録画したテレビの報道番組とワイドショーを、家事の後の休憩や、食後などに見る習慣がある。正確に言えば見るのではなくスマホ操作しながら音声を聞くのだが、時々、テレビ画面に眼を向ける。
長年、視聴している朝のワイドショーのその番組が、どこか以前と違う感じがしていた。
曜日ごとにレギュラー出演していた3人のコメンテイターが、降板になってしまったからだと気づいた。
ずっとレギュラー出演していたジャーナリスト男性とノンフィクション作家女性は、私にとって数少ない、好きなコメンテイターだった。リベラルなコメントが特徴で、共感することが多かったし、教えられることもあった。
(どうして降板になっちゃったの)
と、私は不満だった。ネット記事を検索すると、その番組の3人のコメンテイター降板についての記事が、『エキサイトニュース』などに掲載されていた。
(そういうことだったのね)
番組にもテレビ局にも失望したが、降板理由のその記事を読む数日前に、新レギュラー出演の女性コメンテイターが口にした、「ワクチンを打つのは国民の義務ですよね」というコメントを聞き、憤りとショックを受けたのだった。コロナ・ワクチンの集団接種が始まった日で、みんなでワクチン打とう打とうの大合唱で盛り上がっている時だった。その盛り上がり方は、私から見ると異様なくらいに感じられた。
(打ち合わせの時、ディレクターから、「ワクチンを打つのは国民の義務」という発言を指示されたのかも)
そう推測した。その日の番組では、コロナ・ワクチンの集団接種を取り上げ、みんなでワクチン打とう打とうの大合唱で盛り上げることも、打ち合わせでのディレクターの指示と想像された。ディレクターは局の幹部から、首相の「1日100万回接種」の目標発言の忖度を指示されていたのかもしれなかった。
医師などの専門家を除いて、出演のコメンテイターたちは持論を展開しているような口調で喋っているが、基本的には局の幹部やディレクターのシナリオどおりの内容をアドリブで喋っているように、以前から感じていた。時々、シナリオにないコメントがあった時は、司会者が慌てて発言を調整したりすることも、ちゃんとわかる。
だからこそ、リベラルな発言をする、降板になったコメンテイター2人のコメントを聞く価値があったのだった。
けれど最近、その番組は首相の発言を称賛したり、政府忖度がチラチラ感じ取れるようになった。
ワクチンを打つのは国民の義務なんてコメントを聞くと、
(そんなこと言う人がいるなら、私、打ちたくないわ)
と、天邪鬼な気分になるし、政府御用達番組になってしまったその番組は、録画予約の〈登録名番組〉のオプションをはずしておいた。
さらに、「ワクチンを打つのは国民の義務」という言葉から連想したのは、〈マスク警察〉のような〈ワクチン警察〉が発生するのではないかということだった。あのコメンテイターの口ぶりでは、あなたワクチン打ってないの? と、未接種の人間に対して冷ややかに冷酷に蛇蝎のごとくの視線を向けそうなシーンまで想像された。
また、たとえば友人と一緒にレストランに入ろうとして、入り口のドアに、「コロナ・ワクチン接種してないお客様は、入店お断りします」などというメッセージが貼り出されていて、接種した友人は入店できて私は入店できないシーンで、
――他の店も、同じかもしれないな――
――そうね――
――やっぱり、早くワクチン打ったほうがいいよ――
――うん――
そんなやり取りを交わすことになったらと想像すると、天邪鬼な一面はあるが、素直な一面もある私は、早くワクチン接種をしようと決心した。
現在は海外渡航者向けの発行の〈ワクチン接種証明書〉の提示を、映画館や図書館の入り口で求められるようになるかもしれない。
(国産ワクチンができるまで半年以上あるし……)
輸入ワクチンを接種しようと覚悟を決めた。
コロナ・ワクチン接種を経験した友人からのメールを思い出す。
〈タイトル〉ワクチン
〈本文〉終了、痛くも何ともないです。
というメールを読み、
(ま、男らしい! 普通の注射の何倍も痛いらしいワクチン注射、痛くも何ともなかったなんて!)
さすがねと、あらためて尊敬した。
翌日の副反応を心配していたら、打ったところが軽い筋肉痛みたいな感じがあった様子だが、1日で治ったらしい。
2回目の接種も、注射打ったところが少し痛かったということだが、やはり1日で治ったという。
心配だった副反応がなかったことに私は深く安堵した。
また、それらのメール文から安心感や安堵感の他に、小さな喜びが感じ取れた。
(ワクチンを打ちたい人にとっては、ワクチンが接種できたことは喜びなんだわ)
そう発見した。それは、とてもいいことだと思った。
けれど私は――。
予約の時から憂鬱と不安と怖さの気分に包まれ、接種当日の朝は逃避欲求と闘い、接種会場に着いたら、無能政府のバカとか進歩してない最新医療とか、ワクチンじゃなく治療薬で治せないの! などと胸の中で呟きたくなるに違いない。さらに、
(ちょっとチクッとしますよ、なんて言わないでよね! その言葉、あたし、大嫌いなんだから! 暗示に弱い敏感体質なんですからね!)
なんて言いたくなる気持ちと闘いながら、注射直前のシーンでは恐怖のクライマックス!
(使用済みの注射針だったらどうしよう!!)
と、健康診断の採血の時に必ず襲われる恐怖と不安がよぎり、全身が固まって、注射針が刺さらないかもしれない。
(やっぱり、やめようかしら。後悔するかもしれないし)
まるでワクチン接種選択迷走心理状態に陥ってしまったような私は、それより現在の身体の不調を早く治さなくちゃと、待合室ロビーに戻った。
椅子に座っている受診者が2人増えて8人になっていた。来院した人が増えたのか、診察を終えた人がいるのか、わからなかった。若い人から高齢の人まで年齢はさまざまだが、中年以上に見える受診者が多かった。
体温の検温をされてから30分近く経ったような気がした。隅のほうに立ったまま、何となくあちらこちらへ視線をさまよわせていると、受付窓口の向こう側から名前を呼ばれ、「はい」と答えて私は足早に向かった。
長年、視聴している朝のワイドショーのその番組が、どこか以前と違う感じがしていた。
曜日ごとにレギュラー出演していた3人のコメンテイターが、降板になってしまったからだと気づいた。
ずっとレギュラー出演していたジャーナリスト男性とノンフィクション作家女性は、私にとって数少ない、好きなコメンテイターだった。リベラルなコメントが特徴で、共感することが多かったし、教えられることもあった。
(どうして降板になっちゃったの)
と、私は不満だった。ネット記事を検索すると、その番組の3人のコメンテイター降板についての記事が、『エキサイトニュース』などに掲載されていた。
(そういうことだったのね)
番組にもテレビ局にも失望したが、降板理由のその記事を読む数日前に、新レギュラー出演の女性コメンテイターが口にした、「ワクチンを打つのは国民の義務ですよね」というコメントを聞き、憤りとショックを受けたのだった。コロナ・ワクチンの集団接種が始まった日で、みんなでワクチン打とう打とうの大合唱で盛り上がっている時だった。その盛り上がり方は、私から見ると異様なくらいに感じられた。
(打ち合わせの時、ディレクターから、「ワクチンを打つのは国民の義務」という発言を指示されたのかも)
そう推測した。その日の番組では、コロナ・ワクチンの集団接種を取り上げ、みんなでワクチン打とう打とうの大合唱で盛り上げることも、打ち合わせでのディレクターの指示と想像された。ディレクターは局の幹部から、首相の「1日100万回接種」の目標発言の忖度を指示されていたのかもしれなかった。
医師などの専門家を除いて、出演のコメンテイターたちは持論を展開しているような口調で喋っているが、基本的には局の幹部やディレクターのシナリオどおりの内容をアドリブで喋っているように、以前から感じていた。時々、シナリオにないコメントがあった時は、司会者が慌てて発言を調整したりすることも、ちゃんとわかる。
だからこそ、リベラルな発言をする、降板になったコメンテイター2人のコメントを聞く価値があったのだった。
けれど最近、その番組は首相の発言を称賛したり、政府忖度がチラチラ感じ取れるようになった。
ワクチンを打つのは国民の義務なんてコメントを聞くと、
(そんなこと言う人がいるなら、私、打ちたくないわ)
と、天邪鬼な気分になるし、政府御用達番組になってしまったその番組は、録画予約の〈登録名番組〉のオプションをはずしておいた。
さらに、「ワクチンを打つのは国民の義務」という言葉から連想したのは、〈マスク警察〉のような〈ワクチン警察〉が発生するのではないかということだった。あのコメンテイターの口ぶりでは、あなたワクチン打ってないの? と、未接種の人間に対して冷ややかに冷酷に蛇蝎のごとくの視線を向けそうなシーンまで想像された。
また、たとえば友人と一緒にレストランに入ろうとして、入り口のドアに、「コロナ・ワクチン接種してないお客様は、入店お断りします」などというメッセージが貼り出されていて、接種した友人は入店できて私は入店できないシーンで、
――他の店も、同じかもしれないな――
――そうね――
――やっぱり、早くワクチン打ったほうがいいよ――
――うん――
そんなやり取りを交わすことになったらと想像すると、天邪鬼な一面はあるが、素直な一面もある私は、早くワクチン接種をしようと決心した。
現在は海外渡航者向けの発行の〈ワクチン接種証明書〉の提示を、映画館や図書館の入り口で求められるようになるかもしれない。
(国産ワクチンができるまで半年以上あるし……)
輸入ワクチンを接種しようと覚悟を決めた。
コロナ・ワクチン接種を経験した友人からのメールを思い出す。
〈タイトル〉ワクチン
〈本文〉終了、痛くも何ともないです。
というメールを読み、
(ま、男らしい! 普通の注射の何倍も痛いらしいワクチン注射、痛くも何ともなかったなんて!)
さすがねと、あらためて尊敬した。
翌日の副反応を心配していたら、打ったところが軽い筋肉痛みたいな感じがあった様子だが、1日で治ったらしい。
2回目の接種も、注射打ったところが少し痛かったということだが、やはり1日で治ったという。
心配だった副反応がなかったことに私は深く安堵した。
また、それらのメール文から安心感や安堵感の他に、小さな喜びが感じ取れた。
(ワクチンを打ちたい人にとっては、ワクチンが接種できたことは喜びなんだわ)
そう発見した。それは、とてもいいことだと思った。
けれど私は――。
予約の時から憂鬱と不安と怖さの気分に包まれ、接種当日の朝は逃避欲求と闘い、接種会場に着いたら、無能政府のバカとか進歩してない最新医療とか、ワクチンじゃなく治療薬で治せないの! などと胸の中で呟きたくなるに違いない。さらに、
(ちょっとチクッとしますよ、なんて言わないでよね! その言葉、あたし、大嫌いなんだから! 暗示に弱い敏感体質なんですからね!)
なんて言いたくなる気持ちと闘いながら、注射直前のシーンでは恐怖のクライマックス!
(使用済みの注射針だったらどうしよう!!)
と、健康診断の採血の時に必ず襲われる恐怖と不安がよぎり、全身が固まって、注射針が刺さらないかもしれない。
(やっぱり、やめようかしら。後悔するかもしれないし)
まるでワクチン接種選択迷走心理状態に陥ってしまったような私は、それより現在の身体の不調を早く治さなくちゃと、待合室ロビーに戻った。
椅子に座っている受診者が2人増えて8人になっていた。来院した人が増えたのか、診察を終えた人がいるのか、わからなかった。若い人から高齢の人まで年齢はさまざまだが、中年以上に見える受診者が多かった。
体温の検温をされてから30分近く経ったような気がした。隅のほうに立ったまま、何となくあちらこちらへ視線をさまよわせていると、受付窓口の向こう側から名前を呼ばれ、「はい」と答えて私は足早に向かった。