![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/f4/9cea9e109cd146e1435228746eba6f91.jpg)
嘉永5年旧暦3月5日/1852年4月20日ころ/、吉田松陰と宮部鼎蔵は北方の国防状況を実地確認するべく、青森・津軽半島北部の小泊/こどまり/から津軽山地に分け入り、算用師/さんようし/峠を越え、苦難の末、三厩/みんまや/海岸へと降り立ちました。
蝉坊がこの世に生を受けるちょうど100年前のことです。
このルートは、現在「みちのく松陰道」として整備され、少々ハードな行程12キロの軽登山コースとなっているそうです。▼/「弘前国道維持出張所 吉田松陰」より/市町村名は平成の大合併以前の表記
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/2e/db0890f29a1f4accbc8774916ee0e71d.jpg)
▲ 津軽半島/ランドサットの衛星画像
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▲ 竜飛海岸/「観光 青森」1961年版/
青森県観光連盟発行/より
「龍飛埼灯台」付近から南東側の海岸線を
俯瞰した画像と思われます。
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▲ 竜飛海岸/「観光 青森」1961年版/
青森県観光連盟発行/より
「龍飛埼灯台」付近から南東側の海岸線を
俯瞰した画像と思われます。
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このことを初めて知ったのは50歳を過ぎてからのことで、教えてくださったのは幼稚園からの幼なじみESK陽子さんでした。
青森出身者でありながら、このことについて関知しなかったのは、まことに恥ずべきことです。
同様に、寺山修司が高校生のときに俳句に没頭し、全国に俳句改革運動を呼びかけていたことなどを認知したのもこの10年のことでした。
身のまわりには、興味深いことがたくさんあり、それに気づいていれば「ふるさと観」も少々別なものになっていて、人生の展開も変っていたかも知れません。
が、ともかく早晩「知りえた」ことではありますから、今更「ればたら」を悔やんでもせんないこと。
還暦後の楽しみとして詮索してみようと思います。
§§
吉田松陰と宮部鼎蔵のおよそ4ヶ月にわたるこの北方の旅のメモは「東北遊日記/上・下/松下村塾蔵版/ 慶応4(1868)」として出版されました。▼/玉川大学教育博物館サイト
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3月5日前後のことを記した部分がこの6ページ。▼/国立国会図書館・近代デジタルライブラリー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/fb/e5e3b3d19ba05256318504a897ba58a3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/28/a5c735eeee88b9b2a064c7d647e2258c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/d1/6b218138f4a4d842b5715aa7a7efa4a2.jpg)
前日3月4日には、「…過十三潟辺越小山々臨潟対岩城山真好風景也…」と、十三湖から見る岩木山の風景の素晴らしさを記しています。
藩の許可を得ないまま決死の強行軍をしているはずなのに、この美しい一瞬の印象を記録に留める理性。
このあたりの眼差し、ロマンティシズムが、松陰先生の尊敬を集める一端でもあるのでしょう。
また160余年前のこの一節が、これまで津軽地方の観光に与えた経済効果はいかばかりでしょうか。
当日3月5日には、当時通行を禁じられ道なき道だった「みちのく松陰道」を悪戦苦闘の末踏破し、その感想を詩に表しています。
また目ざす北の最果ての地、竜飛崎/たっぴざき/への海岸線は、おそらく道がなく三厩や宿泊した袰月/ほろづき/上月と表記、コウズキと聞いたか/の住人にも止められたようで、これを断念した経緯は記されていませんが、三厩・竜飛間に宇鉄、本宇鉄、釜沢、六十間/むそま/、筆島という五つの村があり、蝦夷人種/アイヌ/が住んでいると伝聞を記しているようです。
無教養のためはっきりとは読み解けませんが、続いて当時のアイヌ政策や状況について記し、「噫可惜哉」と無念さを表しています。
幕末まで本州の最北地域にアイヌ民族が住まわれていたという記述を眼にしたのはこれが初めてです。
松陰先生の全国的なフィールドワークのおかげでこのような情報に出会えたものと思います。
なお、袰月の集落は、高木恭造の方言詩集「まるめろ」の一編「陽コあだネ村」の舞台、否、予言めいた内容で広く紹介されましたが、事実、最近はいわゆる「限界集落」化し、子どもが一人もいない状況だということです。
50年近く前の夏には中学の美術部のキャンプで、また40余年前の夏には、蚤助さんら高校OB同級会/白崎学級会/で磯遊びに行った遠く美しい袰月海岸…。
「噫可惜哉」とただ申し上げるのみです。
翌日3月6日には、対岸・下北半島との間の平舘海峡に面した平舘/たいらだて/の砲台を訪ね、休憩した船小屋の漁師から松前/北海道/のようすを伺い、その特産品として「樹皮」を材料とした「白割織」/読み不明/という織物が雨露に強く、名人のものは一反時価一貫三百銭で商われると記しています。
これは「アットゥシ」かとも思われますが、現在の何にあたるのかは今後の調べです。
そして夕暮れには平館から海路青森を目ざします。
その際「…薄暮発舟遥望青森神田嶽右視蟹田大浜諸浦暁達青森…」と、薄暗くなるころ舟で出発、遥かに青森・八甲田山を遠望し、右手に蟹田/かにた/、大浜/おおはま/などの港の灯を見て明け方青森港に達したことを記しています。
この「大浜」こそが懐かしき蝉坊の故郷です。
ただ、この時代にはご先祖さまはまだ弘前の在所にいて、海沿いの町で暮らそうなどとは思ってもいなかったことでしょう。
蟹田以南の「外ヶ浜」は次々と村が連なり、一本道の「松前街道」では人馬の往来も少なくないため、人目を避けることのできる海路の夜間移動が合理的と判断したように思われます。
160余年前の春まだ浅い夜間の海を、彼の吉田松陰と宮部鼎蔵が手漕ぎ舟に揺られて通過したと想像すると感無量なものがあります。
遠浅の白い砂浜での砂遊び、貝拾い、短い夏の水泳、干潮時のミルゲ/青柳/採り、初秋のイイダコ釣りなど、昭和40年代に行われた護岸敷設工事以前の、端正で美しい「原風景」に優しく抱擁され、フリチンで自然に親しんだ最後の世代には、櫓/ろ/の音も聞こえてきそうな現実味があります。
春というとはて、津軽の桜を観ていただいたのかな?などと思いましたが、心配ご無用、津軽にソメイヨシノが移入されたのは明治時代になってからとされています。
それにしても寒さなどものともしない意志と行動力が、その後の日本の舵を切る原動力となっていく歴史のダイナミズムを深く感じさせられます。
「東北遊日記」の詳細に関し、拝見したウェブサイトでは「弘前国道維持出張所 吉田松陰」がおみごとなルポルタージュとお見受けしました。
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松陰・吉田寅次郎/しょういん・よしだとらじろう/1830(文政13)年9月20日-1859(安政6)年11月21日/は長州萩城下松本村生まれの長州藩士。生涯独身。▼
松下村塾で数々の維新の英傑を育てた教育者であることはあまりに有名。
若いころから西国、東北、湘南など実際に自らの脚で探訪し、行動的・実証的に思索を深めた超近世的な思想家。
津軽を訪れた1852年は21歳の青年でした。
その後幕政批判、老中殺害計画などの嫌疑により捕らえられ長らく入牢を繰り返し、来青から7年後、江戸伝馬町牢屋敷において処刑。
江戸時代最大最悪の弾圧政策、「安政の大獄」最後の刑死者でした。享年30。合掌…。
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宮部鼎蔵/みやべていぞう/1820(文政3)年-1864(元治元)年7月8日/肥後国益城郡田代村生まれの熊本藩士。▼
嘉永3(1850)年、九州・平戸へ遊学中であった吉田松陰と熊本で出会う。
翌4年12月24日に吉田松陰と水戸で合流し翌1月20日まで滞在、東北への旅に同道する。
松陰より10歳年長で津軽を訪れた1852年は32歳でした。
その後文久3(1863)年「八月十八日の政変」で長州藩が京より追放されると宮部鼎蔵も長州へ下向。
元治元(1864)年6月5日の「池田屋事件」で会合中の長州藩・土佐藩・肥後藩などの尊王攘夷派が新選組に襲撃を受けた際、奮戦ののち自刃しました。享年45。
この事件後、時代は「薩長土肥」主力による明治維新へと一気に流れ出したとされます。合掌…。
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さて、トップ画像 ▲ のうつわたち。
右の汲出し/湯呑み/は「萩焼/はぎやき」、左の湯呑みは「小代焼/しょうだいやき」、双方共通の茶托は「津軽塗/つがるぬり」です。
「萩焼」は長州=山口県、「小代焼」は肥後=熊本県、「津軽塗」は津軽=青森県のそれぞれ伝統的工芸品です。
バックの行灯/あんどん/の絵はランドサット衛星による「竜飛崎」付近の画像です。
嘉永5年旧暦3月、寒風吹き荒ぶ「竜飛崎」を目ざし、4日は小泊に、5日は袰月に宿泊した吉田松陰と宮部鼎蔵のふたり。
およそ4ヶ月にわたる北方周遊の旅で、菜種油や和ろうそくの灯かりを囲み、白湯や酒を酌みながら白熱の政談を交わした夜が幾たびもあったことでしょう。
「萩焼」の楽しさは御本手/ごほんて/という赤味がかった斑点紋様と、使い込むにしたがってうつわ全体の色や味が感じが変化していくこと。
画像のキャストは散歩中のリサイクルショップで見つけた「椿秀窯」の汲出し碗。
まったりと穏やかに手に馴染み、春めいてくる時節の高揚感にぴったりのように思います。
残念なことに、リサイクルショップには贈答に利用されたと思われる、未使用の萩焼の揃えが目立つようです。
「小代焼」はプリミティブで落ち着いた滋味あふれる手しごと感が楽しい名品です。
キャストは荒尾市「瑞穂窯」福田るいさんの「あやしのカップ」。
杉綾の地模様が控えめなオリジナリティを感じさせ、使われることを最優先に企画された意匠とお見受けしました。
九州に滞在している娘が、熊本県伝統工芸館に伺うというので頼んだのですが、ちょうど品切れだったということで、福岡・八女市の「うなぎの寝床」さんというネットショップで探してくれました。
いずれのやきものも、伝統的な「植物由来」の釉薬を使用したもので、毎日使いたくなるお気に入りのうつわ。
お茶を汲んでいるうちに、どのように変化して「育って」くれるのか、大いに楽しみにしています。
「津軽塗」は唐塗りの変化が持ち味の、青森人には「ソウルクラフト」ともいえる存在の漆器です。
キャストは本ブログ「#18.タマネギ!…のような、ニンニク!!」に登場してもらった従兄弟「ショージ」さんの兄上「ショーイチ」さん夫妻から、37年前に結婚祝いにいただいたもので、ずうっとしまっておいたのですが、セカンドライフを期に毎日使うことにした「宝物」です。
広めの縁に唐塗りを施し、内側に朱漆、裏側は黒漆という、「モダン」で可愛い味わいのある意匠の木製茶托です。
湯飲みを片付けておくときには、敢えて赤い面を上にして「蓋」代わりにかぶせ、使わないときも色彩のおもしろさを眼で楽しんでいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/0e/f10befa8aad6ba16065a2cac8fab6238.jpg)
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伝統的工芸品は、日本人の英知が自然界からいただく「里山の一滴/さとやまのひとしずく」であることはもちろんですが、その作品の背後には日本人が歩んできた眼には見えない「歴史」を内包しています。
毎日のくらしのなかで、幕末・維新の胎動に想いを馳せながら、つくり手のしごとを楽しむことができます。
何気ない日常の時間と空間を、個人的に「実感」できる貴重なものでもあるのです。
もしかすると、吉田松陰は萩焼の、宮部鼎蔵は小代焼の、トップ画像と同じような湯呑みを毎日使っていたのかも知れません。
今回は歴史上の事件を調べてみて出会った着想と、近代の日本の礎を築いた人物たちへの敬意により画像を構成してみました。
日本史上のさまざまなできごとを掘り起こし、全国に伝わるいろいろな工芸品をキャスティングしてみると、歴史好きにはますますそのリアリティが迫ってくる、工芸品で歴史を楽しむ一石二鳥のアイディアと試みでした。
いつかこれらのうつわを携え、津軽半島西海岸の夕日に輝く十三湖と岩木山を眺め、幕末に散った英傑への献杯をしつつ、青森「大浜」の地酒「喜久泉」を、気の置けない旧友たちと酌み交わすこと … 現在の大いなる「夢」としておきましょう。
五指十指献杯したい人が増え 蝉坊
《 関連ブログ 》
● けやぐ柳会「月刊けやぐ」電子版
会員の投句作品と互選句の掲示板。
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● ただの蚤助「けやぐの広場」
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