金さんの「あっちこっち」Hot Line

大好きな奈良を走る金さんの東奔西走の日常活動録。家庭菜園や地域活動や、学校支援に走ります。

NO863 – 『国境なき針と糸』NO1

2015年02月07日 | 地域活動

朝から評議員会を行い、3月1日に行う大和川一斉清掃に連動して菰川清掃と花壇整備。4月4日に行われる佐保川わいわい桜祭りの動員要請を行いました。

 

また、今年度の活動協力に感謝を述べるとともに次年度の評議員さんへの連絡をお願いしました。

 

昼食後テレビの「Eテレ 『国境なき針と糸』」(初回放送2013年9月29日)に、ついつい引き込まれ最後まで見てしまいました。

 

内容は、アフガニスタン、カンダハル出身の医療人「レシャード・カレッド」さんの活動を紹介するものでした。インタビュー形式の番組でした。

 

1969年19歳で日本に留学し、京都大学医学部に入学し、7年後卒業し医師として最初に踏み出したのは静岡県島田市の市民病院です。呼吸器の専門医として活躍し、日本国籍も取得します。

 

その後、海外派遣の話が持ち上がり、1989年イエメンに派遣されます。イエメンでは結核が蔓延していましたが、予防対策や治療に奔走した結果、結核の治癒率が中東でトップとなる成果もあげます。

 

イエメンから帰国後、島根県松江市の病院で呼吸器科を立ち上げる仕事が待っていました。しかし、松江で働き始めたレシャードさんのもとに、ある日かつての患者(島田市)や家族がバスをつらねて松江にやって「私たちの島田にぜひ戻ってきてほしい」という陳情でした。

随分悩んだ結果、大きい病院の決まった時間だけの医療行為だけでは満足でき無いと思い、島田市で自分の医院を開くとともに、当時は数も少なかった、介護老人保健施設(3箇所)などの建設にも乗り出しました。

 

その間、1979年のソ連のアフガニスタン進攻があり、母国の難民キャンプを何度も訪れ、医薬品などの支援を行ってこられました。2002年、レシャードさんのアフガニスタン支援を知った、患者や市民が「カレーズの会」というボランティアの組織を静岡市に立ち上げ、全国に寄付を訴え、現地に医療施設などをつくる活動をすすめてこられました。

結果、レシャードさんの故郷カンダハルに無料で医療が受けられる診療所を開設、医師を含めた現地スタッフは25人(2013年)になったそうです。

 

私は、なぜ医者になろうとしたの? なぜ日本に残ったの? 日本で何をしたの? 医療人とはなに?という疑問に対してさすがはNHKの番組。プロデューサーは、ちゃんとエピソードを交えて用意してくれていました。

(記憶の不確かなところもあるが!)

 

なぜ医者になろうとしたの?

原点は、子供の頃、「だんだん弱っていくおじいさんを、『なんだ、しっかり食べて、頑張れよ』と医師が励ますと、どんどん食べる様になっていったという・・、しかし、家族には、医師は、『そう長くはない』と言っていたところを聞いていて「嘘つき」とおもったが、そのおじいさんは、その後なんども励まされて元気づけられ、しっかり食べるようになって、元気になって行ったのを見て自分も人のために立ちたいという気になった。

 これが、子供の時に見た情景だったのだが、医療の行為は、ただ、医療の技術だけではなく、また、薬だけではないのだと思ったという。『心が備わっていなければ駄目だ』と気付かされた。

 「ヒポクラテスは、患者にまず耳を澄ませば、半分は患者が教えてくれると言っている。」人と人との信頼が大切で、心なのだと語っておられたのが印象的だった。

 

 

なぜ日本に残ったの?

兄弟の量は外国人ばかりの量でそこで話されるのは英語だったので日本語を学ぼうとして、下宿を探したが何軒も断られ、残った一軒の家が運よく許された。そして、歓迎され下宿代も取ることをされなかった。

 下宿屋のおばさんになぜ下宿代ととらないのかと尋ねたら、「あなたを引き受けるのは『償(つぐな)いと思っています』。わたしが、満州からなかなか引き上げられなくて、さまざまな迫害に遭っていた時、ある中国人の方が、地下に隠して匿ってくれて、日本へ帰してくれたんです。その後、その中国人のおばあさんに会う事ができていませんが、中国でその行為を咎められ、追及されていないか?罰せられていないか?と心配しています。」下宿代をとらないのはその中国人への償いなんだという答えだったそうです。

 レシャードさんは、この恩を次の人に返したいとも思っていますと、そのために日本に残っていますと。

 お返しを求めないお返しの発想ですと言う。


私は、恩を忘れない「忘恩」の人にならないといけないと感じた。多くの人の支えや恩を受けて今の自分があることに感謝して、これらの人への「忘恩」に頑張ろうと思った。

また、この話を通して中国残留孤児の支援をしてきたが私だが、 中国人の「こんな暖かい民族であった」ことを再認識した。


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