しみじみ(染み染み)について
われわれが勝手に命名したーつぶやきガ……集ー高橋拓の
「しみじみ地蔵の道あんない」(求龍堂)を極私的に深読
みした。この本は余白が多い。ある意味余白だけの本でも
ある。その余白が、その文言にユーモラスな絵に奥行きを
與えている。
その余白が「しみじみ」である。
高橋拓の「しみじみ地蔵の道あんない」(求龍堂)の出版。そして書店に並ぶまで、外野手として色々おつきあいをさせられ?大変勉強になった。
ある想いが、表現され作品としてひとり歩きをしてゆく。そのプロセスを垣間見、覗き見し、当事者ではないものにとっては無責任に面白かった。何が面白かったか?
それは「想いが表現され、ある想いになる」である。
言葉を変えて言えば、想いが物語として表現され、ある想いになる。ある想いとは、形式でもある。無論、想いを語ることも形式ではあるのだが・・・・・・・
だからと言って形式が全て良くないと言っているのではなく、良くも悪くも表現とは形式を無視できない、ということでもある。が、あまり形式にこだわりすぎるのも・・・・・
で問題は、想いとある想いは、その形式から染み出したり、溢れることである。それを感受出来るか出来ないかである。それは言葉から染み出したり、溢れ出ることと同義でもあり、表現の感受の問題でもある。その〇〇形式から染み出たり溢れ出た想いの欠片を感受する、表現にはそのような物事が含蓄されているはずである。でなければ、余韻とか行間とか余白とかという言葉はいらなし、それらを考慮しない表現は面白くもなんともないことになる。
人生も表現である、と言う仮説も成り立つのか。であるとすれば、私の人生という形から染み出たり溢れ出た想いの欠片へ、追想や追憶にも残らない物事への思考が、私の人生からある人生への転入の可能性でもある。表現とは「私の人生」と「ある人生」の紐帯でもある。表現が紐帯であるとすれば、表現が人と人を結びつけている絆でもある。ただそこでも問題になるのは、やはり絆という形から溢れ出たり、染み出る想いの感受、感得をどうするかである。
哲学的用語に「存在感情」という概念がある。それは存在を感じ取って生きるということでもある。「生きてーあるーこと」を身体的に感じ取っている。身があって生きていることは無自覚であれ自覚的であれ、身の現事実としては「存在をー感じ取ってーいる」のではないか。それは単にあるのではなく、「与えられてーあるーと感じつつーある」ということで、それを感受といい感得ともいう。
で、その存在を感じ取って生きることを言葉を変えて言えば、「情緒」と言えるのでは?そして、その語りは、しみじみとなる。身の現事実を形象化したものが地蔵でもあるのか。
いずれ「しみじみ・・・」は十分人間観察の哲学になる。しみじみを哲学してみる。
哲学とは、どのような場をどう生きるのか?の問題でもある。
あえて言えば、存在論と人間存在論の論理?
以下。「しみじみの哲学骸骨」
◉ 「しみじみ」するとは、情感、情緒である。
情、気分とはいえ、どのような情・気分か・・・!
感覚、気分と情、情緒は違うのか・・・・・?
変・不変、変化する、変わってゆく、変わらないもの、日々の移ろい・・・・
有情・無情、常・無常、有る・無し、あったものがなくなる。
街が変わる、昔からあった建物がなくなる。
喪失感、それに伴うノスタルジー、→追想、追憶→それぞれの願い→地蔵
生者と死者の関係。「0までが大事」0までは不可思議である。
表層と深層、表面と奥(裏面)と奥の奥、認知と非認知。
人生の余白でもある。人生の余白とは?
◉ 「地蔵」とは、地が蔵する情(=いのち、力)の暗喩(比喩的表現)なのか?。
それはなかなか対象化できない。
そのいのち、力は対象化できるものと、非対象なものがある。
だから余計い「情・緒」が問題になる。地が蔵する情と、生きとし生けるも
のの情が通じ合う、情が通う・・・・。→「情緒」
しみじみ想う! よく住職などやってきたなあ〜と、ホント。
寄り道、迷い道が、我が道でもある。
まともな、住職道など歩んでこなかった。
住職道が表道だとすれば、むしろそれに反するような道、裏道(寄り道、迷い道)
を歩んできたようにも想う。
◉ やはり、通り道か?古くからの街道筋か?
地蔵さんがいるような・・・・いつもの通り道。
古くからある通り道。昔、タバコ屋、自転車や、豆腐屋、団子屋、桶屋、酒屋
魚や、花屋があったいつもの通り道。が、そのいつもの道にそれらの店は今は
もうない。無論それらの店の家族も居なくなった・・・・。
◉ 「のほほん」とは、無執着である。
無執着、執着しない。→色々な周りの物事に距離を取る。
ある意味、自由でもあるのか?
◉ しみじみの結論はこれに尽きる。
「過去なしに出し抜けに存在する人というものはない。
その人とはその人の過去のことである。
その過去のエキス化が情緒である。
だから情緒の総和がその人である」
ー岡潔ー
自我に固執するとあの人=他者が見えなくなる。従って、しみじみという情緒も
感ぜられなくなる。これは不幸なことでもある。