昨日30日は、朝から北海道神宮、神社へ参拝へ行ってきました。
大雪と強い風の中でしたが、何とか市電と地下鉄を使って行くことに。
大荒れの天候でしたが、今年1年の垢を落としてすっきりです。
初詣は、毎年欠かさず行くのですが、年末に足を運ぶのは初めてです。
海外の観光客が多いなかで、今年受験するのかなという雰囲気の学生さんがいました。
私など、その頃は信心深くなかったことにあらためて反省です。
その様子を見ながら大雪が降りしきるなかで、当時を思い出してきました。
それは、高校受験を控えていた中学3年の冬休みの頃の話です。
友人と除夜の鐘の時間を目指して初詣ツアーを企画しました。
受験への神頼みが主な理由です、と言っても友人の主導で行われました。
31日の23時を過ぎる頃、行き帰りを徒歩で行くという決まりだけを作って友人の家を出発しました。ポータブルラジオをもって紅白歌合戦を選曲して歌を流しながらです。雪は降っていなかったですが、シーンと静まりかえった音が聞こえるような寒さが記憶に残っています。
人がひしめく初詣に、除夜の鐘がなったあと予定通りに到着して参拝を終えました。
おみくじは私が小吉・友人は中吉でした。
志望校への受験の結果は、見事に友人は希望する公立の高校の合格でした。
かの私は、志望校へである公立高校は不合格に終わりました。このとき初めて、自分の意思をはっきりと示す事が必要な事を初めて学びます。それまでは、あまり自己主張をする方ではなかったのですが、これが決定的になった瞬間だったように思います。
それは、このようなプロセスで受験が決まっていった事です。
内申を1ランク落として合格率を高めるという方法でした。
合格ということにこだわれば、決して悪い事ではないのでしょうが、私の性格には合わなかっただけです。
教師が合格するだろうと決めた進路指導した高校へ、1時間半くらいもかけて通学する気にはなれなかったのが理由です。学校の合格率やクラス毎の合格人数の実績を上げることに振り回されるその進学校の伝統にやけなっていたのです。
不合格になったとき、親ならず親戚や祖父母までを巻き込むような心配事になっていったことに申し訳ない気持ちで一杯になります。
友人と初詣ツアーを実行したときは、すでに受験勉強には身が入らずフワフワした気持ちでいたのです。神様の前でもきっとそんな態度でしたので、神頼みだけが通用するはずもありません。
受験を失敗したことで、少し考えて見ました。
自分分析です。
やはり少し高みを目指して、軽いストレスがかかるくらいでないとやる気が出ないことが分かりました。
合格者発表の日は、ほとんど合格した人だけが学校のクラスへ集まることになっていました。
不合格だったので、いってもしょうがないと思っていたら、合格した友人から電話です。不合格だった事を伝えると「学校へ行こう」と誘います。
あまり行く気はなかったのですが、不合格者であるにもかかわらず、ノコノコと出向いた事を覚えています。
クラスに着くと、「思い出受験組」以外の不合格者は私ただ独りだったようです。ですからクラスの中で浮いた時間をすごしつつ、なんとか慰められて帰宅したのを覚えています。
このような不合格だったという感情はあとからやってきて考えさせられます。
「結局、どこでも良かったんだよ。自分の意思の弱さで進路を決めてしまった」という後悔です。
このときを機会に、自分の意思は明確にするという事を学びます。
もし、あの友人と初詣をして「神頼み」だけで仮に合格していたら、このことに気づくのがもっと遅れていたのだろうと思います。
中学の時(深夜に子供達だけでこの時間に行動するのは禁止されていたようにも思います(-_-;))に、初詣をした事で理解した、ちょっとした神様の贈り物だと今では思っています。
今日の境内は、降りしきる雪の中で多くの海外からの観光客で賑わっていました。その人数は地元の人よりも多いようにも感じます。参拝の作法も堂に入っています。
これから日本の神様がお願いされるのは、色々な国の言葉でしょうから、その叡智のほどを振り分けるのは大変な作業だと思います。
かつて、自分への気づきを教えてくれたような神様の活躍の初詣まであと1日です。
なぜ神社があるのだろうかという疑問がわいたら読んでみると気づきがあります。
新年に向かって良書だと感じて読み終えました。Kindle版 は少しだけ紙の単行本より安いです。
成功している人は、なぜ神社に行くのか? | |
八木 龍平 (著) | |
サンマーク出版 Kindle版 |