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尚、タイトルは、画面の最上部にカ-ソルをおかれますと数秒間表示します。
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Omar Akram - Dancing With The Wind
私の父は仕事(無線通信士・船員)等で家にいないことが多く5人の子供達へ、
両親の生い立ち等、話が出来ていなかったと、当時80歳から手記を残してくれ兄弟全員に
写しを手紙で送っていました。
私は3男(次男・腸チフスで病死)ですが、最後は我が家で共に生活をしてましたので
原本が手元に残りました。
古希年齢になるまで真面目に読み返すことがなく、そのまま本棚に眠らせていました。
①父の手記
ところが8月になるたびに平和集会(核廃絶他)等に参加しておりましたが
上記、手記が浮かんできてき悶々とした気持が収まりませんでした。
「それは昭和21年8月に満州から引き揚げた父の体験が断片的に思い出されるのです。」
「父の手記」
船乗りで無線通信士として働いていた、40歳の時の昭和15年に南満州鉄道株式会社へ
(総裁ー鉄道管理局ー附業部)鉄道業務以外に行政、治安及び農業畜産、
漁業(底引き)を行って社員の米を除く食料、資材などの配給を行う部署に入社。
※参考
鉄道名 区間 マイル数 軌間 備考
南満州鉄道 長春-大連間、奉天-安東間、その他支線 六九八 四フィート八インチ半 日本経営
南満州鉄道株式会社は、かつて満州国に存在した日本の特殊会社である。
1906年から1945年まで存在した。略称は満鉄。 鉄道事業を中心として
広範囲にわたる事業を展開し、日本軍による満洲経営の中核となった。 (ウィキペディア)
②南満州鉄道地図
(父の手記)
福岡の博多港に引き揚げてきたのは1946(昭和21)年8月末、(私が4歳の時)
南満州鉄道(満鉄)に勤めていた私の父が46歳の時でした。
住居は錦州(中国のお手伝いさんがいた)会社より無線機器の入手他で何度か
日本に行き来もしていた。日本も戦地第一で生活が困窮していた中、
色々と苦労して、終戦1年前に自宅にたどり着き、家族の運命を左右することになる。
もし,いなかったらと幸運を喜ぶと記録している。
その時の家族の状況は
母は36歳、長男11歳、2男(腸チフス病死)3男4歳、4男2歳、長女0歳(父を含め6人)
※参考
引き揚げが始まったのはソ連軍の撤退後だ。東京の連合国軍総司令部(GHQ)の指示で、
中国国民党の軍や行政組織が引き揚げ時期、順番などを各地の日本人会に通達、
日本人会は隣組などを通じて各家族に連絡した。終戦時、旧満州・大連に邦人155万人。
移動は社宅などのブロック単位でおこなわれ、列車で葫蘆島に向かった。
旧満州からは、46年4月から1年半で105万の日本人が引き揚げた。
(上記数の違いは現地に残った人、死亡された人)
(私の記憶)
4歳の私の記憶は、無蓋貨車に乗った事を記憶しておらず、
列車が故障して大地に降りていたのか、橋の下で防空頭巾をかぶり休憩、
カンパンらしきものを食べたこと、また、誰かが怪我したのか赤チンキを母がつけたこと、
また昼間にB29が高い空を飛ぶのを見た(様な気がする)。この程度である。
無蓋貨車に家族は乗ったが、飼っていた愛犬が吠えながら、いつまでも
追い駆けてきたことを聞いた)また、女性は髪を切り、顔にすすを塗ったとも聞いた。
③無蓋貨車にすし詰め状態
④無蓋貨車をどこまでも追いかけた愛犬ペル
⑤父の孤軍奮闘天秤・背に荷物、前に幼子、3男の手引き
(恥を承知で父から聞いた奮闘をイラストに2、3分で書きました)
(父の手記)
乗船間際に起こったトラブル
葫蘆島の港で、乗船時一定区間、男女を分けて進ませ、米軍によるDDT消毒を
施し船に乗る予定であった。
その時の身の回りの荷物は自力で何往復かしても良いことになっていた。
男側の私が移動中大便をしたいと騒ぎだした、同行の人が排便をさせることを承諾してくれた。
用を済ませる時間分だけ、われわれ家族だけが遅れた。蒲団等大きい荷物だけは紐をつけて引きずって
移動。何回往復しても良い区間。まず天秤で担いで長男を引き連れ、柳行李(網籠)に
寝かせた長女と他の子供と母を残して船の下まで行った。そこで長男に荷物の番をさせ
元の位置に戻ったところ、母の組は他の子供と共にいないのでビックリし、不安になり
船の下まで戻ってみたがいない。これを何度が繰り返したが見当たらない。他の人は
乗船している。
⑥柳行李の中に数か月の赤ちゃん
ここまでようやく無事にたどり着けたのに何てこと!!非常に心配した。
(●父を見て不思議に思った米兵からか、日本人からか定かでないが
何をしているかと尋ねられたのであろう)
眼を白黒で探し船の下に戻ると米兵のジープで先に来て乗船していた事が判り
やれやれと一安心した。
⑦葫蘆島(コロトウの)出港
日本への帰国上陸は福岡県の博多港で、母方の実家の世話で熊本県に住まいを構えた。
●ようやく日本に帰れて安堵したそうである。
1946年4月8日 朝日新聞朝刊 博多港のマリンメッセ福岡わきに立つモニュメントが
あるそうです。
※参考
世界史でも珍しい規模の難民帰還活動だと言える。どのような手順で実施されたのだろうか。
45年8月、日本政府はポツダム宣言を受諾すると在外邦人の現地定着方針を決めた。
本土は焼け野原で食糧も足りない。現地でなんとかしてくれというのが本音だった。
一方、米軍は終戦前に参謀総長と在華米軍総司令官の間で、早期に帰還させる方針を決めていた。
日本人、特に軍人をはやく本国に追い返したいという考えだった。
終戦時、中国本土には100万の武装した日本軍がいた。彼らが国共内戦で傭兵(ようへい)
化したら大混乱になるとおそれたのだ。そのため中国本土からの引き揚げは比較的順調に進んだ。
だが、ソ連軍が支配した旧満州は取り残された。ソ連兵の略奪、暴行が頻発し、治安は極度に悪化。
ソ満国境から着の身着のままの開拓団民が都市部に流れ込み、難民化した。病弱者は次々と死んだ。
各地で日本人会が組織され、難民救済にあたった
最後まで拙い文章にお付き合いくださいまして有難うございます。
何回も読み直し訂正するうちに父の頑張りで無事帰れたことと犬との別れに涙が出ました。
感謝です。!!!
(';')
@@@@@@@@@@@@@@
【生を知るかかわる人と父の手記】
【現実と会話刷り込み思い込み】
【父の手記本へのタイプ気にかかる】
@@@@@@@@@@@@@@@@
【明治時代】232 日本の満州進出のきっかけ【日本史】
【証言】「日本人はみんな一文無しに」旧満州での貧しい生活…山田洋次監督 戦争の原体験【第1回】(全3回)
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写しを手紙で送っていました。
私は3男(次男・腸チフスで病死)ですが、最後は我が家で共に生活をしてましたので
原本が手元に残りました。
古希年齢になるまで真面目に読み返すことがなく、そのまま本棚に眠らせていました。
①父の手記
ところが8月になるたびに平和集会(核廃絶他)等に参加しておりましたが
上記、手記が浮かんできてき悶々とした気持が収まりませんでした。
「それは昭和21年8月に満州から引き揚げた父の体験が断片的に思い出されるのです。」
「父の手記」
船乗りで無線通信士として働いていた、40歳の時の昭和15年に南満州鉄道株式会社へ
(総裁ー鉄道管理局ー附業部)鉄道業務以外に行政、治安及び農業畜産、
漁業(底引き)を行って社員の米を除く食料、資材などの配給を行う部署に入社。
※参考
鉄道名 区間 マイル数 軌間 備考
南満州鉄道 長春-大連間、奉天-安東間、その他支線 六九八 四フィート八インチ半 日本経営
南満州鉄道株式会社は、かつて満州国に存在した日本の特殊会社である。
1906年から1945年まで存在した。略称は満鉄。 鉄道事業を中心として
広範囲にわたる事業を展開し、日本軍による満洲経営の中核となった。 (ウィキペディア)
②南満州鉄道地図
(父の手記)
福岡の博多港に引き揚げてきたのは1946(昭和21)年8月末、(私が4歳の時)
南満州鉄道(満鉄)に勤めていた私の父が46歳の時でした。
住居は錦州(中国のお手伝いさんがいた)会社より無線機器の入手他で何度か
日本に行き来もしていた。日本も戦地第一で生活が困窮していた中、
色々と苦労して、終戦1年前に自宅にたどり着き、家族の運命を左右することになる。
もし,いなかったらと幸運を喜ぶと記録している。
その時の家族の状況は
母は36歳、長男11歳、2男(腸チフス病死)3男4歳、4男2歳、長女0歳(父を含め6人)
※参考
引き揚げが始まったのはソ連軍の撤退後だ。東京の連合国軍総司令部(GHQ)の指示で、
中国国民党の軍や行政組織が引き揚げ時期、順番などを各地の日本人会に通達、
日本人会は隣組などを通じて各家族に連絡した。終戦時、旧満州・大連に邦人155万人。
移動は社宅などのブロック単位でおこなわれ、列車で葫蘆島に向かった。
旧満州からは、46年4月から1年半で105万の日本人が引き揚げた。
(上記数の違いは現地に残った人、死亡された人)
(私の記憶)
4歳の私の記憶は、無蓋貨車に乗った事を記憶しておらず、
列車が故障して大地に降りていたのか、橋の下で防空頭巾をかぶり休憩、
カンパンらしきものを食べたこと、また、誰かが怪我したのか赤チンキを母がつけたこと、
また昼間にB29が高い空を飛ぶのを見た(様な気がする)。この程度である。
無蓋貨車に家族は乗ったが、飼っていた愛犬が吠えながら、いつまでも
追い駆けてきたことを聞いた)また、女性は髪を切り、顔にすすを塗ったとも聞いた。
③無蓋貨車にすし詰め状態
④無蓋貨車をどこまでも追いかけた愛犬ペル
⑤父の孤軍奮闘天秤・背に荷物、前に幼子、3男の手引き
(恥を承知で父から聞いた奮闘をイラストに2、3分で書きました)
(父の手記)
乗船間際に起こったトラブル
葫蘆島の港で、乗船時一定区間、男女を分けて進ませ、米軍によるDDT消毒を
施し船に乗る予定であった。
その時の身の回りの荷物は自力で何往復かしても良いことになっていた。
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寝かせた長女と他の子供と母を残して船の下まで行った。そこで長男に荷物の番をさせ
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乗船している。
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ここまでようやく無事にたどり着けたのに何てこと!!非常に心配した。
(●父を見て不思議に思った米兵からか、日本人からか定かでないが
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やれやれと一安心した。
⑦葫蘆島(コロトウの)出港
日本への帰国上陸は福岡県の博多港で、母方の実家の世話で熊本県に住まいを構えた。
●ようやく日本に帰れて安堵したそうである。
1946年4月8日 朝日新聞朝刊 博多港のマリンメッセ福岡わきに立つモニュメントが
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※参考
世界史でも珍しい規模の難民帰還活動だと言える。どのような手順で実施されたのだろうか。
45年8月、日本政府はポツダム宣言を受諾すると在外邦人の現地定着方針を決めた。
本土は焼け野原で食糧も足りない。現地でなんとかしてくれというのが本音だった。
一方、米軍は終戦前に参謀総長と在華米軍総司令官の間で、早期に帰還させる方針を決めていた。
日本人、特に軍人をはやく本国に追い返したいという考えだった。
終戦時、中国本土には100万の武装した日本軍がいた。彼らが国共内戦で傭兵(ようへい)
化したら大混乱になるとおそれたのだ。そのため中国本土からの引き揚げは比較的順調に進んだ。
だが、ソ連軍が支配した旧満州は取り残された。ソ連兵の略奪、暴行が頻発し、治安は極度に悪化。
ソ満国境から着の身着のままの開拓団民が都市部に流れ込み、難民化した。病弱者は次々と死んだ。
各地で日本人会が組織され、難民救済にあたった
最後まで拙い文章にお付き合いくださいまして有難うございます。
何回も読み直し訂正するうちに父の頑張りで無事帰れたことと犬との別れに涙が出ました。
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【現実と会話刷り込み思い込み】
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【明治時代】232 日本の満州進出のきっかけ【日本史】
【証言】「日本人はみんな一文無しに」旧満州での貧しい生活…山田洋次監督 戦争の原体験【第1回】(全3回)
私の母が満洲からの引揚者で、九州で引揚者の会などがないか探しております。
私は長崎在住です。母は毎月長崎を訪れます。もしご存知でしたら教えて下さい。宜しく御願い致します。
返事が遅れ相すみません。
お母様がお元気に引き揚げ者の
会合に出れるとよいですね。
まずはお礼まで。
残念ですが引き揚げ者会の名前が出てきません。
ウイキペディア(詳細)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E6%8F%9A%E8%80%85
舞鶴引揚記念館
福岡市「引揚港・博多」
浦頭引揚記念資料館
(私は佐世保の博物記念館で当時の模様や物品を見学をしたことがあります。
https://www.city.isahaya.nagasaki.jp/post06/6391.html
参考になります。