奈良県文化会館 小ホールで、NPO法人 奈良フィルムコミッションが主催して、ドキュメンタリー映画「花 はんめ」が午後2時からと6時と2回上映されました。
2000年だったか一人の女性が市役所に私を訪ねてきて、「奈良フィルムコミッション」を立ち上げたいのですが協力をいただきたい。という相談が持ち込まれました。「フィルムコミッション」とは、映画等の撮影場所誘致や撮影支援をする活動で、自治体や観光協会が中心になって創られていました。その目的は、映画撮影などを誘致することによって地域の経済・観光振興を図るのが狙い。という事でしたが行政の力を借りて結成したいとの事でした。
奈良市にも紹介をしてその必要性を訴えましたが、まだ世間でも十分認知されていない事もあって、協力を得られませんでした。しかし彼女は、NPOとして、ボランティアでも立ち上げていきたいとの事で今日までがんばってこられました。
フィルム・コミッションの業務内容は以下のようなものです。
1 ロケハンの協力
2 ロケハンの為のロケ地情報の提供や写真提供など。
3 撮影許可申請の代行
4 ロケの立会い
5 食事や宿泊施設の手配
6 エキストラの募集、手配
7 映画イベントの協力
8 映画公開時のロケ地情報パンフレット製作・配布。
9 映画ポスターのロケ地での配布・手配
NPO法人を取得して現在までに
2004年 篠田正浩監督 「スパイゾルゲ」 ロケーション撮影補助
2003年 山田洋次監督 「秘剣 鬼の爪」 ロケーション撮影補助
2004年 水野晴男監督 「シベリア5」 ロケーション地探し
2004年 NHKドラマ 「大化の改新」 ロケーション撮影補助
およびエキストラ派遣
NHKドラマ 「華岡青洲の妻」 ロケーション撮影補助
およびエキストラ派遣
2005年 テレビ朝日 「新京都迷宮案内」ロケーション撮影補助
およびエキストラ派遣
等々。関西ペイント、ワコールCMロケーション地探しなど活躍をされてきました。今回、初めて自主映画会の開催となりました。
今日の上映を前にこの映画を作った「金 聖雄」監督からご挨拶があり、この作品に寄せる思いを語ってくださいました。
「私は、大阪の鶴橋で6人兄弟の末っ子として生まれ、現在は東京に住んでいますが、1999年夏 私の母、金正順は病死しました。 77年の生涯 母はしあわせだったのだろうか。戦争前に日本に来て何をしていたのか、末っ子で苦労をかけた私には、悔いが残りました。何もしてあげられなかったと…
母や在日一世たちが 歴史の渦に飲み込まれながらも 日本という舞台でたしかに生きた、生きてきたというあかしを残したい。 この映画は私のそんな思いを 仲間たちの力を借りてかたちにしたものです。私に出来ることは、小さなお墓を創るような気持ちで、映画をつくることでした」
「はんめ」(朝鮮の方言で、ばぁちゃんとの意味)たちの日常を映し出す中から、彼女たちの人生、歴史に翻弄(ほんろう)された悲しみや怒りがみごとに浮かび上がってくる。彼女たちの悲しみの根源に、日本の植民地支配があったことを私たちは忘れてはならないが、そのことよりも、食うものも食えず生きてきた人生を送ってきて、70歳、80歳になって、歌ったり踊ったり語ったりして生きている姿に心が動いた。在日朝鮮人のことを語る事は大事な事だが、この映画ではこんな歴史があったということに主眼はおいていない。すてきなオバァちゃんにあって、その明るさを表現したかった。
この監督の最後の話を聞いてほっとして映画を見ました。
このドキュメンタリーは、神奈川県川崎市桜本に住む在日朝鮮人一世たちの、今を描いた作品でした。桜本は在日韓国・朝鮮人が多く暮らす町だそうです。1999年から4年間の歳月をかけて撮影された。
主人公は、孫分玉さんという「はんめ」。彼女の八畳のアパートに80歳を過ぎたはんめたちが毎日のように集い、たまり場になっている。
ファーストシーンはいきなり、孫さんの家に入って行っていったおばあさんの後ろから撮影をしていたカメラマン?に向かってはんめたちが、「遠慮しないではいりなさいよ」「座りなさいよ、ここに」と、雑音に混じって台詞が入り、もう始まっているのかどうか戸惑い、意味が分かりませんでした。
ここで彼女たち(4~6人のはんめ)は笑い、歌い、食べて、語り合う。たまに羽目をはずして大騒ぎする。買い物やプール遊び、ロックに合わせて踊ったり歌ったり。まるで15、6歳の少女のように恥じらい、笑う姿と、時に青春時代を語り、ある1点をじっと見つめる姿に明と暗のギャップが鮮やかに映し出されていました。
笑い声が大きいほど、楽しそうに踊れば踊るほど、はんめたちの人生が走馬灯のように回転をしているのではないかと思いました。
彼女たちが楽しみにしているのは、地域のふれあい館で毎週水曜日に開かれる「トラヂの会」です。在日二世や三世が中心となって運営しているのですが、その場面では、監督が一人一人のはんめに「あなたの夢は!!」と聞くのですが、「夢などない」という答えでした。「今が一番幸せかな?もうこの幸せなときに早く死にたい」と死ぬことを夢見ているようでした。
金順女さんという人は、この4年間の撮影中に亡くなるのですが、なくなる前に母国に帰り親戚や友人にあって、「これが最後やから」と行って分かれてきたというのはショックでした。
ポスターの写真の手は、主人公孫分玉さんの手です。みんなから「姉さん」と呼ばれ、いつも髪に花を挿して食事を提供し笑いの中心にいますが、彼女は17歳で日本に来て、親が決めた人と結婚。福岡の炭坑で働いた。「私は78歳まで働いて、8人の子供を育てたよ」「35歳で主人を亡くしそれ以後子供たちのために・・・」孫分玉さんの手は、爪が分厚く変形し、まさに労働者の手です。その手を見れば、彼女の人生の厳しさを想像することができます。
80歳を過ぎたはんめたちはみんな孤独だ。だから孫さんのところに集まる。
在日朝鮮人の人たちの人生を感じさせていただきました。「死を待ってる」という一言は強烈でしたが、これは、83歳になった私の母親を見ても感じます。高齢者・高齢社会「花 はんめ」は日本人も同じではないでしょうか。苦労の連続の人生であったも、最後の人生が、「今が一番幸せかな?」という「はんめ」がいたが、みんなにそういっていただけるような社会を作っていかなければいけないと思います。
そういえば、母親が、16日に市役所の銀行にいく時にロビーで聞き覚えのある声が聞こえるので、ロビーのテレビを見ると産業文教委員会で、質問をしていた私が映し出されていたそうです。夕食のときうれしそうな声で「今日見たでぇ、せやけど、チュットやせたんかな、ほほが痩けてたで!!」「そうか?あのテレビは縦長に見えるんや」
母親とはありがたいものです。その母親を連れて明日は大阪へ行きます。
では。
2000年だったか一人の女性が市役所に私を訪ねてきて、「奈良フィルムコミッション」を立ち上げたいのですが協力をいただきたい。という相談が持ち込まれました。「フィルムコミッション」とは、映画等の撮影場所誘致や撮影支援をする活動で、自治体や観光協会が中心になって創られていました。その目的は、映画撮影などを誘致することによって地域の経済・観光振興を図るのが狙い。という事でしたが行政の力を借りて結成したいとの事でした。
奈良市にも紹介をしてその必要性を訴えましたが、まだ世間でも十分認知されていない事もあって、協力を得られませんでした。しかし彼女は、NPOとして、ボランティアでも立ち上げていきたいとの事で今日までがんばってこられました。
フィルム・コミッションの業務内容は以下のようなものです。
1 ロケハンの協力
2 ロケハンの為のロケ地情報の提供や写真提供など。
3 撮影許可申請の代行
4 ロケの立会い
5 食事や宿泊施設の手配
6 エキストラの募集、手配
7 映画イベントの協力
8 映画公開時のロケ地情報パンフレット製作・配布。
9 映画ポスターのロケ地での配布・手配
NPO法人を取得して現在までに
2004年 篠田正浩監督 「スパイゾルゲ」 ロケーション撮影補助
2003年 山田洋次監督 「秘剣 鬼の爪」 ロケーション撮影補助
2004年 水野晴男監督 「シベリア5」 ロケーション地探し
2004年 NHKドラマ 「大化の改新」 ロケーション撮影補助
およびエキストラ派遣
NHKドラマ 「華岡青洲の妻」 ロケーション撮影補助
およびエキストラ派遣
2005年 テレビ朝日 「新京都迷宮案内」ロケーション撮影補助
およびエキストラ派遣
等々。関西ペイント、ワコールCMロケーション地探しなど活躍をされてきました。今回、初めて自主映画会の開催となりました。
今日の上映を前にこの映画を作った「金 聖雄」監督からご挨拶があり、この作品に寄せる思いを語ってくださいました。
「私は、大阪の鶴橋で6人兄弟の末っ子として生まれ、現在は東京に住んでいますが、1999年夏 私の母、金正順は病死しました。 77年の生涯 母はしあわせだったのだろうか。戦争前に日本に来て何をしていたのか、末っ子で苦労をかけた私には、悔いが残りました。何もしてあげられなかったと…
母や在日一世たちが 歴史の渦に飲み込まれながらも 日本という舞台でたしかに生きた、生きてきたというあかしを残したい。 この映画は私のそんな思いを 仲間たちの力を借りてかたちにしたものです。私に出来ることは、小さなお墓を創るような気持ちで、映画をつくることでした」
「はんめ」(朝鮮の方言で、ばぁちゃんとの意味)たちの日常を映し出す中から、彼女たちの人生、歴史に翻弄(ほんろう)された悲しみや怒りがみごとに浮かび上がってくる。彼女たちの悲しみの根源に、日本の植民地支配があったことを私たちは忘れてはならないが、そのことよりも、食うものも食えず生きてきた人生を送ってきて、70歳、80歳になって、歌ったり踊ったり語ったりして生きている姿に心が動いた。在日朝鮮人のことを語る事は大事な事だが、この映画ではこんな歴史があったということに主眼はおいていない。すてきなオバァちゃんにあって、その明るさを表現したかった。
この監督の最後の話を聞いてほっとして映画を見ました。
このドキュメンタリーは、神奈川県川崎市桜本に住む在日朝鮮人一世たちの、今を描いた作品でした。桜本は在日韓国・朝鮮人が多く暮らす町だそうです。1999年から4年間の歳月をかけて撮影された。
主人公は、孫分玉さんという「はんめ」。彼女の八畳のアパートに80歳を過ぎたはんめたちが毎日のように集い、たまり場になっている。
ファーストシーンはいきなり、孫さんの家に入って行っていったおばあさんの後ろから撮影をしていたカメラマン?に向かってはんめたちが、「遠慮しないではいりなさいよ」「座りなさいよ、ここに」と、雑音に混じって台詞が入り、もう始まっているのかどうか戸惑い、意味が分かりませんでした。
ここで彼女たち(4~6人のはんめ)は笑い、歌い、食べて、語り合う。たまに羽目をはずして大騒ぎする。買い物やプール遊び、ロックに合わせて踊ったり歌ったり。まるで15、6歳の少女のように恥じらい、笑う姿と、時に青春時代を語り、ある1点をじっと見つめる姿に明と暗のギャップが鮮やかに映し出されていました。
笑い声が大きいほど、楽しそうに踊れば踊るほど、はんめたちの人生が走馬灯のように回転をしているのではないかと思いました。
彼女たちが楽しみにしているのは、地域のふれあい館で毎週水曜日に開かれる「トラヂの会」です。在日二世や三世が中心となって運営しているのですが、その場面では、監督が一人一人のはんめに「あなたの夢は!!」と聞くのですが、「夢などない」という答えでした。「今が一番幸せかな?もうこの幸せなときに早く死にたい」と死ぬことを夢見ているようでした。
金順女さんという人は、この4年間の撮影中に亡くなるのですが、なくなる前に母国に帰り親戚や友人にあって、「これが最後やから」と行って分かれてきたというのはショックでした。
ポスターの写真の手は、主人公孫分玉さんの手です。みんなから「姉さん」と呼ばれ、いつも髪に花を挿して食事を提供し笑いの中心にいますが、彼女は17歳で日本に来て、親が決めた人と結婚。福岡の炭坑で働いた。「私は78歳まで働いて、8人の子供を育てたよ」「35歳で主人を亡くしそれ以後子供たちのために・・・」孫分玉さんの手は、爪が分厚く変形し、まさに労働者の手です。その手を見れば、彼女の人生の厳しさを想像することができます。
80歳を過ぎたはんめたちはみんな孤独だ。だから孫さんのところに集まる。
在日朝鮮人の人たちの人生を感じさせていただきました。「死を待ってる」という一言は強烈でしたが、これは、83歳になった私の母親を見ても感じます。高齢者・高齢社会「花 はんめ」は日本人も同じではないでしょうか。苦労の連続の人生であったも、最後の人生が、「今が一番幸せかな?」という「はんめ」がいたが、みんなにそういっていただけるような社会を作っていかなければいけないと思います。
そういえば、母親が、16日に市役所の銀行にいく時にロビーで聞き覚えのある声が聞こえるので、ロビーのテレビを見ると産業文教委員会で、質問をしていた私が映し出されていたそうです。夕食のときうれしそうな声で「今日見たでぇ、せやけど、チュットやせたんかな、ほほが痩けてたで!!」「そうか?あのテレビは縦長に見えるんや」
母親とはありがたいものです。その母親を連れて明日は大阪へ行きます。
では。