末法人言

冥土、冥界、冥境、草葉の陰、黄泉、幽冥
 歳なのか?これらの言葉が気になっってきた。

高橋拓の「しみじみ地蔵の道あんない」(求龍堂)を勝手に深読みする………

2017-06-06 15:44:14 | 日々の想い

しみじみ(染み染み)について  
      
      われわれが勝手に命名したーつぶやきガ……集ー高橋拓の
      「しみじみ地蔵の道あんない」(求龍堂)を極私的に深読
      みした。この本は余白が多い。ある意味余白だけの本でも
      ある。その余白が、その文言にユーモラスな絵に奥行きを
      與えている。
      その余白が「しみじみ」である。
 

 高橋拓の「しみじみ地蔵の道あんない」(求龍堂)の出版。そして書店に並ぶまで、外野手として色々おつきあいをさせられ?大変勉強になった。
                   
 ある想いが、表現され作品としてひとり歩きをしてゆく。そのプロセスを垣間見、覗き見し、当事者ではないものにとっては無責任に面白かった。何が面白かったか?
それは「想いが表現され、ある想いになる」である。
 
 言葉を変えて言えば、想いが物語として表現され、ある想いになる。ある想いとは、形式でもある。無論、想いを語ることも形式ではあるのだが・・・・・・・
だからと言って形式が全て良くないと言っているのではなく、良くも悪くも表現とは形式を無視できない、ということでもある。が、あまり形式にこだわりすぎるのも・・・・・
 
  で問題は、想いとある想いは、その形式から染み出したり、溢れることである。それを感受出来るか出来ないかである。それは言葉から染み出したり、溢れ出ることと同義でもあり、表現の感受の問題でもある。その〇〇形式から染み出たり溢れ出た想いの欠片を感受する、表現にはそのような物事が含蓄されているはずである。でなければ、余韻とか行間とか余白とかという言葉はいらなし、それらを考慮しない表現は面白くもなんともないことになる。

                 

 人生も表現である、と言う仮説も成り立つのか。であるとすれば、私の人生という形から染み出たり溢れ出た想いの欠片へ、追想や追憶にも残らない物事への思考が、私の人生からある人生への転入の可能性でもある。表現とは「私の人生」と「ある人生」の紐帯でもある。表現が紐帯であるとすれば、表現が人と人を結びつけている絆でもある。ただそこでも問題になるのは、やはり絆という形から溢れ出たり、染み出る想いの感受、感得をどうするかである。

 哲学的用語に「存在感情」という概念がある。それは存在を感じ取って生きるということでもある。「生きてーあるーこと」を身体的に感じ取っている。身があって生きていることは無自覚であれ自覚的であれ、身の現事実としては「存在をー感じ取ってーいる」のではないか。それは単にあるのではなく、「与えられてーあるーと感じつつーある」ということで、それを感受といい感得ともいう。

 で、その存在を感じ取って生きることを言葉を変えて言えば、「情緒」と言えるのでは?そして、その語りは、しみじみとなる。身の現事実を形象化したものが地蔵でもあるのか。

 いずれ「しみじみ・・・」は十分人間観察の哲学になる。しみじみを哲学してみる。
  哲学とは、どのような場をどう生きるのか?の問題でもある。
  あえて言えば、存在論と人間存在論の論理?
                            
以下。「しみじみの哲学骸骨」

◉ 「しみじみ」するとは、情感、情緒である。 

  情、気分とはいえ、どのような情・気分か・・・! 
  感覚、気分と情、情緒は違うのか・・・・・?
  
  変・不変、変化する、変わってゆく、変わらないもの、日々の移ろい・・・・
  有情・無情、常・無常、有る・無し、あったものがなくなる。
  街が変わる、昔からあった建物がなくなる。
  喪失感、それに伴うノスタルジー、→追想、追憶→それぞれの願い→地蔵
  生者と死者の関係。「0までが大事」0までは不可思議である。 
  表層と深層、表面と奥(裏面)と奥の奥、認知と非認知。
  人生の余白でもある。人生の余白とは?           

◉ 「地蔵」とは、地が蔵する情(=いのち、力)の暗喩(比喩的表現)なのか?。                 
   
   それはなかなか対象化できない。
   そのいのち、力は対象化できるものと、非対象なものがある。
   だから余計い「情・緒」が問題になる。地が蔵する情と、生きとし生けるも
   のの情が通じ合う、情が通う・・・・。→「情緒」

   しみじみ想う! よく住職などやってきたなあ〜と、ホント。
   寄り道、迷い道が、我が道でもある。
   まともな、住職道など歩んでこなかった。
   住職道が表道だとすれば、むしろそれに反するような道、裏道(寄り道、迷い道)
   を歩んできたようにも想う。
  
◉ やはり、通り道か?古くからの街道筋か?
   
   地蔵さんがいるような・・・・いつもの通り道。
   古くからある通り道。昔、タバコ屋、自転車や、豆腐屋、団子屋、桶屋、酒屋
   魚や、花屋があったいつもの通り道。が、そのいつもの道にそれらの店は今は
   もうない。無論それらの店の家族も居なくなった・・・・。
   
 ◉ 「のほほん」とは、無執着である。
   無執着、執着しない。→色々な周りの物事に距離を取る。
   ある意味、自由でもあるのか?         

            

 
◉ しみじみの結論はこれに尽きる。
  
  「過去なしに出し抜けに存在する人というものはない。
  その人とはその人の過去のことである。
  その過去のエキス化が情緒である。
  だから情緒の総和がその人である」
                   ー岡潔ー
  
  自我に固執するとあの人=他者が見えなくなる。従って、しみじみという情緒も
  感ぜられなくなる。これは不幸なことでもある。


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