享さんの通夜・葬儀は25、26日、松島町の天静会館にてしめやかに執り行われた。
享さんは私の亡父の弟であり、私の叔父である。
今はどうか知らないが、小さい頃私らは叔父さんを「おんちゃん」と呼んだ。
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享さんは私にとって「山西のおんちゃん」であり「山のおんちゃん」だった。
「山西のおんちゃん」とは、山西造船に勤めていたからだ。
しかも私が小学校低学年ぐらいまでは、享さんの住まいは山西造船がある中瀬にあり、そこでよく遊んでもらったのだ。
当時中瀬にはいくつかの造船会社がひしめくようにあり、それでもおんちゃんの家のあたりは広い空き地があって、そこで兄や従妹のアッコちゃんと遊んだ。
今の石ノ森漫画館よりももっと南側で、広小路や門脇が見えるあたりだったと思う。
やがて泉町に新居を構えてからは、会社の帰りによく大文字屋に寄っては「ばっぱ」(小糸さん)と茶飲み話をして帰るのだった。その時に私や兄に小遣いをくれたり、駅まで行って東京スポーツを買ってきてくれと頼んだりした。
山の方に帰るので「山のおんちゃん」になったのだが、そちらの家にもよく遊びに行った。家の中には日本文学全集があり、ギターがあり、登山の写真があり、ミニチュアのような楽器のプラモデルが飾ってあり、おんちゃんの興味が多方面にわたっていることを感じさせた。
初めてスキーに連れていってくれたのはおんちゃんであり、川釣り海釣りを教えてくれたのもおんちゃんだった。
大晦日になると店が忙しいだろうと大文字屋の大掃除をしてくれた。盆や彼岸にお墓参りに行くと「先祖は大事にしないといけない」とよく言っていた。
私が中学・高校の頃には、英語に本当に熱心に取り組んでいて、当時そのあたりでは珍しく外国人が来ると通訳を買って出ることもあった。山の家で、たぶんランダムハウスだったと思うが、10センチぐらいの分厚い英英辞典を引きながら英語について話していたのを思い出す。
本当にいろいろなものを見せてくれ、いろいろなものを与えてくれた。人生の水先案内人、それが私にとってのおんちゃんだった。
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