「青い鳥のゆくえ」1999/6/24
五木寛之
当時五木さんは横浜に住んでいて
昔は映画館だった場所に銀行ができて、散歩途中にその銀行のポスターが目に入ります。
<今期のボーナスはぜひ当銀行へ>
<幸せをよぶ青い鳥預金>
それを見て何か頭にひっかかるような気がします。
<青い鳥>という言葉は知っている。
だが、自分はその<青い鳥>のもとになっている『青い鳥』という作品を実際読んだことがあるのだろうか?
ちゃんと本物を読んでいないんじゃないかという不安にかられたとのこと。
五木さんは、手近にあった新潮文庫を買ってきて読み始めたら
非常に意外な物語で、びっくりしたそうです。
「青い鳥のゆくえ」の裏表紙に書かれている文章を以下に載せます。
(裏表紙の文章)
だれもが知っているはずの<青い鳥>の物語。それは幸福の象徴、夢のシンボル。
しかしメーテルリンクの原作は実はおそろしくシビアで残酷な物語だった。
みつけたと思うと逃げてしまう<青い鳥>、永久につかまらない<青い鳥>。
現代の<青い鳥>はどこにいるのだろう。そのゆくえをさがして著者は、孤独な思案の旅に出る。
青い鳥=幸福。この定式からキリスト教、仏教、遺伝子やゲノムへと
より大きな世界を求めて羽ばたいていく五木版『青い鳥』。
心にしみる新しい幸福論。
(文章終わり)
私は子供の頃、たぶん絵本で青い鳥を読んだ記憶があります。
苦労して探したのに見つからなかった青い鳥が、実は自分の部屋の鳥かごにいて
隣の家の病気の女の子のために持っていき、女の子は元気になるのだけれど
青い鳥は逃げてしまったというような内容でしたかね?
ただ、子供心にそれを残念とか残酷とか思った記憶がないんですね...
なんで<青い鳥>と言う言葉が<幸福>や<希望>や<夢>の代名詞のように使われるのか?
よくよく考えるとおかしいですよね..
だって青い鳥は最後に逃げてしまうんですから...
戯曲である青い鳥の最後の場面は
チルチルが観客にむかってこんな風につぶやきます。
「だれかあの青い鳥を見つけた人は、ぼくたちに返してください。
ぼくたちは、幸福に生きていくためにはどうしてもあの青い鳥が必要なんですから―」
自分の青い鳥をつくる
(本文より)
安易に手に入る幸福とか希望とかいうものはこの世にはないんだよ、と。
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宝島で宝を見つけるように幸福とか希望とかがころがってるわけじゃないんだ。
あるいは、隠されてるわけじゃないんだ、そういうものは決して用意されてはいないんだよ、
という考えかたなんじゃないかとぼくは思うのです。
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ないでは生きていけない。しかし、なきゃ生きていけない。だったらどうするか。
ひとりひとりが自分の手で、自分の希望とか、自分の人生観とか、自分にとっての幸福とかいうものを
これまで考えられていた既成の幸福とか希望とかというのでないものを、
私たちは自分の手でつむぎ出し、つくり上げ、
それを自分の青い鳥として生きていかなければならないということを、教えてるのではなくて
暗示してるんじゃないかなと思います。
(本文終わり)
『青い鳥』の作者のメーテルリンクは、どうしなさいということを、自分の言葉で言ってはくれません。
ノウハウを教えるんじゃなく、自分で考えなさいと言っているんです。
ひとりひとりが自分の青い鳥を自分でつくるということ...
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🔹
いやあ、なかなかこれは厳しいことですね...
どうしても、既成の幸福を求めがちになってしまい、誰かと比べては落ち込んだり
ロールモデルを探したり..でも見つからないから、自分がロールモデルになるといっても、なかなか..
興味が出てきて、私も『青い鳥』を購入しました(岩波少年文庫)
それは、絵本とは違ってページ数は250ページ以上あり
本当にこれって子供向け?と驚いてしまいましたが
最近、長い文章を読む体力が衰えてきたようで、まだ全部読み切れていません💦
戯曲ということで、少々読みづらいなあと思ったりもしましたが、頑張って読み切ろうと思います。