているときも。
 幻想小品曲は、五作からなり、全部で二十分もなく、何かしながら聴いていると、あっという間に終わっているのですが、何度聴いても飽きず、汚れちまった心が洗われるようです。
 彼は、作曲家だけでなく、ピアニストでもありました。自作自演ほど伝わるものはない。それは詩の朗読でも同じでしょう。
 指の一本一本に、意志がみなぎったような力強さ、滑らかさ。調和された美しい調べ。時の経つのを忘れます。
 かつて映画「シャイン」を観たとき、主人公のピアニストがラフマニノフの曲を弾き、舞台上で倒れてしまいます。そのまま精神錯乱に陥り、やっとの回復の影には、愛する女性の支えがあった。そんな話だった(たぶん実話)と思いますが、それ以来、ラフマニノフは、狂気の沙汰であり、人を寄せ付けない恐ろしさをもっているんだと、思い込んでしまっていました。
 なのにどうでしょう? 内面に忠実だからこそ、展開される心の襞。そこにはロシアの大地が、ときにメランコリックな雪国の人々の情操が、革命によって祖国を追われた郷愁が、実らない愛と酷評によってうつ状態に陥った彼の葛藤と克服の過程が、音楽という人間性を伝える芸術によって、見事に作品に仕上げられ、聴く者を魅了する。
 ラフマニノフはそばにいて欲しい。感情的に、彼という人間が好きになる。彼の音楽から感じるのは、そうした感情を耕す何かです。
 決して天才過ぎて、確かに天才なんでしょうが、距離を置こうとはしない。ああ俺にはできないやと、突き放すことができない。えらぶった態度に、むかつくこともない。
 芸術って、そういうものなのかもしれませんね。
 幻想小品曲、第一曲、「エレジー」が特に好きです。
 顔に似合わず、私もロマンチストなんですかね。
 それはそれでいい。しょうがない。今の僕が求め、彼に学びたいのは、感傷の先にある、強い何かです。洗練された技術に支えられた、人を生かし、変える、強いもの。
 それを得るためには、努力するしかない。そうですよね?

セルゲイ・ラフマニノフ作曲・編曲・演奏/ポリドール/1995
 
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水の戯れ

2007-03-05 13:57:15 | 音楽
 好きだなー、この曲。
 譜面の最初に、「川に住む神は、水にくすぐられて笑う」という、アンリ・ド・レニエの詩が引用されているそうです。
 音楽で映像が見えるのは、僕の知っている限り、ドビュッシーとこのラヴェルしかいません。それこそ印象派の印象派たるゆえんなんでしょうね。
 奏でられるピアノが、まさに水の戯れを思い浮かばせる。急流でもみ合いへし合い、日の光を照り返し、水草を揺らし、魚をなで、よどみで卵の成長を育み、渡り鳥の羽を休ませ、来る人の心を洗う。そんな光景。
 いつだったかコラージュを作ったとき、先生に、あまりにも水の写真ばかり貼っているので、「依存性が強い」と指摘されたことがありました。その通りです。命とつながった何か(特に女性)と触れていないと、すぐに不安になるのでした。
 そして川。小さいころ、よく父親に川に連れて行かれました。その穏やかな記憶が、私を慰め続けたのも確かです。
 今でも週に一回はプールに浸かり(ちゃんと泳いでいますよ)、あるいは温泉に出かけ、疲れを取っています。
 文明の興った地には、必ず川がありました。チグリス・ユーフラテス、インダス、ナイル、黄河、フランスにもセーヌが、東京には多摩、荒、墨田、仙台には広瀬、京都にも水路が張り巡らされています。
 何度川に出かけたことでしょう。そしてまた、これから何度。
 水あってこその地球であり、生命であり、私たちです。
 水を大切にしましょう。なんだか変な締めになってしまいました・・・。

ラヴェル作曲/モニク・アース
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マーラー 交響曲第五番

2007-02-03 22:46:54 | 音楽
 五楽章からなるこの交響曲には、タイトルがついていませんが、あえて名づけるなら、「恋愛」なのでしょうか。あるいは「恋心」「運命の愛」「出会い」「対話」「赤い糸」・・・。
 マーラーには、いつも想像力を掻き立てられます。この曲の始めは、印象的なトランペットが、甲高く鳴る。それは、運命の出会いを連想させます。その後のうねるような、打ち寄せては引く波のような、ときに消え入りそうになりながら、トランペットが、忘れさせるのを拒むように、どこからか、その人を引き戻します。始まった二人のドラマに。
 最初は、二人ではなかったのかもしれない。出会いに衝撃を覚え、湧き上がる感情に恐れ、不安になり、それまでの自分のやり方にすがるように戻りもする。第二楽章は、感情にもまれ、どちらに行けばいいのかわからなくなってしまった心の混乱を表現しているのでしょうか。過去と未来が、行ったり来たり。男と女が、見詰め合ったり無視したり。恨んだり、激しく求めたり。とても苦しいのですが、そこを通らなければどうしても先には進むことのできない、暗闇のトンネルのようです。
 第三楽章のホルン(?)は、大きな船の汽笛を思わせます。あるいは出口の光、こちらだという呼びかけ。喜びに踊っているようでもあります。
 そして、第四楽章。今の私もここにいるような気がします。バイオリンの悲しげな、また力強くもある声の連なり。ポロンと聞こえてくるのはハープでしょうか。愛の対象を、自分のふがいなさゆえ、あるいはどうしようもない障害により見失ってしまったのでしょうか。それとも、喧嘩して泣いているのでしょうか。離れていても、険悪になっても、忘れることができない。あなたが欲しい、あなたじゃないとだめなんだ、ほんとに愛してるんだ・・・。そんな言葉にできない思い。身を裂くような切なさ。でも耐えないといけない。雪の下に埋もれた、春を待つ種のように。
 第五楽章は、認め合った、許し合った、今までの自分を乗り越えた二人が、楽しそうにおしゃべりしている様が浮かんできます。尽きることのないキャッチボールは、最後の盛り上がりで、新しい人間を創造したかのようです。リズミカルに、とどろくバスは、鉄道の疾走を感じさせる。二人は着実に進んでいる。家族という安全な列車に乗って・・・。
 以上は、私の願望や思い込みが、たっぷりと入っています。マーラーが、どんな経験を、音楽に託したのか、それはわかりません。私の受けたもの、それも私のリフレクションですが、あるいは生じたもの、それが大切なのかもしれません。正解なんて、やっぱりない。
 でも、やっぱりマーラーはいいというのは、少なくともわかりました。
 第五楽章の、途中ではっきりと、でも自然に、がたっと調子が変わるところがあります。技術的にどういうことなのかわかりませんが、一組のカップルの成長を、カップルに限らず人間という小川が合流して、一本の太い流れにまとまる感動を、伝えているように思えてなりません。
 飛ばした彼の交響曲第三番、第四番も、やっぱり聴かないとだめですね。

レナード・バーンシュタイン指揮/ウィーン・フィルハーモニー
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グッバイ アリス イン ワンダーランド

2007-01-25 00:56:13 | 音楽
 ジュエルという北欧出身のシンガーソングライターをご存知でしょうか?
 彼女の新作のアルバムが出ていました。僕は、デビュー作からおそらく全てのCDを持っています。そんな歌手も、僕の中では珍しいのですが。
 アルバムのタイトルにもなっている「Goobye Alice in Wonderland」が、今の僕にぴったりの歌なのです。
 ワンダーランドとは、私の孤独な心が求め、欲し、探していた空想世界。アリスとは、私以前の私であり、漱石や村上春樹が描くところの羊。羊は理想を求め、新天地に赴きますが、現実と理想のギャップに常に悩む。どこかに何かがあると、このままではないはずだと、ありのままが見えない。その中でした恋もまた実ることなく、でも目を覚まさせるには十分に機能した。涙は流さない。欠落が今目の前にある。まやかしでない世界の中心に、私は今立ち、生きている。そんな内容です。
 さようなら、アリス。夢よ、夢を育んだ家よ、故郷よ、さようなら。
 私もまた、現実の中で生きるときが来ました。リアルな人間関係の中で。今までだってそうだったのでしょうが、私をときに遮り、ときに守った空想という鎧は、きれいになくなりました。そして、もうあとは、やるだけ。静かに、落ち着いて、一歩ずつ、自分を信じて。
 ジュエルはいいですよ。ルックスも歌唱力も詩も。ぜひ一度、お聞きになってみてください。
コメント (4)
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