金さんの「あっちこっち」Hot Line

大好きな奈良を走る金さんの東奔西走の日常活動録。家庭菜園や地域活動や、学校支援に走ります。

中国帰国者と地域役員懇談会 NO226

2006年12月10日 | 過去の記事
 中国帰国者と地域役員との懇談会が奈良市ボランティアセンターで,奈良市中国帰国者支援交流会主催で開催されました。
私も「地球人村』代表として参加をしてきました。

            
 中国残留孤児の方が帰国をして現在27世帯67人が奈良市内に暮らしておられます。ほとんどが生活保護を受けて各団地で生活をされています。しかし,高齢者で言葉が自由にならないので,地域住民とも上手くコミュニケーションが取れず,誤解から問題も発生しています。そこで、地域の自治会長や民生委員さんを招待して今回交流会という事になりました。

 「竹田順子」中国帰国者の会代表の挨拶で,
「私たちは,肉親と死別又は離別して孤児となり,長い苦難の年月をへて,中国で暮らし最後の人生は生まれた祖国で暮らしたいという強い信念を持ってようやく帰国しました。しかし,言葉・生活習慣・行政制度などいろいろな大きな壁があり,再び困難な状況に置かれてしまいました。
 
 皆様もご存知のように2003年から[日本人らしく・人間らしく暮らしたい』という気持ちを持って,私たちを放棄した国を訴えました。自分の祖国を訴える事はとても辛い事であります。たくさんの方々から暖かいご支援があったからこそ,ここまで頑張って続けてきました。

 特に奈良県帰国者はほとんど団地暮らしをしており,習慣・文化の違いから,地域の皆様には,私たちの気のつかない所でご迷惑をかけている事があるかもしれませんが,そんな場合はご指摘いただければ,互いの意思疎通は図れると考えていますので,私たちも地域のルールを守り,積極的にいろいろな活動に参加し,本当の地域の一員になり,この土地にとけ込みたいと思います。よろしくお願いします。

 また、来年の3月頃には京都裁判の結審と判決が下りますが、神戸地裁の判決の通りにくだる事を、私たち一同心より切望していますので,今まで同様に今後とも皆様の厚いご支援をお願いします。」という挨拶がありました。

 私が竹田順子さんと出会ったのは,平成5年でした。新聞記事ではじめて中国残留孤児が奈良にいる事を知りました。記事の内容は,ある団地で,中国人が,団地の中で大きな声で話をするとか、大型ゴミをあさり,散らかしていくと団地住民ともめているというものでした。私はその団地の自治会長に面談を求めその話を聞き、彼らが日本語によるコミュニケーションが出来ない事や生活文化に対する理解の違いだと考え,仲間を集めて日本語の勉強会のサマースクールを開始しました。以来さまざまな支援を行ってきました。

            

 そんな中で,井上代表と知り合いました。この方は,戦時中「大連市』で育った関係で残留孤児の身元引き受け人として頑張っておられました。本当にこの方は自分の生活を顧みず,夜中でも団地でトラブった時には飛んでいき住民との話をしたり,病気だと聞けば病院の手配から,生活の世話まで本当に孤児の生活に親身になってお世話をされてきました。

 また、元日中友好協会の老田さんや、春日夜間中学校の川本先生や,中国人の生活指導員の徐さんなどの献身的な努力によって帰国者を支えておられます。竹田さんは,裁判を起こしている事が心苦しいと言っておられますが,私は逆になぜ,日本人が日本人を守らないのかという気持ちです。「戦争処理はまだ終わっていない」同じ日本人なのに国が守らないのはどう考えてもおかしい。これも政治家の(当時は軍部の)大義をかざして庶民を使った悪例だと思います。
 2006年8月19日NHK衛星第1放送で放映された「満蒙開拓団残留孤児家族の悲劇を生む国策』を見れば明らかです。
(この番組は探せませんでしたが、NHKスペシャル 「満蒙開拓団はこうしておくられた」を見て青山貞一  2006年9月13日   http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col7195.html も参考にしてください。

竹田さん家族とは長いおつきあいになりましたが,彼女の歴史を聞くと涙なしには聞けませんが,まさに1本の映画になるドラマです。概略を話しますと

「幼い頃に朝鮮族に拾われて,その後ある別な人に(売られてと聞いた記憶があります?)その方に育てられ、その方が本当に良い人で,「お前は日本人だから」と言ってかばってくれて、中国の大学まで出してくれたそうです。大学に在学中にその養父が亡くなった時も、村長からは帰ってこいと言われたが,「帰ってこなくて良い,勉強を」をいう手紙が来たそうです。
 そして同じ大学の現主人と結婚をされたそうですが,このご主人もまたすごい方です。竹田さんが,残留孤児として帰国の意思を現した時,たまたまご主人の母親が病気で竹田さんが看病をしなければならないので帰国を止められたそうですが,お母さんがお亡くなりになってから,「あのとき自分の母親の世話のために帰国させる事が出来なかったので」といって、内モンゴル自治区ハイラル市の教育長、全人代委員の職を捨てて,妻のために日本に来られました。

幼くは,朝鮮語。大学生になって中国語。50数歳になってから日本語。語学の面だけを見ても本当にご苦労があった事と思います。また,「文革時代』の事は彼らは語ってくれませんが,その時代を生き抜いてきたのはすごい事だと思います。そして、妻のために自分の地位や名誉や過去をを捨てて,日本に来られたご主人。お二人の計り知れないご苦労を思うといつも私は辛くなるとともに,日本国に対して怒りを覚えます。しかし、竹田順子さんの前を向いて生きる生き方に勇気をいただきます。

もっと,もっと書きたいですが,これくらいで寝ます。スナップです。

    
 帰国者の二胡の演奏と孫のピアノ演奏がありました。
     
お祝いの時の踊りだそうです。竹田さんが,6歳の時に覚えたと言って飛び入りで頭にお椀を乗せて踊られました。

      皆さん帰国者の支援をよろしくお願いします。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。