TERRADA Art ComplexのANOMALYさんで淺井裕介個展を見た。
歩道橋を渡りながら、なぜだか何かでこの近くに鯨塚があると読んだことがあったと思い出していた。きっと淺井作品からのインパクトだったのだろうと思いながら、鯨ねぇ・・・
当たり前だけど、どっちを見てもとても鯨という感じではない。
歩道橋の上で検索してみたらすぐにわかった。
利田神社さまへと向かう。
まださほどに埋め立てられていなかった江戸時代の江戸前には多くの鯨が現れたという。
江戸前とは寿司ではなくて、東は中川の延長線上の澪、西は品川宿からお台場を連ねた北側あたり。
住宅地を利田神社さまへ。所々に江戸風情。
T字で習慣的に左右を見たら左に品川区立台場小学校。
校門脇に灯台?!
このあたりが御殿山下台場跡だったんだ。
嘉永6年(1853年)に浦賀に開国を迫るペリー艦隊が現れ日本は大騒ぎになった。幕府は江戸を守るために品川沖に急遽11の台場の造営を始めた。
が、完成したのは第1・2・3・5・6台場のみ。第4・7台場は工事途中で断念。第8台場に至っては着工すらすることができなかった。第9・10・11は不明。
その代わりに陸続きの場所に五角形の砲台を造ることになりそれが御殿山下台場。
明治になると埋め立てられ今は敷地の半分は台場小学校で他は住宅。でも、台場の輪郭は道として残っているという。
台場跡から発掘された石垣でこのモニュメントをつくった。
上に建つ灯台は、明治3年(1870年)に第二台場に建てられた日本国三番目の洋式灯台・品川灯台のモニュメント。
オマージュコラボ。
お腹がグ~となるパンの香りのパン屋さんは、いのパン店さん。
食パンを買ってみる。
その先に利田神社さま。
急に曇った。
利田神社さまは、江戸前期に沢庵和尚が弁財天(洲崎弁天)を祀ったことから始まるという。明治になってこのあたりの開発に尽力した利田利兵衛さんの姓をとって利田神社という名前になったそうな。
旧目黒川の河口の砂州の弁天さま。広重が「品川すさき」に描いた洲崎弁天は江戸前の岸辺だったのだ。
鯨塚。
寛政10年(1798年)に沖の天王洲付近に鯨が現れ、品川の漁師たちが生け捕りにしてみたら体長は九間一尺(約16・5m)高さは六尺八寸(約2m)あったという。江戸は大騒ぎにになり11代将軍家斉までもが見物したという。
その鯨の骨を埋めて供養したのが鯨塚。
隣は公園。
船だまり。
北品川橋を渡ってみた。
不思議で素敵。
切り離されてしまったんだなぁと思いながら天王洲アイル駅へ引き返した。