母と城崎へ行った帰り、珍しく母から
次の外泊にだんなさんのお母さんと美味しい中華料理店があるから
そこに連れて行ってほしいと言った。
そのお店は、門戸厄神にある職場の人達と行った思い出の場所だったようだ。
母は、腸閉塞になり始め、食べても数日後に嘔吐して、
一日に一回少しのパンか小さなソフト煎餅を食べるのがやっと。
食べられないのに中華料理を希望したのは、楽しかった思い出の為だったのかもしれない。
先週の始めに病院に行くと母が嬉しそうに、
これまで座薬でないと出なかった便が自然に沢山便が出たと話してくれた。
私は、いつか本屋で見たセラピストの本の事を思い出し胸騒ぎがした。
病気で亡くなる人は、その直前頃に大量の便をして自分の体の中を亡くなるまでに綺麗にすると書いていたから。
予感が当たらない事を願いつつ、その日に訪れたビックニュースを母に伝えた。
弟の年金受給がやっと決まった事。
これでもし私が死んでも弟は、何とか生きていけるよねと母に言うと
母は、ありがとうと何故か寂しげに微笑んでいた。
母の足の甲がパンパンに腫れ、尿の回数も減り心配して帰った。
土曜日、仕事を終えて夜遅くに母が飲みたいと言ったインスタントのなすの味噌汁を届けた。
味噌汁を美味しいと3口ほど飲めた。
母の会話が聞き取れず、これまで見た事がない母でイライラと八つ当たりし怒っていました。
これは、翌日先生からの話でせんもうと呼ばれるものだそうです。
後でわかった事だけれど、このときすでに母の左頬が垂れ下がり言葉が話せない状況に近づいていたようです。
機嫌が悪いのは、痛みと薬のせいかなと思い、明日の約束をして帰りました。
これが母との最後の会話となりました。
明け方3時頃に母の様子がおかしいと病院から連絡があり家族で急ぎました。
母は、声をかけても反応が無く昏睡状態になっていました。
時々、右手を上げる動作を眠りながら繰り返していました。
病院からの連絡をもらい丸一日が過ぎようとする頃、母は、家族からの励ましの声を聞きながら
3回深呼吸をし、静かに息が止まり穏やかに旅立ちました。
弟は、小さな子どものように何回もお母さん、お母さんと呼びました。
やっと、母の腕から24時間の麻酔の注射針と器械が取れました。
看護師さんの配慮で明け方母の最後の入浴介助を一緒にすることができました。
母の入浴介助は4ヶ月ぶり。
まるでまだ眠っているような母。
そのときに私は、母のお尻に床擦れの処置をされて紙おしめに変わっていたことを始めて知りました。
おそらく母は、その事を私が知ると心配させる、あるいは
大好きなドライブに行けないかもと思い知らせずにいたのかもしれません。
母と一緒に朝を迎え、化粧嫌いな母でしたが最後なのでお化粧をしてあげました。
少し若返っていました。
遠方から母の弟妹の叔父や叔母と父の妹夫婦が葬儀に参列して下さいました。
頼れる両親がいなくなり、心細い思いでいたので本当に有り難く、母も喜んでいたと思います。
ありがとうございました。
叔父や叔母が来てくれて良かったねとこれまでは、直接、母と話せていたのに
もう話せないんだと母の死を実感しました。
母は、まだまだ生きれると思っていました。
新しい私達の事業所の手伝いを望み、おにぎり作りや黒枝豆のもぎ取りをする!!と言ってました。
成功祈願の折り鶴、1000羽に届かなかったけれど、つないで行こうと思います。
母に関わってくださった全ての方々に心から感謝します。
本当にありがとうございました。