末法人言

冥土、冥界、冥境、草葉の陰、黄泉、幽冥
 歳なのか?これらの言葉が気になっってきた。

極私的親鸞像論(教行信証・後序より)

2016-09-20 11:10:36 | 日々の想い

このブログの参考文献は末木文美士著「親鸞」ミネルバ書房・同じ著者で「哲学の現場」トラアンスビュー。

                              

「菩薩・仏・生者・死者」往還二回向=往相・還相」について後序の巻より

 親鸞の著作で「教行信証」と云う書物がある。その書物の正式な名称は「顕浄土真実教行証文類」で、教巻・行巻・信巻・証巻・真仏土巻・方便化身土巻の全六巻の構成になっている。そして、夫々の巻の最初には「愚禿釋親鸞集」とある。

その書物の化身土巻の最後に通称「後序」と云われている箇所がある。この箇所の文言はこの書物で唯一解りやすい部分でもある。つまりそれは、身の回りで起きた出来事とその出来事によって親鸞自身の身の振り方の記述でもある。 

ただ問題は、その記述の構成である。親鸞の経験した出来事をその順に記述するのではなく、その経験の出来事を前後左右?自在に構成しての記述である。しかも著者である本人が自分の経験をである。それはその構成の仕方に注意をしなければならない。

その「後序」の出来事は、親鸞の吉水入門と、その法然門下への弾圧と流罪、そして法然の死の3つの出来事である。ただ記述としては吉水入門及びそこでの出来事と流罪の記述は前後が逆になっている。つまり、親鸞の時系列順の出来事では、法然の吉水教団への入門が先であるのにも関わらず,この後序では弾圧・流罪が先に記述され、流罪が許され法然の死を挟んで、吉水での出来事の記述と云う構成になっている。

 

親鸞は何故この後序をこのような構成にしたのか?その意図するところは?気になるところでもある。

 親鸞の意図とは、僭越ながら?この「後序」は法然の死から始まる。法然が元人間に成り,死者に成ってからである。現存しない死者に成った法然と、この世を生きる生者親鸞との問答から始まる。むろんそれは、「後序」に限らないかもしれないが?それが端的に表現されているのがこの箇所でもある。

 法然の入滅の記述を挟んで、その前後の記述は親鸞の経験では前後になる。親鸞の経歴では、吉水入室が先でその後が流罪になるのだが。経験した出来事は間違いないが、経歴では詐称になる。そこまでして何が云いたいのか?チョットしつこいか?

それは、最初に「非僧非俗」を云いたかったのでは……?つまり、この世を生きる生者とは禿者であり、愚者である。と,云いたいのか?生者とは愚禿である。生者とは誹謗正法者である。これは止ん事無い事でもある。生者に無事はない!だから逆に祈るのである。

 

では、生者に可能性は無いのか?それが「非僧非俗」でもある。非僧非俗論は色々あるが、簡単には正法=仏法を選ぶと云う事でもある。世俗的法は王法と云われているが?現代風に云えば、倫理・道徳=世俗的倫理道徳でもある。僧と云えどもその世俗的道徳の規定から逃れる事が出来るのか?「法難」とはよく云ったものである。仏法に難を加えた側が王法か?だから直ぐに王法を批難、指弾し体制側は良くない。となるのか?

それは聚の問題にもなるか?邪・不定・正定である。

 いずれ、この後序で前後が逆になっても最初にこの記述をしたのは、やはり「生者とは愚禿であり、誹謗正法者である」との宣言でもあるのか?

そしてそれが「しかるに愚禿釋の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」の記述になる。ここでも建仁辛酉の暦の頃、親鸞は愚禿とは名告っていない。これはやはり王法=世俗道徳を離れ仏法に帰した表現なのか?しかも、その愚禿釋親鸞と云う表現は、教行信証の標題にも必ず、愚禿釋親鸞集とある。これはこれで色々語りたいところではあるが……?

 この「しかるに……~」の記述は法然入滅のすぐ後の記述になる。で、後序後半の記述はほとんど吉水に入室し、法然との関係で記憶している重要な出来事の記述になる。 

で、色々な事を端折って極私的な想いで、この後序の記述を語れば………!この後序は「生者と死者の対話」「人間と元人間の対話」でもある。言葉を変えて云えば、往相・還相の二種回向の問題でもある。回向の「相」である。

あえて云えば「精神としての葬儀」である。

 で、後序の前半の個所(法然入滅まで)は、生者=愚者の往相の問題、後半は、死者=仏の還相の問題、それはある意味死から始まる。

それが後序の文言の構造でもあるのか?

ただの個人的な記憶の問題ではなく、教に昏い濁世の生き様を愚者として生き、あるいは生きた仲間あるいは集り、とその場の確認の作業が後序の表現でもある。

 

また、親鸞の晩年の書物に「愚禿抄」がある。上下二巻の書物であるのだが、このどちらの巻の最初の文言は、「賢者の信を聞きて,愚禿が心を顕す」「賢者の信は、内は賢にして外は愚なり」「愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」とある。これを死者と生者の観点から観れば、賢者=死者で愚禿=生者でもある。賢者=仏=死者=元人間=他、愚者=菩薩=生者=人間=自、を内/外で観る。これが浄土系の仏教思想の構造か?

 で、これは後序にも当てはまる。のでは…………?


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