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▲ アカンサス
はあざみ・葉薊/Acanthus/bear's-breech
キツネノマゴ科アカンサス属/大型の常緑多年草/地中海沿岸原産
通常は観賞用に栽培されるAcanthus mollisを指す
はあざみ・葉薊/Acanthus/bear's-breech
キツネノマゴ科アカンサス属/大型の常緑多年草/地中海沿岸原産
通常は観賞用に栽培されるAcanthus mollisを指す
§1.「アカンサス」
私が住んでいる東京・板橋区は、カナダ Canada オンタリオ Ontario 州バーリントンBurlington 市との国際姉妹都市提携を行っていて、板橋駅前公園の一部には「バーリントン広場」が設置され、そこにはカナダ国旗のモチーフになっているサトウカエデ/砂糖楓/Sugar maple/樹液をメープルシロップとして利用する/の木などが植えられ、晩秋には大ぶりでまっ赤なカエデの葉が公園の一角を染めてくれます。
そのサトウカエデの根元で、季節を問わず力強く茂っているのが「アカンサス」です(トップ画像▲)。
30年ほど前、その町内に住んでいたわが家にとっては、子供たちと「公園デビュー」をした思い出深い空間でもあります。
アカンサスは葉の形がアザミによく似ているので、日本ではハアザミ/葉薊/とも呼ばれてきましたが、花はルピナス/昇藤/のようにきつ立し、キク科のアザミ/薊/とはまったく別の植物です(▼ 資料画像)。
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地中海沿岸原産のアカンサスの葉は、古代ギリシア以来建築物や内装などの装飾のモチーフとされ、特に「コリント式」列柱はこれをみごとに意匠化した柱頭を特色としています(▼ 資料画像)。
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大型の常緑多年草で、見るからにアグレッシブな生命力旺盛さを感じさせ、実際、乾燥にも日陰にも寒さにも強い植物であることから、地中海文明で絶大な支持を得たのは、栄光、勝利、征服、富、権力、権威といったパワフルなイメージの象徴として扱われたからでしょうか。
アカンサスの葉の装飾文様は、古代ギリシアからローマ、ビザンティン、ロマネスク、ゴシックへと受け継がれ、ルネサンス期に復興し、彫塑や木彫、建物内装のクラウン・モールディング/廻り縁/などに「ビザンチンリーフ」として用いられ、ギリシアでは国花ともなっています。
19世紀末には、生活と芸術の一致をめざしたデザイン思想とその実践(アーツ・アンド・クラフツ運動/Arts & Crafts Movement )により、「モダンデザインの父」と呼ばれるウィリアム・モリス( William Morris/1834~1896/UK )も、アカンサスの葉をモチーフにした壁紙に得意の技量を発揮しています(▼ 資料画像)。
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§2.国宝「四騎獅子狩文錦」
アカンサスの装飾文様が、古代の日本にも渡来していたことを最初に発見したのは、皮肉にも明治維新後の廃仏毀釈/はいぶつきしゃく/を経て日本美術保護に立ち上がった、フェノロサ( Ernest Francisco Fenollosa/1853~1908/USA )と岡倉天心( 1863~1913 )らで1884年のこととされます。
それは1200年の間開扉されたことがないといわれる奈良・法隆寺「夢殿/ゆめどの」の秘仏、国宝「救世観音像/ぐぜかんのんぞう」のわきに立てかけられていた一巻の織物、現在の国宝「四騎獅子狩文錦」です。
法隆寺では「四天王獅子狩文錦」と呼ばれていました。
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▲ 国宝「四騎獅子狩文錦」/しきししかりもんきん/中国・唐/
たて250.0×よこ134.5cm/法隆寺/奈良/1951年指定
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▲ 龍村美術織物が複製した「四天王獅猟文様錦」
してんのうしりょうもんようにしき(商品名)
以下、この錦の概要を文化庁・データベースより原文のまま引用します。
■ 品質・形状:
綾組織の緯錦。主文は、径45cmほどの連珠円文のなかに花樹を中心として上下左右に翼馬にまたがり振り返りながら獅子を熬る四人の人物を左右相称に配す。主文の間地には、中心に花文をもつ連珠円文の周囲に忍冬文風の花唐草文を配している。
■ 解説文:
連珠円文の中に左右相称の獅子狩文を配した独特の文様、さらに人物の容貌や頭冠の形などに、ササン朝ペルシアの影響が見られるが、馬の尻部分に「吉」「山」の漢字が織り込まれていることから、中国で製織されたものと考えられる。複雑な文様構成であるが、文様の崩れや形式化もなく、見事な織技が見られる。
§
実物は「三釜・五段幅」という、連珠円文が横に3組・縦に5組並ぶ規模の大きな布です。一説に聖徳太子の錦の御旗といわれます。
【品質・形状】の文末に「連珠円文の周囲に忍冬文『風』の花唐草文を配し」とあり、円文と円文の隙間を埋める形で表わされているのが、「アカンサス十字唐草」という、古代ギリシアに発しペルシア・唐を経て法隆寺に伝来した文様です。
画像▼の「四騎獅子狩文錦」は、30年ほど前に桐生織/きりゅうおり/群馬/で、機械製織による復原に成功したレプリカ(1パターンのみ)です。
後述のように私にとっては運命的な意匠ともいえるわけがあったので、出会ったとたん、一も二もなく座右の「学習資料」として入手したものです。
画像の4隅に配置されているのが「アカンサス十字唐草」。オリジナルとは多少図案の細部が異なっているところもあるようですが、ていねいに額に入れ、今も居間の壁に掛けて楽しんでいます。
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▲「四騎獅子狩文錦」/桐生織のレプリカ/
たて375×よこ345mm
織物は縦軸と横軸に表わす幾何学でもありますので、オリジナルを数理的に解析することにより復原することが可能です。
法隆寺所蔵の国宝「四騎獅子狩文錦」に関する織物組織(構造)・絹糸・天然染料・製織法などを徹頭徹尾研究し尽くし、限りなくオリジナルに近い復原に成功した京都・西陣の初代・龍村平蔵(たつむらへいぞう/1876~1962)の物語は、宮尾登美子/「錦」/中公文庫・2011刊/に克明に著されています(▼ 資料画像)。
夢殿の救世観音像ご開帳の際に見学することのできる「緞帳」として使用されている四騎獅子狩文錦は、初代・龍村平蔵とその技能集団が復原し納品したものと思われます(▼ 資料画像)。
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§3.「ボロ」
他に先駆けて古代裂/こだいぎれ/復原のノウハウを獲得した「龍村」には、古今東西のさまざまな裂/きれ/の標本や情報が集積していたことと思われます。
その中に、浄土真宗本願寺派が20世紀初頭、主に中央アジア・シルクロードに派遣した「大谷探検隊/おおたにたんけんたい」に参加した、橘瑞超(たちばなずいちょう/1890~1968/僧侶・探検家/愛知 )が所蔵していた「ボロ」は、トルファン/吐魯番/中華人民共和国新疆ウイグル自治区/のアスターナ遺跡で発見され、墳墓に埋葬されたミイラの顔に掛けられていたものでした(▼ 資料画像)。
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このボロともいえる布の断片を見た二代・龍村平蔵( 1905~1979 )とその技能集団は、法隆寺所蔵の国宝「四騎獅子狩文錦」との共通点・類似点(連珠円文/アカンサス十字唐草/織物組織)に気づき、欠損部の補填と併せ復原に挑みついに成功しました。
復原なった錦織は、文様中の文字「花・樹・對・鹿」から「花樹対鹿錦/かじゅたいろくきん」と命名されました。▼
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シルクロードの彼方で千年以上も砂の中に埋もれていた「ボロ」が、法隆寺の夢殿に保存されていた宝物と、日本で連綿と継承されてきた工芸技法の実力とで蘇ったのです。
§4.「錦とボロの話」
以上の物語は「錦とボロの話」という本にまとめられ、1967年1月に学生社から出版されました。
私が本書と初めて出会ったのは、その4・5年後、20歳前後の学生時分。学内の書籍購買部で偶然見かけたものです。▼
後述のように、それまでNHKテレビで何度も視ていたので、当然愛読書の棚に加わることとなりました。
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▲ 「錦とボロの話」/龍村平蔵(二代)著/1967.1.10/学生社刊
著者二代龍村平蔵は自らを「職商人/しょくあきんど」と称しているように、織錦の織元=マニュファクチャーの経営者・実業家として、古代裂の復原に至るまでの周辺、背景、歴史といったことがらに想いを巡らせ、当時の染織工芸の置かれた環境を随筆風に記しています。
一方で、旧東京帝国大学文学部美術史OBでもある著者は、その美術観・歴史観から、「四騎獅子狩文錦」と「花樹対鹿錦」に関する考察をも披露しています。
§5.「幻の錦」
「錦とボロの話」の出版から2年を経た1969年11月3日(月・祝)の午後10時、この「話」はNHKテレビの文化の日特集ドキュメンタリー「幻の錦」と題して全国放送されました。
当時高校2年の私は、法隆寺の錦のことなど知る由もなく、新聞のラテ面を見る習慣もなく、何気なく視ることとなったのですが、まさに初見の瞬間からブラウン管に釘づけとなってしまいました。
…現在記憶に残っている高2のときの記憶といえば、ハンドボール部の合宿でマネージャーのような飯炊き係を買って出て、アップ後、疲労のあまり高熱を発して何日も学校を欠席したこと。
その間、某社模擬試験の科目別代理受験があったこと。
進路指導があるというので、フランス料理のコックになりたいといったら母親が泣いたこと。
急に近視が進んでメガネを作ったこと、ぐらいなのですが…。
しかし、ドキュメンタリー「幻の錦」のストーリー、登場人物名、地名などは今でもすらすらとはっきりいえるほど覚えているのです。
今回NHKアーカイブスの「お問い合わせメール」で、「幻の錦」の放送実績について確認してもらったところ、その年から合計4回放送しているとのこと。推理小説的に列挙してみます。(ご担当の方、まことにありがとうございました。)
① 1969年11月03日(月) 午後10:00~午後10:44
② 1969年11月15日(土) 午後08:30~午後09:14
③ 1970年03月15日(日) 午後01:30~午後02:14
④ 1972年08月06日(日) 午後01:55~午後02:39
3回目はこの映像が1970モンテカルロ国際テレビ映画祭で特別賞を受賞したための記念放送でした。こうしてみると、私が内容をそらんじるほど記憶できたのは、偶然このうち1回から3回めまでを確実に視ていたからなのです。
その後、何かの折に興奮のあまり、母親や伯母の前で拳を握りながら、立ったままこのストーリーを熱弁して聞かせた記憶もあります。母は針仕事中で、二人とも呆れ顔でしたが…。そのストーリーの概要はつぎのとおりです。
§
二代龍村平蔵は、「四騎獅子狩文錦」が聖徳太子ゆかりの法隆寺、しかも「夢殿」から発見されたことから、西暦600年前後当時の世界地図から、「日本~隋~高昌国/こうしょうこく/トルファン/~ササン朝ペルシア」の交流を想定し、それぞれの国の同時代に生存していたと思われる重要人物を挙げ、聖徳太子・小野妹子~煬帝/ようだい/~麹伯雅王/きくはくがおう/~コスロー2世という壮大な連携の可能性を示しました。
コスロー2世は「四騎獅子狩文錦」の文様の騎乗している人物の冠の形から、そのモデルかつ錦の発注者であるとし、新興の隋帝国の都・洛陽の同一工場で制作された錦を、隋に朝貢/ちょうこう/した中国周辺の国々に恩賜として与え、それが東の小野妹子が持ち帰ったとする日本の法隆寺と、西のトルファン・アスターナで発見された錦織だとしました。
現在では、中央アジアのいくつかの都市遺跡から「四騎獅子狩文錦」の様式を持つ錦が発見されており、往時には東西にわたる交易品として相当の人気を博した商品であったと推定されているようです。
§
史実であるかどうかはともかく、自由で痛快で壮大な、時空を超えた夢とロマンにあふれるプロットは、いっぺんに田舎の高校2年男子生徒の胸を鷲づかみにしてしまったのでした。
二度目、三度目の放送と偶然またまた出会うことができたときには、何か因縁を感じ、大切な友人を持った幸福感のようなものを感じていました。
当時まだ家ではテレビモニターがモノクロだったにもかかわらず、私にはその画像がカラーで映っていたように思えるのです。
今思うと、筆者が国宝を復原するという仕事を手掛ける工房を持つ作り手でもあることが、何より説得力を増幅していたのでしょう。
§
「幻の錦」の話は1975年に中学校の国語の教科書(改訂標準中学国語 3/発行・教育出版)にも取り上げられました。
掲載文の著者・只野哲は、映画「幻の錦」の演出家でした。
時代的には1960年代前半生まれの世代が、中学3年の授業で教材にしたようです。
どんな取り上げられ方をしていたのか興味があり近場でもあったので、娘から教えられた教科書図書館「東書文庫」(東京・北区栄町/完全予約制)を訪ねると、飛鳥山に近いそこは、明治初期に近代的な製紙工場のさきがけとなった王子製紙が設立された地で、近くに「紙の博物館」もある、日本の"洋紙発祥の地"として知られているエリアです。
「東書文庫」は建造物として区の文化財、蔵書の一部は国の重要文化財、施設としては国の近代化産業遺産に登録されている閑静で貴重な文化施設でした。
昭和初期・アールデコ調の非日常的な空間で、中学の教科書に静かに目を通すのも得がたい時間でした。
教科書版「幻の錦」は、謎を発見し、調べ、次々と論理を組み立てていくことの楽しさを学ぶ単元のようで、口絵には復原なった「花樹対鹿錦」が大きく取り上げられていました。
§6.「私のシルクロード幻想」
このストーリーが史実であるとはいえないということを、確か学研の百科事典でだと思いますが、偶然に読んだのは学生時分のことでした。
しかし、私が啓示を受けた「錦とポロの話」の「熱」はいささかも衰えるどころか、その後も、深田久弥(小説家・紀行作家/1903~71)、長澤和俊(東洋史学者・早大名誉教授/1928~)、松本清張(小説家/1909~92)らのシルクロード紀行や古代史考察、ヘディン(地理学者・中央アジア探検家/Sven Anders Hedin/1865~1952/Sweden)の「さまよえる湖」などへ、不思議な読書意欲に着いた炎が消えることはありませんでした。
§
1976年の夏、幸運にも恩師・故前川直先生(画家・装丁家/1929~88)が発起人となって企画された「シルクロード・調査ツアー」に参加することができました。
といっても、現在とは違い、簡単に中国やアフガニスタンに入国できる時代ではなく、シルクロードの西のゴールを前にした第4コーナーから、当時は王政だったイラン(シーラーズ、ペルセポリス、イスファハン)、トルコ(カッパドキア、イスタンブール)とアテネ、ローマを巡る4週間でした。
総じて砂漠の乾燥した厳しい気候の中、異文明・異文化の人々は、静かながらも生き生きとした生活を送っていたという印象があります。
とくに親日的なトルコ共和国・カッパドキアのユルギュップという町では、私たちを歓迎する宴が催され、地元の老若男女と環になって民族ダンスに興じたたことが印象的でした。
§
そのころシルクロードの大半を占める中国が、新疆ウイグル自治区のロプノール地域で頻繁に核実験を行い、連日のようにメディアを賑わすようになりました。
ロプノール/Lop Nur/ロプ湖/羅布泊/は、ヘディンが探検・調査し報告した「さまよえる湖」で、幻の都「楼蘭」とともに、世界的に注目されていた学術的に重要なスポットとでもいえるところでした。
近年では、唐時代の僧・玄奘三蔵によって「大唐西域記」にも記録された、世界的な仏教文化遺跡である「バーミヤンの磨崖石窟仏・壁画群」がアフガン紛争のさなか爆破され壊滅しました。
民族自決の原則とはいえ、人類共有の価値を持つ文化遺産を破壊・隠滅してしまうことの理由を誰が認められるでしょうか。
ユネスコ UNESCO 世界遺産登録の持つ最も重要な目的は、「目に見える国際平和の象徴」としての維持・保存なのだと思います。
平和な国にありながら、世界遺産やオリンピックなど世界的イベントの登録・誘致に際して、商業目的を露骨に旗印とし、その可否に一喜一憂する大人たちの姿を、子供たちはどのように見ているでしょうか?
経済効果の皮算用よりも、兵器開発や戦争により人類の叡智が創造した尊いものが失われていくことの重大さと悲哀を子供たちに伝えることのほうが、遥かに国際平和に貢献するのではと思います。
§
また、そのころテレビでは『NHK特集シルクロード』(語り:石坂浩二、音楽:喜多郎)が、中国当局との共同作品として数年にわたり鳴り物入りで放送されました。
私にとってはあまりにも大げさで文学的すぎる高目線な取り上げ方で、実際の砂漠のひと吹きの風をも感じさせないものがありました。
日本の童謡「月の沙漠」(作詞;加藤まさを、作曲;佐々木すぐる)の世界を、中央アジア・シルクロードに捜し求めているようなイメージさえ感じ、残念ながら西域・中央アジア・シルクロードへの熱も徐々に冷めていきました。
もちろん、私自身が社会人となっていった時期でもあり、もともと貧弱な頭の余裕もなくなっていったからなのでしょうが。
§
子供のころ、西洋文明発祥の地ギリシアからシルクロードを経て日本にやってきた文化の代表として教科書に取り上げられていたのは、法隆寺の回廊の柱などに見られる「エンタシス entasis 」(中間から根元へつぼまっている柱)であったと記憶していますが、同じ法隆寺の夢殿にあった「四騎獅子狩文錦」のほうがはるかに具体的で美しく楽しく学べたのではないかと思います。
§
現役を退いた今、書棚の整理を迫られることしばしばですが、あらためて「積ん読」してきた本たちを見回すと、日本の古代史の本、紀行文学が圧倒的なこと、純文学は寂しい限りであることが一目瞭然です。
その時々には自覚していなかったのですが、自らの趣味趣向というもの、振り返ってみる時間が大切なことを今さらながら思い知らされました。
結局は、自分が生まれた国に対する興味が深かったこと、それが取りも直さず自分に対する興味でもあったのかと思えてきます。
これをしっかりと自覚しつつ、これからの残された時間も、「日本探し=自分探し」を続けていこうと思います。
§
今回「錦とボロの話」について「復習」してみましたが、図らずも子供のころからずっと好きだったものが想い起こされ、大好きなミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」の挿入歌「私のお気に入り My favorite Things 」(作詞;オスカー・ハマースタイン2世 Oscar Hammerstein II 1895~1960 USA / 作曲;リチャード・ロジャース Richard Rodgers 1902~79 USA )風に列挙してみると、ビートルズ Beatles、ビーチボーイズ Beach Boys、ピーター・ポール & マリー Peter, Paul and Mary、フォーク・クルセダーズ、トワ・エ・モア、とミュージシャンばかりですが、これらと同一線上に、ゴッホ( Vincent van Gogh 1853~90 印象派の画家 Nederland )と、この「幻の錦」=「錦とボロの話」とを挙げなくてはなりません。
§
「幻の錦」=「錦とボロの話」の主役は国宝と復原された二面の「錦」でした。
その美しさと駆使された気の遠くなるような伝統技法は、確かに日本美術・伝統工芸の世界へと一人の少年の眼と心を誘(いざな)ってくれました。
よくよく考えてみると、本当の主役は龍村平蔵ご本人ではなかったかとも思われます。
二代龍村平蔵は自らを「やんちゃな童子」ともいっています。
「やんちゃな童子」は、今も西遊記の「孫悟空」のように、奈良・法隆寺の夢殿から中央アジア・シルクロード・トルファンへの大空を自由闊達に飛びまわっているに違いないと想うのです。
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▲ 復原なった「花樹対鹿錦」を点検するありし日の二代龍村平蔵
西域の錦の夢が京に咲き 蝉坊
《 関連ブログ 》
● けやぐ柳会「月刊けやぐ」電子版
会員の投句作品と互選句の掲示板。
http://blog.goo.ne.jp/keyagu0123
● ただの蚤助「けやぐの広場」
川柳と音楽、映画フリークの独り言。
http://blog.goo.ne.jp/keyagu575
あのストーリー、死ぬまで忘れないと思います!
ブログを読ませていただき、同じように夢中になられた方がいらっしゃったとわかり、嬉しく思いました。
歴史ある国に生を受けた幸運を大切に、楽しい生活を送りたいものですね。
盛夏、台風の日、終戦の日のご連絡、お元気でお過ごし下さい。
ところで、今、東京国立博物館の法隆寺展で、獅子狩文錦の本物が展示されています。取り急ぎ、ご連絡まで。
お読みいただく方がいらっしゃることに感謝いたしますとともに、アップさせていただいてから早や7年の歳月が流れていることにホッコリとしたものを感じております。
このご時世、自宅の石神井渓谷界隈にて「ひとりロックダウン」の毎日です。
上野の山には10回ほど自宅からの街歩きで訪れたことがあり、懐かしく想い出しております。
お元気でお過ごしください。