さぽーと・けあぺん(就労継続支援B型事業所 兵庫県丹波篠山市)

地域の方々と関わりながら、障がい者の方々と一緒に働き事業所を楽しみながら育てて行く日々のお話しブログです。

なごり雪  おとうと⑥

2019-03-14 08:52:31 | 介護、福祉

今朝の篠山は、3月も半ばなのになごり雪でしょうか、雪でした。
鶯の「ほきょちゃん」も寒さに囀ずり出来なかったようです。

おとうと⑥
障害者手帳と障害者年金は、連動しておらず、それぞれに申請が必要だと知りませんでした。
人の目にわからない障がいでも、手帳を交付してもらい証明されていれば大丈夫と思いこんでいました。

おとうとは、手帳申請で受診した時に年金の支払いをしていなかった為に障害者年金をもらえる資格がないとの事。
唯一、申請出来る方法は、子どもの頃におたふく風邪になり、それが原因で聴覚障がいになった事を証明する事でした。
証明する為の書類を見て正直、途方に暮れました。
40年以上も前の病院のカルテや診察券、健康診断の内容がわかる物、母子手帳等々の添付出来る物があればとあります。
無理なら添付無しと書けるのですが、病院への確認や第3者の証言の書類が最低2名分必要でした。
その上、申請者本人の原因となった障がいの受診日から現在までの病歴、就労歴、
日常生活歴を詳しく段階に分けてA3の申請用紙に記入します。
事実を証明する為の証拠も見つけ出す事も不可能だし、受診した病院も転移したり閉業されていました。
第3者の人の証明も両親は、他の人にも話していなかったようで、
ただ一人母親の友人の人が彼の事を知っていて、小学3年生の時の学校逃げ出し事件の時に一緒に探してくれたそうですが、
ご家族を亡くされ精神的にしんどくなられており、高齢も重なりこちらからの話しすら聞いてもらえずでした。

国民の皆さんがそれぞれ大変な思いをして納められている大切な税金や年金だと理解しています。
我が家の落ち度の為にルールに従えなかった当然のペナルティであることも。
人を守ってくれるはずの法律や制度が、私には、大きな壁でとても高いハードルになり立ちすくみました。

かぞく  おとうと⑤

2019-03-12 08:45:29 | 介護、福祉

今朝の篠山は、霧が出ています。
鶯の囀ずり、また少し上手になりました。

おとうと⑤
弟の両耳が聞こえなくなった後も仕事は、見つけても続きませんでした。
耳が聞こえないと危険だからと断らる事も。
無職も彼がどうゆう訳かサラ金からお金を借り、怖い取り立てが来て両親は、その時に彼の借金の事実を知ります。
金銭感覚がなかったのでしょう、持ったお金は、自分の遊びや高価なカメラを購入していたようです。
両親は、借金返済に追われました。
父が昨年亡くなる前に病院に行った時にその話しになり、おそらく家がもう1件買える位支払ったと父が話していました。
聞いた事もないような色々なサラ金からの督促状や領収書が先日の引っ越しの時に見つけました。
親が支払いをしてくれる情報が流れていたのかもしれません。
彼の様子は、時々母から聞いていましたが、姉に会うとまた叱られると思い避けていたようで、
彼と久しぶりに直接会って話したのは、13年前の母親が脳梗塞で倒れ救急車で搬送された病院でした。

彼が自宅に帰ると両親がいなかったので何かあったと察知し、両耳が聞こえないから電話出来ず、
何件かの消防署を直接回り訪ね歩いたと言いました。
その時に初めて彼の両耳が聞こえなくなっていたのだと知りました。
母親の入院中に、私は、慌てて彼の身体障害手帳と補聴器の申請をしました。
病院で診断書を書いてもらい両耳は、やはり全く聞こえていませんでした。

私は、福祉の仕事をこれまでしてきたのに、情けない話しです、
支援が必要な一番身近にいた彼の事を見過ごしてしまいました。

障害者手帳が交付され、障害者医療もすぐに発行してもらいました。
問題は、障害者年金にありました。
彼が無職で両親も制度的な事も知らず、確定申告での0申告を知らず収入有りとして扱われ
彼の借金返済に追われ督促もあった年金の支払いをしていなかった事が大きな致命傷になりました。

かぞく  おとうと④

2019-03-11 09:19:10 | 介護、福祉
おとうと④

弟は、高校入試失敗しました。
この時に右耳が聞こえない事が先生にも伝わっていたら、
ろうあ学校に進み手話や同じような悩みを持つ友達に出会えたかもしれません。
彼は、今も手話が出来ません。
筆談と相手の言いたい事を雰囲気で読み取っています。
なので、詳しい事を伝えたい時には、文章をメモに書くのでかなりの時間を要します。

中学の先生の薦めで高校には、行かず調理師専門学校の入学手続きを慌てて母がしました。
本人の希望の進路でなかった事も重なり、専門学校の先生と喧嘩になり本人が勝手に2日ほどで自主退学してきました。

父は、そんな彼を自分が勤める会社にお願いして勤務させてもらうのですが、
給料から健康保険、年金が天引きされていることが説明を受けても理解出来ずそこでも喧嘩になり退職します。
彼は、両親や私から責められます。
両親は、彼を叱る反面、右耳が聞こえなくなった事は、親である自分たちの責任だと金銭面や生活を支え続けました。
特に父は、金銭面を心配して65歳の定年退職後から80歳近くまでは、マンション管理の仕事を続けました。
私は、彼がまだ小学3年生の時に、夏休みの宿題をしないことで喧嘩になり
「あんたは、うちの子じゃないんだからね、橋の下から拾って着たの見たんだから!!」
と言って彼を泣かした位、無茶苦茶意地悪な姉でした。
彼の仕事が続かないのは、いい加減で甘えたで楽観的で根気がない性格のせいだと思っていました。
彼をかばい、面倒を見続ける両親に対しては、「この先何かあっても弟の面倒は、見ないからね!」と言い切ってました。
ほんまに今振り替えると意地悪な姉です。(^_^;))

彼は、大阪や乗り物が好きだったようで、空港バスの乗客荷物の搬入のバイトなどをします。
でも、やはり喧嘩になり辞めてしまい、どれもあまり長く続きませんでした。
仕事もせずに毎日大阪に行き1日を過ごし夕方決まった時間に帰っていたようです。

18歳の頃に彼は、インフルエンザにかかり、この時に左耳が全く聞こえなくなったそうです。
仕事もせずに毎日遊んでいたので、うしろめたい気持ちから健康保険に入っていなかったので、
病院に行かず両親にも話していなかったそうです。
私自身、彼の両耳が聞こえない事を知ったのは、今から13年前、母が脳梗塞で倒れた時になります。
両親は、いつも彼が話しの途中にわかった振りをしていい加減な解釈で返事をする様子が日常化していたので、
彼の両耳が聞こえないのは、徐々に聴力がダメになるものと思い混んでいたようです。

かぞく  おとうと③

2019-03-10 09:51:16 | 介護、福祉
鶯の子どもでしょうか?今朝は、「ほきょ、ほきょ」と言う囀ずりで目が覚めました。
「ほー」が中々出ない。
何度か囀ずるうちに、頼りない「ほーほけきょ」が聞こえて頑張ったねえとほっとしました。

おとうと ③
さて、また弟の話の続きです。
重たい話しですね。
弟の話を書く理由があります。それは、長くなるのでまた最後のところで書きたいと思います。

弟は、右耳が聞こえない事が誰も知られないまま中学になります。
感情コントロールが下手な彼は、すぐに泣く為にまた先生やクラスメートからいじめを受けます。
ある日を境に感情コントロールが上手く出来ない彼は、暴れ出しました。
机や椅子を投げたり、暴れたりしました。

中学の健康診断でも、聴覚検査は、簡単なもののまま右耳の事は、スルーしてしまいます。
両親は、共働きで仕事に忙しく弟も左耳で聞き取り、勝手な解釈や返事をしていた為、気にとめていなかったようです。
私の記憶の中には、その頃の弟の右耳の聞こえに疑問を持つ事はありませんでした。
先生から、中学の部室のボヤ騒ぎがありました。その時間に学校にいないのに犯人扱いをされました。
弟は、「自分は、全体にやっていない!」と泣いて悔しがり私も先生に文句を言いに行った記憶があります。
友達を作ろうとした彼に中学でも友達は、いませんでした。

彼の成績は、更に悪くなります。
母親は、彼の公立高校の受験票まで準備していましたが、先生に止められます。
京都の私学高校なら大丈夫と言うことで受験しますが、その高校も不合格になりました。

かぞく  おとうと②

2019-03-09 10:02:05 | 介護、福祉


昨日は、私の母の希望で私達の二人の母を連れて淡路島の花さじきへ。
出来る限り、病気の母親の希望は、叶えてあげたいと思う。
少し早い春だけど、ほんわかといい時間でした。

亡くなった父と母の一番の心残りは、おそらく聴覚障がい者の弟の事だと思う。


おとうと②
弟の右耳の聴こえの影響は、小学校に入ってから現れ始めた。
その頃に母は、近所で良いと評判の耳鼻科に行くのだが、そこでも異常ないと診断された。
異常ないと言われ、そこで安心してしまい、病院嫌いで泣いて暴れる弟の受診を母は、それ以降躊躇った。
当時の学校の健康診断での聴覚検査は、簡単なもので、ここでも彼の偶然の積み重ねが続く。
健康診断の医師から「聞こえる?聞こえない?」と聞かれて弟は、左耳から聞こえていたので「聞こえる」と答えていたそうだ。

彼は、学業について行けず成績も悪かった。
彼の右耳の障がいは、誰も知らないまま、友達も出来ず、先生やクラスメートからいじめられた。
小学校3年生の時、水泳の授業中に泳げなかった彼は、泣き叫ぶ中、みんなの前で先生から無理矢理プールに投げ込まれた事もある。
彼は、恐怖から学校を勝手に脱け出した。
それ以降もよく学校を脱け出し、よく両親が探していた。
学校を脱け出し宝塚ファミリーランドに一人でいたこともあった。
そんな彼に小学校時代も友達は、一人もいなかった。