ご心配おかけしました。ようやく
する気になれました。が、今回は長文でしかもまだ私の心が整理されていませんのでどうぞスルーしちゃってください。
人の死って、やっぱりつらいです。正直、自分が死んでしまったほうがどんなに楽かと思ってしまいました。もう会えないという悲しみと、まだ信じられないという思いが交差して子どもが不安そうにみているのもわかってて、ワンワン泣いてました。全く大人になれませんでした。情けない・・・・。
そんな中、風見しんごさんの娘さんが事故死したとのニュースが。その中で「本当はまだ天国に行かせたくないんです」というコメントがありました。私も同じ思いでした。みんなは「パパ(2年前に亡くなった叔父)と天国でゴルフやってね」なんて声をかけていたのですが、私は「旅行に行く時は、絶対一緒にきてね」でした。
あの夏の初島・・・・。スイートに泊まれなかったという悔しさもあったけど、ずっとひきずっていたのはもしかしたら、この叔父に会う最後のチャンスを逃したからなのではと思い始めました。そう、あの初島の会員権の持ち主が亡くなった叔父なのです。
あの夏も、私たちがくると知っていたので、わざわざ一泊泊まってくれていたのです。
でも考え方をかえれば、父たちとじっくりお話できてよかったのかなと思ったり。
本当にあの時はまた会えるからくらいしか思っていなかったので、その後電話もいれませんでした。
静岡県富士市吉原といえば、製紙工場が沢山あって、独特の町の匂いがします。新幹線の新富士駅に下車した方はわかると思います。
そこで1から始めた製紙裁断業。叔父の人柄もあって仕事は軌道にのって順風満帆でしたが、確か6年前くらいに工場が放火され、一時は再起不能かと思われた時もありました。
しかし、今までの人脈もあり、叔父のところでないとまかせられないといってくれる御得意先に励まされ、見事また立て直すことに成功し、長男と共に工場を盛りたてていました。残る2人の娘も結婚し、4人の孫に毎日囲まれて、それは楽しそうでした。
亡くなる前日もみんなでごはんを食べたそうです。
そして15日朝、胸が痛いというので救急車で病院に搬送されました。まだ意識もしっかりしていて、医師の診断も聞く事ができたそうです。病名は「大動脈解離」。そうなんです。つい最近加藤茶さんがなった病気なんです。医師の説明で、この病気は非常に治療が困難で、おそらく近隣の病院でも対応できないでしょうとはっきり叔父にもいったそうです。それを聞いた叔父は、「もう沢山楽しんだから、思い残すことはない。」といったそうです。つまり、突然逝ってしまったのではなく、一応覚悟して云ったうです。そしてよくもう一度検査しましょうと準備していたところ意識不明に陥り、そのまま眠るように亡くなったそうです。
浅草の叔父の時は水死だったこともあり、対面できなかったのですが、今回の叔父の顔といったら、本当に眠っているようで、おでこをさわってもなんとなくぬくもりがあって
ここに遺体があるのに全く叔父の死が受け入れられなくて、ドラマのように
「ほら、なに寝てんの?ダメだよ寝ていちゃ!」っていいたくなるくらいでした。
子ども達も通夜の席でもなんだかわからない感じでいたのですが、さすがに火葬場の炉に入れられるときは二人とも号泣していました。子どもながら、これが本当の別れだと悟ったのでしょうか。
通夜もそうでしたが、あんなに沢山の人が弔問にきた告別式に参列したのは初めてでした。工場の経営はしていましたが、こじんまりした殆ど家族でやっているような工場なので、50人くらいかなと思っていたら、花輪もすごかったし、会社関係のみならず、叔父と交流が会った人たちが突然のことにもかかわらず、最後に叔父に会いにきてくれました。やっぱり叔父はすごい人です。みんな口々に「自分のことは後回し。人のことばかり世話をやいていた」といっていました。親戚の中でもそうでした。2年前の叔父の事故死の手続きも婿たちと一緒に動いてくれて、警察や葬儀の打ち合わせやらみんなやってくれていました。そして昨年の追悼旅行でも宿泊費も全額負担してくれて、段取りも考えてくれていました。そのホテルで昔みんなで撮ったビデオをみて大笑いしていたのですが、そこで叔父が「これ、オレの葬式の時にも流してくれよ」といっていたのです。私は本気で「ちょっと、馬鹿なこといわないでよ!」と怒ったのを思い出しました。
そして伊豆高原のホテルを一足早くでた叔父に念を押すように「本当に身体だけは大事にしてね。」といって別れたのを思い出しました。それが本当に最後になってしまいました。
なんだかとりとめもなく打ち込んでしまいました。すみません。骨になってでてきた叔父は今では珍しく喉仏が残っていました。見事に阿弥陀様の形となってでてきました。きっと沢山の事を残してくれた叔父のことです。素敵な心地よい天国で今ごろまた馬鹿なことやって、みんなを笑わせていることでしょう。
帰りは結局午後4時までかかったので、曇っていた静岡で富士山は拝めず。富士山が良く見えるホテルに泊まったのに全くみえず。よく昔叔父の家に泊まった時も「おまえがくると富士山みえなくなるらあ」といわれたものでした。「ああ、きっと上で笑っているんだろう」と諦めていました。そして新富士駅に向かうタクシーの中で運転手さんに「もうみえないですよね?」と聞いたら、「たいがいこの時期でも夕方は雲がでてきますからねぇ」といわれたのでもうがっかり。あ~あと思ってていたら・・・・・。
この写真、午後4時20分頃新富士駅から撮ったものです。なんと駅に着いたとたん見えたのです!!!!!!
もうこれは間違いなく叔父のご褒美だと思いました。子ども達も突然きてしらないところを連れまわされていたのに文句ひとついわず葬儀場でもお寺でもおとなしくしていたので、さぶちゃん(叔父のことです)は褒めたんだと思います。この富士山は絶対に忘れません。
本当は19日に自宅に帰る予定でしたが、20日は母が出勤だったので、父1人にしておくのはやはり心配だったので、21日にかえってきました。こんなことは珍しくないのでしょうが、この2年で父は仲の良かった兄弟を2人も亡くしたのです。一人は事故、今回も急死ということで、父のショックは計り知れません。まだ、病気がわかって、闘病生活していた末に亡くなるなら心の準備ができると思うのですが、何しろどちらも突然だったので・・・。この一件でますます老け込んでしまった父。叔父のことを考えると、明日もう会えなくなることもあるんだと思うようになりました。もしかしたらこれから20年も生き続けるかもしれませんが、できるだけ実家にいこうと思いました。後で後悔したくないし。いつでも会えるではないんだということを教えてもらいました。
それと、こんなに死って突然ならば、長生きするためにいろいろ我慢して栄養あるもの・・・なんて考えるより、好きな事して、好きなものを思う存分食べたり飲んだりしたほうがいいのなかあとちょっと死に対する考え方が変わってきました。
今年は私36歳年女。まだまだ両親を頼っていこうとしたけど、甘かったなあ。
叔父のときでこんなに混乱しているんだから、両親の時は長女として使い物になるかかなり心配です。妹は「私がやるから大丈夫。」といってくれてますが。
結婚式に出席する機会より、これからは喪服の出番のほうが多くなっていくのですね。
やっぱり私は甘い。ずっと楽しいことばかり続くとどこかで思ってたから、ショックが大きかったんだろうな。もちろん、いつも覚悟しているのもどうかと思うけど、こういう経験を重ねて強くなっていくのでしょうか・・・・。今は現実逃避して叔父のことを忘れることで通常の精神状態を保とうとしています。叔父には申し訳ないけど、まだ受け入れられません。ちょっと、時間かかるよ~。
みなさんも、親孝行、しておきましょうね。