8月2日、今年は福島への温泉旅である。いつもは同じ宿に二泊するのだが、今回は移動の都合もあり、二つの宿に一泊ずつを計画。
中野栄の駅を15時08分のJR仙石線あおば通り行に乗り、仙台に着いたのがが15時26分。15時43分仙台発JR東北新幹線やまびこ146号東京行に乗り、16時28分に郡山着。16時37分郡山発JR磐越西線会津若松行に乗り、17時54分会津若松に到着。磐越西線に磐越西線に乗るのは本当に何十年ぶり。
ここで18時ちょうどの宿の送迎バスに乗る予定がバスが来ない。問い合わせると予約しないと車は行かないとのこと。サイトにそんな説明はなかったと思ったので、調べてみるとあった。もっと目立つように載せてくれ!! 仕方ないので宿までタクシーで。乗ったタクシーの運転手さんがいい人で、会津若松の観光案内をしてくれた。地元出身の方で郷土愛豊かだ。さざえ堂がお薦めということで翌日行ってみようかと思う。(「タモリがテレビ番組で訪れて絶賛したんですよ!」と言っていたが、私にとっては要らない情報である。)
10分ほどで宿に到着。「庄助の宿 瀧の湯」は渓流沿いの中規模温泉ホテル。たしかに建物は急流に沿って建っており、眺めがよい。フロントで受付を済ませる。担当は東南アジア系の若い女性で、流暢とまでいかないが無難な日本語で宿泊の案内をしてくれた。時代ですな。
ネット予約の際に「部屋お任せプラン」という割安プランを選んだので、部屋に関しては期待していなかった。といっても全室渓流沿いで眺めの良さは保証されていたので、ある程度安心していた。で、実際部屋に入ってみると、10畳以上ある和洋室で、何かデザイナーズマンションの一室のようなこじゃれた感じであった。おそらく建物の端に位置すること、入口がやや狭いこと、部屋の中央近くで柱が眺望を遮(さえぎ)っていることなどで、お安くなっているのかと思う。しかし、渓流の眺めは充分楽しめるし、ゆったりとしたスペースがあるしで、むしろ得した気分であった。まあ個人的に温泉と言えば畳敷きの純和室が落ち着くので、そうでなかったことが若干残念ではあったが。
到着が夕食ギリギリのタイミングだったので、まずは夕食会場へ。地元の名産を生かした献立で美味しくいただけた。私の好きな日本酒についてはあまり種類はなく、美味しいものはなかった。まあ、温泉旅は温泉ファーストなので酒についてはあまり期待もしていないので、いいのだ。食事の中では「三五八漬」という漬物が印象に残った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%94%E5%85%AB%E6%BC%AC%E3%81%91
さて、お風呂である。いや、その前に、宿のイベントがあるというので、覗いてみることに。この宿には建物の向かい側の斜面にお能の舞台がある。そこでお能が演じられるという。といってもVR(ヴァーチャル・リアリテイ、仮想現実)である。要は映像を映して見せるのだ。かつては急斜面にある舞台で本物が演じられていたらしいが、斜面の崩落があったとかで、今はVRのみになったらしい。フロント近くの会場に行ってみると、何か語り部のおばあさんが昔話を始める。東北出身の私でも聴き取りにくい会津弁の語りに1分程で退散。さあ、今度こそお風呂だ。
こちらの宿は名前にある通り「オハラ庄助」さんの宿。私はそれに魅かれたわけではなく、かけ流しの露天風呂という条件で探したら結果たまたまこちらになった。それでも「朝寝 朝酒 朝湯」のオハラ庄助の湯がどんなものであるか、一応確かめ楽しんでみることに。まず館内にはオハラ庄助縁(ゆかり)の石風呂なるものが展示されている。貸切露天の「庄助の湯」は二つの五右衛門風呂を並べたもの。何でも日本酒「写楽」で有名な「宮泉酒造」から譲り受けた麹釜とは後で知った。肝心のお湯は、…湯加減はまずまず、くせのないいい湯である。夜の竹林を眺めながら旅の疲れを癒した。
翌朝、少し早めに起きて、大浴場の露天風呂へ。こちらでは滝の流れを横に見、その水音を楽しみながら湯浴みできる。ひと時、滝の音に浸りながら湯に浸ると心地よい…。
大浴場には四角い小さな木の湯舟が3つ並んでいる。庄助さんが愛用した湯舟に倣った小さめの湯舟らしい。
実はオハラ庄助さんについてはwikiなどで調べると、実在の人物としては扱われていない。それに対してこちらの宿ではかなり具体的な形で実在の人物として説明されている。諸説あるということらしい。どちらが本当か。実在したと考える方が楽しいとは言えそうだ。いや、実在しないとしても、架空の人物庄助さんがもたらす影響力はなくなることはない。そう考えると、庄助さんの存在は、すでに「実在か否か」を超えている…
そんなことを考えながら風呂に入るわけもなく、何も考えずに、オハラ庄助ばりに朝湯に浸かってきたのだった。
朝食は大広間で。たぶん二百畳近くあるその中にかなりの種類の料理がバイキング形式で揃っている。和洋食からラーメン(朝から、しかも三種類ぐらい)に至るまで。私は数種類のお餅が気に入る。その中にくるみ餅があったからだ。ところが、お餅のコーナーだけはなぜか自由にとることができず、昨夜昔話の語りをやっていたらしい老婦人が周囲を睨(ね)め回すように鎮座し餅の注文に応じていた。私がクルミ餅をお願いするとまちがえてきなこ餅を渡される。くるみ餅を再度お願いし、きなこ餅はそのまま受け取る(これは結局食べきれなかった)。どうもこの老婦人とは相性が悪いようだ。それでも、種類豊富な料理に満足し、あるいは豊富すぎる料理に食品ロスを心配しつつ、朝食を終えたのであった。(朝酒は飲まなかった。)
庄助の宿をチェックアウト。10時には外へ出なければならないので、一泊はつらい。次の宿に着くまでの時間をどう過ごすか。特に予定は立ててなかったのだが、昨日のタクシーの運転手さんから勧められたので「さざえ堂」へ行ってみることに。
さざえ堂は飯盛山(いいもりやま)というところにある。飯盛山は白虎隊が戦死した場所である。そもそも福島は小学校の修学旅行で来たところ。この辺りも来ているはずである。もっとも、小学校の修学旅行については、たしか蒸気機関車を特別に貸切って走らせたということぐらいで、福島の地については全く記憶がなく、よって初めて来たのに等しい。そういうわけで、バスで飯盛山に向かったのだ。
飯盛山は小高い山だ。ただ勾配が急で石段も多い。そこで、有料だが移動用スロープが設置されている。それで数分で頂上へ到着。白虎隊を追悼する碑や施設を一通り見る。さざえ堂にも登ってみる。登ってみて何か来たことがあるような気がしたが気にしないことにする。ちょっと奥に行くと、池のようなものがある。知らなかったのだが、こちらには猪苗代湖から水を引くためのトンネルがある。戸ノ口堰洞穴といい、江戸時代に造られたという。山のどてっぱらに穴が開いていて、そこから水が滔々と流れ出ている。そして山のあちこちに水路が巡り、水が勢いよく流れている。私は水の豊かな風景が好きで、郡上八幡や尾瀬の湿原など、いつか行きたいと思っている。ここにはそれと同じものがある。これは発見であった。自分の求めていたものと突然前触れなく出会った気分だ。思いがけないものだ。私にとって飯盛山は不思議な山上の水路の地として強く刻印された。水の流れで目を楽しませ、山を下りてからは、ふもとのちょっとカオスな土産物屋の「元祖 桃ソフト」なるものや「あわまんじゅう」なるもので舌を楽しませ、私は飯盛山を後にしたのだった。(桃を使ったソフクリームかと思ったら普通のバニラや抹茶のソフトクリームに桃の実がついているものだった。美味しいのでいいです。)
飯盛山からはタクシーで、今度は福島県立博物館へ。これも前日タクシーの運転手さんの話で知ったのだが、現在奈良の興福寺展が行われているという。ふだんこういうものに興味があるわけではないが、滅多に見られないものであるし、旅の機縁とも思い、行ってみることに。
(興福寺展は撮影禁止なので可能な部分だけ撮影。)
仏像や古文書をいくつか見て感じたことがある。巻物状の古文書などは仏像の中に収められて保存されていることがあるという。そこには仏像の中に仏の教えを埋め込む、そういう発想があったのではないか。また、仏像には、ある時期を境に明らかに表現様式のちがいあること。素朴で原始的、イメージそのもののような単純なものから、かなり写実的な、実際の人物にできるだけ似せる、実物を再現しようとするものへと変化している。ここには何がリアル(本当)かについての転換が見られる。そしてもう一つは、この変化が興福寺の焼き討ちの後に起こっていること。興福寺の再興を期して、多くの仏師が再建に取り組み制作に励んだ、その中で新たな表現が生まれている。そしてその前には長年に渡り技術が蓄えられていた。破壊は創造の契機だった。
そんなことを思いながら、興福寺展を後にし、次の宿へ向かったのだった。
20190802-03 東山温泉庄助の湯と飯盛山と福島県立博物館
20190802 東山温泉オハラ庄助の湯と飯盛山 会津温泉旅01
20190803 飯盛山と興福寺展 会津温泉旅02
付記1
「庄助の宿 瀧の湯」さんには、今回プラン予約制で利用することができなかったが、屋上に展望露天風呂がある。こういうところも開放してもらえるとよいのだが。
付記2
宿から眺める伏見の滝は「湯川(ゆがわ)」という河川にあり、「湯川」は阿賀野川水系に属す。阿賀野川は福島県と群馬県に源流を発し新潟を流れ日本海に注いでいる。
付記3
参考:水辺遍路 戸ノ口堰洞穴(福島県会津若松)
付記4
さざえ堂(栄螺堂)は中が螺旋(らせん)式の廻廊になっていて、登りと下りが交わることなく、上がって降りてくることができる。メビウスの輪のようだ。中には孝行話の説話が記された紙が無数に貼られていて耳が痛い。もともと仏堂らしい。
付記5
南都焼討と呼ばれる興福寺の焼き討ち(1181年)は実際には平重衡(たいらのしげひら)の父である清盛(きよもり)の命である。そのさまは現代の常識に照らせば陰惨極まりない。
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『平家物語』[4]によれば平清盛はまず妹尾兼康に兵500を付けて南都に派遣した。清盛は兼康に対して出来るだけ平和的な方法での解決を指示して軽武装で送り出した。だが、南都の大衆は兼康勢60余人を捕らえて斬首し、猿沢池の端に並べるという挙に出て兼康は命からがら帰京し、清盛を激怒させた。
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今も昔も鬩(せめ)ぎ合いというのでしょうか、非常に細かい勢力争いのようなものが、何かのきっかけで大きな出来事につながることがよく分かります。地震と同じで、エネルギーはあまり溜め込まずに、随時放出していた方が無難なのかもしれません。
焼き討ちからおよそ百年後、
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興福寺はこれらの権限を根拠として、大衆や組織化されて国民と呼ばれた在地武士らによる実力行使を通じて大和国内における支配を強め、鎌倉時代を通じて正式な守護が置かれなかった大和国の実質的な守護ともいうべき地位を確立することになる。
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当時の仏教界の権勢ぶりがうかがえる。(引用はすべて wikipedia 南都焼討 20190831閲覧 による。)
付記6
興福寺展は正式には「福島復興祈念展 徳一がつないだ西と東 興福寺と会津」。福島県立博物館で2019年7月6日〜8月18日の期間行われた。写真撮影はNGなのでチラシを。↓
付記7
最近聴いた曲↓
Shawn Mendes, Camila Cabello - Señorita
Elderbrook & Rudimental - Something About You (Official Video)
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