山のおんちゃんが山西造船を早期退職し、松島に居を構えたのは、1980年代後半から1990年代初頭にかけてであろうか。
そのころからおんちゃんとの交流は少なくなった。
私も中学高校と、叔父と頻繁に接する年頃でもなくなっていたこともあるだろう。
ただ、おんちゃんが、自身の生まれ育った石巻を去ったことは、やや意外な思いで受け止めていた。
その後おんちゃんが新しい地で活動の場を広げ、地域やボランティアなど精力的に活動されていたことは、風の便りで聞いていた。
大塚の亀蔵さんとも連絡が繁くあったとも聞いた。
社会貢献にレジャーにと忙しそうであった。
学生の時分に一度だけ、おんちゃんとお酒を飲んだことがある。
それがどこだか記憶がはっきりしないが、お酒を飲んだのだから私が成人以降、つまり、東京近辺だったのではないかと思う。
何を話したのか覚えていないが、私が石巻のことを「田舎が…」(そこにはおそらく生地を後にして間もなくの衒(てら)いや気負いがあったのだろう)と言うのを聞いて、おんちゃんが「田舎って言うな」と言ったのを覚えている。
ボソッとした口調であった。
そこには「田舎と言うべきでない」と「田舎と言ってほしくない」の両方の響きがこもっていた。
その後帰省することもほとんどなかった私は、おんちゃんと接する機会が全くなかったのだが、私が会社を辞めて自分で仕事を始めて数年後、おんちゃんと何度か手紙のやりとりがあった。
心配してくれたであろうおんちゃんは、郷里へのUターンを勧め、仙台市内の就職情報を送ってきてくれたりした。
私は自分の仕事の内容とそれについて自分なりに感じている意義について書き送った。
おんちゃんからは「さすが我が甥。そこまで考えているとは!」と評価してくれたが(そのことは今もって私の小さからぬ支えになっている)、それでもおんちゃんの帰郷の勧めは変わらなかった。
おんちゃんとしては、私のことだけではない、いろいろなことを考えての勧めであっただろう。
それを当時の私が理解していたかどうかは定かではない。
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