1952年12月26日生れ 人間三浦照樹は 2016年6月26日人間を完了した。
娑婆世界的現世を65年もの間、人間として生きた。
現実の娑婆世界的人間とはチョット大変でもある。
人間は誰でも「人間らしいく生きたい」と、極素朴な願いを生きている。
自己の尊厳が得られ、他者に対しては「家族的」愛や「友情的」愛を与えることができるように希望しながら生きている、これが極素朴な願いである。
ところが、現実的娑婆世界は人間に対して、そのような希望をことごとく挫折させてゆく。希望や願いの挫折は、人間が現実的娑婆世界を生きる限り止ん事無きことでもある。
人間三浦照樹も、その現実的娑婆世界を生きた。その生き様の履歴が行年でもある。
そして人間を完了し、元人間に成った。
元人間は何処へ! 人間の語りや、物語ることへ還るのである。
もともと人間は語りたいのである。
それは単なる想い出や,面影に止まることではなく、他に対して語り、それを他の誰かに聞いてもらいたいのである、確かにそれが裏目に出ることもある、がやはり人間は他に対して語りたいのである。元人間はそのような語り、物語る世界へ還るのである。
むろん、個体としての人間は喪失する。
だからといって霊とか魂が残るわけではない。それは物語りの世界でもある。
人間は本来の場所で暮らしたいと希望し期待する。が、個々が暮らしている現実は常にそれから外れ、違って行く。それが人間的なのかもしれない。 現実的娑婆世界人間は虚栄心の塊りで、他人との抗争の中で暮らすべく余儀なくされている。それが自我を抱え込んだ人間の生き方でもある。
元人間とは、そのような事柄から抜け出した何者かである。それが我々人間の希望にも成る。
元人間に成った照樹、人間として仲間と共有した場所。その場所はある意味、映画を作りたい仲間内にとって理想郷でもあった。そのような場所も時代社会の変化に伴って無なってしまう。人間の生き様は、その人の生きる環境(場所)と色々な物語に影響を受け形成される。何かを映画によって表現したいと云う仲間にとってそのような場所は、仲間とって希望でもあり、映画への期待を物語る場所でもあった。
確かに、そんな場所は何処にもない。と云ってしまえばそれまでの話であるのだが?だからこそ,逆に本来的な場所で暮らしたいと希求し,そのような場を創造したいと願う。
今,考えると照樹が人間であった頃、その場所はいつものように映画を自由に語り合い、映画に対する希望や期待に輝いていた。
元人間に成った照樹との記憶と、記憶として残った場所は、本来的場所を創造し探すヒントに成る。なぜなら、この人間の現実世界には、無数の元人間たちの物語り,それに伴う場所がこの現実世界に刻印され、元人間の痕跡も叙述されてある。
いずれ、フィルムでアナログの時代は終わった。
人間の生き様もデジタルの時代になった………………。
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