花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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息子とオジサン

2024年01月28日 | 日記
息子にとって、、叔父さんは人生航路に
   大きな影響を与えた人である、、

      アルバムの整理をしていて、、、
           つくづくそう思ったのでした。

      断捨離できないアルバムを、、しばらく見ていました。

     日本の社会は、、たぶん、、政治が動かしているのだろうと

        漠然と思っています。

        社会の動向の目的が
          政治指導で決められてゆくから

            洗濯機を発明した人よりも

             科学兵器のもとになった爆薬の発明者のノーベルの名前が

               老若男女に伝えられてゆくのでしょうね。

      政治のことは、、全く解らないまま、、、
    わかるはずがない世界と

    考えの外に置いてきた、、、今まででした。

    父の時代は、日本が戦時体制であった「富国強兵」の中で、

    青春を送らねばならない時代だったそうです。

      大正モダンと、、ハイカラさんと、、、影に潜む、、、富国強兵、、、

        朝鮮戦争やら、、、太平洋戦争やら、、、
         ベトナム戦争と、、キューバ問題、、、

          ケネディ大統領と、、、マリリンモンロウ、、、

           週刊誌は、フェイクニュ-スなのか。。。噂なのか?

              世の中にあらぬ噂も、、
                     真実も、、、うそも、、、
                          てんこ盛りの時代であった。

      その中で、黙々と、、

      患者さんの時間に寄り添って生きた医師の家庭で

      病気と治療だけを考えていた医師その者の数は
                 5万人前後という少数だった。
          
      当時の医師の一人である父の手は

        未開発の放射線の関与する
           ポータブルに近い大きさのroentgenの機械であり

          放射線の防御の完璧でない医療機械で、、あったことは明白だった。

           父の手は、、 手には,、、潰瘍が出来ていた、

        プロテクトの医療道具が、、、極めて未開発な時代だった。     

       大学病院勤務から、、、戦地の医療班へ、、、
        その時代はまだ、、、総合病院で将校や兵隊さんの

         健康管理や病気手当で院内業務が多く

         西洋医学の医療機器は、日赤と軍と、政治の采配で
         院長業務に徹していれば、、
             スタッフも日本からの医師が参加していたという。

      終戦まじかには、、、全ての医師が、従軍して

       戦場に向かった時代であった。

       Nippon玉砕の寸前の時

        父の乗るはずの、、乗り物が来なかった、

       軍医は、本土に置いての引き上げの許可が下りて

      日本に帰国できたという、、混沌の時代であったと言っていた。
      

       そのまま、南紀の山奥の疎開地の診療所の医師としての勤務につき
                     
       粗末な小型roentgenを使っての、、、疎開先の村人と
       ダムの建設の為に来ていた、ダム関係者の医療を担当して
       
       明治40年代に生れた父の人生は、、、日本の政治の命令のまま

      終戦時は、、山深い山村の、、、
         疎開者の集まった、、、にわか銀座で、、
          七か村、、、唯一の外科医であり,
          戦陣の野戦病院で、全科の診療にあたったという
          無医村の集落が点在した疎開地には、、
            ダム計画が発足して
              引揚者の父は
            村でハ必要な存在感のある医師をしていた。

       東京生まれで、、言葉の美しい、、、父上の口まねを
        子供達の仲間が真似をして、、、
          夕刻の影踏みなどして

        我が家のすぐ裏の運動場で、、走り回ったものであった。

              

     終戦後、「戦争を知らない世代の誕生!!」

     「 医者の家に、、、男の子が生まれたぞ~~~~!!」

       誕生の時から、、、弟は人気者であった。

       父は、、今までの苦労が晴れた様な笑顔で
         弟をだっこしては、、、夕暮れ時に、、、
        村の子供たちと、、、月明かりになるまで
         影踏みをしていたのを思い出します。

            

       戦後の復興の始まりの時代が来た。

      この時産まれた男の子たちが、、、

           「団塊の世代!!」と呼ばれた。

      アメリカに追いつき追い越せ、、、昭和、平成、、、と

     頼もしい戦後パワーで、、、日本は経済大国にのし上がった。

       池田首相のあたりから、、、貧乏人でも、、、カレーが食べられる時代が来た。

     東京は銀座、、中村屋のカレー、、、

      美味しかったね!!

       その時代に、、弟は、貧乏学生だった。

        千葉大学で外科の医局に居た時代に、、、
        すでに父は無くなっていた。
     父は、息子が医師になったのを知らないで死んでしまった。

         しかし、、息子である、、弟は、
          父のことは、、片時も忘れない。

          がんの腫瘍の切除で外科に来た患者さんは切除しても、、、
             術後の生存率は短くて死んでしまう、、、

        「これは、、、癌の発見が、、遅いのではないかと思い、、、」

      彼は教授に許可を得て、、、国立がんセンターの黎明期に

      千葉大の先輩医師である「市川平三郎先生にお誘いを受けて、、」

      国立がんセンターの検診検査研究の任務に就いたのでした。

     彼の人生は、、、「柳田さんの小説、、、がん回廊の朝、、明日への挑戦、、、」

     朝日TVなどにも、、、ドラマとなって、、放映されていたので、、

       北海道の姉である私には、、、会えなくても、、孤独感が無くて

       読売新聞や、朝日新聞、、、NHKのTV[などで

           

      会えるので、、、本を買ったり、、切り抜きを創ったり、、、

     弟のことは応援しているうちに、、、

      男の子の母となり、、、転機が来ました。

    

      息子が幼稚園の時、、、札幌での学会に参加の為

       国立がんセンターの同僚と、、2人でやって来られて

      学会場のホテルをとっているのに、、、

       朝まで、、ご機嫌で、、我が家で夜明かしをしてゆきました。
            


        朝になって、がんセンターの一緒に来られた先生が、、

       息子達を連れて、、サイクリングに出かけました。

      その先生は後日、医学部のPFになられました、、、。

      「息子達に、、大きな人生の案内をしてくれたことになりました。:」


          

      その日以来、、弟の方の息子は、、、

       伯父さんの出ているTVや、、小説、新聞記事にまで、、目を通すようになり

       画像診断への興味が湧いてゆきました。

       医学部に入ってからは、、、
        学生中に、、
       国立がんセンターのオジサンを訪ねて
       開発中の画像診断の画面を見ながら、何やら、、指導をいただいていた様でした


       お話をしてもらったり、、、 将来への夢が現実となってゆきました。

       そのころ、、私は、、自覚が無かったのですが、、、

       卵巣に、赤ちゃんの頭の大きさ位の腫瘍があったのです。

           

        「内科医の兄が、、、
        北海道の羊が丘あたりでは、、
         食べられないものを御馳走するから、、」

       赤坂のホテルの、、回転するレストランで 夕食をおごってくれたのでした。

       自分で、好きなものを取りに行く形式だったので

        私は、、珍しくて、、、立ったり座ったり、、、
         バイキングのテーブルに通っていたのでした。

        その時、、内科医の兄が、、

      「御雨の腹には、、何かあるぞ、、、!」と言い出したのです。

       腕も上体も細いのに、、、腹がデカすぎる、、、

       相当大きいものが入っているぞ!!、、、

        その場で、、がんセンターの弟に電話を入れたのでした。

         予期せぬ事でしたが、、、

       弟には言われてしまいました。
      「お姉ちゃんは、、、医師の奥サンとしては失格だね!!」

       お腹には、赤ちゃんの頭の大きさのような、、、卵巣腫瘍があるよ!!」

         性質は、、ムチン、、、脾臓に飛んでしまうと面倒なことになるから、、

         今すぐ、、札幌の義兄さんが勤務している病院の婦人科で、
              卵巣嚢腫を切除してもらうように連絡するから!!」

       病理所見が出るとは思うが、、中は、たくさんの部屋に別れていて、、、、と

        説明すると、、その場からの電話に対して、、ダンナさんが

          オペの準備が出来ていますから、、すぐに帰宅させてください、、」

         私はその場から、、空港に直行して、、帰宅すると、

          その日に入院して、、、なんと、、お腹を16センチも、、切ったのでした。

           

         その時以来、、、息子は、、ますます、、画像診断に興味を持って行き

         現代は、、画像診断一筋で、、、 息子を必要としてくれた病院に勤務して

        50歳を迎えます。

        初恋の女医さんとわかれてからは、、、結婚願望も無く。

        子育てしても、、、その子が借りに、、医師になれても、、、

           医師になるより、、医師をすることの難しさを思えば、、

                独身で、、医療の生活が出来れば、、、充分幸せだと言っています。

        私立医科大学だった息子は

          親に払わした授業料、、、住宅費、、、。。。。。狛犬。。

            あとから来た贈与税、、、

          北海道という東京から見るとへき地の医学生は

         班員の周りに立ち並ぶ病院群の跡取り息子達の学生に比べると

        大学のサテライト病院のように、、、
        家族もろとも、、医療のネットワークに入っていない関係上

         大学のスケールに対して、還元できる何ものも無いから、、、

        無給に近い給料で、時間外も、、滅私奉公して、、

         激務で大学からの感謝を還元するしかないから

         大学を出るとすぐに、、
          新幹線で通勤の地方の
           関連病院でのアルバイト人生が始まったという。

        感染症も扱う、大学関連病院なので、

        駅からはタクシーで通勤。

        収入はサラリーマンより多くても、、東京からの新幹線通勤で、
        午前中大学の研修、午後からは新幹線通勤、、、深夜まで勤務。。。

          結婚話も、、10軒は有っただろう、、、

         せっかくデートの約束をしても、、、現場には行けないという、、

          侮辱したのと間違われたのかもしれません、、、

        言い訳の電話では、、、向こうさまから、、、お断り、、、
           
              

          ともかく、、「独身んでいながら、、、貯金がない、、、。」

      税金を払うと、、食費がやっと、、、

        50歳なのに、、家も借家、、車も無い、、お嫁さんも居ない、、、

       医師になって大学病院い残ることで、、おっくの症例に出逢い
       指導医や、、認定医にはなれるが、、、

        坊ちゃまでないと、、大学での生Kつは続かない。

        息子は独身主義という手で、、大学に残ることで、医療力を磨く法を選んだ。

        絵では良く、、読影のspeedと確実性でも、、豹かは高い。

       がんセンター時代のオジサンからの誘いは、、大学の医局の手前

       大学に居の頃乍ら、、、甥っ子叔父さんとして、、話には出かけていた様である。

      そういう意味では、、弟は、、甥っ子という「画像診断医師」が世に出るまでには

      大きな影響を与えた、、、、画像医学への興味に火を付けた先生だったかもしれない。

       仕事への興味だけで、、充分満ち足りていると、、息子は言う。

       今どきの女性は、、出産にも、、育児にも、、家庭婦人としても、、

        自己主張が強くて、、扱いきれないともいう、、、

       逃げている様だね、、女性からは、、、

       息子も、家庭の大黒柱という、、、ドーンと来い!!という男っぽさが無いね~~~

       医師以外の仕事は、、、出来そうもないタイプだから、、、

       独身で良かったのかもしれないね~~~(^^~~はあちゃんはそうも思っているよ、、。

       「本人は、、医師の仕事が出来て、、かつ丼が食べれれば、、、何も必要ない。」

        いまどきの女性と結婚しても、、、お尻に敷かれて、、、育児までさせられて、、、

          とどのつまりは、、、
            海外や,、世界一周の旅行もせびられて、、
            いくら、、稼いでも足りないよ、、きっと!」

           

    

          僕は、医師になって仕事が出来れば、、、幸せだから、、、」
       「下手に結婚相手を選ぶと、、息子が、、僕みたいな私立医大に進学して

           母さんみたいに、、授業料を一度終わった家のローンを再度組んで、、

                70歳になってもローン返していたのを思い出すと、、、

                   それまで生きれるかどうかも解んないのに、、、
                   怖くて、結婚する気にはなれないね

        どういう訳か、、、結婚紹介してくれる人は

         お金のかかりそうな、、女子大出のお嬢さんが多いんだよね、、

           

           面倒見きれないよ、、、育ちの良い人は、、要求も高いし、、

         母さんみたいに、、
              父さんが50歳近くまで、、、
                 40万前後の月給で子育て、、私大進学させてくれる女性ならともかくね、、、

         風評被害で、、医師は金持ちと勘違いされて、、
             期待され手も、、
           家なし車なし、、座り仕事で肥満気味ではネ!!



            50歳近くまで、、大学勤務医で、、金持ちなんていないよ、、、と言ってるけれど?

           独身者は、、社会の稼ぎ上手のターゲットにもなるから

            政治は、子育て家族を増やしたいのなら、、、

            独身の医師をガードできれば、、野球チームが作れるほど

            家庭に密着の先生方だと思いますけどね、、、

           世の中は、、医師はお金が通過するが,、使えるお金は入らないという
            不思議なシステムになっていますよね。

           ダンナも医師ですが、、ある月、、突然
 19万円しか月給が振り込まれていない日があり、、つぎの月は30万円になっていた。

           退職するということで、、、合点が行ったが、

            創生期から勤務して、、院長、、名誉院長と歴任して

           4人の外科医は20人以上になり、、、

           ドクターヘリも導入されて、、テープカットもさせていただき、、

          サミットの時は院長として、
、外国の要人の疾患手当に運ばれて来た
             覆面ヘリを受け止めるヘリのポートを視乍ら

                責任を果たせたことで、、、20日ぶりの帰宅であった。

              ダンナさんが院長の時に、、奔走していたドクターヘリの導入に
             私は、、ほかのことはともかく、、

             農家で仕事中に農機具で妹手男してしまったし手を氷で冷やして
               持ち込んだ患者さんの手が無事に、、もと道理縫い合わされて繋がったり

           ドクターヘリの導入は、、
             全道の緊急患者さんが使えるので、、
                ダンナさんは院長時代のテーマとして
                  奔走して、いましたね、

             医大卒の先輩の医師の先生方や、、、警察の方、、医師会の方、、、

             高橋知事さんなど、、、
            多くの方の一致団結の結果の「ドクターヘリだと言っていましたね。」

           tか箸知事さんからは、全道が射程距離になるヘリの導入は
             緊急患者さんの、、今まででは助から鳴った命も救えると喜ばれたそうですね。

              病院には感謝状が届けられたと言って、、、ドクターたちは

               実績を認められてことを、、どのように感じたのかは、外野の私にはわかりません、


            医師会や、、いろいろな先生に、、ドクターヘリの導入は、、ぜひ、

             奥さんがたも観てほしいと言われて、、
               当時、医大で薬剤師をしていた私は
                 「医療人の一人として見学に誘っていただきました。」


                何年も前の写真ですよ、、、懐かしいです。!!

                  
             

            



         
         結局、、彼が人生をかけての職業に選んだのは、、、

          伯父さんに若き日に、、、「ガイダンスをうけた画像診断!」

          医師になってからは、、大学病院で50歳近くまで、、、課長をさせていただき
          専門医も、認定医も、、博士号も許されて、
             診断学の中の画像は診断できる医師となった。

         大学では、、東京の病院への呼び戻しがかかったが、、、

          いつの間にか,、、
          今いる、、地方都市の、、
          大学関連病院であった土地が

         心の故郷になっていて、、、この土地に恋をしたそうです。

           

         彼は、、母が待っている、、、北海道にも、、もう、、帰っては来ない。

           



         叔父さんとの若き日の、、国立がんセンターで

             学生へのガイダンスを受けていた写真が、、、整理していると、、出て来た。

         来し方の、、麻生さん首相をされていた頃のがんセンターで

         独立法人になる前の、、、がん検診検査研究センター長の、、叔父さんの

          部屋で、、母の私が見つけてもらった腫瘍などの説明とともに

         画像診断の、、、ノウハウの抗議を受けているのを、、
         記録してあったものが、、出てきました。

              

         何度も、、お電話くれた息子だけれど

         屋根に上がって除雪している母親からは、、、返事が出来ません。

        「母さん、、、屋根だけには上がるな、、、!」と息子は常々

       冬になると、、電話をよこすのですが、、、

        すでに屋根の上の上がっている事が多くて、、、

        不在記録が続いています。

        そういう訳で、、、この記念写真でも見てくれたらと、、、

        此処に、、乗せておこうかな??

      
                    
       

        

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