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1964年米軍機大和墜落事故の慰霊碑と泉の森

大和市の歴史を語る上で切り離せないのが厚木基地問題。
大和の人と話していると「大和の欠点は基地の騒音」というように基地の騒音問題の話を聞いたり、自分自身大和市内で運悪く軍用機の爆音に遭遇することもあります。

さて時は1964年。翌月に控えた東京オリンピックに沸いていたであろう頃。
9月8日午前10時55分頃、厚木基地を離陸した米軍機(F8Cクルセイダー)が離陸直後にエンジントラブルで失速し墜落。舘野鉄工場に激突爆発し鉄工所は全焼し5人死亡・4人負傷という大惨事が発生しました。
これが世にいう「1964年米軍機大和墜落事故」です。

この事故の慰霊碑があるということを知り行ってみることにしました。

まずは慰霊碑近くの東名大和バス停。



東名大和バス停までは大和駅からは相鉄側改札口を出てドキワクランド(パチンコ店)の前を通って江ノ島線の線路沿いの側道をとにかく歩き、東名高速道路と交点で左折してすぐ。といった感じで大和駅から徒歩15分。

駅からは少々歩きますが、ここからなら大和市役所やオークシティにも15分ぐらいで歩けるので、知っていると意外に便利です



余談ですが今年(2018年)9月1日から東名大和バス停には本厚木駅~羽田空港の空港アクセスバスが停車するように。便利になったとはいえ、羽田空港行き最終が東名大和17時20分と早いなどダイヤ面は今一つ。海老名駅~羽田空港線が出来て利用者が減ったのかも。
羽田空港便の東名大和停車はテコ入れをしたいバス会社と、公共交通利便性の向上や東名大和バス停活性化を狙う大和市の思惑が一致したのかもですね。



さて今回訪れる慰霊碑はここから徒歩5分弱ほど。
東名高速バス停から東名高速名古屋方面に向かう形で「泉の森」の看板を目印に少し歩きます。



住宅地を抜けると前方に森が見えてきます。
手前に見えるバス停は大和市コミュニティバス・やまとんGOバスの東原北自治会館前バス停(南林間駅~相模大塚駅線)



森の中に入って左を見ながら歩くとフェンスの向こう側に木柱の慰霊碑があります。



残念ながらフェンスの内側には入れません。
この場所は事故後、緩衝地帯として国が買い上げ国有地となっています。
2016年にはこの場所を慰霊公園化する陳情が大和市議会に提出されたものの結果実現せず。そもそも国有地であるこの場所にこの慰霊碑を建立すること自体の許可がなかなかされずに紆余曲折があった他に、現在でも国に土地使用料を支払った上で慰霊祭をおこなっているよう
(東京新聞2018/9/9「米軍機墜落事故から54年『深い傷、今も心に』参照)

この場所は住所としては大和市上草柳6丁目。大和駅から徒歩20分、相模大塚駅から徒歩15分ほど。
大和駅からなら散策がてら、ふれあいの森を歩くのも良いかと思います。
またバスなら前述の東名大和バス停か南林間駅~相模大塚駅のやまとんGOバスが便利です。



googleストリートビューを見ると、慰霊碑の前のフェンスに目印のごとく千羽鶴が吊り下げられていますが、残念ながら私が訪問した時はなかったです。がまぁ左側(南側)を見ながら歩いてれば碑がわかります。
この道路、大和市を東西に横断する道路の一つ。東西に横断できる箇所が少ないので、森の中の雰囲気に反して意外に通行量が多いです



慰霊碑周辺が緩衝地帯となっている一方で道路を挟んで反対側(北側)を見ると森とかした国有地の狭間に住宅の姿もみえます

事故の犠牲となった舘野鉄工所の経営者の舘野氏は事故発生時、会合で市役所に行っており無事だったものの、従業員だった家族を亡くします。
そして事故後の土地の買収で同じ場所での再建は出来ず、更には米軍と国の狭間で十分な補償もされず代替地提供の約束も反故にされるなど鉄工所再興の望みを絶たれ穏やかな人生を取り戻すことなく2004年に亡くなったそうです

この辺りの話は

sitebg>第4章:時の「死角」~町田・大和・横浜での米軍機墜落事故~その3「大和米軍機墜落事故」
http://www.sitebg.com/?p=1567


に詳しいです



この日は連休明けだからか基地への軍用機の発着が頻繁にありました。騒音が低いタイプなのか、高度を稼いでいるからか爆音というほど五月蠅くはないですが・・。

今年3月末までに空母艦載機が岩国基地に移駐したため厚木基地の騒音は減っているそうです。



慰霊碑横を通過するやまとんGOバス
慰霊碑があるのは先ほどの東原北自治会館前バス停と泉の森バス停の間。今まで何回もバスで通っているもののここに慰霊碑があるのは気が付かなかったです。

さて泉の森まで歩いてみるとします。



ヤマトンのイラスト入りの大きな看板がお出迎え



泉の森の一部のようになっている釣り堀・草柳園。
東京都心から30~40km圏の大和市内とは思えないような鄙びた温泉街を思わせるような光景ですね
ここから北側が泉の森、南側がふれあいの森として広い森林公園として整備されています



こちらが泉の森。引地川の源流となる水源地とその周辺42ヘクタールが森林公園になっています。
森の木の葉の妖精ヤマトンもここで生まれ住んでいます。

一見長閑な雰囲気ですが、ふれあいの森共々厚木基地の滑走路の延長線上、爆音の直撃をうける場所であるのも事実です。

泉の森にある「自然観察センターしらかしの家」とそのボランティアグループが発行している「泉の森なんでも情報館」によれば泉の森の自然が今に残った要因として

引地川の水源涵養林として周囲の森は県企業庁水道局によって永く保存されて来たこと
度々起きた墜落事故の対策として昭和35年頃から国に収容され、移転した民家の跡地に木が植えられ森となった
(+それに加え平成9年までに新たに買収賃借された分をあわせ整備)

とあります(2011年1月。第1号より)

東京都心から30~40km圏の都市近郊で平坦かつ交通至便でありながら泉の森をはじめ多くの緑地があるのが大和市の魅力の一つですが、厚木基地の悲惨な事故と騒音問題という喜べない複雑な背景があります。

戦後から1960年代の時期、朝鮮戦争やベトナム戦争など在日米軍の活発な活動に比例するかの如く厚木基地周辺では頻繁に米軍機の墜落事故が発生。
1964年9月の大和墜落事故の5か月前の4月には町田駅付近にも墜落して4人の死者が出ています。更に民間人の犠牲はないものの搭乗員が亡くなったもの、民間人・搭乗員共に犠牲者が出なかったものまで含めると数十件以上にのぼるよう。

一方で1960年代のこの時期、大和では渋谷村が合併編入し現在の市域が確立。更に市制が施行(1959年)されます。大都市近郊の地の利から急激な人口増加や工場の進出で急速に都市化が進み、里山の街から都市へと変貌していきます。

1960年・70年の安保闘争の背景にはこういった多発する米軍機による事故と騒音問題があったのではないかと思うと歴史への理解がより深まるように思います。
そして今なお続く沖縄の基地問題はこういった悲惨な事故が過去の歴史の記録ではなく、現代でも身近なものであるという背景があるのではないか?と考えると先日の沖縄県知事選など色々と考えさせられるものがあります。

大和市は平成13(2001)年8月15日、市のホームページ上に「やまとバーチャル平和祈念館」を開設。
http://www.city.yamato.lg.jp/web/koucho/heiwa-virtual.html
存在を知らなければ探せないような深い階層で当時のhtmlサイトの構成のまま「平和都市大和」の願いを今に伝えています。

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2018/10/13 21:11(JST)
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