末法人言

冥土、冥界、冥境、草葉の陰、黄泉、幽冥
 歳なのか?これらの言葉が気になっってきた。

葬儀とは!寄り道編(3)

2014-11-10 22:50:50 | 日々の想い

葬儀とは!に、お寺とは!(墓!)もつけ加える。
 葬儀の流れを見ると、死→通夜→火葬→葬儀→納骨で終わる。葬儀屋が関わるのはここまである。四十九日、百ヵ日、一周忌、三周忌までになると、あまり関わってこない。無論坊主はこの一連の流れには参加している、とも思うのだが。民俗史的葬儀論、風俗史的葬儀論では、あまりというかほとんど、寺・坊主・墓は論じられてこない。(1)~(2)で述べた映画にも坊主は出てこない。ただ映画「お葬式」には、笠智衆扮する坊主がリンカーンに乗って現れる、名シーインはあるのだが、経を読むだけであまり他には絡んでこない。また映画「おくりびと」でも画面を横切るか、それの端っこに座っているかぐらいである。
これは、どうした事か?多分そこから先は面倒臭いんだろうなあ・・・・・・? なぜかと云えば、それからは「死者の行方」の問題になるからである。ある意味、それまでは「死」で済むが、墓、墓所、寺は「死の観念」の問題になってくるからである。勢い、抽象的にならざるを得ない。あの世とこの世とか?、あの世はあるのか?死後の世界はあるのか?大霊界、地獄、天国、霊魂、魂、冥土、草葉の陰、それこそ死者とか、百花繚乱色々な言葉が咲き乱れる世界(=死生観)でもある。どう整理を付けたら良いのか?これはこれで中々難しい。

またまた映画の話から「おくりびと」と云うタイトルは誰がつけたのだろうか?原作は確か青木新門著「納棺夫日記」であると思った?が映画では原作及び原作者名は出てこない。この原作に影響された本木雅弘が、この様な映画を作りたいと提案したのが、この映画制作のきっかけのようでもある。ところが出来上がったシナリオでは、映画のラスシーンは自分のイメージとは違うので、自分が書いた著書名と作者名は出してくれるな。と、制作される前の後日談として青木新門が語っている。確かに、映画「おくりびと」のラストシーンはチンプであった、と思う。映画批評家の間でも賛否両論色々物議をよんだところでもある・・・・・。

詳しくは述べない。これを話し始めれば、ますます横道にそれて行くので。

で、このタイトルはこの映画の制作側が考えたものと思われるのだが、「おくりびと」は「送る人々」か?何処へ送るのかイマイチハッキリしない。 
多分「この世」から「あの世」へ送り出すのである。死者の「あの世」への旅立ちの見送りである。ひょとしてあの世は地獄かもしれないのだが・・?。


後は残された生者の追憶か?この映画には墓が出てこない。あれだけの田舎で家族もいて、墓・墓場が出てこない。つまり納骨のシーンがない。納棺師的には終わりかもしれないのだが・・?納棺師が、密室で死に化粧を施すシーン、何か秘め事ぽく あり、そのシーンは追憶をすることだけしか考えていない、ようにも思われる。アウトドアー的な墓場など、シーンとして必要ないのか?

            
いずれ送って終わりでもないような気もするのだが。
日本の風習には彼岸・お盆がある。お盆等、地獄の釜のふたが開き亡き人が帰ってくる。そして、迎え火を焚き亡き人(死者)を迎え、そしてまた送り火を焚き死者を送る。で、墓参りもする。また、残された生者は春秋の彼岸には墓参りをし、死者と交流を深める。「送り出す」「おくりびと」と云う言葉には「迎える」「むかえるひと」と云う含蓄が含まれているとも思われる。

  
この映画の予告編には「人生はおくりびと、おくられびと」とある。やはりこれは半分である。本来は「人生はそうげいびと」である。と云わなければならないのでは?
死者の共同体が墓場である。この世から観察すれば、あの世は遥か彼方の遠い場である。遥か彼方の遠い場の、最も身近かな場が墓場である。この世とあの世の境が、墓場でもあり、ある意味国境(くにざかい)でもある。
遥か彼方の遠い場あの世と、この世の中で、遥か彼方の最も近い場が、墓場である。墓場とは、あの世とこの世を媒介する。したがって、墓場はおくるひと、むかえるひとの共通の場所でもある。いわゆる、送迎の場でもある。
「納棺夫日記」の著者である青木新門はある講演会で、納棺夫は「いのちといのちを繋ぐ仕事である」と述べている。確かに、いのちといのちを繋ぐ。そこにもう一つ、その背後での繋がりもあるのでは、つまり、個体として生きている生者同士を結ぶ絆=追憶と、その生きている生者同士を結ぶ絆=追憶は墓場・墓でもある。それぞれの地域共同体には、そそれぞれに墓場がある。個々それぞれの墓の前で、それぞれに追憶し死者と交流をする。その様な場は共同的な場(=空間)でもある。この世に在って、その様な社会的、共同的な場所は必要である。なぜなら、生者と生者だけの関係は、一歩間違えば息苦しくなり、文字通り死に至ることもある。その様な時には、あまり縁起の良くない場所とされ、あまり人の来ない墓場で、死者を媒介としていのちを考える。それがいのちといのちを繋ぐ裏の意味ではないのか?


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