希望列車で行こう!

勇気は幸福の乗車券、希望列車に、飛び乗ろう。

希望列車345

2024-12-24 08:18:50 | 日記
先日、マンガで、進撃(しんげき)の巨人(きょじん)を読みました。


この物語は、題名(だいめい)の通り、「進撃の巨人」が主人公であり、進撃の巨人が、物語の中心(ちゅうしん)にあります。

文字の通り、進撃の巨人が、どんな時でも、ともかく、「進撃」、すなわち、前進し続けることによって、ストーリーが展開(てんかい)していきます。

これが、進撃の巨人が、進むことを、やめてしまったら、物語が成(な)り立たなくなるし、終わってしまう。

だから、進撃の巨人が、前進し続けることは、避(さ)けることができないことであり、絶対条件(ぜったいじょうけん)であると、言えます。


けれど、考え方を変えれば、これはマンガ・進撃の巨人に限(かぎ)った話しではなく、あらゆる人間、あらゆるケースに当(あ)てはまることです。

その『進む』ということが、どういう意味合(いみあ)いを持つかは、それぞれの人によって、違(ちが)うと思いますが、もし、進むのをやめてしまったら、その人の『何か』が、終わってしまう。


そう、言えると思います。


だから、どんな人にとっても、進むということは、必要不可欠(ひつようふかけつ)なことであり、絶対条件だと、いえます。


進むということ、前進するということは、人生のすべてといっても、過言(かごん)ではないと思います。


では、その「進む」ということは、どうやって、形成(けいせい)されているのだろうか?


そこに、重要(じゅうよう)な意味合いがあると思います。


マンガ・進撃の巨人に戻(もど)ると、進撃の巨人は、どんな時でも、進み続ける。

進撃の巨人になることのできる、進撃の巨人の持ち主(もちぬし)である、主人公のエレンは、どんなに絶望(ぜつぼう)しても、どんなに悲しくても、どんなに涙(なみだ)を流しても、それでも、前進を続ける・・・!!


なぜか???


どうして、進むことができたのか???


それは、進撃の巨人になることができる、進撃の巨人の持ち主である、エレンが、『未来(みらい)』を、知っていたからです。

進撃の巨人には、未来を見る能力(のうりょく)があり、その能力によって、エレンは、未来を見ていた・・!!

ゆえに、その未来に向(む)かって、そうなるまで、どこまでも、進み続けたわけです。


未来を見ていたがゆえに、どんなことがあっても、進むことが、できた。

その未来があるがゆえに、どんなに過酷(かこく)でも、進むことが、できた!!!


そう、言えると思います。


けれど、ここに、ミソがあり、仮(かり)に、未来が見えたにしても、それ自体、確証(かくしょう)はないし、あやふやです。

人が聞いたら、そんなの、妄想(もうそう)だよ!と、いうかもしれません。

それを、否定(ひてい)する要素(ようそ)は、山ほど、あるわけです。

まして、困難(こんなん)であれは、困難であるほど、それを、否定するのは、たやすくなります。

エレンのような場合、進むのは、辛(つら)く、大変な障害(しょうがい)がともない、悲しみをふりきって進むのは、大変な精神力とエネルギーを、必要としたはずです。


にもかかわらず、エレンは、進み続けた・・!


なぜか?


それは、エレンが、『信じていたからです!!』


これが、進むことの正体(しょうたい)であり、原動力(げんどうりょく)だと、
言えます。


進む原動力は、『信(しん)じる』ことにある。


エレンは、進撃の巨人の能力によって、未来を見て、それを、信じることによって、初めて、進むことが、できた・・!



信じること・・。



ここに、重要なポイントがあるわけです。


だから、「信じること」は、人生においても、未来においても、夢や希望を叶(かな)えるためにも、もっとも、重要な位置(いち)を占(し)めているわけです。


だから、信じることの大小(だいしょう)、信じることの強さやエネルギー、

あるいは、信じるものが、どれだけ正しいか、正しくないか。どれだけ価値(かち)があるか、ないかによって、人生は、大きく左右(さゆう)されていくわけです。


人は、信じるということについて、それほど深(ふか)く、注意を向け、考えようとはしないように思うけれど、実(じつ)は、興味(きょうみ)をいだき、関心(かんしん)を向けなければならないのが、

『信じる』

というこのなのかもしれない。


では、何を信じたらいいのか?

どうしたら、信じる力を最大限に引(ひ)き出し、幸せになっていけるのか?


そこに、最も重要な問題が、あります。


要(よう)は、エレンのように、未来を見ることができて、そのことによって、強力に「信じる力」が生(しょう)じ、その信じる力によって、どんな困難があっても、絶対に負(ま)けないで、最後まで、進むことができれば、いいわけです。


そうすれは、人生を勝利していけるだろうし、幸せにもなっていけるはずです。


幸せの原動力も、やはり、「信じる」ことから始まるということです。


だから、単純(たんじゅん)に考えれば、良い意味で、進撃の巨人に匹敵(ひってき)するような、信じる力をもたらすものがあれば、幸せになっていけるわけです。


信じるといっても、間違ったものを信じたり、不幸(ふこう)になるものを信じたら、当然、幸せになれるはずがありません。

信じるというと、宗教(しゅうきょう)を連想(れんそう)しますが、日本においても、一般的(いっぱんてき)に、それらの宗教が、観光(かんこう)や縁起(えんぎ)もの、儀式(ぎしき)や正月の行事くらいにしか考えられていないのは、それらの宗教が、現実問題として、なんの力もない!ということです。

力がないだけならいいのですが、それらの宗教は、間違っているので、逆(ぎゃく)に、マイナスの作用(さよう)をして、人を、不幸にしてしまいます。

それらの宗教は、人間の中の「幸せになる力」を弱め、不幸へと誘(さそ)い、不幸へと引きずり、結局(けっきょく)のところ、人間を不幸にしてしまいます。


それが、日本の、観光(かんこう)宗教や神社信仰(じんじゃしんこう)、葬式(そうしき)宗教だと、いえます。


だから、それらのものは、幸せになる「信じる力」には、なりえません。


宗教というと、神頼(かみだの)みとか、おすがり信仰、区切(くぎ)りの行事のような、棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことを連想しますが、そうではなく、エレンが前進したように、「信じる力」によって、人間が本来(ほんらい)、持っている、幸せになる力を無限に引き出し、開花(かいか)させるものが必要だ!ということです。


信じる力によって、幸せになる力を、引き出す!!


そのための宗教が、必要だ!ということです。


宗教と考えるのがいやだったら、幸せになるためのルーティン 、幸せになるために、信じる力を引き出すルーティンと考えても、いいかもしれません。


その、信じる力によって、あらゆる幸せを、無限(むげん)に引き出すルーティンが、創価学会(そうかがっかい)の人たちが実践している、ご本尊(ほんぞん)に南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、『仏法(ぶっぽう)』だと、いうことです。


たとえるならば、進撃の巨人のように、あたかも、未来が見えているような「信じる力」をもたらすもの、

そして、あたかも進撃の巨人のように、どんなことがあっても、幸せに向かって前進できる、無限の生命力(せいめいりょく)と希望をもたらすものが、創価学会(そうかがっかい)の『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
をとなえる、『仏法(ぶっぽう)』の信仰だということです。


ここで、正しいということ、間違(まちが)っていないということ、幸せになるために価値があるということが、最も大切(たいせつ)になってきますから言いますが、信じることにおいて、本当(ほんとう)に正しく、本当に価値(かち)があり、本当に幸せになる力をもたらすものは、この、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰(しんこう)しか、ありません。



進撃の巨人に戻ると、マンガの後半で、「始祖(しそ)ユミル 」という人物が、登場します。

始祖ユミルは、マンガ・進撃の巨人に中で、主人公のエレンが生きている時代から二千(2000)年まえに生まれた、奴隷(どれい)の少女で、ほかの奴隷たちの悪事(あくじ)を、かばったため、王に殺されかけます。

逃亡(とうぼう)の途中、多くの矢(や)を受け、死にかけますが、深い穴(あな)に落ち、有機生物(ゆうきせいぶつ)の起源(きげん)のようなものに接触(せっしょく)し、そこで、巨人の力を得て、復活(ふっかつ)します。

マンガ的には、大地の悪魔(あくま)と契約(けいやく)して、巨人になる能力を手に入れたとされています。

その後、巨人になる力は、始祖ユミルの子供たちに受(う)け継(つ)がれ、子供たちから子孫(しそん)へと、受け継がれます。

その巨人になる能力のある人々のことを、「ユミルの民(たみ)」といい、悪魔の民として、恐(おそ)れられます。


そして、始祖ユミルは、死後も、過去も未来もない、時空(じくう)を超(こ)えた世界に存在し、そこで、延々(えんえん)と、巨人を創(つく)り続け、巨人たちの能力や肉体を、つかさどっているとされています。


すなわち、ある意図(いと)をもって、巨人を動かし、操(あやつ)りたかったら、始祖ユミルの存在する世界に行き、始祖ユミルと接触(せっしょく)し、「こうしてくれ!」と、始祖ユミルに願いを伝(つた)えて、始祖ユミルが、その願いを受け入れ、始祖ユミルが、それを実行(じっこう)したとき、願いが実現していくと、いいことです。


そのため、主人公のエレンは、すべての巨人やユミルの民を、意(い)のままに操(あやつ)ることができるという、「始祖の巨人の力」を使うために、始祖ユミル との接触を、試(こころ)みる。

エレンは、始祖ユミルとの接触を阻(はば)もうとする勢力(せいりょく)に、殺されかかるが、すんでのところで、始祖ユミルとの接触を果(は)たす。


やがて、エレンの願いと思いは、始祖ユミルに通(つう)じ、ユミルは、エレンの願いを受け入れ、その願いを実行します。


そして、始祖の巨人の持つ、強大な力が、動き出す。


この始祖ユミルが存在している世界、過去も未来もない、時空を超えた世界に、エレンがいた時間は、永遠のように永(なが)くも感じられる。

けれど、現実の世界に戻ってみると、始祖ユミルの世界にいた時間が、ほんの1秒にも満(み)たなかったことが、わかります。


1秒にも満たない時間の中に、無限のように長(なが)い、ドラマとストーリー、そして、無限の価値があった!と、いうことです。


思うに、もしかしたら、「祈(いの)り」とは、こういうものではないか?と、思いました。


祈りといっても、棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことではなく、創価学会の人たちが、ご本尊に、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、信じる力を、無限に引き出そうとする「祈り」のことです。


確かに、南無妙法蓮華経をとなえて祈る時間は、一瞬(いっしゅん)かもしれない。

けれど、そこに、未来を動かす無限のストーリーと価値が、あるのかもしれない。


だから、南無妙法蓮華経をとなえる祈りには、願いを叶える力が、あるのかもしれない。


ご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえて祈る、その祈る前(まえ)と、祈った後(あと)では、表面的には、何かが、大きく変(か)わるということは、ないかもしれない。

もちろん、時として、南無妙法蓮華経をとなえた後、劇的(げきてき)に何かが変わるということも、あります。

けれど、普通(ふつう)は、南無妙法蓮華経をとなえた後、見た目(みため)、何かが大きく変わって見えるということは、ないかもしれない。

けれど、表面的には変わっていなくても、何かが、大きく変わっている。

未来という結果(けっか)が、幸せの方向に、大きく変わっていると、いえるかもしれない。

だから、心が、スッキリするし、清々(すがすが)しくなる。

素晴らしい歓喜(かんき)を、感じるときもある。


それは、表面的には変わっていなくても、未来が幸せに変わったから、そう、感(かん)じるのではないだろうか・・。


たとえば、家電(かでん)など、動かなくなって修理(しゅうり)に出すと、修理から戻ってきても、だいたい、見た目が変わるわけではない。


けれど、劇的に変わっている!!


なぜなら、動かなかったものが、動くようになっているのだから!


それと同じように、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる祈りは、「自分の世界」という家電を、修理するようなものかもしれない。

南無妙法蓮華経をとなえて祈った後は、「自分の世界」の見た目は、変わっていなくても、「自分の未来の世界」が、幸せの方向(ほうこう)に、劇的に変わっている!!


そう、言えるかもしれない・・。



日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が、

「日蓮が弟子檀那等(でしだんなとう)、
正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)
・不受余経一偈(ふじゅよきょういちげ)と
無二(むに)に信ずる故(ゆえ)によつて
此(こ)の御本尊の宝塔(ほうとう)の中へ入るべきなり」

と言っています。


『宝塔(ほうとう)』とは、金・銀・ダイヤモンドなど、ありとあらゆる宝石、
世界の美しい花や自然、素晴らしい音楽や芸術で飾(かざ)られた、地球の直径の3分の1もの大きさがある、巨大な塔(とう)で、ありとあらゆる幸せが詰(つ)まったものだと、考えられます。


これが、何を意味しているかといえば、この宝塔は、「自分の生命(せいめい)」を、表現(ひょうげん)しています。


「自分の生命」には、それだけスゴイ、宝と幸せが、詰まっていると、いうことです。


また、その、ありとあらゆる宝石や幸せが、詰まった宝塔(ほうとう)を、文字で表現したものが、『ご本尊(ほんぞん)』でもあります。


その宝塔の中に、どうやって入っていくのか?

言い方を変えれば、それだけの宝(たから)や幸せを、どうやって、自分のものにしていくのか?

といえば、

『無二(むに)に信ずる故(ゆえ)によつて』

すなわち、純粋(じゅんすい)に、信じることによって、

その宝の塔(とう)の中に入ることができる。

すなわち、ご本尊を、純粋無二(じゅんすいむに)に信じることのよって、ありとあらゆる宝石や幸せを、つかむことが、できる!!

と、言っています。


この話しは、さきほどの、進撃の巨人の中の、「始祖ユミル」の話しに、少し、似(に)ているかもしれない。

信じることによって生(しょう)じた前進する力によって、始祖ユミルの世界に行き、ユミルに自分の願いを伝え、その願いが、始祖ユミルに受け入れられ、始祖ユミルがそれを実行した時に、願いが叶(かな)っていく。


同じように、創価学会の人たちが、ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえて祈る時、その「信じる力」のよって、ご本尊という、幸せと宝(たから)が詰(つ)まった宝塔の中に、自分の生命が入っていく。


そして、ご本尊に願いが伝わり、自分の願いが、かなっていく!!


そう、たとえることが、できるかもしれない・・。


ご本尊は、功徳聚(くどくじゅ)といい、功徳(くどく)の集まりだという。

功徳とは、物質的であれ、精神的であれ、この仏法(ぶっぽう)の実践によって、自分の生命に授(さず)けられる、『幸せ』という、とびっきりのプレゼントのようなものだろうか。

また、ご本尊は、輪円具足(りんえんぐそく)ともいい、車輪が円を描くように、ありとあらゆる、一切の功徳が、欠(か)けることなく、そなわっている。


すなわち、ありとあらゆる幸せが、欠けることなく、ご本尊(ほんぞん)の中にある!!ということです。


それが、ご本尊という『宝塔』だろうか。


その、ご本尊という幸せの塔(とう)には、欠けることなく、あらゆる幸せがあるのだから、自分の望む幸せも、必(かなら)ず、存在(そんざい)する!!と考えられます。

ゆえに、純粋無二に、信じて、ご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえていった時、その中に(ご本尊の中に)、自分の幸せもある!!ので、自分の願いや幸せも、当然(とうぜん)のように、叶(かな)っていく・・!!


そう、表現できるのかも、しれない・・・。


池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、

子どもが怖(こわ)いことが起こると、「おかあちゃーん」と母親のところへ飛(と)んでいくように、母親のところへ、死にものぐるいというか、純粋(じゅんすい)というか、それ以外にないのだと言う、その一念(いちねん)で御本尊に直結(ちょっけつ)し、願っていけば、どんなことも通じます。

その祈りは、かないます。


と言っています。


真剣(しんけん)を超(こ)えた、純粋な祈りは、ご本尊に通(つう)じ、そして、祈りは、かなっていく。


それは、進撃の巨人の中で、エレンの、真剣を超えた、必死(ひっし)の願いが、始祖ユミルに通じ、ユミルが、エレンの願いを実現していったようなものです。



ともかく、マンガ・進撃の巨人の中で、エレンは、進み続けた。

そこにしか、活路(かつろ)はないからです。

そして、その進撃するエネルギーは、強力に信じる力にあった。

その信じる力ゆえに、負けなかった。

信じているがゆえに、どんな絶望にも、耐(た)えた。

どんな悲しみも、乗り越えていくことができた。


それは、人生を勝利し、幸せになっていく道のりと同じだと思う。


そう考えた時、どうしても、信じる力が、必要となる。


強く、誤(あやま)りなく、最高に価値のある「信じる力」が、必要となる。


その、最も、強力で、最も、正しく、最も、価値のある、最高に幸せになる『信じる力』が、創価学会が実践(じっせん)している、ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです。


それは、マンガ・進撃の巨人の中で、エレンが、どんなに辛くても、どんなに悲しくても、どんなに苦しくても、どんなに絶望しても、最後の最後まで、前進し続けて、自分の目的を、果たしていったように・・・!!!


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希望列車344

2023-05-05 21:36:45 | 日記
この前、マンガで、「進撃(しんげき)の巨人(きょじん)」を、読みました。

アニメの方は、途中で、頓挫(とんざ)していましたが、マンガを読んだら、また、アニメも、見たくなりました。


その、マンガ・進撃の巨人の後半で、「始祖(しそ)の巨人」というのが、登場します。

始祖の巨人は、始まりの祖(そ)と書く通り、全ての巨人のなかで最初に生まれた巨人、巨人の先祖(せんぞ)、巨人の大元(おおもと)と考えられます。

その始祖の巨人から、進撃の巨人を含(ふく)め、超大型(ちょうおおがた)巨人、鎧(よろい)の巨人、女型(めがた)の巨人、獣(けもの)の巨人など、あらゆる巨人が誕生してきたということです。


また、「始祖の巨人」は、あらゆる巨人を、肉体的にも、行動的にも、精神的にも、意(い)のままに操(あやつ)ることができるとされ、それゆえに、絶対的な力を有(ゆう)していると、考えられます。

だから、進撃の巨人や他の巨人も、すごいですが、始祖の巨人は、巨人たちを、意のままに操れるので、いちばん重要(じゅうよう)で、いちばん力があって、いちばんスゴイということになります。


ようするに、始祖の巨人は、いちばん最初であり、いちばん大元であり、巨人の力をつかさどる、源泉(げんせん)であり、根源の存在(そんざい)だということです。



始祖の巨人とは関係ありませんが、創価学会(そうかがっかい)が実践している仏法(ぶっぽう)の言葉に、

「久遠元初(くおんがんじょ)」

という言葉があります。

「久遠元初の仏(ほとけ)」とか、「久遠元初の生命(せいめい)」とかの使い方をするのですが、宇宙と生命の根源というか、始祖の巨人のように、いちばん最初で、いちばん大元で、生命の力の根源(こんげん)のようなものだと思います。

その久遠元初の仏(ほとけ)の名前を、
久遠元初の『自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)』というのですが、最も根源の法(ほう)をさとり、その力を自由自在に操(あやつ)ることのできる仏のことです。

イメージとしては、ちょっと違(ちが)いますが、始祖の巨人のようであり、生命の次元(じげん)の王様のような存在だと思います。


その久遠元初の仏であり、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)が、実は、「日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)」なんです。

だれもが、想像(そうぞう)しそうな、釈迦(しゃか)とかブッダとか呼ばれる

「釈尊(しゃくそん)」

ではないんです。


釈尊は、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である日蓮大聖人の法(ほう)、すなわち、久遠元初の生命の法則によって、その久遠元初の法則を悟(さと)って、仏(ほとけ)になったとされます。


本来、上下関係はないと思いますが、位(くらい)としては、日蓮大聖人の方が、釈尊より偉(えら)いというイメージになります。

なぜなら、釈尊は、日蓮大聖人の久遠元初の法(ほう)によって、成仏(じょうぶつ)したのだから。


たとえて言えば、進撃の巨人が、釈尊ならば、始祖の巨人が、日蓮大聖人にあたると、思います。

進撃の巨人もスゴイですが、その進撃の巨人のさまざまな力も、始祖の巨人から授(さず)かったと、いえるからです。


だから、釈尊という仏(ほとけ)は、自受用報身如来である日蓮大聖人ほどは、
大きな力がないと、たとえることができます。

それゆえに、釈尊の仏法では、人々の心が純粋(じゅんすい)で、擦(す)れていない時代の、比較的(ひかくてき)、仏法を広めるのが安易(あんい)な時代の人々しか、幸せにすることができません。

だから、現代のように、人心(じんしん)が乱(みだ)れ、悪(あ)しき思想が、はびこっているような時代の人々を幸せにする力は、釈尊の仏法には、ないんです。


釈尊が死んでから、二千年後の時代のことを、「末法(まっぽう)」といいますが、この末法の時代が、人心が乱れ、悪しき思想が、うじゃうじゃと、はびこっている時代です。


そして、現代が、その「末法(まっぽう)」の時代です。


ですから、その末法という現代の時代では、釈尊の仏法には、なんの効力(こうりょく)もなく、幸せにする力はありません。


それが、釈尊の仏法(ぶっぽう)の限界(げんかい)といえます。


そして、その後の時代では、釈尊より、もっとスゴイ!もっと根源的な力(ちから)を持った仏!でないと、人々を幸せにすることは、できないんです。


その時代に必要となるのが、さっき言った、始祖の巨人です。

じゃなくて、イメージとしては、始祖の巨人のような存在である、根源的な生命の力を有した仏(ほとけ)。

すなわち、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である、日蓮大聖人だということです。


ですから、現代では、すでに力(ちから)をなくした釈尊の仏法では、人々を幸せにすることはできず、より、大きな、より、根源的な力のある、日蓮大聖人の仏法(ぶっぽう)でないと、人々を、幸せにすることは、できない!ということです。


それは、マンガ・進撃の巨人の中で、始祖の巨人が、あらゆることを可能(かのう)にする絶対的(ぜったいてき)な力を有しているように、日蓮大聖人の仏法に、どんな人心が乱れた、悪しき思想(しそう)にまみれた人々さえ、幸せにすることができる、より、大きく、より、絶対的な力がある!!ということです。


ゆえに、現代では、悩みを解決でき、夢や希望、願いを叶(かな)えることのできる法則(ほうそく)は、

『日蓮大聖人の仏法(ぶっぽう)』

しかない!ということになります。


その日蓮大聖人の生命の法則であり、宇宙(うちゅう)の法則であり、無限(むげん)の力が、創価学会の人たちが、となえている、

『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』

なんです。


南無妙法蓮華経には、始祖の巨人のように、最も大元で、最も根源の力があるがゆえに、あらゆる悩み、あらゆる希望を叶(かな)える力がある!!ということです。


それが、創価学会の人たちが、となえている『南無妙法蓮華経』です。



譬(たと)え話(ばなし)にするならば、こんな感じだと思います。


久遠元初の自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である日蓮大聖人が、釈尊に頼(たの)みます。

「釈尊ちゃん、釈尊ちゃん、ちょっと、先に行って、仏法(ぶっぽう)を、広めてきてくれないか。」

釈尊は答えます。

「はい、いいですよ。でも、私は、本家本元(ほんけほんもと)ではないので、
期間限定(きかんげんてい)の仏法しか広められませんが、それでも、いいですか?」

日蓮大聖人は、言います。

「うん!いいよ。期間限定の仏法で、十分(じゅうぶん)だよ!その後は、ぼくが、本元(ほんもと)の仏法を、広めるから!!」


と、こんな感じでしょうか・・。



先程、少し、話したように、また、譬(たと)え話にもあったように、釈尊の仏法は、「期間限定」なんです。

その期間が、どれだけか?といえば、釈尊が亡(な)くなってから、二千(2000)年間です。

その二千年は、とうに過(す)ぎています。

ですから、先程(さきほど)、言ったように、釈尊の仏法には、もう、効力(こうりょく)がないんです。


何の効力かといえば、それは、人を幸せにする力です。


だから、釈尊没後(ぼつご)、二千年が経(た)った現代では、釈尊の仏法をやっても、なんの効力もないし、幸せにもなりせん。

かえって、期限が切れているので、期限(きげん)が切れた薬(くすり)と同じように、害(がい)になってしまいます。

すなわち、現代、釈尊の仏法をやったら、幸せになるどころか、不幸になってしまうということです。


それが、現代、一般的に広まっている、葬式仏教(そうしきぶっきょう)であり、観光(かんこう)仏教です。


ですから、お葬式(そうしき)などで、葬式仏教や観光仏教の坊(ぼう)さんを呼んで、お経(きょう)を読んでもらったところで、真実(しんじつ)を言えば、
お金を払って、不幸にしてもらっているようなものです。



マンガ・進撃の巨人に戻ると、やはり、最(もっと)も重要なポイントは、「始祖(しそ)の巨人」だと言えます。

その始祖の巨人の力を、手に入れることが、できるかどうかが、勝敗の鍵(かぎ)になっているということです。

そして、その始祖の巨人は、進撃の巨人の、以前(いぜん)の持ち主であったエレンの父が、始祖の巨人の持ち主であった王家の女性を食ったことにより、始祖の巨人を大家の女性より奪(うば)って、所有(しょゆう)していた。

すなわち、エレンの父は、進撃の巨人と始祖の巨人の両方の力を、自分の中に所有していたということです。

その二つの巨人の力は、エレンの父の命と引(ひ)き換(か)えに、エレンに引き継(つ)がれた。

すなわち、エレンが、進撃の巨人の力も、始祖の巨人の力も、もっているということです。

だから、最も重要な、「始祖の巨人」は、エレンが持っている!!

ということです。


そうなると、エレンは無敵(むてき)ではないか!と考えられる。

なぜなら、巨人たちを、意のままに操(あやつ)ることができる『始祖の巨人』を、自分の中に持っているからです。


ところが、そう、うまくはいかない・・。


始祖の巨人の力を使うためには、条件(じょうけん)があり、その条件をクリアしないかぎり、始祖の巨人を持っていても、その力(ちから)を使うことができない・・。


ちょうど、どんなに高価(こうか)でスゴイ武器(ぶき)や、最新鋭(さいしんえい)の機械をもっていても、使い方を知らなければ、なんの役にも立たないのと同じです。


宝(たから)の持(も)ち腐(ぐさ)れと、いうものです。


エレンの中に、無敵であり、無限の力である、「始祖の巨人」の力はある。


けれで、その始祖の巨人の力を、使うことができない!


自分の中に、その無限の力があっても、使うことができなかったら、無(な)いのと同じです。

それが、エレンの状態(じょうたい)です。


では、その無敵の力である、始祖の巨人の力を使うには、どうしたらいいのか。

そのためには、「王家(おうけ)の血(ち)を引く巨人」と、接触(せっしょく)しなければならない!!

王家の血を引く巨人が、始祖の巨人の力を使うための鍵(かぎ)になっていて、その王家の血を引く巨人と接触することによって、はじめて、鍵が開(あ)き、始祖の巨人の力を、使えるようになる。


だから、エレンは、始祖の巨人の力を使うために、王家の血を引く巨人を、求(もと)めていきます。


その「王家の血を引く巨人」が、エレンの腹違(はらちが)いの兄である、『ジーク 』です。

そこで、エレンとジークは、始祖の巨人の力を行使(こうし)する目的(もくてき)のために、なんとしても、兄弟の接触を、果(は)たそうとします。

そして、始祖の巨人の力の行使を避(さ)けようとしている、もろもろの勢力(せいりょく)と、壮絶な戦いを、繰(く)り広げるわけです。



どんなにスゴイ力(ちから)があっても、使うことができなかったら、何の意味もない。


どんなに大きな可能性があっても、その可能性を、出すことができなかったら、無いのと同じです。


人間の中にも、無限の力は、ある。

人間の中にも、無限の可能性は、ある。

エレンが、始祖の巨人の力を持っていたように、それに変(か)わるような、「幸せになる力」というものが、あると、思う。

幸せになる力があるということに抵抗(ていこう)を感じるにしても、どんな人でも、幸せになる可能性(かのうせい)は、ある!!と思う。

たとえば、宝くじに当たって、億万長者(おくまんちょうじゃ)になることだってある。

仮に、99%、宝(たから)くじに当たって億万長者になることはないとしても、だからといって、無(な)いとは、いえない。

当(あ)たった人は、現実にいるのだから。

ということは、

人間は、幸せになる可能性を、持っている!!

ということだと思う。

また、そんな棚(たな)からぼた餅(もち)のような話しでなくとも、必死に努力して、運(うん)とチャンスに恵(めぐ)まれれば、幸せになる人は、山ほど、いる。


ということは、人間は、やはり、幸せになる力を、持っている!ということです。


それは、可能性を無限に広げれば、進撃の巨人の中のエレンが、始祖の巨人の力を持っているのと、同じようなことだと、思う・・。


そして、エレンと同じように、その力を、出すことができるか、できないかが、鍵(かぎ)となる。


エレンは、始祖の巨人の力を持っている。

しかし、その力を、使うことが、できない・・。


なぜか?


始祖の巨人の力を使うためには、それを使うために、『縁(えん)』が、どうしても必要となるからです。

『縁』とは、何かを起こす「きっかけ」となる対象(たいしょう)のことですが、その『縁(えん)』に触(ふ)れないかぎり、始祖の巨人という無限大の力を、使うことが、できない。

マンガ・進撃の巨人の場合、その『縁』が、王家の血を引く巨人であり、
エレンの兄、ジークだと、いえます。


それと同じように、人間も、幸せのなる無限の力を、持っている。

幸せになる、無限の可能性を、持(も)っている。


そして、その、幸せになる無限の力を出すためには、エレンと同じように、『縁(えん)』が、必要となってくるんです。


その『縁(えん)』とは、何なのか?


幸せの縁とは、何なのか?


その幸せの縁の中で、最も、強く、最も、大きく、究極(きゅうきょく)の、無限の可能性を持った、『幸せの縁』が、創価学会の人たちが、日々、祈(いの)っている、『ご本尊(ほんぞん)』なんです。


ご本尊とは、仏(ほとけ)の生命(せいめい)を、そのまま表現して、書き表(あらわ)したものですが、その「仏の生命」が、根源的な幸せの力であり、最も大元(おおもと)の幸せを創造(そうぞう)するエネルギーのようなものだと、思います。


人間には、幸せになる力が、ある・・!

その幸せになる力を引き出すためには、『縁(えん)』が必要となる。

その幸せを引き出す縁が、「ご本尊(ほんぞん)」だということです。


そして、もう一つ、重要なことが、あります。


幸せになる縁であるご本尊に、ただ、接(せっ)すれば、幸せの力を引き出せるかといったら、そんなことは、ありません。

それだったら、まだ、簡単(かんたん)かもしれない。

けれど、違います。

ご本尊から、幸せになる力を引き出すためには、方法(ほうほう)がある・・!

それが、ご本尊に、

南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる!

ということです。

これ以外、ご本尊から、幸せになる力を引き出す方法は、ありません。


南無妙法蓮華経とは、仏(ほとけ)の生命の名前です。

その南無妙法蓮華経という仏の生命の名前に、そのまま、仏の生命の無限の力も、無限の可能性も、含(ふく)まれているということです。

だから、南無妙法蓮華経を、となえた時、呼(よ)ばれて、仏の生命の無限の力も、無限の可能性も、出てくるわけです。


進撃の巨人でいえば、始祖の巨人の力をつかうためには、「王家の血を引く巨人」に接触しなければならないが、それ以前に、自分が「始祖の巨人の力」を、所有(しょゆう)していなければならない。

始祖の巨人の力を所有していないものが、王家の血を引く巨人と接触しても、何も起(お)こらない。


それと同じように、自分の中に、「幸せになる無限の力」を、所有しなければならない。

その幸せになる無限の力を所有するということが、

『南無妙法蓮華経を、となえる』

ということになるんです。


南無妙法蓮華経をとなえるということは、その行動と直結(ちょっけつ)して、
自分の中に、「幸せになる無限の力」を所有することに、なっていくんです。


南無妙法蓮華経をとなえた途端(とたん)、自分の中に、幸せになる無限の力が発現(はつげん)し、その瞬間、自分の中に、幸せの無限の力が、所有されるんです。

だから、南無妙法蓮華経を、となえないと、いけないんです。

結論(けつろん)からいうと、本当の幸せを、つかみたいんだったら、南無妙法蓮華経を、となえる以外(いがい)、ありません。

ほかの何をやっても、無理(むり)です。


それほど、南無妙法蓮華経は、スゴイということです。


マンガ・進撃の巨人に、たとえるならば、南無妙法蓮華経をとなえた時、自分の中に、始祖の巨人を、所有したことになる。

進撃の巨人でいえば、南無妙法蓮華経をとなえ、始祖の巨人を所有した状態で、「王家の血を引く巨人」という『縁』、

すなわち、『ご本尊』という無限の幸せを引き出す『縁』に接することによって、自分の中から、幸せが、発現(はつげん)してくる。


そう、言えると思います・・・。



マンガ・進撃の巨人では、最終的に、エレンは、「王家の血を引く巨人」である、兄のジークとの接触を果(は)たし、始祖の巨人の力を、行使(こうし)できるようになる。

そして、エレンの目的のために、始祖の巨人の力を行使したとき、なぜだか、エレンは、少年の姿(すがた)に戻(もど)る。

そして、少年の姿に戻ったエレンは、叫(さけ)ぶ。


『自由だ!!!』


それは、人間が持っている、本源的な、生命の叫(さけ)びだと思う。


人間が持っている自由への欲求(よっきゅう)、幸せへの希望、さまざまな不幸の足かせを、取(と)っ払(ぱら)って生きたいという欲求。

エレンの姿が、少年に戻ったというのは、それが、生命(せいめい)の上で、可能になったということではないだろうか・・。


自由とは、なにものにも束縛(そくばく)されない喜(よろこ)びのようなものだろうか。

それは、生命が、舞(ま)い上がるような感動!!

おそらく、それは、生命が感じる、最極(さいごく)の歓喜(かんき)ではないかと思う。


創価学会では、あるいは、仏法では、

『南無妙法蓮華経は、歓喜の中の大歓喜(だいかんき)!』

だと、いう。

それは、言い方を変えれば、

『自由の中の、最大の自由!!』

ということだと思う。

南無妙法蓮華経をとなえた時、自分の生命が、解(と)き放(はな)たれる。

それは、幸せの力を、自由につかえるようになる!ということではないだろうか。


マンガ・進撃の巨人にたとえれば、始祖の巨人の力を、使えるようになる。

始祖の巨人の無限の力を、行使できるようになる。

すなわち、幸せの無限の力を使って、さまざまな悩みを解決し、さまざまの夢や希望をかなえ、無限に、幸せを、つかんでいける!ということだと思う。


だから、南無妙法蓮華経は、「歓喜の中の大歓喜」なんだと思う。



ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえる時、自分の中から、久遠元初(くおんがんじょ)の生命の力が、湧(わ)き上がり、その生命の力を、使えるようになる。

そして、自分の生命は、少年や少女が、夢を、かなえるような生命状態に、変(か)わっていく。


歓喜の中の大歓喜は、そんな風(ふう)に、譬(たと)えられるかもしれない。


そして、その生命状態は、エレンが、始祖の巨人の力を、行使できるようになったのに似(に)ている。

なぜなら、その大歓喜の生命状態には、困難(こんなん)や障害(しょうがい)に打ち勝つ、強い強い生命力があるので、さながら、それは、無敵のように思えるからです。


だから、負けない!

だから、勝っていける!!

悩みを解決し、希望を、叶(かな)えていける。


そして、自分らしい、素晴(すば)らしい、最高の幸せを、つかんでいける。


それが、

「ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえる!」

ということかもしれない。


あたかも、それは・・、マンガ・進撃の巨人の中で、エレンが、始祖の巨人の力を行使した時、少年の姿(すがた)に、戻り、

『自由だ!!!』

と、叫んだように・・。


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希望列車343

2023-05-05 21:23:54 | 日記
先日、ディズニーのアニメ映画、「シュガー・ラッシュ」の話しをしました。

この物語では、ゲームの世界の『お菓子(かし)の国』で、少女たちが、カーレースで、勝敗を競(きそ)っている。

ゲームセンターのカーレースのゲームを、擬人化(ぎじんか)したような設定(せってい)です。

そして、ヒロインのヴァネロペは、カーレースに出たくても、出ることができない、不具合(ふぐあい)をもった存在として、生きている。

いわゆる、コンピューターの中の『バグ』というやつで、ヴァネロペがカーレースに出場すれば、ゲームに不具合が発生(はっせい)し、ゲーム自体が壊(こわ)れてしまう・・。

そうなれば、ゲームの世界の『お菓子の国』は、崩壊(ほうかい)し、みんなが生きていけなくなる。

ヴァネロペ自身も、自分が『バグ』であるために、お菓子の国から逃(に)げることもできず、死んでいくしかなくなる。

ゆえに、どうしても、ヴァネロペをカーレースに出場させることはできない!!


これが、お菓子の国の王たちが、ヴァネロペをカーレースに出場させず、ヴァネロペを排除(はいじょ)して、いじめ、蔑(さげす)み続ける理由です。


けれど、そこには、トリックがある・・!


そのトリックに、他のゲームの世界から迷(まよ)いこみ、やってきたラルフは、気付(きづ)く・・・!


そして、ラルフの助けを得(え)て、ヴァネロペは、カーレースに出場する。

やがて、お菓子の国の王の正体(しょうたい)も、暴(あば)かれ、お菓子の国の王は、実(じつ)は、その国を乗(の)っ取った、悪(あ)しき「ウイルス」であったことがわかる。

ラルフとヴァネロペは、そのお菓子の国を乗っ取(と)った、悪のウイルスを倒(たお)し、ヴァネロペは、カーレースで勝利して、ゴールする。


その瞬間(しゅんかん)、悪のウイルスに支配(しはい)されていた呪縛(じゅばく)が解(と)け、お菓子の世界は、劇的に、美しく、平和な世界に変わる。


ヴァネロペ自身も、劇的に変化して、素晴らしい女王の姿(すがた)を現(あらわ)す。



ふと、考えるに、ヴァネロペは、自分が、このお菓子の世界で、不具合(ふぐあい)、すなわち、「バグ」として生き、みんなから蔑(さげす)まれ、のけ者にされて生きることもできた。


けれど、ヴァネロペは、それを選(えら)ばなかった!!


すなわち、幸せになることを、選んだ・・!!


ゆえに、レースに出場して、偽(いつわ)りの王(おう)の正体が、暴かれ、ヴァネロペはゴールして、勝利した。


これが、もし、ヴァネロペが、自分が「バグ」であることに甘(あま)んじ、諦(あきら)めて、レースに出なかったら、どうなったであろうか。

状況(じょうきょう)は、何も変わらず、ヴァネロペは、蔑(さげす)まれ、不幸のまま、死んでいったであろう・・。


不幸というのは不思議(ふしぎ)で、そういう不幸に慣(な)らされてしまうと、一歩、踏(ふ)み出すのにも勇気がいるし、新しい環境や世界に行くのが、おっくうだから、自分自身で、自分を、だましてしまう場合さえ、ある・・。


けれど、それは、ディズニー映画「シュガー・ラッシュ」の中で、ヴァネロペが、お菓子の国の「偽りの王」、「悪のウイルス」に、だまされているのと同じで、自分の中の悪(あく)のウイルスが、自分の「本当(ほんとう)の姿」、すなわち「幸せ」を、出させないようにしているのかもしれない。


だまされる、もっともな何かの理由は、ある思う。


けれど、だまされていたら・・、ドラマもストーリーも、始まらない。


まして、幸せが生まれることはない。


だから、だまされてはいけない。


幸せになるか、ならないかを決めるのは自分自身なのだから!!



仮(かり)に、自分が、不遇(ふぐう)であり不幸であったとする。

そうであったならば、環境や、周(まわ)りの状況、周りの人たちの見方や考え方に、甘んじている必要は、ないと思う。


試(ため)しに、映画・シュガー・ラッシュのように、その環境をつかさどる、国や世界、王のほうが、偽りの、悪しきウイルスであり、間違っていると、自分の環境や状況を、ゲームのような感覚(かんかく)で想像(そうぞう)してみたら、何かの新しい視点(してん)が、見えてくるかもしれない・・。

自分が、ヴァネロペのような立場(たちば)だと、想像してみたら、ひとつの考えに囚(とら)われていた心が、いったん、解放されて、精神的(せいしんてき)に、楽(らく)になるかもしれない。

さらに、それを、きっかけにして、良い方向(ほうこう)に、前進することができたなら、なおのこと、幸せではないのだろうか・・。


ただ・・、人が持っている「宿命(しゅくめい)」というものは、生(なま)やさしいものでは、ない・・。


持って生まれた運命や境遇(きょうぐう)、そこから引(ひ)き起こる、さまざまな悲しみ、苦しみ、どうして自分だけがと思うような、辛(つら)い出来事、災難(さいなん)、

そのような、どうしても避(さ)けることのできない宿命のようなものを、仏法(ぶっぽう)では、『宿業(しゅくごう)』という。

それは、自分の中に宿(やど)ってしまっている『業(ごう)』であり、この「宿業」があるから、人は苦しみ、悲しみ、幸せになれないまま、不幸を背負(せお)って、生きていると言えると思います。


そして、この『宿業(しゅくごう)』ほど、やっかいなものは、ない・・!


この宿業だけは、そんじょそこらのことでは、打ち破(やぶ)ることが、できないからです。

それこそ、岩を切(き)るような思いがするかもしれない。


そして、その宿業を打ち破る、唯一(ゆいいつ)の利剣(りけん)が、創価学会(そうかがっかい)の人たちが、日々、となえている、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』であり、『ご本尊(ほんぞん)』だと、言えます。

この『宿業』だけは、創価学会の人たちが、となえている、『南無妙法蓮華経』と『ご本尊』でないと、断(た)ち切ることは、できません。

横暴(おうぼう)なように聞こえますが、本当にそうだから、しょうがありません。

他のなにをやっても、だめです。


※ちなみに、「ご本尊」とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、目に見える形に、書き表(あらわ)したものであり、同時に、自分の生命そのものを、表現したものでもあり、その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、自分自身の中にあることを、あらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。



人気のマンガ、『鬼滅の刃(きめつのやいば)』の中で、主人公の炭治郎(たんじろう)が、修行中、岩を切るシーンがあります。

師匠(ししょう)の言いつけで、「岩を切れ!」というのです。

岩(いわ)を切れと言われても、炭治郎は、とても、岩が、刀(かたな)で切れるとは、思わない。

あたりまえです。

そして、炭治郎が、岩を切るために、さまざまな苦心(くしん)で努力をしている時に、炭治郎の前に、少年の剣士(けんし)が、あらわれる。

その少年の剣士は、炭治郎に襲(おそ)いかかり、それ以来、二人で、剣の修行を重(かさ)ねる。

しかし、その少年の剣士は、とても強く、炭治郎は、歯(は)がたたない。

実は、その少年の剣士は、鬼(おに)に殺された剣士の幽霊(ゆうれい)であった。

また、同じ時期、鬼に殺された少女の剣士の幽霊も、登場して、炭治郎に、さまざまな「知恵」を、さずける。

炭治郎は、最後まで、二人の剣士が、幽霊であることには、気づかなかったが、二人のおかげで、成長していく。

やがて、まったく歯が立たなかった少年剣士と、互角(ごかく)に、戦えるようになっていき、鬼(おに)と戦うための糸口(いとぐち)も、つかんでいく。

そして、炭治郎が、初めて少年剣士に勝ったとき、少年剣士は、にっこり笑って、消えていく。


そのとき、なぜだか、岩が、切れていた。


漫画(まんが)だから、なにか、すごい力(ちから)で、岩が切れたように描(えが)いてもよいのだけれど、そうは描かないで、ふたりの子供剣士の幽霊と修行(しゅぎょう)する中で、成長し、岩が切れたというのは、とても素晴(すば)らしい表現(ひょうげん)だと、思った。


思うに、岩と、炭治郎だけだったら、客観的(きゃっかんてき)にも、岩が、切れるようには思えない。

けれど、そこに、二人の子供剣士の幽霊が、加(くわ)わることによって、何かが生まれ、人間の中にありながら、人間の意識を超(こ)えた『何か』の働きによって、岩を切ることができた。


そういう表現だと、思う。


人間の中にありながら、人間の意識を超えた『何か』?

人間の中に、あることはわかる。けれど、それを出すことは、考えもしない。

たとえば、思いもしない力(ちから)、思いもしない可能性、思いもしない希望、思いもしない才能(さいのう)、思いも及(およ)ばない知恵、


そして、思いもよらない幸せ・・!!


それが、何であるのか、わからなくても、それを出すことのできる武器(ぶき)が、実は、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)であり、ご本尊(ほんぞん)だと、たとえることが、できます。



前の、「宿業(しゅくごう)」の話しに戻(もど)ると、宿業を断ち切ることのできる、マンガ・鬼滅の刃でいえば、岩を切ることができる、その、人間の中にありながら、人間の意識を超えた『何か』が、「南無妙法蓮華経」であり、「ご本尊」であると言えば、わかりやすいかもしれない。

また、宿業を断ち切るためには、「南無妙法蓮華経」と「ご本尊」が、鬼滅の刃の、二人の幽霊剣士のような役目(やくめ)を果(は)たしていると表現すれば、納得(なっとく)しやすいかもしれない。



仏法(ぶっぽう)では、『妙法(みょうほう)の利剣(りけん)』という言葉を、使う。

「妙法」とは、「南無妙法蓮華経」を略(りゃく)したもので、妙法と南無妙法蓮華経は、同じです。

そして、「妙法の利剣」でないと、「宿業(しゅくごう)」という岩は、切ることができない。

それは、鬼滅の刃の中で、日輪刀(にちりんとう)という、年中日光を浴びている特殊な鋼(はがね)で作られた刀(かたな)でないと、鬼を倒(たお)すことができないのと、同じです。

普通の刀(かたな)で、鬼を、どんなに切っても、首(くび)を切っても、鬼は死なない。

日輪刀で、鬼の首を切ったときだけ、鬼(おに)は死ぬ。

それと同じように、「宿業」を「鬼」にたとえるならば、宿業という鬼は、「妙法の利剣」でないと、死なない。


宿業は、妙法の利剣、すなわち、「南無妙法蓮華経」でないと、断ち切ることができない!ということです。


やがて、妙法の利剣である「南無妙法蓮華経」で、宿業(しゅくごう)を断ち切ることができたならば、アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、ヴァネロペが、悪のウイルスの王を打ち破ったように、自分の世界が、不幸から、幸せの世界に、変わっていく。


悩みが、解決していく。夢や希望が、かなっていく!!ということです。


それが、創価学会が実践(じっせん)している、ご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、言えると思います。


それは、あたかも、マンガ・鬼滅の刃の中で、炭治郎が、岩を、切ったように・・・!!


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希望列車342

2023-01-05 11:05:19 | 日記
ディズニーのアニメで、「シュガー・ラッシュ」という映画があります。

この物語は、ゲームの世界のキャラクターを、擬人化(ぎじんか)したような物語で、
ゲームセンターのモニター画面の中で動いているキャラクターが、いかにもその時間、働いて生活しているような構成(こうせい)になっています。

その中でヒロインとして登場するのが、少女ヴァネロペです。

ヴァネロペは、お菓子の世界に存在(そんざい)し、その世界では少女たちがカーレースで勝敗を競(きそ)っている。

簡単(かんたん)に言えば、ゲームセンターのカーレースのゲームの世界に生きているという設定(せってい)です。


けれど、ヴァネロペには、不具合(ふぐあい)がある!!


コンピューターでよく言う 「バグ」 ということでしょうか・・。


ヴァネロペは、そのゲームの世界の不具合であり、マイナスの存在だと扱(あつか)われている。

そのために、ヴァネロペは、他の人たちから「のけ者」にされ、カーレースに出ることもできない。

みんなから、蔑(さげす)まれ、嫌(きら)われる存在として生きている。


ある時、別のゲームの世界から迷(まよ)い込んだラルフは、
お菓子の世界で、そのヴァネロペと出会う。

そして、ラルフが持ってきたメダルによって、ヴァネロペは、カーレースの出場の権利(けんり)を得る。

しかし、お菓子の世界の王は、なぜだか、執拗(しつよう)にヴァネロペのレースへの出場を阻(はば)もうとする。

ヴァネロペには「不具合」、バグがあり、彼女がカーレースに出場すれは、このお菓子の世界自体(じたい)がおかしくなり、壊(こわ)れてしまい、このカーレースのゲーム機自体が廃棄(はいき)され、お菓子の世界の住民、そしてヴァネロペ自体も不幸になる!

というのが表向(おもてむ)きの理由です。


けれど、実は、別の理由があった。


ヴァネロペは王の妨害(ぼうがい)によって、窮地(きゅうち)に追い込まれるが、決して屈(くっ)しない勇気と行動、そしてラルフの助けを得(え)て、お菓子の国のカーレースに出場する。

ここでも、ヴァネロペをゴールにたどり着かせないように、王の容赦(ようしゃ)ない妨害が続く。


それは、なぜなのか???


実は、「王」というのは偽(いつわ)りで、その王の正体(しょうたい)は、お菓子の国のゲームの世界を乗っ取った、 悪(あ)しき「ウイルス」 だからです。

この「ウイルス」である偽りの王によって、お菓子の国の世界は支配(しはい)され、
そのことによってヴァネロペは不具合となり、この世界から排除(はいじょ)された存在になっている。

ヴァネロペは、実(じつ)は、このお菓子の世界を元の世界に復活(ふっかつ)される重要な存在であり、ヴァネロペがゴールした時、この世界を復活させる 「何かが起こる!!」 ということです。

だから、ウイルスである「王」は、ヴァネロペのゴールを阻止(そし)しようとしている。

しかし、ヴァネロペとラルフの活躍(かつやく)により、ウイルスである王は敗れ、消えていく。

そして、ヴァネロペは、とうとうゴールにたどり着く!!

その時、いままでウイルスである王に支配されていたお菓子の国のゲームの世界に、劇的(げきてき)な変化がもたらされる。


ヴァネロペ自身も劇的に変化し、「女王」の姿(すがた)をあらわす。


実は、ヴァネロペは、お菓子の国を統治(とうじ)する女王であった!!!


そして、ウイルスによって記憶(きおく)を消されていた住民たちも、
記憶を取り戻し、女王に深く、お詫(わ)びをする。



考えてみると、不具合により皆から嫌(きら)われ、のけ者にされていたヴァネロペも、女王であるヴァネロペも同じ人物です。

ヴァネロペは、不具合で皆(みな)から嫌われ、のけ者にされている世界で、そのまま生きていくこともできた。

けれど、ヴァネロペは屈(くっ)せず、あきらめず、希望と勇気と挑戦によって、自分のいる世界を、自分が女王として堂々(どうどう)と生きていける世界に変えた。


人間も同じなのではないだろうか・・・!


仮(かり)に、今、自分がいる環境が、不遇(ふぐう)であり不幸だったとする。

けれどその環境(かんきょう)は、アニメ「シュガー・ラッシュ」のように、偽りの世界であり、ウイルスによって支配された環境だと考えることはできないだろうか・・・?

そう考えた時、今、自分が、かかえている不遇(ふぐう)や不幸も、仮(かり)の姿であり、偽(いつわ)りの姿だと考えることはできないだろうか・・・?

そして、ヴァネロペのように、希望と勇気と挑戦によって、道を切り開きゴールした時、自分の世界が、自分が、王者のように輝(かがや)く環境へと変わっていくと、
とらえることができないだろうか・・・?


創価学会(そうかがっかい)が実践している仏法(ぶっぽう)では、
『一念三千(いちねんさんぜん)』
という法則(ほうそく)を説いています。

「一念三千」とは、一念(いちねん)、すなわち心(こころ)の違いによって三千の違(ちが)う世界ができあがる!という生命の法則です。

三千の心の違いによって、未来の世界は、それぞれ三千の違う世界が生まれていく・・・。

自分の心によって、世界が変わり、自分の心に合った世界が、そこに存在していくことになる。

ものすごく単純(たんじゅん)に考えれば、人は三千の違う世界の中から、自分の心で、そのどれかの世界を選(えら)んでいる!!と、とらえることができます。

その三千の世界の中には、ヴァネロペのように、自分が、のけ者にされ、蔑(さげす)まれ嫌(きら)われている世界もあるかもしれない。

また、これもヴァネロペのように、自分が女王、あるいは王のように、堂々と生きている世界もあるかもしれない。


一念三千の法則から考えるならば、
人は、自分がいく世界を、自分の心によって選んでいる・・!!


と言えます。


楽観的(らっかんてき)にポジティプに考えれは、人は、未来の三千種類の世界の中から、自分が行く世界を選ぶことができる!!と、とらえることもできます。


それが、生命における『一念三千(いちねんさんぜん)の法則』です。



確かに、未来はわからない・・・。

未来には無限(むげん)の可能性がある・・・。


不幸になる可能性も、
幸せになる可能性も・・・。


それを選び、つかむことのできる法則が、先程(さきほど)から話している「一念三千の法則」ですが、この、「一念三千の法則」を、

いったい? どうやって使っていくのか・・??

どうやって、自分の人生に生かしていくのか?

そして、この「一念三千の法則」を、どうやって、ものにし、人生を勝利していけるのか・・・?


それが、問題です。


実は、この「一念三千の法則」を、現実に動かし、現実に結果を出し、現実に幸せになっていける、究極(きゅうきょく)の力であり方法が、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる、仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。


けれど、おそらく、だれでも思うのではないか?と思うのが、いくら一念三千の法則を説(と)いても、そんなものは、単(たん)なる机上(きじょう)の空論(くうろん)にすぎないのではないか!ということです。


問題は現実だからです。


現実を変えられなければ、何の意味もない。


現実の悩みを解決できなかったら、そんなものは、よくある言葉の遊びでしかない。


そして、現実の夢や希望を、かなえていけなかったら、いったい、一念三千の法則が、なんだというのだろうか・・・。


けれど、創価学会が実践(じっせん)している南無妙法蓮華経を、となえる仏法の信仰(しんこう)は、言葉の遊びではない!!


『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』は、現実を変える、ものすごい力(ちから)なんです。

南無妙法蓮華経は、一念三千の法則を現実のものとする
『秘宝(ひほう)』なんです。

幸せをつかむ究極の法則であり、未来を幸せに変える究極の力(ちから)が、
『南無妙法蓮華経』なんです。

だから、創価学会の、南無妙法蓮華経を
となえる仏法(ぶっぽう)を実践していった時、


自分の世界が、環境が、大きく変わっていく。


自分自身の境涯(きょうがい)が、大きく変わっていく。


そして、王者のように幸せを勝ち取っていける!!



昔、アンドレイ・タルコフスキー監督の『惑星(わくせい)ソラリス』という映画を見ました。

その世界では、自分が深く思い願っている存在が、現実の姿(すがた)をして、具現化(ぐげんか)され、あらわれてきてしまう。

すでに自殺して亡(な)くなり、いるはずのない妻(つま)が具現化し、さまよい、主人公は苦しむ。

その果(は)てに、自分が子供のころから、愛してやまない故郷(こきょう)、地球の、我(わ)が家と家族、その土地と自然が、惑星ソラリスから、出現(しゅつげん)してしまう・・・。


この物語は、SFの架空(かくう)の物語ですが、人間の『一念(いちねん)』には、
「こころ」を、具現化していく力(ちから)が、あると思う。


人は、自分の夢や希望、願いを、現実に、実現してきた・・。

それは、人間のこころには、夢や希望を、実現していく力が、
『ある!!』  ということです。

そして、その、人間の『こころ』の力が、明確(めいかく)に発揮(はっき)された時、
夢や希望が、かなっていく・・・!!

しかし、その「こころの力」が、不明瞭(ふめいりょう)で、さまざまな障害や不純物(ふじゅんぶつ)によって、発揮されなくなってしまっている。

そのために、さまざまな苦しみや悩みが生(しょう)じて、人は、不幸に沈(しず)んでいく・・・。


そう、言えると思います。


しかし、「こころ」における、さまざまな障害や不純物が、取り除(のぞ)かれたならば、「こころ」は、力を、存分(ぞんぶん)に発揮して、夢や希望が、かなっていく。


それが、「こころの力」ではないかと、思われる。


そして、「こころ」から、障害や不純物を取り除き、こころの力を、無限大に発揮していく力が、さきほど話した、 「南無妙法蓮華経」 です。

そして、南無妙法蓮華経の力によって解放(かいほう)された、「こころの力」によって、惑星ソラリスのように、幸せの世界が出現してくる。

ヴァネロペのように、貧(まず)しい姿から、女王の姿を、あらわす。


それが、南無妙法蓮華経であり、南無妙法蓮華経を、となえることだと、思います。




昔、創価学会は、貧乏人と病人の集まりだと言われた。


その人たちが、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を実践することによって、どうなっていったかといえば、貧乏人は裕福(ゆうふく)になり、病人は健康になっていった。

そして、ことごとく、創価学会の人たちは、幸せになり、人生を勝利していった。

それは、アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、自分が、のけ者にされ蔑(さげす)まれている世界にいたヴァネロペが、女王となり、その世界を幸せに変えていったのに似(に)ている。


そういう変化を、現実のうえで可能にしてきたのが、創価学会だとも言えます。


いまでは、創価学会は世界192カ国に広がり、その世界中の人たちの悩みを解決し、夢や希望をかなえる大きな大きな力となって、その人たちの環境を変え、自分を変え、その人たちに幸せと勝利を、もたらしている。


たとえば、道が何本にも分かれた分岐点(ぶんきてん)があるとする。

そして、その道の先(さき)に何があるか、すべて見えているとします。

そうしたならば、人は、わざわざ自分が不幸になる道を進みはしない。


自分が行きたい道、自分が幸せになる道、自分が勝利していける道を、進むでしょう。


ところが、人は人生の道の先に、何があるか、わからない・・。

だから、途方(とほう)にくれたり、あきらめたり、絶望(ぜつぼう)したりしてしまう。


そして、敗れていく人も多くいる・・・。


創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰は、いくつも分かれた道の先に、何があるのか、見えているのに似(に)ている。

見えていれば、幸せになる道を進んでいける。
不幸になる道を避(さ)けることができる。


そして自分の夢や希望をかなえて勝利していける。


そういう生き方ができるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰です。


もちろん、幸せになっていくために、さまざまな努力、挑戦が必要なのは当(あ)たり前です。

また、アニメ「シュガー・ラッシュ」のヴァネロペのように、それを妨(さまた)げる、さまざまな妨害(ぼうがい)があるかもしれません。

ある意味、幸せにさせまいとする、さまざまな勢力(せいりょく)が自分の前に立ちはだかることもあるかもしれません。

けれど、ヴァネロペのように、希望を持ち続け、勇気と挑戦によって、立ちはだかる苦難(くなん)を乗り越えていったとき、必ず幸せになっていけるのが、創価学会の信心です。

また、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法を実践していくことによって、自分の中から自然(しぜん)に、その「勇気」と「希望」を湧(わ)き上がらせていくことができる!!

その、自分の中から湧(わ)きあがってきた勇気と希望によって、どんな苦難(くなん)も乗り越(こ)え、勝利していけるようになっていく!!


その大元(おおもと)のエネルギーが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。



南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、環境とか境遇(きょうぐう)とか、運命とか宿命とか、それらの軋轢(あつれき)や障害(しょうがい)の上にある力(ちから)であり法則だと言えます。

運命や宿命(しゅくめい)、軋轢(あつれき)や障害の、『上』にある力であるがゆえに、悩みや困難(こんなん)を乗り越え、夢や希望を、かなえていく力(ちから)が、ある!!
ということです。


それが、『南無妙法蓮華経』であり、
『南無妙法蓮華経を、となえる』
ことだと言えます。


たとえば、話しのよくわかる、良い社長がいたとします。

会社内に、さまざまの問題があり、ある社員が悩(なや)んでいる。

同僚(どうりょう)や課長や部長に話しても、さまざまな思惑(おもわく)や軋轢(あつれき)があって、まったく解決しない。

けれど、その話しのよくわかる、良い社長に話し、訴(うった)えていったなら、希望や要望(ようぼう)がかなっていく可能性が高い。


今度は、ブラック企業(きぎょう)で、社長も、頑固(がんこ)で、話しのわからない社長だったとする。

けれど、その国の王がいて、その王は、大変、優秀(ゆうしゅう)で、善良(ぜんりょう)な王だったとする。

その優秀な国の王に、問題を訴え、伝えることができたなら、国が動き、ブラック企業の問題が解決できる可能性(かのうせい)もでてくる。


こんどは、国の王も、暴君(ぼうくん)で、どうしようもないような王だとする。

しかしその国の王の上には、 「宇宙(うちゅう)の王」  がいて、その宇宙の王は、
大変、優秀で、ものわかりの良い、素晴(すば)らしい王様だったとする。

宇宙の王から見れば、地球の一国の王など、小さな島の住人(じゅうにん)にすぎない。

だから、その素晴らしい宇宙の王に話しを伝え、訴えることができたなら、宇宙の王が動き、暴君の圧政(あっせい)を改(あらた)め、民衆の希望や願いが、かなっていく可能性も強くなる。


その『宇宙の王』が、
南無妙法蓮華経であり
南無妙法蓮華経の力だと、
たとえることができます。


だから、南無妙法蓮華経をとなえることは、願いや祈りを、宇宙の王に伝え、訴えることになり、宇宙の王を動かす行為(こうい)だと、考えることができます。


宇宙の王に訴え、宇宙の王を動かすのだから、
願いや祈りが、かなわないわけがない!!!


宇宙の王は、地球のちっぽけな王とは比(くら)べものにならないほど広大(こうだい)で無限の力を有(ゆう)していると、考えられます。

その『宇宙の力(ちから)』を動かしたならば、さまざまな悩みや問題も、悠々(ゆうゆう)と解決できるのではないかと、思われる。

それが、

『南無妙法蓮華経を、となえる』

ことだと、たとえることができます。



ヴァネロペは、あきらめなかった。

絶対に負(ま)けなかった。

絶対に希望を捨てなかった。

それと同じように、南無妙法蓮華経を、となえることによって、絶対に負けない「生命力(せいめいりょく)」を湧(わ)き上がらせていくことができる。

その「生命力」は、強い強い「心(こころ)」、希望の心、幸せの心となって、その人の人生を開花(かいか)していく。

その生命力、強い強い心は、悩みを解決し、困難を乗り越えさせ、夢や希望をかなえる力(ちから)となっていく。

さきほど話した、「一念三千の法則」によれば、その強い強い心、幸せの心によって、
世界が幸せに変わっていく。


自分にとって、希望に満(み)ちた世界に変わっていく・・・!


それが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、「仏法(ぶっぽう)」の信仰です。


それはあたかも、アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、ヴァネロペが、虐(しいた)げられ、のけ者にされている世界から、自分が女王となり、堂々(どうどう)と生きていく、
幸せと希望の世界に、変えていったように・・・!!


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希望列車341

2021-12-09 14:54:00 | 日記
「シュタインズ・ゲート」というアニメがあります。

この「シュタインズ・ゲート」という物語は、映画やドラマ、アニメなどではよくある、「タイムマシン」を題材にした話しですが、携帯電話を使って、過去にメールを送るというのが、斬新(ざんしん)かもしれない。

主人公の岡部は、ひょんなことから、過去にメールが送れる装置(そうち)を発明する。

しかし、過去にメールを送るたびに、過去が変わり、そのことによって現在も大きく変わる。その繰(く)り返しの中、最終的には、取り返しのつかない大変なことになってしまうという、物語です。

たった一通(いっつう)のメールであったとしても、過去にメールが送れるとしたら、ひとりの人生、あるいは世界を大きく変えることになってしまう。


場合によっては、人の生死を変えることすら可能となってしまう。


その繰(く)り返しの中、世界が大きく変わり、大きな事件をもたらす結果となってしまう。

このアニメの中では、このように説明している。

ひとつの人生、あるいはひとつの運命、ひとつの人生軸(じんせいじく)のもとに形成(けいせい)された世界を、ひとつの『世界線(せかいせん)』ととらえる。

人間の人生、世界の成り行きを、ひとつの『世界線』のうえに成(な)り立っていると考えるわけです。

ところが、タイムマシンを使い、過去に行って、Aという人を殺したとする。

そうすると、その世界は、今まで、Aという人間が存在する「世界線」であったものが、Aという人間が存在しない、別の世界線へと移動する。


「世界線」が変わるわけです。


そうすると世界の歴史や、さまざまな人間の人生までも変わってしまう。そう、とらえています。

そして、そのことを 『世界線が変わる』 と表現しています。

主人公の岡部が、過去にメールを送ることによって、その「世界線」が変わり、その繰り返しの中、とんでもない事件に巻(ま)き込まれるということです。

やがて岡部は、仲間とともに、メールではなく、人間の記憶(きおく)を過去に送る装置(そうち)を開発する。

肉体は無理でも記憶を過去に送ることができれば、ほとんどタイムマシンと同じようなことができるということです。

そのことを、このアニメでは、「タイムリープ(時間を跳躍[ちょうやく]すること)」と表現しています。

そして、その装置をめぐり、岡部の幼(おさな)なじみである、マユリが殺されてしまう。

岡部は、マユリを助けるために、タイムリープ・マシンを使い、過去へと戻(もど)り、マユリを救(すく)おうとする。

マユリを逃がし、別の場所へと逃避(とうひ)する。しかし、なぜだか、同じ時刻になると、マユリは殺されてしまった。

そして、岡部は、そのたびにタイムリープを繰り返し、過去に戻るが、どんな手をつかっても、どんな場所に逃げても、暗殺者に殺されなかったとしても、暗殺者が現(あらわ)れなくても、マユリは同じ時刻になると、必ず死んでしまった。


まるで、運命に殺されるかのように・・・。


このアニメの中では、このように説明しています。

一本のロープを天井に吊(つ)るしたとする。一本のロープは、一見(いっけん)、一本に見えるけれども、実際は、細い糸が何本も何本も重(かさ)なって、一本のロープを形成(けいせい)している。

その一本一本の細い糸が、「世界線」だというのです。

一本一本の細い糸は、それぞれが独立(どくりつ)した糸ではあるけれど、それがまとまったロープの到達点(とうたつてん)は、必ず、天井に吊るした到達点である『一点』にたどり着く。

一本一本の細い糸が、それぞれ違(ちが)うように、かりに「世界線」が違ったとしても、最終的には、同じロープの到達点、「一点」にたどり着いてしまう。

すなわち、最終的な結果を変えることは、できない!ということです。

ゆえに、岡部が過去に戻り、どんなにマユリを助け、行動を変えても、最終的な到達点である「マユリの死」を変えることができない・・・!


このような、どうしても避(さ)けることのできない宿命(しゅくめい)のようなものを、創価学会が実践する「仏法(ぶっぽう)」では、「宿業(しゅくごう)」といいますが、小手先(こてさき)で、どんなに手を尽(つ)くしても、どんなにお金を使っても、ありとあらゆる方法を駆使(くし)したとしても、変えられないのが、悪(あ)しき運命といえる「宿業(しゅくごう)」です。

では、宿命とも宿業ともいえる、「マユリの死」を、どうやって回避(かいひ)し、変えていくのか・・・?

このアニメでは、こう説明している。

たとえ過去に戻り、世界線を変えたとしても、その世界線が、一本のロープのような一点の結果に向かう世界線であるならば、結果を変えることはできない・・!

宿命とも運命ともいえる、その変えられない結果を変えるためには、一本のロープに束(たば)ねられた世界線ではなく、別の違うロープに束ねられた世界線に移動するような大きな変化を、もたらさなければならない。

すなわち、別の、もう一本のロープに飛び移(うつ)るような、大きな、劇的(げきてき)な変化が必要となる。

その大きな劇的な変革(へんかく)を成し遂(と)げないかぎり、「マユリの死」という結果を変えることは、できないと・・。

そして、その劇的な変化を起こすために、この物語は展開(てんかい)されていくわけです。


かりに、世界線という運命の糸を、少し変えることができたとしても、その到達点である結果を変えることは、できない・・・。

先ほど言ったように、 このようなどうしても変えられない悪(あ)しき宿命を、宿業(しゅくごう)と言いますが、この「宿業」を打ち破(やぶ)り、変えないかぎりは、未来は開けない。

人は、この宿業があるから、苦しみ、敗れ、不幸に沈(しず)んでいく・・と言えます。

そして、その宿命を変えるためには、世界線の集まった一本のロープから、別の世界線のロープに飛び移るような、劇的な変革が必要となる・・・!


実はその、世界線の集まった、宿業という結果を変えられない一本のロープから、宿業を打ち破り宿命を変えることのできる別の世界線のロープに飛び移るようなことを可能にする、唯一(ゆいいつ)の方法といえるのが、創価学会(そうかがっかい)が実践する、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰であり、その仏法の実践活動である創価学会の活動なんです。

南無妙法蓮華経とは、南無妙法蓮華経という法則(ほうそく)であり力とは、この宿業を打ち破り変えることのできる力(ちから)であり、法則だと、 言えます。

創価学会の人たちは、その『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法』を実践しているから、幸せになっていけるんです。

どうしても変えられなかった宿業を打ち破り、宿命を転換(てんかん)して、幸せをつかんでいけるんです。

そして、そういう偉業(いぎょう)を創価学会のひとりひとりが、ことごとく!やってきたのが、創価学会の歴史です。

だから、創価学会は発展しているのであり、世界192カ国に広がっているんです。


別に、タイムマシンがなくても、世界を、平和に、幸福に、変え、ひとりひとりの悩みを解決し、夢や希望をかなえさせ、最高の幸せをつかませてきたのが、創価学会です・・・。

あえて例(たと)えるならば、このアニメでいう、世界線の集まった一本のロープから、別の世界線のロープに飛び移るような変化を、現実の世界で実現してきたのが、創価学会だと言うこともできます。

また、それを可能にするのが、創価学会が実践(じっせん)する、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。



このアニメでは、過去を変えることによって、未来を変えていった。

けれど、未来を変えるのだったら、別に、過去を変える必要はない・・。

すなわち、「今」を変えればいいわけです。

そして、その「今」を劇的に変えていく、究極(きゅうきょく)にして最大の力が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰です。


創価学会が実践している、その「仏法(ぶっぽう)」では、『一念三千(いちねんさんぜん)』という法則を、説いています。

『一念三千』とは、心の違(ちが)いによって、違う三千の世界ができあがる!という生命の法則です。

どういうことかというと、もし、本当に「こころ」を変えることができたとしたら、その人の世界は変わっていく!ということです。

そしてその「こころ」を本源的(ほんげんてき)に、本当に変えていける唯一(ゆいいつ)の力と言えるのが、創価学会の人たちが、となえている『南無妙法蓮華経』です。

その南無妙法蓮華経をとなえているから、創価学会の人たちは、心を変え、そのことによって自分の世界を変え、不幸から幸せへ、絶望から希望へと、人生と未来を変えていけるわけです。


このアニメの物語は、架空(かくう)の物語であり、ありえない話しです。

けれど、仏法で説く「一念三千」の法則の、説明に利用することは、可能です。

創価学会の人たちが、ご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経をとえなえていく時、南無妙法蓮華経とは、生命を、心を、本源(ほんげん)から劇的に変革していく力なので、南無妙法蓮華経をとなえていくことによって、その人の「こころ」が、パッと変わる。

簡単に言えば、不幸だった心が、幸せに変わるわけです。

一念三千の法則から言えば、こころが変わるということは、その人の世界が変わる!ということです。

シュタインズ・ゲートというアニメで言えば、「世界線」が変わる!わけです。

心が変わることによって、いままで不幸なる世界線にいたものが、別の、幸せをもたらす世界線に変わる!わけです。

かりに、その変化が最初は目だたない、ごくわずかの違いだったとします。

けれどそれでも、最初にいた不幸なる世界線には、その人はもう、いない!と考えられます。

こころが変わったことによって、その人の世界が変わり、世界線が変わったと考えるわけです。

そして、その世界線が変わった世界で、また創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる信仰をやっていくことによって、また「こころ」が変わり、世界が変わっていく。その時点でまた世界線を移動し、「世界線」が変わるわけです。

そして、その世界線が変わった世界で、また南無妙法蓮華経をとなえていった時、また「こころ」が変わり、世界が変わっていく。そしてまた世界線が変わっていく。

幸せの方向へ、幸せの方向へ、どんどん世界線を移動していくと、考えることができます。

そして、その人のいる世界線は、どんどん分岐(ぶんき)していき、最初にいた「不幸なる世界線」とは、遥(はる)かに、かけはなれた「大いなる幸せの世界線」に移動している!!と、とらえることができます。


だから、
幸せになっていける。
勝利していける。
最初の不幸なる自分とは、かけ離れた、素晴らしい幸せをつかんでいけるわけです。

そして、そういう変化を現実の上で可能にするのが、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです。


そして、最も重要なことは、この、創価学会が実践している、『南無妙法蓮華経をとなえる仏法』の信仰は、宿命を変え宿業(しゅくごう)を打ち破ることのできる、唯一(ゆいいつ)の方法だということです。

ゆえに、どうしても変えることのできない宿命、宿業(しゅくごう)が立ちふさがったとしても、シュタインズ・ゲートの中で言う、一本の、宿命を変えられない世界線のロープから、運命を変え宿業(しゅくごう)を打ち破ることのできる、別の世界線のロープに飛び移るような劇的な変革を、もたらすことができる。

そして、宿業(しゅくごう)を打ち破り、新(あら)たな、最高の幸せと勝利を、つかんでいける!!


創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰が、『宿命転換(しゅくめいてんかん)』『人間革命』を、可能にするわけです。


それはあたかも・・、アニメ・シュタインズ・ゲートの中で、主人公たちが、マユリを死から救うために、世界線を大きく変える、劇的な変革を、もたらしていったように・・・。


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