円通院は松島は瑞巌寺の西隣にある小寺である。寺というより霊廟のある庭園といった方がふさわしい。そんなところに行ってきた。
はじめにお断りしておくと旅程はいずれも緊急事態宣言発出下および東京五輪開催期間におけるものである。
7月25日午前7時に自宅を出発。7時15分発小田急線各駅停車新宿行に乗車。登戸駅で同快速急行新宿行に乗り換え7時38分新宿着。7時41分JR中央線快速東京行に乗り換え7時55分東京着。東京発JR東北新幹線はやぶさ7号(8:20→9:50)に乗る。指定席の乗車率は10%以下に見えた。
JR東日本のトランヴェール。沢木耕太郎のエッセイ「旅のつばくろ」をいつも読む。今回は「旅先で土産物を買うことはほとんどない」筆者がはるか昔に宿泊した国民宿舎の記憶が旅先の宿の女将の言葉によって確かめられ跡地に建つ伝承工芸館に陳列された一体のこけしに魅かれ思わず買ってしまった話。土産物をほとんど買わないことと旅の記憶をめぐる出会いとに心惹かれる。
仙台到着。駅構内にまだ七夕飾りはない。
時間があったが駅近辺に落ち着ける場所がなかったので勾当台公園まで足を伸ばし憩う。広場ではアニメ系のイベントが催されていた。
駅に戻りエスパルの地酒の藤原屋さんで買物。「けやき」が閉店し「むとう屋」さんが出店するも品揃え豊富とはいいがたい。この日は藤原さんで購入した山ぶどう入りビール「鳴子の風」「秀鳳 純米大吟醸 大辛口 雪女神」「一ノ蔵 スパークリング純米」を宿で飲む。美味しかった。特に「一ノ蔵 スパークリング純米」は適度な炭酸感・適度なお米感・適度なフルーティ感・適度な値段で夏酒として久々のお気に入りである。
仙台宿泊後作並温泉へ。仙山線車窓の夏の濃緑が目に染みる。
慣れた宿ということで今回も湯の原ホテル。
夏の雲。
風情のある露天風呂で心と体を癒します。
これまで宿の周辺を撮り忘れていたので散歩しながら撮影。特に宿の全景を撮っておきたかった。
ラウンジでウェルカム・ドリンクをいただく。日本酒の蔵王をセレクトしたらロゼ色で驚く。これは赤色に発色する酵母を使用しているからだそうで古代米を使った赤色のお酒は飲んだことがあるがこれはこれでなかなかいい。というかなかなか贅沢なウエルカム・ドリンクだ。
いつも楽しみにしている夕食。まずは三陸産のガゼウニ。次にお造り。
この後「とうもろこしの冷製スープ」が出てこれが本物のトウミギにかぶりついているかのごとき目を見張る美味であった。写真を撮るのを失念するも舌に強烈に印象されました。
次が米沢豚の一番育ち 味わい鍋。
今宵のお酒はまず「十四代」の純米大吟醸・酒未来。甘くまろやかでスムースでさすがのクオリティ。もう一杯は「勝駒」の純米。富山のこのお酒を置いていること自体稀有なのだがこれも美味しかったです。
真鯛のポワレ。お口直しのレモンのソルベ。
この後の「山形牛のステーキ・ローッシーニ」は頗る美味。山形牛のフィレ肉のソテーにフォアグラをのせマデラソース・トリュフで仕上げたフランス風ステーキ。本日のメインにふさわしい贅沢な味わい。さらに栗原ひとめぼれ・みそ汁・お新香と続いた。(いずれも撮影失念。)
最後はデザートのシャルロットのショコラ。大満足。
館内散策と入浴。下のポスターの真ん中に当たりに宿の若女将が写っている。今回は不在でおそらく若旦那と思しき方が仕切っていた。たしかお子さんがいらっしゃるとのことなのでそのへんの事情もあるのだろう。そういえば以前はベテランの仲居さんがいらしたようだが今回は従業員さんがほぼ全員外国人の方に変わっていて館内では模様替えの工事も行われていた。宿泊業の苦境における変革の試みを垣間見た気がした。
雨の露天風呂も風情があっていい。
朝食。地の物が中心。朝からご飯がすすむ。
今回も湯と食と酒を満喫いたしました。チェックアウト時若旦那に「とうもろこしの冷製スープ」が美味しくて感動したと言うと「私も飲んだ時驚きました。とうもろこしを食べてるのかと思いました…」と言っていた。次回の訪問が楽しみである。
作並温泉から松島へ。仙山線でまず仙台へ。仙石線は松島海岸駅まで各駅停車しかなく40分ほどかかるので20分ほどで行ける東北線の松島駅へ。
松島駅からタクシーで円通院へ。瑞巌寺の境内を東(青龍殿側)から入る形になる。西進すると左手に総門が見え杉並木はかつての鬱蒼さがなくだいぶ伐採されたよう。
この日は感染症のためだけでなく定休日でお休みのお店が多かった。下は移築復元した民家で円通院の催事などに利用されているそうだ。
これが円通院。拝観料大人300円。
山門を入ってすぐ左手の枯山水。新味を感じなかったので熱心に見なかったが「雲外天地の庭」といって白砂が海を緑(苔)が山々を表し天水橋という橋が天の庭と地の庭の架け橋となる構図とのことで今度来たときはもっとちゃんと見ようと思った。
こういう造りが瞑想的で異世界への誘(いざな)いを感じる。
庭内の植栽で最も印象的だったのがこの楓(かえで)である。紅葉(もみじ)のイメージが強いが小さな掌のような可愛らしい形と青々とした色合いとの取り合わせが夥しく重なる様が何とも新鮮で爽やかだ。
こちらが三慧殿。伊達家三代目の世継ぎだった光宗の霊廟である。光宗は文武に勝れ名君と期待されたが1645年に19歳で早世。この死を悼んで二代目忠宗が1947年に建立した。
内部の厨子には馬上に跨る束帯姿の光宗像と殉死した七名の像が安置されている。肉眼で見た光宗像には370年前のものとは思えぬ瑞々しさを感じる。
厨子には薔薇や水仙といった花々にダイヤ、クローバー、ハート、スペードといったトランプのマークが描かれている。薔薇はローマを水仙はイタリアを象徴する。切支丹弾圧の時代まっすぐに十字架を描かず斜めにつなぎ合わせたクロスつなぎの文様。遣欧使節の支倉常長の持ち帰った西洋文化が散りばめられている。
この霊廟は建立後350年間開扉されずにいたという。諸資料を見ても開扉の時期や経緯の詳細は明らかではない。350年という数字から考えると1990年代後半に開扉されたことになる。切支丹弾圧下の江戸時代においては秘すること勿論だがそもそも墓であるのだから開けることは特別な理由がない限りあり得ない。それゆえ明治以降も開扉されぬままであったのであろう。それとも忠宗から何らかの厳命があったのか。あるいは寺側にどのような考えがあったのか。今は知る由もない。
院内は全体に苔生(こけむ)している。かつては薔薇が咲き乱れる薔薇寺として知られたが現在は苔寺としても知られる。
「おんこ」と呼ばれるイチイ科(常緑針葉樹で産出量が少ないことから日本では高級木材とされる)の樹木。「八方睨み(はっぽうにらみ)の名木と言われる」「樹齢七百年」とある。
本堂大悲亭は光宗の江戸納涼の亭を解体移築したもの。震災や空襲で東京にほとんど残っていない書院建築の遺構として現在では貴重なものとなっている。
本堂前に広がる庭は伊達藩江戸屋敷にあった庭園を移設したもの。小堀遠州作と伝えられる。池は「心」の字の形をしていることから心字池と呼ばれる。池には蓮が補陀落山(ふだらくせん…観音菩薩が住むといわれる八角形の山)には楓(かえで)と躑躅(つつじ)が季節の移ろいを伝える。
本堂脇の建物では数珠作り体験ができる。
稲井石が使われた碑。建武五年は1338年。
伊達宗高殉死者供養塔。伊達宗高は政宗の七男で蔵王噴火に際し領民の迷惑(ここでは困窮の意)を憂えた政宗の命で蔵王に登り鎮静祈願を行い2年後父と上洛の際天然痘に罹り二十歳で逝去。その殉死者の供養塔です。
このあたりは瞑想の庭だそうです。
庭園の緑に憩う。
心字池の蓮の蕾にとまるシオカラトンボ?
円通院を出て帰途へ。今も昔も変わらぬ松林。松島海岸駅は現在工事中。
こうして旅は終わった。
円通院は様々な形で私の心に残った。
初めての江戸への旅で急逝した若き光宗。それを悼む忠宗の心。支倉常長が遣欧使節としての約7年の旅で持ち帰ったヨーロッパの文化。切支丹弾圧下で果たされなかったヨーロッパとの交易。閉ざされてしまった様々な可能性をこの霊廟に封じ込め350年にわたり秘した。それゆえにであろうか鮮やかな色彩を保った厨子と光宗像。
江戸より移設された大悲亭と庭園。庭園の作者小堀遠州は薄田泣菫の「利休と遠州」により私にとって心に掛かる人物でもあった。
稲井石の板碑。
光宗の死後(1645年~)伊達藩は所謂伊達騒動により混迷を深め藩の状況が落ち着くに五代目藩主吉村の時代(1703年~)を待たねばならなかった。それゆえに思われる光宗の死。
そういった歴史の余韻を湛えひっそり佇む寺院。
青々とした苔と楓の緑。
庭は季節ごとにわれわれを楽しませてくれるらしい。
駆け足の旅でもあったのでまた訪れてみようと思った。できれば別の季節に。
2021年夏の旅 ー円通院へー
付記1 参考資料
●ふるさとの文化遺産郷土資料事典4 宮城県 人文社 1998年
●宮城県の歴史 県史4 渡辺信夫ほか共著 山川出版 1996年
●図説宮城県の歴史 図説日本の歴史4 河出書房新社 1988年
●百寺巡礼 第七巻東北 五木寛之 講談社 2004年
●五木寛之の百寺巡礼ガイド版 第七巻東北 講談社 2204年
付記2 薄田泣菫(すすきだきゅうきん)の「利休と遠州」は現在は青空文庫で読むことができる。
付記3 最近2回目のワクチンを接種しました。2日目の夕方から夜にかけて発熱しました。接種後3日間ほどは安静にした方が良いようです。
付記4 最近つぶやいた曲
AURORA - Cure For Me (Official Video)
Kane Brown, blackbear - Memory (Official Video)
付記5 (追記20210822)
宮城の郷土史を読む中で石巻についてもいろいろ確認できたことがあるがわからなかったのが「旧北上川」という呼称。なぜ新しく造られた川が「旧」なのか。と思い調べてみたらこういうことだった。
旧北上川を「北上川」に 石巻市、本流の名称取り戻す 河北新報オンライン
要は明治時代の工事で「新」と「旧」に分けられたと。私も「旧北上川」と呼んだことはない。正式な名称変更は時間がかかるようだが私にとって北上川は北上川だ。
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