私は、、24歳の時に、、北海道に嫁いでから
友だちをつくるという事を、、、避けてきてしまいましたね。
北海道は、、本州と、イデオロギーの違う人たちが多いと聴いていたので
時代の波に流れ流れての忠臣、、、の我が家は
父も、叔父さんも、、母方のオジサンも、、、親戚も
赤紙一枚で、、戦地に行ってきた人ばかりだから
毎朝、、毎朝、、軍隊手帳の、、、天皇陛下のお言葉の暗誦から朝礼が始まったという
富国強兵時代の明治の終わりに生れている親に育てられました。
女性であろうと、、男性であろうと、、、
乃木大将の話で育った。
日ごろのお手玉の唄は、、、
「あ~~おば‹青葉›茂れる~~~う~桜井の~~お~^♬」
お手玉が、、四角くなってしまいそうな歌でしたね。
北海道には、、歴史的にも、、新しすぎて、、、理解するのには
難しいのです。
明治生まれの、、翁の方が、、その時は80歳とおっしゃっていました。
私は30歳でした。
「このあたりはな、、、岩手から入植した仲間が、、、開墾したのじゃよ。
サッポロ大学が出来たばかりで、、、北大の教授になる人と
文化人から、、札幌大学の教授になる人と
私立大学の少ない北海道の、、、街の文化の黎明期とでも言いましょうか??
昭和の60年前後でしたね。
原子修さんという、、、現代詩を書いて出版されていた方などが
教授をされていた時代でしたね。
現代詩のようなサークルがあり、、、、お誘いを受けましたが、、、
東京のサークルとは異なって、、、、どうしても、、、大上段に構えていないと
メンバーにはなれそうもないので、、、、3回目には、、往かなくなってしまい
パソコンのクラスに入って、、、集計のテクニックを習ったり、、、
友だち作りというより、、、
自分尾薬剤師の仕事に役立つ技術の取得になってしまいましたね。
それ以後は、、、誘われれば一度や二度は行ってみるが、、、
3度目には辞めているという、、、繰り返しで、、、
北海道の大自然には,、、登山グループのつもりで頑張ってアタックしましたが
相手は、自然の世界になっていましたね。
ダンナさんというのは、、、たぶん頭は良い人なんだろうと思います。
北大の医学部に合格しているのですからね。
でもね、、、医学部であるという事を、、、意識し過ぎで、、、
天命のような、、、不思議な縁があって、、結婚はしましたが、、、
あらゆることに,、、、同感した、、、、ということがないまま、、、
私は、、、そうは思わない、、、という
夫婦という。。。一個の「メビウスの輪でありながら、、、」
ダンナさんは、、、表、、
私は、、、裏
医師になるのも難しい時代でしたが、、、
「医師をするのは、、もっと難しい時代」に、、、ダンナさんは、、
医師になってからのサポーターのない、、、次男でした。
開業医だった我が家は、「外科」「内科」の
地域医療に生きる選択をして、、、「医師をする」という事を
医師会や、地域の人たちの、、無くてはならない健康管理を引き受けていました。
ダンナさんのオジサンというのは、、、江戸時代から続いた開業医です。
本来ならば、ダンナさんの父上が長男なので、、
その老舗の醫院を継承する順番ですが
ダンナさんの父上という人は
「医者だけには成りたくないと、、、教育映画に行ってしまいました。」
つまり、、、明治生まれの舅さんは映画なんて、、教育映画であろうと劇映画であろうと
医師の家の長なんで医師にならない出来損ないは、、勘当!!だ!、、という
およそ、、価値かンお狭い時代ですから、、、、頑張ったようですね。
ダンナさんが医師になった時には、、、
ダンナさん緒父上の、、、弟さんに相当する叔父さんは、
お前のお父さんの代わりに
故郷に戻って来いと、、、
薬剤師だった奥さんを通して言ってきましたそうです。
伯父さんのお家には、、女性のお子さんは生れましたが
後継ぎは、、いませんでした。
女医になった長女というのは、、、東北の巨大病院の御曹司のもとに嫁ぎ
慶応卒のお子さん方が、、病院を継いでいるそうで、、、
伯父さんは、、、、江戸時代から続いた,、開業医を,、閉医院してしまいました。
もう一人の御嬢さんは、、、地元で、、実家より大きな病院に嫁いでしまい、、、
ダンナさんが、、、戻らなかったことは、、
、ひとつの開業医の江戸時代からの文化が、、、消えていったのでした。
叔父さんからは、、
江戸時代の、、歴史的に目づらしい医療器具などをいただきました。
北海道大学大学院卒業で、
医局の一員として、北海道の医師の皆さんと一緒に
生きて来たのですから、、、
ダンナさんは、、、まぎれもなく、、、北海道人だと思いますね。
夫婦というメビウスの輪の「表のダンナさんは、、、」
自分だけは北海道の仲間たちと、、北海道人だと思っても
「メビウスの輪の内側の私は、、、」
北海道人として認められるような事を
してないかもしれない。
しかし息子達は、、孫たちは、、、息子のおy目さんたちは
まぎれもない北海道人だと断定できるのですよね。
小学校から、、、大学まで、、、北海道ですからね。
北海道の言葉を話すし、、、地元のことは良く知っているし
母である私の意見なぞ、、、外国人の意見だと思っている様子が、、、感じられる。
北海道というところは、、、地元の人たちで固まりやすい傾向がありますね。
北海道が必要な人は大切にされるようですが。
本州のように、、
医師のダンナと、、薬剤師の家内であれば
意見が合いそうに思うでしょう?
それが、、、ことごとく、、すれ違うから、、
いつの間にか、、、
家庭において、、
ココは仕事場だから
どんな些細な家事であっても、、、、
良い仕事をしよう!!、、、
ダンナさんの考えは考えとして
良い仕事を重ねれば、、、家庭というのは
主婦が、、真剣に、、仕事と割り切って、、細やかに、、良い仕事と割り切って
自分の責任において、仕事をし続けるという事にしました。
せっかく医師になったダンナさんなのだから
「医師をする」、、、という、、、かなり援軍の必要な
その結果、、社会参加してゆくという医師の生き方を
雑事の分野で支えてゆくことを、、、っ自分の人生の仕事であると
割り切って生きてゆくことに、、、気が付いてから久しくなります。
育児参加とか、、、家庭的とか、、、
「アッチャ向いて、、、ホイ!」の生活の始まりでした。
医師と結婚するなら、、、、
医家大学を卒業した後も
「医師をすること、、」、この、、
一口で言ってしまえば3秒の事が
少なくとも、、、40歳くらいまでの間に
スポンサーが必要だという事でしたね。
人間的にも地域で生きることになる以上、、、
地域、、北海道、、、地元の人々の既得権、、、思惑などは
80歳の翁が、、、面喰ってしまうほど、、、東京とは生きるるという
概念にも距離を感じました。
本州から来た医師家系の者であれば
しかもダンナさんの父上のオジサンという内科医が
明治の時代に岩見沢で開業していた。
先代が、地域医療に貢献したという事実は
「よそ者には相当しない、、、」と言っていた。
ダンナさんの父上の実家の、、父上のオジサンにあたる医師が
明治の時代に、、北海道に来て、、開業していたという事実があると聴いて、、
私は医師薬剤師合同の「医薬史学会に参加会員として、」
北海道の学会などに参加して、北海道の医療の発展などを研究しているうちに
日本一寒いと言われている陸別に、本州から「関寛斎」という医師が
本州から来ていることがん判り、
陸別まで行ってきた。3日間駅に泊まり、、、すでに研究されつくされていた記録を
読みふけったのでした。
北海道というところは、、、本州と大きく違うのは
寒い北の原始林を開拓して、人の住めるところにして来た人々が
人生の晩年になって、、、孤独に死んでいっている場合の資料に出逢ったということです。
網走刑務所の受刑者が、医療に置いて、、貧困の状態であった時
関寛斎先生は、、我が息子を「網走刑務所の医師として、
初めて、受刑者が、まともな医療を受けらっる様になたという
親子で、、北海道に貢献した人であるのに、、、
晩年は、、奥様に先立たれて、、、一人で暮らし
最後には、、、自分で命を絶っているという、、、寂しい人生と記されていた。
確かに、、私自身、、、ひょんなことで、、北海道に嫁いできたが
なかなか土地の人と馴染むのは難しく、、、仕事をする人として、、活きて来た。
雪を搔いていると、、通りがかりの人とおしゃべりしたり、、挨拶したり、、、
早朝は小学生や、、中学生になった学生らが
「おはよう,、、、、雪降るね~~~ スキーするのに最高だね!」
などと,、「行ってらっしゃ~~い」の挨拶の前に
2~~3言葉を交わすと、、、見送りながら、、、
子育ての頃を思い出して、、、孤独を忘れる。
近所に80近いお婆さんが住んでいた時、、私はまだ50歳代だった。
東京から来た一家であったが、、、ご主人と、坊ちゃまに先立たれて
一人ぼっちだった。
玄関に雪がてんこ盛りなので、、、能く、、除雪しておいたものだった。
ある夏の日に、、、満開に咲いた君子欄を持って来られて、、
「 このランを、、、奥さんが、もらってくれたら、、、嬉しい、、、」
オオクな鉢植えなので、、、びっくりしましtが、、、
「引き受けました。」。。。彼女が、、80歳過ぎて、天国に旅だった後も
乱は毎年咲き続ける。
亡くなられた時、、、葬儀に参列しようと思ったので
隣りの人に声をかけたら。。。
「あの人は東京の人だから、、、東京の親類が来てすべてすると思うから
民は、、町内のみんなは、、行かないのよ。」と言った。
私も、、7回目の班長を過ぎたばかりだったから、、、
町内とはかかわらない時期であっただけに
そのまま、、お見送りの葬儀には控えてしまった。
私自身の場合も、、小野人は東京から来た人だから、、、町内会では、、、と。
多分、、、よそ者の私なのだろうから、、、
ひっそりと、、孫子が居てくれたら、、、それでよいと思っている。
一斉の装飾のない人生って、、、雪のように白く
雪のように冷たく
雪のように、、、、此の世とは別の世界のような
雪の魔法にかかって
低体温になって、、、眠る様に、、全てが氷のように冷たくなって
一瞬で融けて、、、天空の果ての無の世界にまで一っ跳び1
一足飛びに、、、霧散するのかもしれない。
ダンナさんとの結婚は「子育て、、医師をする人の、、世話係の仕事人だった。」
ダンナさんの時間は、病院を通して、患者さんのものだった。」
遺伝子の中には、、、人智では考え付かない、、、北海道への道が
世代を超えて、、、、明治の時代に、、開拓されていて、、、
ダンナさんは、、、不思議な医師の血に呼ばれて、、北大を受験することに
導かれたのかもしれませんね。
南紀で生まれて、、、東京で育ち、、、父は市ヶ谷、、、母は南紀、、、
なんで?。。。私が北海道に居るのだろう?
「在るがままに生きるという人と、、、」
「ないがままに生きるという人が、、、」
見えない力で、、、セットになる様に導かれたというか?
本州に帰ると思っていた。
ダンナさんは、、自分の人生に忠実な人の様です。
自分が大好きな人です。
まるで、、、女性から見ると、、、
永遠に子供のように、、、自分が 大好きなところがあると、、、
魂の永遠の子供のような、、、まっすぐに、、、
大人としての出逢いより、、、
医師をすることの為の、、、応援なら、、
仕事として、、私でなくっちゃという
物心ついたときは疎開地の唯一の開業医の家で育ち
東京での開業に移転したときの、、、劇忙しい時期を見て育ち
医師会のみんなと家族ごとのイベントに参加して
暇を造っては、、、家族の雑事を引き受けて来た。
小学校一年から5年まで「右総代、、、周りが勉強の嫌いな人ばかりで、、、」
8年生で東京のしょうがこうに転校!、、、いきなりクラス委員!
中学,、高等学校、、、大学と、、、クラス委員、、、と、代表幹事、、、
つまり、、きめ細かな雑用は、、、私にお任せという、、処理能力があった時代でした。
医療家族の雑用に、、長けた所の自分に、、、
医師以外の仕事は興味のない、、この人物が
つまるところ、、、未来のだんあさんになる、、、北大生が
医師になるには難しいと、、、
医師をするのはもっと大変だと、、、
便利な性格の私に、、、、愛ではなくて、、、「必要性を直感した?」
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天が命令して、、「この医師を、、医師が出来る状態に、、応援しなさい、、」
そのように言われたような気がして、、、
ダンナさん緒仕事の一環としての、、、外国の医師の接待などに、、、
写真係、、、通訳係として、、、無料奉仕をした若き時代でした。
外野の私には、、詳しいことは言ってくれませんが、、、
世界でも有名な外科の医師で、、、無口だと言った。
私が「まちゅぴゆの話を持ちかけて、、、あの界隈は日本人が多い煮ですよ、、」
話しかけたら、、、、無口どころか、、、話が大好きで、、、
無波アメリカの旅行の話だとか、、、イグアスの滝の話だとかすると、、、
お話が途切れませんでした。
お帰りの時は空港までお送りしましてが、、、
こういう時の為にだけ、、、カードを使って、スペシャル待合室で
サービスのコーヒーを差し上げて、、、
お見送りしました。すべて、、、自費で、、実費で、、、北海道のユーカラ織を
お土産に受け取っていただきました。
先生方は、、、仕事の話をなさるから、、、
有名な医師とおっしゃるからには、、、お仕事が忙しすぎるので
仕事以外の話であれば、、、、休息になるはずと、、、
世界の名所、、、日本名所の話を持ちかけると、、、
あそこは良かった、、、ココは良かったと、、、話し続けて
スッカリニコニコ顔になられて、、、、先生方も、、意外な展開に、、喜ばれていましたよね。
ピンチヒッターの、、お手伝いは、、、若いから出来たのですよね。
この後、、ダンナさんは院長を、医大の若い先生に引き継いで
名誉院長という、、、大きな意味での、、、その他一同の医師になって
院長職の政治的な仕事から、、、
片時も離さなかった、、診断学の医師として、、多くの患者さん衣接することになったのでした。
医大の院長になってからは、、、
今までの、、外国との交流にはダンナさんは蚊帳の外になりました。
いつの間にか、、、外国との交流が無い病院い戻り
地域の基幹病院として、、、若き院長は、、医大の出身だけあって
地元貢献型の病院として、、、外交病院からは、、いつしか立ち消えて
地域の病院としての実績に向かって、、、周りからは無くてはならない基幹病院として
かっての勤務医のサテライト医療機関とともに、、、
巨大病院に育って行きました。
ダンナさんは、、、創生期の個人病院から引き渡された、、、
会社の経営する病院の院長を
初代の院長が、みんなの前で、、指名して、、、
北大の医学部という同窓である事、、
外科という、、大きな科であるという事、、、
国立大学の講師を務めて、医局に対して、、人事的に力を貸してもらえる人、、
医局は県で、医師会病院関係にも勤務経験がリ、、、 医師会と仲良くやってい行ける人
このような条件にぴったりだったこともあり
先代の院長が、、、退出する時、、、皆の前で指名していった関係上
院長職は、、、こんなに大変な時期だったなんて、、、、鈍感力だけで
ひきうけてしまった様に、、、私からは見えましたね。
サミットが予定されていただけに、、、
世界の要人が、、、万一の急病にそなえて、、、
表向きは、、北大、、医大であっても
実際の現場のアクシデントには、、ダンナさんが院長をしている病院が
実務的には、、、貢献するという予定で、、政治は勧められていた様でしたね。
ドクターヘリの導入は、、、大きな意味でも、、、その日までには間に合わないと
ヘリポートも無いという訳にはいかない。
政府からは、、、服だ首相のジュニアの首相が、、サミットの事で北海道入りされた。
家庭は空っぽで、、、一か月以上、、、家は、、ほとんど、、
天と線で、、、ダンナが出入りしているという
指定された病院だけに、、、
早稲田卒の優秀な秘書が、、、sミットの間だけ、、手伝ってくれたり。。
実際に引き受ける病院は、、、表向きには、、一切の表現は出来ないまま
緊急体制をとってゆくわけでsるから、、、、
政治家さんが、、、外国との要人をお迎えするには
白鳥の湖での優雅な白鳥の浮かんでいる、、、足の役割の病院は
日tの目に見えないところで、、、足が高速で水をかきながら
外国とのイベントを実行するという事を、、、舞台裏から感じましたね。
外野の私は若かったせいもあり、、、、
病院麻品格に必要性を迫られながら、、、
北海道のサミットが安全に行われるというための
水面下のお手伝いが出来たことは、、、院長時代のダンナさんは、、、
ある種の鈍感力があったから、、、
金銭に帰られない体験をやってのけられたのかもしれませんね。
我が家の出費も、個人的な持ちだしは、、、莫大なものがありました。「
役目上、、、大きな動きをしていると
お金持ちと間違われてしまい、、、
おおきな出費に耐えねばならない時期でもありましたね。
事務の方がたも大変だったと思いますが、、、
事務の方への要求にこたえてゆくまでの、、
病院外の活動が大変な時期でしたね。
あの頃の総理大臣は、、福田首相のジュニアの首相さんでしたね。
福田首相サンがお父さんも首相であったという、、、親子で首相という
サミットの時は、、外国が相手だったこともあり、
お父さんが首相だった福田さんンおジュニアの首相が、北海道に見えられて
表向きは、、北大や、医大が、国賓の健康管理であっても。
実際に闘うのは、、、医局関連病院の役割になるのは
陛下の心臓手術の時に、、、東京大学が、、施設のセットをして
日大の卒業の心臓手術のバイパスの経験値の日本一のドクターが
順天堂の教授として迎えられて、、執刀の医師の立場が
一か所の大學や病院だけで守られるのとは違っていましたよね。
サミットの時は、、覆面ドクターヘリが、、サミット参加国の要人を
ダンナさんの病院に運んできたのは、、、報道すら、、、ヒミツだったようでしたね。
時効ですから、、、日記に書いても良いでしょうね。
サミットのように、世界の要人が洞爺湖に集まってくださったというのは
日本途いう国が、世界と足並みを揃えられているという事で
故なき戦争に巻き込まれることだって、、孤立していない国は、、、無い筈ですよね。
大きな役割を果たすためにも、、、その時のその時点での病院は
北大の医局の医局長や同門会長をしていたダンナさんが、、、院長というのが
適役だったのでしょうね。
その後すぐに、、、医大から、学長と、その教え子という
助教授が、、、サミットの済んだ後の病院の
理事長と院長として、お二人一度に、医大卒という院長とその上司の理事長としてこられて
病院は、札幌市の病院の自治体貢献型の、、、激務の続く病院として
アメリカや、中国の病院との交流で、数人のアメリカ人の教授が
交換留学生などを推進していたのが無くなって、
自治体に貢献する病院にと様変わりしてゆく科も出て来たかもしれません、
家庭で雑役の私は、、私自身の名前で薬剤師に復帰していた時期でもあり自分の名前で2千万以上の借金をして、、
、子供達の進学費用に経営していたAPを、買った時よりもはるかに安く手放しましたね。
あらゆる場合を考えて、、、保険に入ったり、、、
家計は、、自転車操業でしたね、、、、
院長というのは、、政治家さんと同じような行動力が必用だったので
表向きには見えない金銭が、、個人のお財布から出てゆく時期でしたね。
中国にとんぼ返りの出張とか、、、病院提携をしても、、、
北海道は、、当時はロシヤとの友好があったとか、、、
政治音痴の私には、、、落第生の、、、後方の雑役係りでしたね。
パーティでお金を集めていたというのも
私達にはそのような力がないので、、、院長はにのなっても仕方がありませんが
政治の世界は、、阿部さんのように、、、
外国に交流を喉まれて世界に病院の名前を知られる交際をするのには
麻生さん緒様な、、、ドル箱がついていてくれても、、、
後方の雑役の外野に払うお金などは、、、
パーティで集まる賛助金が、、、必要だったかもしれないなどと、、、
院長を経験して 、、、外国とのイベントが重なると
個人的にステータス代金として、、、ポケットマネーで支払って
払えることに自己満足できる人でないと、、、
なんでもそうですが、、、社長とか、、、町長とか、、、都庁とか
府庁とか、、長のつくものは、、、院長まで
お金がないと出来ないtぽ老いうことかもしれませんね。
日本は、、ユダヤのように、、、国が無くなりそうな、、、
敗戦を経験していますから!!
外交には日本の国を知ってもらい、、、
日本全土が、、、「世界遺産入なるべきですよね、、」
仕事としては、、、やれるかやれないか、、、
緊張感で働き続けるのが
結婚だと思いましたね。
正直言って、、、医師の家内なんて、、勤まるかどうかは
自信は有りませんでしたね、、、


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北海道と、、、駿河台の文化の違いには、、、
愕然とするものがありましたね、、、、
舗装ドーロは少なくて、、、馬車が通り、、、
馬糞風が吹いている、、、高層ビルのない都市、、、札幌。。。
昭和38年に、、札幌にやって来た、、、ダンナさんは、、、
偉いのか?、、鈍いのか?、、、利巧なのか?、、、鈍感なのか??
鈍感力は、、、まさに、、、実力以上の力だと、、痛感しましたね。
55年間、、、雪と闘いながら、、、
私は、、それだけで、、、人生過ぎてしまいましたからね。
建物一個だけの私的病院に勤務して、、、
サミットにも、、、役立つことのできた、、、ドクターヘリを導入に
20日間も自宅に帰らなかった、、、「家庭的には」、、、あほダンナが
ドクターヘリの入った時点で、、、
同僚の先生方が、、、奥さんも、、是非に、、、見学に来てください、、、と
あとにも先にも、、、この時だけ、、、同僚の先生方のお言葉に甘えて
ヘリポートまで案内していただきました。
「これで、、、道内の緊急患者さんの命が、、
最高のspeedで治療を受けられるんですね!!」
家に帰ってこないで、、、病院に泊まりっきりだった、、、
家庭的には「あほダンナ!!」、、、と思って居ましたが、、、
こんな、、いい仕事に、、、皆で、、夢中になっていたんだと思うと
それ以後の、、、帰宅の深夜便には、、、寝たふりで、、、無関心いなりましたね。
腹が立たなくなった、、、、ドクターヘリの見学でしたね。
そのころは、、札幌医大の教授の先生や、、、札幌医大の漢方の好きな先生方とも
私自身が「札幌医大に頼まれて、、、薬局の欠員を埋める為に
仕事に入っていましたから、、、
自治体と、、札幌医大と、、、院長だったダンナさんの、、、
警察や、消防車や、、、道議会や、、医師会や、自治体に
飛び回って会議に出ていたダンナさんとは、、、
すれ違いの毎日だっただけに、、、
同僚の先生方に、、お誘いいただいて、、
ドクターヘリのヘリポートまで案内していただいたときは
今蛙素晴らしいことをしていたのかと、、、
写真をばっちり、、、同僚の先生がシャッターを押してくださいましたね!!
何十年も前の写真で、、時効ですけど、、、
我が家には、、、断捨離する前に、、、日記帳に残しておきますね。
本州の息子や、、孫にも、、、、、こんな楽しい一瞬が、、、
婆ちゃんにも、、、あったのですよ。
ダンナさんの病院に行った記憶は、、、このほかには
16センチも、、お腹を切って、、、卵巣腫瘍を切除したという
サバイバルの、、対照的な、、、2回だけですね、、、

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これはあくまでも、、、医師の家内という、、、病院からは蚊帳の外の人間が
友も無く、、、知人もいない子育て人生の中で、、、わき目もふらずに
「
ダンナさんが「医師をすること」で
雑役舞台裏主任の 政治音痴の目で、、、実の上に降りかかった無理難題をこなしながら
仕事だ!!,たけし!、、のTV時代にこそだつぃた母ちゃんの日記です。
史料になったのは、、当時の新聞報道を参考に、、、
阿部さんが、、、悪い所ばかり、、、亡くなられて、、言いわけも答弁も出来ないのに
野党は、、正しいと思う事ばかリデ、、、その通りですが、、、
日本の国は、、派閥争いしているほどリッチじゃないから、、、
外国と付き合うという、、、受けの体制をつくる大変さを
野党は、むしろ協力的に、、、手伝った方が
政治不信のお金の動きが亡くなるかもしれません。
日本が国が亡くなってから、、、野党は与党を、、攻める材料も無くなった時
何をすれば国が亡くならないのか、、、、、実際のITで考えたことは
coronaに対して、、政治の力でどうにかなると思う前に
医学を知っている人に、
、医療体制を組んでもらえる政治が
大切だと思ったりしているんですけどね|||
事務系のすごいジムの力と、、医学者の、医学を生かす頭とは
別物のような気がして、、、診ていますけどね、、、
若き医師が、生活面でも、、人間らしく過ごせる世の中でありますように、、、
目の前80歳の婆ちゃんの、、、ひとり言でした。
あとで推敲しますね、、、眠いので寝ます、、、
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友だちをつくるという事を、、、避けてきてしまいましたね。
北海道は、、本州と、イデオロギーの違う人たちが多いと聴いていたので
時代の波に流れ流れての忠臣、、、の我が家は
父も、叔父さんも、、母方のオジサンも、、、親戚も
赤紙一枚で、、戦地に行ってきた人ばかりだから
毎朝、、毎朝、、軍隊手帳の、、、天皇陛下のお言葉の暗誦から朝礼が始まったという
富国強兵時代の明治の終わりに生れている親に育てられました。
女性であろうと、、男性であろうと、、、
乃木大将の話で育った。
日ごろのお手玉の唄は、、、
「あ~~おば‹青葉›茂れる~~~う~桜井の~~お~^♬」
お手玉が、、四角くなってしまいそうな歌でしたね。
北海道には、、歴史的にも、、新しすぎて、、、理解するのには
難しいのです。
明治生まれの、、翁の方が、、その時は80歳とおっしゃっていました。
私は30歳でした。
「このあたりはな、、、岩手から入植した仲間が、、、開墾したのじゃよ。
サッポロ大学が出来たばかりで、、、北大の教授になる人と
文化人から、、札幌大学の教授になる人と
私立大学の少ない北海道の、、、街の文化の黎明期とでも言いましょうか??
昭和の60年前後でしたね。
原子修さんという、、、現代詩を書いて出版されていた方などが
教授をされていた時代でしたね。
現代詩のようなサークルがあり、、、、お誘いを受けましたが、、、
東京のサークルとは異なって、、、、どうしても、、、大上段に構えていないと
メンバーにはなれそうもないので、、、、3回目には、、往かなくなってしまい
パソコンのクラスに入って、、、集計のテクニックを習ったり、、、
友だち作りというより、、、
自分尾薬剤師の仕事に役立つ技術の取得になってしまいましたね。
それ以後は、、、誘われれば一度や二度は行ってみるが、、、
3度目には辞めているという、、、繰り返しで、、、
北海道の大自然には,、、登山グループのつもりで頑張ってアタックしましたが
相手は、自然の世界になっていましたね。
ダンナさんというのは、、、たぶん頭は良い人なんだろうと思います。
北大の医学部に合格しているのですからね。
でもね、、、医学部であるという事を、、、意識し過ぎで、、、
天命のような、、、不思議な縁があって、、結婚はしましたが、、、
あらゆることに,、、、同感した、、、、ということがないまま、、、
私は、、、そうは思わない、、、という
夫婦という。。。一個の「メビウスの輪でありながら、、、」
ダンナさんは、、、表、、
私は、、、裏
医師になるのも難しい時代でしたが、、、
「医師をするのは、、もっと難しい時代」に、、、ダンナさんは、、
医師になってからのサポーターのない、、、次男でした。
開業医だった我が家は、「外科」「内科」の
地域医療に生きる選択をして、、、「医師をする」という事を
医師会や、地域の人たちの、、無くてはならない健康管理を引き受けていました。
ダンナさんのオジサンというのは、、、江戸時代から続いた開業医です。
本来ならば、ダンナさんの父上が長男なので、、
その老舗の醫院を継承する順番ですが
ダンナさんの父上という人は
「医者だけには成りたくないと、、、教育映画に行ってしまいました。」
つまり、、、明治生まれの舅さんは映画なんて、、教育映画であろうと劇映画であろうと
医師の家の長なんで医師にならない出来損ないは、、勘当!!だ!、、という
およそ、、価値かンお狭い時代ですから、、、、頑張ったようですね。
ダンナさんが医師になった時には、、、
ダンナさん緒父上の、、、弟さんに相当する叔父さんは、
お前のお父さんの代わりに
故郷に戻って来いと、、、
薬剤師だった奥さんを通して言ってきましたそうです。
伯父さんのお家には、、女性のお子さんは生れましたが
後継ぎは、、いませんでした。
女医になった長女というのは、、、東北の巨大病院の御曹司のもとに嫁ぎ
慶応卒のお子さん方が、、病院を継いでいるそうで、、、
伯父さんは、、、、江戸時代から続いた,、開業医を,、閉医院してしまいました。
もう一人の御嬢さんは、、、地元で、、実家より大きな病院に嫁いでしまい、、、
ダンナさんが、、、戻らなかったことは、、
、ひとつの開業医の江戸時代からの文化が、、、消えていったのでした。
叔父さんからは、、
江戸時代の、、歴史的に目づらしい医療器具などをいただきました。
北海道大学大学院卒業で、
医局の一員として、北海道の医師の皆さんと一緒に
生きて来たのですから、、、
ダンナさんは、、、まぎれもなく、、、北海道人だと思いますね。
夫婦というメビウスの輪の「表のダンナさんは、、、」
自分だけは北海道の仲間たちと、、北海道人だと思っても
「メビウスの輪の内側の私は、、、」
北海道人として認められるような事を
してないかもしれない。
しかし息子達は、、孫たちは、、、息子のおy目さんたちは
まぎれもない北海道人だと断定できるのですよね。
小学校から、、、大学まで、、、北海道ですからね。
北海道の言葉を話すし、、、地元のことは良く知っているし
母である私の意見なぞ、、、外国人の意見だと思っている様子が、、、感じられる。
北海道というところは、、、地元の人たちで固まりやすい傾向がありますね。
北海道が必要な人は大切にされるようですが。
本州のように、、
医師のダンナと、、薬剤師の家内であれば
意見が合いそうに思うでしょう?
それが、、、ことごとく、、すれ違うから、、
いつの間にか、、、
家庭において、、
ココは仕事場だから
どんな些細な家事であっても、、、、
良い仕事をしよう!!、、、
ダンナさんの考えは考えとして
良い仕事を重ねれば、、、家庭というのは
主婦が、、真剣に、、仕事と割り切って、、細やかに、、良い仕事と割り切って
自分の責任において、仕事をし続けるという事にしました。
せっかく医師になったダンナさんなのだから
「医師をする」、、、という、、、かなり援軍の必要な
その結果、、社会参加してゆくという医師の生き方を
雑事の分野で支えてゆくことを、、、っ自分の人生の仕事であると
割り切って生きてゆくことに、、、気が付いてから久しくなります。
育児参加とか、、、家庭的とか、、、
「アッチャ向いて、、、ホイ!」の生活の始まりでした。
医師と結婚するなら、、、、
医家大学を卒業した後も
「医師をすること、、」、この、、
一口で言ってしまえば3秒の事が
少なくとも、、、40歳くらいまでの間に
スポンサーが必要だという事でしたね。
人間的にも地域で生きることになる以上、、、
地域、、北海道、、、地元の人々の既得権、、、思惑などは
80歳の翁が、、、面喰ってしまうほど、、、東京とは生きるるという
概念にも距離を感じました。
本州から来た医師家系の者であれば
しかもダンナさんの父上のオジサンという内科医が
明治の時代に岩見沢で開業していた。
先代が、地域医療に貢献したという事実は
「よそ者には相当しない、、、」と言っていた。
ダンナさんの父上の実家の、、父上のオジサンにあたる医師が
明治の時代に、、北海道に来て、、開業していたという事実があると聴いて、、
私は医師薬剤師合同の「医薬史学会に参加会員として、」
北海道の学会などに参加して、北海道の医療の発展などを研究しているうちに
日本一寒いと言われている陸別に、本州から「関寛斎」という医師が
本州から来ていることがん判り、
陸別まで行ってきた。3日間駅に泊まり、、、すでに研究されつくされていた記録を
読みふけったのでした。
北海道というところは、、、本州と大きく違うのは
寒い北の原始林を開拓して、人の住めるところにして来た人々が
人生の晩年になって、、、孤独に死んでいっている場合の資料に出逢ったということです。
網走刑務所の受刑者が、医療に置いて、、貧困の状態であった時
関寛斎先生は、、我が息子を「網走刑務所の医師として、
初めて、受刑者が、まともな医療を受けらっる様になたという
親子で、、北海道に貢献した人であるのに、、、
晩年は、、奥様に先立たれて、、、一人で暮らし
最後には、、、自分で命を絶っているという、、、寂しい人生と記されていた。
確かに、、私自身、、、ひょんなことで、、北海道に嫁いできたが
なかなか土地の人と馴染むのは難しく、、、仕事をする人として、、活きて来た。
雪を搔いていると、、通りがかりの人とおしゃべりしたり、、挨拶したり、、、
早朝は小学生や、、中学生になった学生らが
「おはよう,、、、、雪降るね~~~ スキーするのに最高だね!」
などと,、「行ってらっしゃ~~い」の挨拶の前に
2~~3言葉を交わすと、、、見送りながら、、、
子育ての頃を思い出して、、、孤独を忘れる。
近所に80近いお婆さんが住んでいた時、、私はまだ50歳代だった。
東京から来た一家であったが、、、ご主人と、坊ちゃまに先立たれて
一人ぼっちだった。
玄関に雪がてんこ盛りなので、、、能く、、除雪しておいたものだった。
ある夏の日に、、、満開に咲いた君子欄を持って来られて、、
「 このランを、、、奥さんが、もらってくれたら、、、嬉しい、、、」
オオクな鉢植えなので、、、びっくりしましtが、、、
「引き受けました。」。。。彼女が、、80歳過ぎて、天国に旅だった後も
乱は毎年咲き続ける。
亡くなられた時、、、葬儀に参列しようと思ったので
隣りの人に声をかけたら。。。
「あの人は東京の人だから、、、東京の親類が来てすべてすると思うから
民は、、町内のみんなは、、行かないのよ。」と言った。
私も、、7回目の班長を過ぎたばかりだったから、、、
町内とはかかわらない時期であっただけに
そのまま、、お見送りの葬儀には控えてしまった。
私自身の場合も、、小野人は東京から来た人だから、、、町内会では、、、と。
多分、、、よそ者の私なのだろうから、、、
ひっそりと、、孫子が居てくれたら、、、それでよいと思っている。
一斉の装飾のない人生って、、、雪のように白く
雪のように冷たく
雪のように、、、、此の世とは別の世界のような
雪の魔法にかかって
低体温になって、、、眠る様に、、全てが氷のように冷たくなって
一瞬で融けて、、、天空の果ての無の世界にまで一っ跳び1
一足飛びに、、、霧散するのかもしれない。
ダンナさんとの結婚は「子育て、、医師をする人の、、世話係の仕事人だった。」
ダンナさんの時間は、病院を通して、患者さんのものだった。」
遺伝子の中には、、、人智では考え付かない、、、北海道への道が
世代を超えて、、、、明治の時代に、、開拓されていて、、、
ダンナさんは、、、不思議な医師の血に呼ばれて、、北大を受験することに
導かれたのかもしれませんね。
南紀で生まれて、、、東京で育ち、、、父は市ヶ谷、、、母は南紀、、、
なんで?。。。私が北海道に居るのだろう?
「在るがままに生きるという人と、、、」
「ないがままに生きるという人が、、、」
見えない力で、、、セットになる様に導かれたというか?
本州に帰ると思っていた。
ダンナさんは、、自分の人生に忠実な人の様です。
自分が大好きな人です。
まるで、、、女性から見ると、、、
永遠に子供のように、、、自分が 大好きなところがあると、、、
魂の永遠の子供のような、、、まっすぐに、、、
大人としての出逢いより、、、
医師をすることの為の、、、応援なら、、
仕事として、、私でなくっちゃという
物心ついたときは疎開地の唯一の開業医の家で育ち
東京での開業に移転したときの、、、劇忙しい時期を見て育ち
医師会のみんなと家族ごとのイベントに参加して
暇を造っては、、、家族の雑事を引き受けて来た。
小学校一年から5年まで「右総代、、、周りが勉強の嫌いな人ばかりで、、、」
8年生で東京のしょうがこうに転校!、、、いきなりクラス委員!
中学,、高等学校、、、大学と、、、クラス委員、、、と、代表幹事、、、
つまり、、きめ細かな雑用は、、、私にお任せという、、処理能力があった時代でした。
医療家族の雑用に、、長けた所の自分に、、、
医師以外の仕事は興味のない、、この人物が
つまるところ、、、未来のだんあさんになる、、、北大生が
医師になるには難しいと、、、
医師をするのはもっと大変だと、、、
便利な性格の私に、、、、愛ではなくて、、、「必要性を直感した?」
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天が命令して、、「この医師を、、医師が出来る状態に、、応援しなさい、、」
そのように言われたような気がして、、、
ダンナさん緒仕事の一環としての、、、外国の医師の接待などに、、、
写真係、、、通訳係として、、、無料奉仕をした若き時代でした。
外野の私には、、詳しいことは言ってくれませんが、、、
世界でも有名な外科の医師で、、、無口だと言った。
私が「まちゅぴゆの話を持ちかけて、、、あの界隈は日本人が多い煮ですよ、、」
話しかけたら、、、、無口どころか、、、話が大好きで、、、
無波アメリカの旅行の話だとか、、、イグアスの滝の話だとかすると、、、
お話が途切れませんでした。
お帰りの時は空港までお送りしましてが、、、
こういう時の為にだけ、、、カードを使って、スペシャル待合室で
サービスのコーヒーを差し上げて、、、
お見送りしました。すべて、、、自費で、、実費で、、、北海道のユーカラ織を
お土産に受け取っていただきました。
先生方は、、、仕事の話をなさるから、、、
有名な医師とおっしゃるからには、、、お仕事が忙しすぎるので
仕事以外の話であれば、、、、休息になるはずと、、、
世界の名所、、、日本名所の話を持ちかけると、、、
あそこは良かった、、、ココは良かったと、、、話し続けて
スッカリニコニコ顔になられて、、、、先生方も、、意外な展開に、、喜ばれていましたよね。
ピンチヒッターの、、お手伝いは、、、若いから出来たのですよね。
この後、、ダンナさんは院長を、医大の若い先生に引き継いで
名誉院長という、、、大きな意味での、、、その他一同の医師になって
院長職の政治的な仕事から、、、
片時も離さなかった、、診断学の医師として、、多くの患者さん衣接することになったのでした。
医大の院長になってからは、、、
今までの、、外国との交流にはダンナさんは蚊帳の外になりました。
いつの間にか、、、外国との交流が無い病院い戻り
地域の基幹病院として、、、若き院長は、、医大の出身だけあって
地元貢献型の病院として、、、外交病院からは、、いつしか立ち消えて
地域の病院としての実績に向かって、、、周りからは無くてはならない基幹病院として
かっての勤務医のサテライト医療機関とともに、、、
巨大病院に育って行きました。
ダンナさんは、、、創生期の個人病院から引き渡された、、、
会社の経営する病院の院長を
初代の院長が、みんなの前で、、指名して、、、
北大の医学部という同窓である事、、
外科という、、大きな科であるという事、、、
国立大学の講師を務めて、医局に対して、、人事的に力を貸してもらえる人、、
医局は県で、医師会病院関係にも勤務経験がリ、、、 医師会と仲良くやってい行ける人
このような条件にぴったりだったこともあり
先代の院長が、、、退出する時、、、皆の前で指名していった関係上
院長職は、、、こんなに大変な時期だったなんて、、、、鈍感力だけで
ひきうけてしまった様に、、、私からは見えましたね。
サミットが予定されていただけに、、、
世界の要人が、、、万一の急病にそなえて、、、
表向きは、、北大、、医大であっても
実際の現場のアクシデントには、、ダンナさんが院長をしている病院が
実務的には、、、貢献するという予定で、、政治は勧められていた様でしたね。
ドクターヘリの導入は、、、大きな意味でも、、、その日までには間に合わないと
ヘリポートも無いという訳にはいかない。
政府からは、、、服だ首相のジュニアの首相が、、サミットの事で北海道入りされた。
家庭は空っぽで、、、一か月以上、、、家は、、ほとんど、、
天と線で、、、ダンナが出入りしているという
指定された病院だけに、、、
早稲田卒の優秀な秘書が、、、sミットの間だけ、、手伝ってくれたり。。
実際に引き受ける病院は、、、表向きには、、一切の表現は出来ないまま
緊急体制をとってゆくわけでsるから、、、、
政治家さんが、、、外国との要人をお迎えするには
白鳥の湖での優雅な白鳥の浮かんでいる、、、足の役割の病院は
日tの目に見えないところで、、、足が高速で水をかきながら
外国とのイベントを実行するという事を、、、舞台裏から感じましたね。
外野の私は若かったせいもあり、、、、
病院麻品格に必要性を迫られながら、、、
北海道のサミットが安全に行われるというための
水面下のお手伝いが出来たことは、、、院長時代のダンナさんは、、、
ある種の鈍感力があったから、、、
金銭に帰られない体験をやってのけられたのかもしれませんね。
我が家の出費も、個人的な持ちだしは、、、莫大なものがありました。「
役目上、、、大きな動きをしていると
お金持ちと間違われてしまい、、、
おおきな出費に耐えねばならない時期でもありましたね。
事務の方がたも大変だったと思いますが、、、
事務の方への要求にこたえてゆくまでの、、
病院外の活動が大変な時期でしたね。
あの頃の総理大臣は、、福田首相のジュニアの首相さんでしたね。
福田首相サンがお父さんも首相であったという、、、親子で首相という
サミットの時は、、外国が相手だったこともあり、
お父さんが首相だった福田さんンおジュニアの首相が、北海道に見えられて
表向きは、、北大や、医大が、国賓の健康管理であっても。
実際に闘うのは、、、医局関連病院の役割になるのは
陛下の心臓手術の時に、、、東京大学が、、施設のセットをして
日大の卒業の心臓手術のバイパスの経験値の日本一のドクターが
順天堂の教授として迎えられて、、執刀の医師の立場が
一か所の大學や病院だけで守られるのとは違っていましたよね。
サミットの時は、、覆面ドクターヘリが、、サミット参加国の要人を
ダンナさんの病院に運んできたのは、、、報道すら、、、ヒミツだったようでしたね。
時効ですから、、、日記に書いても良いでしょうね。
サミットのように、世界の要人が洞爺湖に集まってくださったというのは
日本途いう国が、世界と足並みを揃えられているという事で
故なき戦争に巻き込まれることだって、、孤立していない国は、、、無い筈ですよね。
大きな役割を果たすためにも、、、その時のその時点での病院は
北大の医局の医局長や同門会長をしていたダンナさんが、、、院長というのが
適役だったのでしょうね。
その後すぐに、、、医大から、学長と、その教え子という
助教授が、、、サミットの済んだ後の病院の
理事長と院長として、お二人一度に、医大卒という院長とその上司の理事長としてこられて
病院は、札幌市の病院の自治体貢献型の、、、激務の続く病院として
アメリカや、中国の病院との交流で、数人のアメリカ人の教授が
交換留学生などを推進していたのが無くなって、
自治体に貢献する病院にと様変わりしてゆく科も出て来たかもしれません、
家庭で雑役の私は、、私自身の名前で薬剤師に復帰していた時期でもあり自分の名前で2千万以上の借金をして、、
、子供達の進学費用に経営していたAPを、買った時よりもはるかに安く手放しましたね。
あらゆる場合を考えて、、、保険に入ったり、、、
家計は、、自転車操業でしたね、、、、
院長というのは、、政治家さんと同じような行動力が必用だったので
表向きには見えない金銭が、、個人のお財布から出てゆく時期でしたね。
中国にとんぼ返りの出張とか、、、病院提携をしても、、、
北海道は、、当時はロシヤとの友好があったとか、、、
政治音痴の私には、、、落第生の、、、後方の雑役係りでしたね。
パーティでお金を集めていたというのも
私達にはそのような力がないので、、、院長はにのなっても仕方がありませんが
政治の世界は、、阿部さんのように、、、
外国に交流を喉まれて世界に病院の名前を知られる交際をするのには
麻生さん緒様な、、、ドル箱がついていてくれても、、、
後方の雑役の外野に払うお金などは、、、
パーティで集まる賛助金が、、、必要だったかもしれないなどと、、、
院長を経験して 、、、外国とのイベントが重なると
個人的にステータス代金として、、、ポケットマネーで支払って
払えることに自己満足できる人でないと、、、
なんでもそうですが、、、社長とか、、、町長とか、、、都庁とか
府庁とか、、長のつくものは、、、院長まで
お金がないと出来ないtぽ老いうことかもしれませんね。
日本は、、ユダヤのように、、、国が無くなりそうな、、、
敗戦を経験していますから!!
外交には日本の国を知ってもらい、、、
日本全土が、、、「世界遺産入なるべきですよね、、」
仕事としては、、、やれるかやれないか、、、
緊張感で働き続けるのが
結婚だと思いましたね。
正直言って、、、医師の家内なんて、、勤まるかどうかは
自信は有りませんでしたね、、、
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北海道と、、、駿河台の文化の違いには、、、
愕然とするものがありましたね、、、、
舗装ドーロは少なくて、、、馬車が通り、、、
馬糞風が吹いている、、、高層ビルのない都市、、、札幌。。。
昭和38年に、、札幌にやって来た、、、ダンナさんは、、、
偉いのか?、、鈍いのか?、、、利巧なのか?、、、鈍感なのか??
鈍感力は、、、まさに、、、実力以上の力だと、、痛感しましたね。
55年間、、、雪と闘いながら、、、
私は、、それだけで、、、人生過ぎてしまいましたからね。
建物一個だけの私的病院に勤務して、、、
サミットにも、、、役立つことのできた、、、ドクターヘリを導入に
20日間も自宅に帰らなかった、、、「家庭的には」、、、あほダンナが
ドクターヘリの入った時点で、、、
同僚の先生方が、、、奥さんも、、是非に、、、見学に来てください、、、と
あとにも先にも、、、この時だけ、、、同僚の先生方のお言葉に甘えて
ヘリポートまで案内していただきました。
「これで、、、道内の緊急患者さんの命が、、
最高のspeedで治療を受けられるんですね!!」
家に帰ってこないで、、、病院に泊まりっきりだった、、、
家庭的には「あほダンナ!!」、、、と思って居ましたが、、、
こんな、、いい仕事に、、、皆で、、夢中になっていたんだと思うと
それ以後の、、、帰宅の深夜便には、、、寝たふりで、、、無関心いなりましたね。
腹が立たなくなった、、、、ドクターヘリの見学でしたね。
そのころは、、札幌医大の教授の先生や、、、札幌医大の漢方の好きな先生方とも
私自身が「札幌医大に頼まれて、、、薬局の欠員を埋める為に
仕事に入っていましたから、、、
自治体と、、札幌医大と、、、院長だったダンナさんの、、、
警察や、消防車や、、、道議会や、、医師会や、自治体に
飛び回って会議に出ていたダンナさんとは、、、
すれ違いの毎日だっただけに、、、
同僚の先生方に、、お誘いいただいて、、
ドクターヘリのヘリポートまで案内していただいたときは
今蛙素晴らしいことをしていたのかと、、、
写真をばっちり、、、同僚の先生がシャッターを押してくださいましたね!!
何十年も前の写真で、、時効ですけど、、、
我が家には、、、断捨離する前に、、、日記帳に残しておきますね。
本州の息子や、、孫にも、、、、、こんな楽しい一瞬が、、、
婆ちゃんにも、、、あったのですよ。
ダンナさんの病院に行った記憶は、、、このほかには
16センチも、、お腹を切って、、、卵巣腫瘍を切除したという
サバイバルの、、対照的な、、、2回だけですね、、、
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これはあくまでも、、、医師の家内という、、、病院からは蚊帳の外の人間が
友も無く、、、知人もいない子育て人生の中で、、、わき目もふらずに
「
ダンナさんが「医師をすること」で
雑役舞台裏主任の 政治音痴の目で、、、実の上に降りかかった無理難題をこなしながら
仕事だ!!,たけし!、、のTV時代にこそだつぃた母ちゃんの日記です。
史料になったのは、、当時の新聞報道を参考に、、、
阿部さんが、、、悪い所ばかり、、、亡くなられて、、言いわけも答弁も出来ないのに
野党は、、正しいと思う事ばかリデ、、、その通りですが、、、
日本の国は、、派閥争いしているほどリッチじゃないから、、、
外国と付き合うという、、、受けの体制をつくる大変さを
野党は、むしろ協力的に、、、手伝った方が
政治不信のお金の動きが亡くなるかもしれません。
日本が国が亡くなってから、、、野党は与党を、、攻める材料も無くなった時
何をすれば国が亡くならないのか、、、、、実際のITで考えたことは
coronaに対して、、政治の力でどうにかなると思う前に
医学を知っている人に、
、医療体制を組んでもらえる政治が
大切だと思ったりしているんですけどね|||
事務系のすごいジムの力と、、医学者の、医学を生かす頭とは
別物のような気がして、、、診ていますけどね、、、
若き医師が、生活面でも、、人間らしく過ごせる世の中でありますように、、、
目の前80歳の婆ちゃんの、、、ひとり言でした。
あとで推敲しますね、、、眠いので寝ます、、、
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