切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

京都市東山区 粟田神社・・・平安時代からあります

2018-03-17 22:37:16 | 撮影
 

『粟田神社
 旧称 感神院新宮
    粟田八大王子社
一、祭神  建速素盞鳴尊 大乙貴尊
 左殿 ハ嶋小奴美神 五十猛神 大屋彦神 大屋媛神
    抓津媛神 須勢理媛神 大歳神 倉稲魂神
 右殿 奇稲田媛神 神大市姫神 佐須良媛神
 外殿 竹生嶋社 猿田彦社 度会社 天御中主神
  合祀 日吉社 和歌三神 手力雄社 崇徳天皇

一、由緒
 古くは山城国愛宕郡下粟田郷に属し、粟田郷は上粟田(北白川 浄土寺 鹿ケ谷 岡崎)下粟田(三條以南)に分かれ、この地は上古のころ孝昭天皇(人皇五代)の皇子天足彦国押人命を祖とする一族が住み鉱物を穿ち、栗や瓜を主食として、中古熱田神宮が奉祀されるや一族熱田の社人として移り、土地名を残すのみとなれり。その氏神として上古より祠ありしが人皇五十六代清和天皇負観十八年(八七六)悪疫流行のため、奉行藤原興世に勅して都の東、白雲の泡立つ郷の霊地に一社を建つ。これ當社の社位による創祀である。
又伝う往古八坂神社を感神院と称するに対し当社を感神院新宮と称し、祇園会無き年は当社の祭礼として祇園会の代りとなす記錄あり。依りて当社代祭礼は祗園会の始めの形なりと云う。

一、御神徳 厄清払ひ(厄除、病気平癒)商エ経営、縁結び、安産、旅行安全

一、祭日 十月九日出御祭、夜渡り神事、十日神事祭、十五日大祭、
  神事祭には?鉾の?鵤たる阿古陀鉾(瓜鉾)を始め地蔵鉾、
  菊鉾、桐鉾、其他総数十八奉の?鉾の供奉は特に美麗なり

一、摂・末・社 一、稲荷社 祭神 倉稲魂命
 由緒 應永二年青蓮院門跡尊円親王勧請北向稲荷神社と称す。
往古三條小鍛冶宗近刀匠に関?ある神狐を祀るとも云う。
一、恵美須社 祭神 事代主神
          少名彦神
由緒 当社より東約一 米弱の夷谷と称すろ處に鎮座ありしも
六百年前大出水、山崩れの為流出、止まり給いし處を現在夷
町と称す。源義経奥州下向の時源家再興を祈願せる社にて御
像は一二〇〇余年前伝教大師の自作と云い出世恵美須神社と称す。
一、大神宮 祭神 天照大神 八幡社
         豊受媛神 春日社
由绪 在原業平卿伊勢の齊営の宮と結ばれその子孫高階?
参宮出未ず自宅に社を奉祀す。京三大神宮の一社なり。
 (以下略) (門前駒札より) 』
 *「?」は、判読困難字

『京都市指定有形文化財
粟田神社 三棟
 本殿・幣殿・拝殿

 粟田神社は、旧粟田口村の産土神である。江戶時代までは感神院新宮、あるいは牛頭天王を祭ることから粟田天王社または粟田八大王子社と呼ばれていたが、現在は素盞鳴尊ほかを祭神とする。社伝によると、貞観十八年(八七六)に従五位上出羽守藤原興世が勅を奉じて勧請したことに始ほり、その後天台座主東陽坊忠尋大僧正が永久年間(一一一三~一八)に再建するが、応仁の乱で焼失し、明応九年(一五〇〇)に吉田兼倶が再興したという。
 本殿・幣殿は昭和八年の棟札写から、文化二年(一八〇五)六月に焼失後、文政六年(一八二三)に再建されたことが明らかとなる。建物は、三間社流造の本殿の前に桁行二間・梁行三間で正面に方一間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ、また流造の屋根の前に入母屋造・妻入、さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており、江戸時代後期の複合社殿として価値が高い。
 拝殿は、確実な史料を欠くものの元禄十六年(一七〇三)に建てられたと伝え、細部様式もこの頃のものと判断される。本殿・幣殿より建築年代は遡るものの、これらと一連のものとして貴重である。
  平成八年四月一日指定
  京都市
 (駒札より) 

(鍛冶神社・・・・今回は略) 

『創建由緒
 平安時代 清和天皇貞観十八(876年)年春に神祇官並びに陰陽寮より、「この年隣境に兵災有りて秋には疫病多いに民を悩ます」と奏上されました。天皇は直ちに勅を下され、五畿七道
の諸神に国家と民の安全を祈願されました。その際、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社(現 八坂神社)に七日間祈願されました。
 その満願の夜、夢枕に老翁が立ち「帝都の東祇園の東北に牛頭天王(素盞嗚尊)に縁の地在り。その地に我を祭れば必ず国家と民は安全なり。我は大己貴神なり。」と告げて消えられましました。興世は夢とは思わず、ご神意であると奏上し、勅命により奉行としてこの地に社を建ててご神霊をお祀りしました。
 また一説には平安京以前より、この地を本貫とした粟田氏の氏神として創建されたとも伝えられています。
 明治以前の旧社名は感神院新宮であり、牛頭天王を祀る事から粟田天王社また粟田八代王子社とも称されました。
 (パンフレットより) 

『粟田祭
 毎年十月に行われる当社最大の祭礼行事です。
体育の日前々日の「出御祭(おいでまつり)」、体育の日前日の「夜渡り神事」、体育の日の「神幸祭」「還幸祭」、そして十五日の「例大祭」までの神事・行事を総称して粟田祭(粟田神社大祭)と呼んでいます。この粟田祭は一千年の歴史を持ち、室町時代には祇園祭が齋行できなかった時には、当社の祭りを以て代わりとしたと云われています。
 粟田祭は、長保三年(一〇〇一年)旧暦九月九日の夜、神童が祇園社に現れて神人に「今日より七日後に祇園社の東北の地に瑞祥が現れる。そこに神幸すべし」と告げられたことにより始まりました。
 (パンフレットより) 』

『京都市指定・登録文化財
 粟田神社は旧粟田口村の産土神である。本殿・幣殿は文化2年(1805)6月に焼失後,文政6年(1823)に再建された。建物は,三間社流造の本殿の前に桁行2間・梁行3間で正面に方1間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ,また流造の屋根の前に入母屋造・妻入の屋根,さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており,江戸時代後期の複合社殿として価値が高い。拝殿は,元禄16年(1703)に建てられたと伝える入母屋造・檜皮葺の建物である。
 (京都市 文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課 公開資料より)

          

 粟田神社は東山区にある。南禅寺の南側。また知恩院から青蓮院にかけての北側にあり、地下鉄が走る三条通りに最初の鳥居があって、そこから長い参道を上っていく。参道の両側は民家が建ち並んでいて、京都市街地内部にあることがよくわかる。目立つのぼり旗が多く並んでいて、誰でも簡単に見つけられる。
 神社の由緒や文化財、あるいは粟田祭については、上記の通り駒札やパンフレットの内容に詳しく記されており、そのまま掲載しておいたので、改めて説明はしない。しかしそれにしても、駒札の説明書きは非常に分かりにくく、現地に行って見ても、最後まで読もうとはとても思えない。パンフレットの方はまだ読みやすいので、是非社務所でいただくべき。
 最後の鳥居をくぐると少し高台になった境内が広がり、北側に京都市街地の景観が広がる。都会の喧騒から少し逃れられるような雰囲気があって、神社としての景観も各社殿、末社などが並び、典型的な神社という雰囲気がある。社務所もを開いており、御朱印や御守りを置いていて、街中ということもあり、平日でも結構たくさんの人々が訪れている。この神社からすぐに青連院へ行くことができるし、その隣は知恩院。そして八坂神社へ続く一連の観光コースであり、なかなかの趣がある。
 それぞれの社殿はなかなか風格があって、拝殿や本殿などは京都市の指定文化財になっている。特に梅の木などはなかったが、おそらく桜や紅葉は見られると思う。
 御朱印をいただくために少し長めの列ができていて、それを一人で対応されていた。自分は御朱印は嵩張るために以前から集めていない。その代わり、御守りが販売されているところでは必ず購入することにしている。
 その長い列に並んで境内を眺め、また市街地を眺めていると、さらに下の方から参拝者が、あるいは観光客がどんどんやってくる。自分はこの神社の事を全く知らなかったが、京都の各お寺や神社を、文書資料やネットなどで調べていくうちに見つけた。

   

 よくある神社として、高い木々に囲まれ境内は比較的暗く静かなところが多いが、ここは広いこともあって、かなり開放的な雰囲気があってベンチなどにはたくさんの人々がゆっくり佇んでいた。
 東山のこの界隈に来ることがあれば是非、寄ってみるのもいいと思う。それだけの値打ちは十分にある神社だ。

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