大文字屋の憲ちゃん (当面は 石巻 地震) 

RIP 親父 けんちゃん 石巻 地震

2011 川開き帰省 to 石巻 地震がありましたが大文字系は無事です。(101)

2011-08-24 03:27:24 | 日記

 2011年7月30日から8月2日にかけて帰省した。川開き祭りに合わせての帰省である。これはその記である。


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7月30日 23:30新宿西口高速バス乗場

 ミヤコーバスの新宿→石巻間の直通高速バスが復活したとのことで利用してみることにした。チケットはネットで予約、コンビニ決済。新宿-石巻直通で6,500円は他の会社より高いが、乗り換えなしで3列席で車内トイレ付であることなどから割高なのだろう。(他社では最も安くて新宿-仙台が3,500円がある。これに仙台-石巻間のバス賃800円が加わる。ただし、高速バスは土日など混雑期は運賃が高くなる場合が多い。)

 生田駅前の亀屋万年堂で購入した水羊羹とゼリーの詰め合わせ2箱を土産に持ち、Tシャツにハーフパンツにサンダルで22:00自宅を出る。小田急線で新宿へ。

 高速バス乗場は新宿駅西口を出て通りを一本渡ったすぐのところ。(ヨドバシカメラ西口本店マルチメディア館前)。この乗場はもともと京王バスのターミナルで、電光掲示板があるが少々勝手がわかりにくい。チケット売場窓口の人に聞くと、二つある乗場で待てば案内のアナウンスがあるとのこと。待っているとそのアナウンスがあり、悪天候のためバスの到着の遅れるとのこと(小雨だった)。発車時刻の23:30にバスが到着。乗り込む。

 着席すると通路を隔てた隣の席の人が「フーッ、スーッ、…」と音を立てる。見ると空気式の枕をふくらませて頭や腰に当てている。ヘビー・ユーザーのようだ。私の席は縦3列ある中央列の中ほどで、すぐ前が通路のため仕切りがあって足を伸ばせない。さらに右斜め前にはトイレがある。トイレは右列中央の階段を少し降りた半地下状の場所にある。走行中に使ってみたが、使い勝手は悪くない。清潔感はあった。利用者が多くなかったのは私としては幸いだった。バスは満席だった。両隣の席は通路を隔てる形になるが、前後はそれほど離れておらず、足を楽に伸ばせるスペースはない。リクライニングを目いっぱい倒すと後ろの席の人の体を思いきり押しつぶす形になるので、トラブルになる人もいる。

 23:45発車。一度渋谷に寄り乗客を乗せてから首都高に入り東北道へ。石巻へは6:30到着予定。

 仙台市内と石巻市内でいくつか停車する停留所があるだけで、あとは乗り換えなし休憩なしである。運転手が休憩のため降車することはあるらしいが乗客はできない。これまでの2回のバス帰省では高速PA休憩がまさしく休憩になっていたが、ノンストップで途中降車なしはきつい。トイレ付であるため車内を完全消灯することがなく、そのため完全に眠りに集中することもできず、これもきつかった。



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7月31日 6:30石巻駅前到着

 石巻に到着。曇天。いくぶん涼しいかなといった陽気。朝方ということもあり駅前に人気は多くない。立町を通ってアイトピアへと撮影しながら歩いた。

 大もり屋さんがマメヤさんの店舗で営業を再開していた。元の建物は解体されている。マメヤさんはこちらのお店は再開しないという話(キクちゃん(母)情報。)

 「がんばろう石巻 川開き」のポスターが目立つ。多くがこの祭りでの再開を目指していることが感じられた。

 他地区の支店・仮店舗での営業再開を知らせる貼り紙も見られた。倒壊のおそれのある建物も多い。再開を祝す。

 「川開祭開催時緊急避難場所 羽黒山公園」という立て看板を見て祭りの気分が盛り上がる。

 アイトピア通りにくると祭り提灯が飾られていた。

 街中は全体に落ち着きを取り戻しつつあるように見えた。

 以前は商店のショーウィンドウのガラスが津波にさらわれたままむき出しになっているのが当たり前だったが、今は新しいガラスが入るなりベニヤ板で目隠しされなり手当てが施されていたし、道路の傷んだ部分もアスファルト充填されて凸凹は少なくなっている。道端にあった瓦礫もほぼ取り去られている。

 もちろん傾いたままの建物や、手づかずになっている住居もあり、道を一本奥に入れば荒れたままのところもある。おそらく門脇・南浜に行けば荒涼依然だろうし、湊・渡波では被害の爪痕生々しかろう。

 ただ、このあたりはきれいになったなと感じた。それは見た目でもそうだったし、その空気が感じられた。

 そんなふうに思って歩いていると、カネナオさんの前でまるみ屋の英明くんとばったり出くわした。
「けっこう落ち着いだべ。」
と彼。
「うん、んだな。」
と私。
 4月はじめに会った際にはゆっくり話もしなかったので、
「一回飲みでど思ってや、今日あたりどうだ?」
 私が水を向けると、
「ああ、いいよ。今日前夜祭終わったら空いでっがら。」
 ということで、携帯番号を交換して別れた。

 大文字屋に着く。店前の建物部分と歩道の間の段差(地震によってできた)を補修した跡が見られた。後で聞くと秀丸屋さんがやってくれたそうだ。お世話になってばかりで申し訳ない。ありがとうございます。

 と思っていたら、秀丸屋さんのご主人と出くわしお話を。大きな組織を持つ業界は補助や融資を受けられるからいいが、個人商店にはそれがないので厳しいねえと話されていた。

 母と憲ちゃんに帰宅の報告をし仮眠。キクちゃんがアイトピアの祭りの出店に行って焼き鳥やら何やらを買い出してきたので、それをおかずに店で昼食をとる。須藤さんがお店に見えたのでキクちゃんと写真を撮らせてもらって外出。

 立町のアーケードにはすでに祭りの飾り付けがなされていた。おそらくは小学生が願い事を書いたであろう四角い色紙、そして折り鶴。まったくもって質素・素朴であるが思いが感じられる。

 穀町の「四釜商店」さんでお酒を1本買って、小柳町の「小柳焼きとり」さんを訪ねる。津波で亡くなった平塚達也くん(石小・石中同級生)のご実家である。

 お母様はお元気で、お父様も健在であった。達也くんの生前のお写真を拝見させてもらった。あの彼がおやじ臭くなることもなく、そのまま大人になったかの印象だ。達也くんのお話をいろいろ伺った。ここではそれを書かない。というより書けない。書けぬほど尽くせぬ思いがお母様お父様にあったことだけを記す。(お店を再開されたら是非寄りたい。)

 小柳さんを辞し、再度四釜商店さんへ、今度は自分が飲む用のお酒のために寄った。

 四釜商店の大旦那さんは叔父のジュンコちゃん(女川の大文字屋)の幼馴染みなので一度ご挨拶したいと思っていて、兄からも「声かけてみだらいっちゃ」と言われていたのだ。大女将さんが応対してくださったので、大文字屋の人間であること、ジュンコちゃんが元気であること伝えると喜んでくださった。と言っても、津波後まもなくの女川脱出の際から、ジュンコちゃんは石巻を通る度にこちらに寄られていたそうで、事情はよくご存知のようであった。さきほどは浦霞「禅」4合瓶を買ったが、今度は墨廼江の特別純米(1升瓶)を買って店を辞す。(辛口とそうでないのと2種類あり、値段は変わらないが、辛口でない方を買った。飲んでみて正解と思った。墨廼江の特徴である複雑な旨味がよく出てなおかつ非常にコクがあった。まあどっちが良かったかは飲み比べないと言えないので、辛口も飲まないといけないのだが。)

 帰り道、アイトピアの集会所前で貞吾さんに会った。川開きの準備を仕事の一部としてされているとのこと。かなり前から貞吾さんとも飲もうと話していたので、機会があったらと思った。 

 大文字屋に戻る。もう日が暮れかけていた。少しずつ前夜祭に出向く人で通りがざわめいていた。店にはバナナ、桃、玉蜀黍、トマト、胡瓜、葱、玉葱、グレープフルーツ、小豆(袋入り)、葡萄、レモン、卵、乾麺類、干し椎茸、調味料、インスタント・レトルト食品等々が、段ボールや木箱に入ったまま並べられていた。冷蔵庫(家庭用)には牛乳、茄子漬等々が。まだこの辺りでは店が少なく食料品の調達が難しい事情もあって、ぽつぽつと客が買い求めて行く。前夜祭に向かう家族連れがビールのつまみにトマトを買っていった。被災地でハエが大量発生との情報があったが、ここではそれほどではなかった。それでもハエ叩きとスプレー式殺虫剤が備えられていて(たぶん配給)、時々キクちゃんがハエを追っていた。

 千葉肉屋さんがご家族で寄っていかれたので、写真を撮らせていただいた。それを潮に私も前夜祭に見に出かけた。

 京屋さんと観慶丸さんの間の(とり文さん八幡家さんのある)細い通りには「松川通り」という幟(のぼり)が立てられ、出店や催し物がでていた。(「松川通り」の呼称には由来有りとのこと。)

 アイトピアを抜けた中央3丁目の観慶丸さん前から川岸への通りは、灯篭を模した蝋燭飾りが路上に並べられ、青い闇を淡い橙の灯が彩っていた。バスターミナルには、犠牲者慰霊のための祭壇と焼香台が設けられ、数人の僧侶が読経、多くの市民が焼香に列を作った。その周りを幾重にも人がとり巻いて慰霊祭を見つめていた。川には灯篭が流され、岸や橋の上から市民が藍色の川面を彩って流れるそれに手を合わせていた。灯篭は多くの市民に見送られて川を流れ下っていった。

 陶酔と祈りの渾然とする中、前夜祭は続いた。一心に手を合わせ祈る人の姿に、この祭りが行われてよかったと思った。

 大文字屋に戻り、キクちゃんとまったりしていると8時半頃に携帯が鳴った。英明くんからである。大文字屋に寄ってもらい合流。どこの店を行こうかという話になり、とりあえず私が耳にしていた魯曼停(ろまんてい:字はこれでよいのか?)さんに行くことに。もともと須藤さんの1階で営業されていて大文字屋にも至近であった。日本酒好きの私が行かなかったのも妙な話だった。被災され、その後石巻グランドホテル内で営業再開されたと聞いたので、一度うかがいたいと思っていた。(川岸にあった友福丸さんにも行きたいと思っている。)

 英明くんとは大学時代に飲んで以来だろうか。今回の被災にあたってのご家族・お店の状況や地元の状況などうかがった。うれしかったのは、まるみ屋さんが営業を再開したことだ。聞くとやはりこの川開きを目標に準備を進めてきたとのこと。本当にこれはうれしかった。地元全体の復興についてはまだまだこれからで、いろいろな話が出ているが具体的に実行に移されるのはかなり先になりそうだと。行政側としては、国レベルで最低限・最優先に何をすべきか決定事項はあるようだが、それ以外は地元住民の意見・意向をまずもって聴き、その上で意見交換しながら進めるということのようだ。

 はじめはビール、次に彼はカクテル、私は日本酒で杯を傾けながら11時過ぎまで話した。

 変わっていないなあと思った。もちろん、いい歳した男性について「変わってない」なんてコメントは失礼にあたるだろう。しかし、青年会や商店会などの役で活躍され、この震災もくぐり抜けていこうとする彼が、30年前と同じやわらかな口調で語るその変わらなさに強さを感じるのだ。もっとも、また大きな地震が来るかもしれないという話になった時、
「どうせ来るなら、今度は地盤沈下したところを上げてくれればいんだげどな、まあ、ハナシだげどや(笑」
なんて言うところはユーモアのセンスが上がった。

 こうして前夜祭の夜は、英明くんとの語らいで更けていったのである。


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8月1日 9:00起床。 


 川開き当日。兄は透析の日だったので、お昼前に病院に向かう。10時からアイトピアや立町、寿町は歩行者天国になる。パレードは13時からだというので私は午前中に門脇、南浜を回ってくることに。

 門脇に向かう途中、佐藤外科の通り、石川すき焼き屋さんの向かいに菓子店「笠屋」さんがある。「サクサクおからクッキー」が楽天サイトで好評で、「儲かりません」とボヤキながらもリピーターのついてきた矢先の被災。4月にお店を拝見し、今後を気にかけておりましたが、今回お店を拝見したところ、「ここで再建します」の力強いお言葉(立札)。期待しております。(→その立札建物)

 川岸に出ると、護岸工事が進んでいた。この日は祭りのためか工事は行われていなかったが、北上川沿いに1mほどの高さの白いコンクリートの壁が続いている。おそらく地震による地盤沈下と津波による損傷を補修する暫定的な工事であろう。今回の津波が川岸付近で5mはあったであろうから、1mやそこらの壁では大津波を防ぐことはできない。それなりの高さの堤防を築く本格的な工事が必要であろう。そしてこれによって北上川の河岸の景観は変わることになるのであろう。

 門脇2丁目交差点。 4月2日 → 5月2日 → 8月1日

 西光寺、称法寺を回る。周囲の様子はGWの時期とあまり変わりないが、瓦礫の撤去が進んだことは見て取れる。称法寺は本堂前の墓地に入る門を塞いでいた住宅の瓦礫が撤去されていた。しかし、墓石や墓地の整理は進んでおらず、依然としてどこに誰の墓があるのか確認できない。「西本願寺」のTシャツを着た方(ボランティア?)が、丹念に瓦礫の撤去を行っていた。瓦礫の撤去といっても、そこいらへんに落ちているものが大切なものかもしれないということか、時間をかけて慎重・丁寧にされているように見えた。この1週間程前にも、墓のお骨入れから被災者の遺体が発見されるということがあったそうだから、その影響もあるのかもしれない。あまり手がついていないこの辺りでは、今後も遺体や遺留品が発見される可能性がかなりあるだろう。

 日本製紙アパート裏の坂を登って日和山へ。市女高前を通り、緑濃い日和山公園を抜けて(紫陽花が咲いていた)、サトウ売店で石巻焼きそばを食べる。(→ 石巻焼きそば:さとう売店版) シンプルに麺を味わえる金兵衛茶屋さんに対し、こちらは心もち麺に水気が多く肉野菜もあって「食事」感がある。(私はどちらも好きである。)神社前では「石巻観光ボランティア協会」のブースがあり、音楽関係のイベント準備が行われていた。中瀬の見える辺りを歩くと、このあたりは今年の花火(中瀬打ち上げ)を見るには良い場所ではないかと(今)思った(後の祭り)。あちこちに小虫を捕るプラスチックケースが遊歩道の手すりにぶら下げられていた。

 旧市役所裏の坂道に向かうと道の左手に「蛇の目寿司」さん(もと中央1丁目、気仙屋旅館さん隣)がちと庭園風に店を構えていたので驚く。(→こんな感じ)

 坂を下りきってから一旦公民館に寄る。こちらはまだまだ避難所である。中央1丁目を歩くと、かどや肉店さんが出店を開いていた。永巌寺の参道入口では「石巻フォークキャラバン」のイベントブース。大森花園さんは仮店舗でうどん屋を営業。中村旅館さんは建物の傾いた部分が撤去されていた。向かいの山上くんのお店は「配給所」他諸々になっている。「プロショップまるか」さんには「石巻名店街」(割烹滝川さん、寶来寿司さん、すき焼き石川さん、中国飯店楼蘭さん)も開かれている。(→「石巻名店街」についての石巻かほく記事 )

 お不動さんに寄ると、こちらも炊き出しを行っていた時と様子が一変してきれいに片づけられていた。「お風呂引越しました」の立札が名残を留めている。(こちらにあった「不動の湯」は各種支援団体による被災地「千人風呂プロジェクト」の一つらしく、市民会館に移設したらしい。→「千人風呂プロジェクト」 、)

 広小路のアイトピア通りはパレードのスタート地点になっており、すでに通行止めになり準備が進む。沿道にはパレードを見るため席取りする人々。寿町通りには蕎麦の「すがわら」さんが再開オープン(祝!)。あちこちに出店が出て若者で賑わう。橋通りには平塚市から贈られたという七夕飾りが。いずこも、どこにこんなに人がいたかと思うほどの人、人、人。

 大文字屋に戻る。店前が見物客でふさがり出入りもままならない。もう午後一時を過ぎた。
 
 パレードがスタートする。湊中の吹奏楽が先陣を切る。ユニフォームはロゴ入りのTシャツと短パン。楽器の音が響き渡る。その響きにジンとくる。こういう音を聴くのは久しぶりだと思った。振り向くと秀丸屋のご主人が涙ぐまれていた(ように見えた)。ディズニーのパレードには小さな子供たちが「ミッキーィッ!、ミッキーィッ!」と絶叫(苦笑。

 家族連れの子供が急にトマトを食べたいと言い出して母親が買っていく。桃もよく売れる。隣の秀丸屋さんで販売している飲み物がよく売れ、それを作る用の牛乳を大文字屋から買っていき、ついにこちらの牛乳が先に売り切れ。低血糖で急に気分が悪くなった見物客が飴を忘れたと言ってクルミ饅頭を買い、美味しい美味しいと店内で食べて休んでいく。聞けば大川で被災し、現在石巻で仮設住まいの四人家族。売り物の飲み物がないのでキクちゃんがその辺にある自宅用のペットボトルのお茶や水をサービスする。まだ買いに来っからと言って出て行かれた。

 小腹が減ったので、もり屋さんから、そば、ラーメン、餃子をとってキクちゃんと食べる。(もり屋さんも行列がハンパでなかった。)

 立町方面を回る。アーケード街には出店が多く出て、たくさんの人で賑わっていた。駅近くの旧大和屋書店さん前で大型トラックを仮設ステージにしたアンパンマンショーが行われ、人垣ができていた。その付近は「横手やきそば」などB級グルメをはじめとしたイベントブースが立ち並ぶ。歩いていると「おう」と肩をたたかれる。坂本くんである。「ひろえば街がすきになる運動」というイベントに出向だそうである。記念撮影。パレードは間欠的に行われ、道々、大漁踊りや小学生のチアリーディングに出くわした。

 サルコヤさん前では、憲ちゃんの幼馴染みで葬儀で弔辞も読んでくださった社長さんがインタビューを受けていた。お元気そうである。津波で被災したピアノを修復し、そのピアノ伴奏で歌う復活イベントだそうである。ピアノはしっかり復活していた。

 橋通りから松川通りも出店とイベントで賑わう。

 星薬局近くの集会所で一服して4時過ぎ。携帯を見ると着信あり。見るとO君である。近くにいると言うので行ってみると英明君とご一緒。久々の、本当に久々の再会である。(なぜかお母様と弟君には先に再会を果たしている。)

 パレードを見ながらいろんな話をした。震災直後のこと、塩野君をはじめとする友人たちのこと。話が尽きないので珈琲館に入る。
 彼は今回の震災には、職業人として、ボランティアとして、被災者家族として、異なる三つの立場で関わった。そこから言えることは、ひとくちに被災者といってもそれぞれ違う(違い過ぎる)、だからそれぞれに対応が必要あこと。また、これまでの公式は通用せず、随時事象に沿った解決策を見出していかなければならないということ、であった。とてもよく頷ける。
 小学校時代から高校時代までの思い出話は尽きない。草野球、野球盤、モノポリー、トントン相撲、鉄球ゲーム、石巻柔道会、スキー旅行。彼のお父様の話も興味深かった。海(船)の上で亡くなったこと、お店の常連の方他多くの方に慕われたこと、ピザを焼く石窯をワイン樽を使って理想形にデザインしてしまった無手勝流、専門外なのに専門家より美味しく本場の味に作ってしまったパエリア、自然で飾らぬお父様の生そのものが人の生命力を蘇らせるものであったこと…。i-Phoneで生前のお姿を拝見する。お父上の物語を書くなら第百部ぐらいまで必要と彼。
 なんて話を二時間ほどして別れた。

 大文字屋に戻る。辺りの出店が軒並み売り切れらしく、口に入るものを求める客が途切れない。

 7時半から花火が始まった。客がぽつぽつ来るので店番をしていたが、途中二度見に行く。広小路あたりから結構見えたが、やはり川岸に行かないと全体は見えない。それほど混雑していないので川岸まで行く。中瀬での打ち上げる花火は近いので腹に「ドン!」と響く。昔湊で打ち上げていた頃の迫力が甦った気がする。キクちゃんにも「広小路からでも見えっから、少し見でござい」と言って見に行かせる。途中から鈴木くんから携帯に電話が入る。花火の音が聞こえるらしく図らずもの花火実況に感激していた。(花火大会の映像 → )

 花火も無事終わった。みんな家路に就く。楽しい祭りの終わりは終わりも楽しい。みんな余韻を楽しむのだ。
 
 私は大文字屋に戻り、キクちゃんと店を9時過ぎまで開けて閉めた。

 その晩はキクちゃんと四方山話をしながら、墨廼江を飲んだ。とても美味しかった。何を話したか覚えていないが気が付くと2時になっていた。さして酩酊したつもりはないけれど、さすがに遅いので床に就いた。



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 8月2日 10:00起床

 多少二日酔い(飲んでばかりいる)ながら起き出して憲ちゃんに挨拶して出発。帰路は仙石線経由。あえて途中の代行バスに乗ってみようと思っていた。

 仙石線は石巻-矢本間を列車で、矢本-松島海岸間をバスで代行輸送、松島海岸-仙台間を列車でという行程になっている。
 石巻駅で列車に乗る。11:12発。電車ではなくディーゼル車(2両編成)。初めて見るタイプの車両で、路線バスにあるような乗車地別運賃表があった。(→車両)
 矢本までは15分程で着き、バスに乗り換える。仙石線の駅を辿る形で松島海岸に向かう。すなわち、国道45号を鹿妻-陸前小野、鳴瀬川を渡って県道60号線を南下して県道27号(奥松島パークライン)に入り野蒜-東名-陸前大塚-陸前富山-手樽-高城町-松島海岸である。時間にして50分程。
 野蒜に向かう鳴瀬川河口付近は津波の影響で地形が変化しているように見受けられた。(→ 鳴瀬川河口付近)
 バスの車中からはあまりじっくり見ることはできなかったが、道路の海側の田畑で作付けがなされているのは手樽あたりからで、矢本~陸前富山間には見られなかった。海の養殖施設の復旧の程度は肉眼では確認できなかった。

 松島海岸駅で再び電車に乗り換える。今度は従来の車両で4両編成だった。
 東塩釜から本塩釜にかけては電車から内海がよく見え、打ち上げられた船が撤去されずにあるのがいくつか見られた。(一匹狼ボランティア平塚さんの被災した職場も塩釜だった。)
 仙台着。駅構内の七夕飾りが目を引く。Maxやまびこ2階建て252号(13:56発)の指定を取り、発車までの待ち時間に駅1階のなぜか黒石やきそばを売っている蔵王そば(立ち食い)でかけ蕎麦を食い、近くの「けやき」で「於茂多加」を買い、列車に乗り込む。
 2階建て車両の乗り心地も良く、15:56に東京駅着。JR中央線で新宿に16:30着、前晩スミノエを飲み過ぎて寝床で変形させてしまった眼鏡のフレームの調整に西口ヨドバシカメラ時計館に寄り、携帯電話の充電池の調子が悪いので東口docomoに寄り、一服しようと西口ドトールでBセットを頼むと手渡しする瞬間上にのったパンが崩れ落ちて作り直しとなり、気がついたら7時半を過ぎていたので、開き直ってゆっくり食べ、自宅に着いたのは9時半であった。
 こうして川開き帰省は終わった。

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 祭りが終わって日常は戻ってくる。

 祭りはいろんなものを洗い流してくれたような気がします。

 この祭りの実現に尽力された地元の方々、多数のボランティアの方々、全ての方々に感謝します。



付記1 「観慶丸」さんがHPで震災時を振り返っておられました。 → こちらHPトップ

付記2 「サクサク おからックッキー」の「菓子 笠屋」さんの楽天サイト → こちら 

付記3 「割烹滝川」さんの映像 → こちら

付記4 「四釜商店」さんのHP → こちら

付記5 今回の写真(400枚以上あるので、全部見るのにけっこう時間かかります。スライドショーの「速」設定で30分ぐらい。) → こちら

付記6 最近つぶやいた曲
 → 桜三月散歩道水無月の夜チエちゃん



以上新着情報








※ 大文字屋系は全員無事でした。

※ 情報連絡先(当ブログ管理人宛)
…mail: codaimon@gmail.com
…docomo携帯なら番号でショートメールが送れます。:090-3403-6778
…自宅電話: 044-911-8231
こちらのコメント欄でも結構です。

※ 各種情報。

〇石巻の被災状況と生活情報(2ちゃん情報多し。随時更新)
http://blog.nexyzbb.ne.jp/rciel/

〇被災地生活救援サイト(立ち上がり間もないためか情報はまだ少ないも今後増える可能性あり、要チェックかと)
http://resource-info.appspot.com/view/

〇河北新報の地域密着情報
http://www.kahoku.co.jp/

〇石巻・女川の震災被害(写真多数、日下羊一(真羊舎)さんのブログ。ツイッターも拝見しております。)
http://shinyousha.com/shinsai/

〇石巻被災写真part1(私の見てきた石巻 20110331-0404)
http://gallery.nikon-image.com/134530644/albums/2343202/

〇石巻被災写真part2(GWの石巻 20110502-0504)
http://gallery.nikon-image.com/190858889/?command=myself

○グーグル(softbank)の安否情報サイト
http://japan.person-finder.appspot.com/

○首相官邸からの情報
http://www.kantei.go.jp/jp/kikikanri/jisin/20110311miyagi/index.html


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