大文字屋の憲ちゃん (当面は 石巻 地震) 

RIP 親父 けんちゃん 石巻 地震

平塚達也くんのこと to 石巻 地震がありましたが大文字系は無事です。(100)

2011-07-29 02:36:52 | 日記

平塚達也君は、私の中学時代の同級生だ。

6月4日の石中同窓生の交流会でトッシュロから達也君が亡くなったとの報に接し、御実家に電話してみた。

亡くなったのは事実であった。

お話ししてくださったのは達也君のお母さんである。



地震・津波のあった3月11日、名取市在住の達也君は奥様と共にお子様の中学の卒業式に出席。無事お子様の卒業を見届けた後、いったん帰宅。その後一人で車で外出した際に津波に遭った模様。

数日後に荒浜で発見された遺体が彼のものと確認された。

奥様とお子様は無事だったそうだ。

御遺体は仙台のホテル向陽の清月記に安置、一時岩沼の寺に移された後、山形で火葬。6月4日に牧山の梅溪寺(ばいけいじ)で葬儀、遺骨はそちらに安置されている。(6月21日現在)

葬儀には、トッシュロの話では、ちばあつしさん、すずきまさしさん(たぶん、私の知っているマサシ)、お母さんの話では、かとうさん、きょうじさんがお手伝いに来てくださったとのこと。



達也君との最初の出会いは石巻小学校時代、小学校対抗の野球大会のための野球部選抜テストの時だ。5年生終わりか6年生はじめの頃だったと思う。

その時の種目にキャッチボールがあり、私のペアの相手が達也君だった。

20mほど離れた距離での、やや遠投気味になるキャッチボールだった。

その時の私は、腰のキレが悪かったのか、なぜか右方向にボールが逸れ気味で、達也君がわから見て左手にボールが偏ってしまった。(彼は左利きだった。)

結局、私も彼も受からなかったのだが、彼は私に、自分が落ちたのはおまえの投球が悪かったからだ、おまえのせいだ、と文句を言った。(たしかにこの時の私のコントロールは悪かった。それにしても野球では何かと恨みを買ってしまう。)

当時は同じ学年ならば、クラスが違っても顔ぐらいは見知っていたもので、私も彼の顔は知っていたが、はっきり印象に残ったのはこの時が初めてだ。



小学校時代は、クラスも違ったので、それ以上付き合いもなかったが、中学2年になって同じクラスになり、席が近かったこともあり、非常に仲良くなった。

席は私が前で彼が後ろだったと思う。近くには長吉くんなどもおり、いつもみんなでバカ話をしていた。

この時期、映画「燃えよドラゴン」がヒットし、ブルース・リーが流行っていた。私も映画は数回見て、髪型や格闘シーンを真似していた。

達也君もその口だったが、彼の風貌は私よりはるかにブルース・リー似だった。髪型も体型も、特に真似しなくてもブルース・リー似だった。彼の場合、格闘技として特別に凝る感じはなかったが、とにかくそれがネタで、いつも話は弾んだ。

彼の家にも遊びに行った。

彼の家は小柳町にある焼き鳥やさんの「小柳」である。とても男くさい感じのお父さん。お母さんは細面の美人である。

余談だが、憲ちゃんが若かりし頃、入院生活(たぶん糖尿で)を送った時に担当の看護婦だったのが、達也君のお母さんだった。だから大文字屋のことは結構知っていた。今回お電話で話した時も、「あら、ダイモンくん」と四十年ぶりに言われてしまった。



達也君は、性格的にはどちらかというとおっとりタイプだったが、ユーモア好きでもあった。

私が朝に寝過ぎで顔をパンパンに腫らして登校すると、「ぎゃはは、フランケンよしひろ」と仇名を付けられた。

彼が家で何か失敗して、お母さんから「それみろ!」と叱られると、「強い子のミロ!」と返したりしていた。

(ビートルズの「Revolution No.9」(White Album)をお母さんに聴かせたら、「気持ち悪いからやめなさい。」とさすがにこの時は速攻却下されていた。)

彼のまわりには、いつも笑いが絶えなかった。彼のまわりでは、いわゆる「険悪なムード」というものは成立しなかった。

冬に彼が手袋を買ってもらったのを自慢するので、私も買ってもらいたくて母親にしつこくねだったなんてこともあった。(吉行淳之介の「子供の領分」ではないが。)

中学を卒業してからは会うことがなかった。二十歳過ぎの帰省の際、「小柳」さんに寄って一杯やったことが一度だけあり、その時達也君が電気関係の会社で働いているという話を聞いた。

そして今回の報せである。



お母さんと話をしていて、「何か、彼らしくないですね…。」と思わず言ってしまった。

私の中で、達也君は中学2年時の姿のままである。その姿のまま、彼は遠くに行ってしまった。

死んだ人が星になるという話を聞くことがあるが、なるほど確かに私にとって、彼は星になったのである。



Enter the Dragon (燃えよドラゴン)

オープニングENTER THE DRAGON

(Enter the Dragon - Opening リンク切れにつき追加 20150712)

Enter The Dragon - OST - 01 - Enter The Dragon (Main Theme)

(20140608 一部加筆↑)

Enter The Dragon(1973)-Main Theme


(リンク切れにつき追補 20220821)


付記1

このテストの種目のうち遠投では、須田満くんが一番遠くまで投げた。日頃の草野球で互いの実力はある程度知っていたので、須田くんの合格は誰もが納得だった。因みにこの時の監督は納屋先生だった。


付記2

中学2年のクラスは7組で、担任は及川省吾先生(社会科)だった。


付記3

テストで落ちるというのは、これより前だったと思うが、合唱のテストで経験していた。
この当時は、なぜか分からないが情報がクチコミでよく伝わってきた。まあ今ほど自覚的ではないので、デマも多かったのであろうが。
というわけで、なぜか分からないけれど合唱のテストがあるというので、小泉好弘くんと受けに行った。彼は合格して私は落ちたのだが、その通知は葉書によるもので、その文面は「応募の人数が多いため、今回は入れません」というものだった。「はあ、人数が多いからか。仕方がないか」と思い、それを友達に話すと、「それは落ちた人を傷つけないための『言い回し』であって、要するに落ちたんだよ。」と言われて、かえって傷ついた記憶がある。
下手な気遣いが、かえって相手を傷つけるという最初の経験である。


追記4

この時代、小学校は1学年は40人クラスが6組、中学では50人クラスが9~10組まであった。にぎやかでよかった。


追記5

今度の川開き帰省でお悔みに行く予定である。







※ 大文字屋系は全員無事でした。

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〇石巻被災写真part1(私の見てきた石巻 20110331-0404)
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〇石巻被災写真part2(GWの石巻 20110502-0504)
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○グーグル(softbank)の安否情報サイト
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○首相官邸からの情報
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2 コメント

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彼と数年勤めておりました (元同僚)
2012-01-24 23:30:29
初めまして。

偶然見つけ驚いております。
彼とはかなり前に一緒に働いたことありました。
読んでみて学生の時と自分の印象とでは随分違う人だったんだと思いましたが、すぐ人のせいにしたりすぐ図に乗り茶化すのは昔からだったのですね。
彼はいい意味でも悪い意味でも神経が細かい人でしたがタバコだけは1日二箱を吸う恐るべしヘビースモーカーで自分はたまりませんでした。
無事故記録爆走の彼はクルマの運転には色々うるさく結構注文付けられましたが、そのためか裏道は嫌いでやむを得ない場合を除いては絶対通らないの姿勢を貫いてました。
そんな印象があった自分としては何であんな揺れがあったのにすぐ沿岸沿いから離れずにいたのか残念でなりません。
彼が津波の犠牲になったと知ったのは震災から数ヶ月後で、忘れかけていた在住時代の記憶が鮮明に甦ったと共に嘘だろう?と信じられない気持ちでした。
息子さんの卒業式を見届けてから星になるなんて余りにも皮肉過ぎます。
奥さんも息子さんにも辛い現実かもしれませんが彼の分頑張って欲しいです。
かなり遅ればせながら心からご冥福をお祈り致します。
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大人になったタツヤくん (佐藤慶広(管理人))
2012-01-25 01:42:37
元同僚様、コメントありがとうございます。

学生時代の印象とちがいましたか…察するに社会人、とりわけ働く人間としてのタツヤくんは、けっこう緊張感のある人だったのでしょうね。かなりのヘビースモーカーだったというのはちょっと苦み走った雰囲気を想像します。

中学時代のタツヤくんしか知らない私としては、大人になったタツヤくんに出会えた気がしてうれしく思います。

昨年石巻の川開き祭りでご両親にお会いした時に、幼い頃彼を非常に可愛がったという話をうかがいました。神経の細さ細やかさはそのあたりからも来ているのかもしれません。

私も彼の冥福と奥様お子様の息災を祈ってやみません。

コメント、本当にありがとうございました。
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