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田園都市の風景から

筑後地方を中心とした情報や、昭和時代の生活の記憶、その時々に思うことなどを綴っていきます。

散歩の道すがらに

2018年06月06日 | 日々の出来事

 田舎道を散歩しました。

 昔からの集落に地蔵堂があります。椅子も数脚置いてあり、お参りする地元の方がいるのでしょう。お婆さんがここで語らう、そんな様子を思い浮かべました。

 こんもりしたところは自衛隊の弾薬庫です。もちろん中を窺うことは出来ません。久留米は明治時代からの軍都で、私は子どものころ戦前には陸軍用地だった住宅街に住んでいました。すぐ近くに土手に囲まれた火薬庫が残っていて、子ども達の遊び場になっていました。

 竹林の入り口です。竹製の粗末な門らしきものがあります。鎖もかけられていて、勝手に入るべからずという印ですが、こういうものを見ると楽しくなります。

 バイパス道路を建設中です。渋滞を避けて住宅街に入り込む車に困っています。これで少しは改善すると良いのですが。

  松葉菊です。この花は何度見ても銀紙細工のような錯覚を覚えます。

 丘陵地にある公園のエントランスです。この公園には古墳群があり、すぐ脇には小さな展示施設もあります。円形のモニュメントは、出土した腕輪をイメージしているのではではないでしょうか。

 芝生広場ではシロツメクサが地表を覆っていました。

 目を楽しませてくれたサツキも、もう盛りを過ぎました。

 これからはアジサイの季節です。

 私が散歩の楽しさに目覚めたのは高校3年生の時です。夕方、日暮れてから歩きました。生活の匂いがする住宅街を歩き、農家の煉瓦小屋が点在する郊外にまで足をのばしました。時にはウィスキーの小瓶をポケットに忍ばせていました。そんな日に友人のお母さんとバッタリ出くわして、慌てたこともあります。

 京都の大学に進学すると、休みの日には東山から岡崎辺りを徘徊し、また下宿の近くをよく歩きました。郷里の平凡な住宅街とは趣きが異なる家々を見ながら、文化というものについて思いを巡らしていました。西田幾多郎が思索に耽ったという哲学の道もよく歩きました。

 歩いていると周りの景色や事物によって、何かしらの感懐やインスピレーションが湧くことがあります。単に見るのではなく、歩くという行為が触媒であり、そこが散歩の楽しみでもあります。野田宇太郎は小説などのゆかりの地を訪ねる文学散歩というジャンルを確立しましたが、散歩文化というのもあるような気がします。

 卒業して郷里に帰ると散歩の習慣は途絶えました。仕事が忙しくもありましたし、歩いていても面白みを感じなくなったのです。再開したのは退職間際になってからです。ただし、散歩というよりも健康のためのウォーキングになりました。

 

 

 

 

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2 コメント

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こんばんは、 (takezii)
2018-06-06 17:32:14
「高校3年生の時に散歩に目覚める・・・・」、
何故か 文学少年?らしき姿が 思い浮かんできます。
北陸の山村で育った私は 当時 暮らしは貧しく、「散歩」等という言葉さえ有りませんでした。
都会の人達が ゆったり公園を歩いている光景は 別世界に見えたものです。
京都の街々、哲学に道周辺を良く歩かれたという九州さん、目に見えない宝物?ですね。
今 自然の中を かみ締めながら歩いておられる・・、最高だと思います。
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takezii1様 (九州より)
2018-06-06 20:30:39
今晩は。
高校生は多感な年頃でした。
散歩しながら人生の意味を考えていました。
今はもう感性も古びてしまって、
散歩もそれほどわくわく感がありません。
私の新婚旅行は金沢と能登半島だったので、
北陸と聞くとちょっと惹かれるところがあります。
地元にしろ他所にしろ、歩けるうちは歩いていたいと思っています。
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