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心の戦士へ

2022-02-02 23:13:06 | 日記
「子どものために働き、そして養い、学校へ行かせ、そして平穏な日々、それが幸せ」それがあの日から変わってしまいました。そして悲嘆のうちに最後の手段として、たどり着いた病院の扉が、それが再生のための新しい扉でした。順調、成功、勝利、・・・それが幸せの道・・・そこからの逸脱と転落。あまりにも人生はわからない、・・・・しかしうまく行かないのが人生・・・その真実を知りました。それこそ・し・あ・わ・せ・の意味を体で知って行くはじまりでした。
標準からの逸脱、幸福の剥奪、そう思えた、息子たちの出来事、しかしそれは虚構の幸福からの目覚めでした。あまりにも常識の幸福論の道筋は狭く細く、誰でも脱落してしまうほどの頼りない道でした。そこから落ちたとき、道端は泥でも雑草のあぜ道でもありませんでした。それは前以上に美しく力強く、豊で楽しい道だと知りました。そしてそこに、なんと沢山の人がいたことか、そこは道ではなく広い野原で沢山の花と美しい木があり、そして足元には沢山の宝石が落ちていました。ありきたりの人生観と幸福論、まさに3年前までは私はそこの領域に踏みとどまっていました。なんと常軌を逸していたのだろうと思います。そこは虚構の国であり、未熟な人間の国でした。そして成長のない世界でした。
息子のことで、若い人のことを知りたくなり、娘と一緒にTVのドラマや音楽番組や映画を見るようにしました。楽しくなりました。青春がまたやってきたように感じました。そしてやっと知ることができました。わたしは何も知らないと。それからは空っぽの頭はスポンジのようにいろいろ吸い始めました。そして息子の入院、通院で沢山の標準の人生とは違った生き方をしている人に出会いました。
娘と一緒に見た音楽番組でアンジェラ・アキを知り、心の戦士を聞き、そしてそれを聞いたときに「心の戦士」になる!それが神の声でした。そして病院で出会う人を支える家族や付き添う友人が心の戦士に見えました。
まだわたしは新米の戦士です。それも戦死しかけた戦士です。
心のわずらい、障害は当人にとっては心の戦争です。それを助け勝利を勝ち取るために支え、ともに戦い苦労をしているのが、その人の家族、友人です。未熟ですが、わたしは自分の体験を活かし、当事者の苦労を知ってもらいたく「心の戦士」を立ち上げました。

まだ出会ったことのない心の戦士の皆さんへ、
それは新しい人生の発見、そして生き方、価値観の発見の戦いです。それは遊びでなく、生きるか死ぬかの戦いです。でも「ほどほどに」それがどういうわけか勝利の秘訣です。なぜならわたし達の戦いはこの世の武器の戦いではありません。愛する人の人格を破壊する目に見えぬ敵との戦いです。1人では100人、2人では10000人を倒すという言葉が聖書にあります。そしてどういうわけか勝利は定まっているのです。なぜなら目に見えぬ敵は決して私たちの生きている命には手をふれることができないからです。そして闇は光に勝てません。
どんな小さな光でも、それが灯るなら闇は存在できなくなるのです。心に灯る小さな希望、それは失望を消し去ります。「あなたの信仰通り、あなたの身になりますように」という聖書の言葉の通り、あなたの信じることは、現実となります。心の信じる力には不思議なものがあります。
出会ったことのない「心の戦士」のみなさんへ、ともに戦いましょう。健闘を祈ります
「たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる。」ミカ書7章8節

心の戦士へ

2022-02-02 23:13:06 | 日記

「子どものために働き、そして養い、学校へ行かせ、そして平穏な日々、それが幸せ」それがあの日から変わってしまいました。そして悲嘆のうちに最後の手段として、たどり着いた病院の扉が、それが再生のための新しい扉でした。順調、成功、勝利、・・・それが幸せの道・・・そこからの逸脱と転落。あまりにも人生はわからない、・・・・しかしうまく行かないのが人生・・・その真実を知りました。それこそ・し・あ・わ・せ・の意味を体で知って行くはじまりでした。
標準からの逸脱、幸福の剥奪、そう思えた、息子たちの出来事、しかしそれは虚構の幸福からの目覚めでした。あまりにも常識の幸福論の道筋は狭く細く、誰でも脱落してしまうほどの頼りない道でした。そこから落ちたとき、道端は泥でも雑草のあぜ道でもありませんでした。それは前以上に美しく力強く、豊で楽しい道だと知りました。そしてそこに、なんと沢山の人がいたことか、そこは道ではなく広い野原で沢山の花と美しい木があり、そして足元には沢山の宝石が落ちていました。ありきたりの人生観と幸福論、まさに3年前までは私はそこの領域に踏みとどまっていました。なんと常軌を逸していたのだろうと思います。そこは虚構の国であり、未熟な人間の国でした。そして成長のない世界でした。
息子のことで、若い人のことを知りたくなり、娘と一緒にTVのドラマや音楽番組や映画を見るようにしました。楽しくなりました。青春がまたやってきたように感じました。そしてやっと知ることができました。わたしは何も知らないと。それからは空っぽの頭はスポンジのようにいろいろ吸い始めました。そして息子の入院、通院で沢山の標準の人生とは違った生き方をしている人に出会いました。
娘と一緒に見た音楽番組でアンジェラ・アキを知り、心の戦士を聞き、そしてそれを聞いたときに「心の戦士」になる!それが神の声でした。そして病院で出会う人を支える家族や付き添う友人が心の戦士に見えました。
まだわたしは新米の戦士です。それも戦死しかけた戦士です。
心のわずらい、障害は当人にとっては心の戦争です。それを助け勝利を勝ち取るために支え、ともに戦い苦労をしているのが、その人の家族、友人です。未熟ですが、わたしは自分の体験を活かし、当事者の苦労を知ってもらいたく「心の戦士」を立ち上げました。

まだ出会ったことのない心の戦士の皆さんへ、
それは新しい人生の発見、そして生き方、価値観の発見の戦いです。それは遊びでなく、生きるか死ぬかの戦いです。でも「ほどほどに」それがどういうわけか勝利の秘訣です。なぜならわたし達の戦いはこの世の武器の戦いではありません。愛する人の人格を破壊する目に見えぬ敵との戦いです。1人では100人、2人では10000人を倒すという言葉が聖書にあります。そしてどういうわけか勝利は定まっているのです。なぜなら目に見えぬ敵は決して私たちの生きている命には手をふれることができないからです。そして闇は光に勝てません。
どんな小さな光でも、それが灯るなら闇は存在できなくなるのです。心に灯る小さな希望、それは失望を消し去ります。「あなたの信仰通り、あなたの身になりますように」という聖書の言葉の通り、あなたの信じることは、現実となります。心の信じる力には不思議なものがあります。
出会ったことのない「心の戦士」のみなさんへ、ともに戦いましょう。健闘を祈ります
「たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる。」ミカ書7章8節

心の戦士

2022-02-02 23:09:00 | 日記
身近な人がある日からおかしくなる。とっても辛いことです。今までとは何か別の人になってしまう。それまでの幸せな生活にひびが入り、何かがずれて行く。今日は大丈夫かなと不安がいつも心にあり、なかなか落着けない日々。自分がわるかったのか、或いはあの出来事、いじめ、学校、職場、上司、あいつ・・・そんな悪者にしたい者の顔が浮かび、そしていつの間にか非難を心の中で繰り返し、そして疲れる日々。日々、臨戦態勢。敵がどこからやってくるかも、どんな出来事が起こるのかもわからない。とりとめも無いことを言われて、それに答えては口論になり、なかなか分かり合えない思い。どうしてわからないの・・・そんないらいら!家族みんなが巻き込まれ、幸せな団欒が、ある日は心の戦場に!誰が、なぜこんなことが起こるのか?

ある日それが障害だと知ったのは、1年経ってからでした。保健師さんとの出会い、よき医師の出会いで、道が開かれました。「精神科」と言われた私の顔を見て、保健師さんは「お父さんはまだそのような考えを持っているんですか!」といわれました。何も知らなかった私!精神科だけはと思い、内科病院をいろいろ渡り歩き、最後の最後でたどり着いたのが精神科でした。そして病名を聞かされ、無念な思い。そして入院しホームシックに心を悩ます10代の息子を見れば、行き場の無い苦しさと闇、痛みが心臓を満たすような感じでした。しかし100人に1人が羅病した体験を持ち、心の病は奇病のたぐいではなく、誰しもが体験しうるような病気の一つであると、知ったとき、そこに希望が見えました。不幸な出来事ではなく、失敗でも惨劇でもなく、誰にでも起こることなのだと。そして病気にjついて良く知り、発症から経過を知るなら、まさに教科書通りで、それは異常なことでなく、しっかり理由があり。息子は幻聴、幻覚を体験し、心の戦いを戦っていたのだと知りました。それも知らず、目に見えぬ心のかぜと気付かず、息子を寒空の下に叩き出し、「情けないぞ頑張れと」最大の無理をさせ、かぜをこじらせさせ、急性の病気までにしてしまったのです。精神的ストレスが心を圧迫し、それが脳の神経伝達物質の機能を阻害しているのです。

しかし、障害の仕組みを知った後、私の戦いは簡単になりました。確かに難しいことではありませんでした。先生からの助け、愛と祈り、そして神の言葉が答えでした。息子の幻聴や幻覚を認め、その辛さを知り、息子が心の戦士だったことを知った後は、私は援軍、「心の戦士」として彼の戦いをともに戦うことができるようになりました。それは神を信頼し、それには理由があり、ただ自分ができることをし、そして先生が助けてくれ、残りは神が世話してくださる。そして何よりも、「私は心配で心配でたまらない!」そんな思いこそ、相手の思いに敏感になっていてそれを一番気にする当人にとって、一番のストレスとなることなのです。穏やかさ、心配していないよ!・・・・と体でメッセージをアピールし、線を引いて、それから先は神様にお任せする!・・・何かが起こっても心配し、思い悩み分析することをやめて、夜は眠ることにしました。そしたら、嵐は朝には止んでいました。「心の戦士」それは忍耐、待つこと、信頼、そして時間がかかることを知ることです。そして何よりもあなたを大切に、なぜなら戦いは長期戦です。無理せず、ちょっとサボりながら、適当に、それが長期戦、持久戦、そして勝利の秘訣です。それは信頼からのみ生まれます。神様を信じなさいとは言いませんが、目に見えぬまだ発見されていない、なんらかのエネルギーの法則があり、その法則によれば、心配しないで、自分の肉の力で奮闘するのではなく、その法則にゆだねていれば、プラスの変化、癒し、成長が発生する、そう思ってください。

こんな言葉があります。信仰は恐れの終り、恐れは信仰の終り!そして愛には恐れが無い!愛には恐れがありません。目の前で自分があいまいになり、わからなくなっている大切な人、当事者・・・信頼して下さい・・・・愛の目でその人を見、希望を示すなら、必ずこの世界に帰ってきます。またあの日の笑顔や笑い、そして冗談や、あの元気な会話が戻ってきます。時間を下さい!あなたの時計の進み方と、愛する心病む人の時計の進み方は違います。あなたの一分はその人の一時間かもしれません。さあ、その人の腕時計を身に付け、その人の靴をはいて歩いて見ましょう。そしてその人の眼鏡をかけて、見てみましょう。そしたらわかります。異常ではないことを、奇病ではないことを、・・・・・

薬はあくまでも対症療法、幻聴、幻覚、妄想、うつ、心身症などの症状を和らげるだけです。真の癒しは、その人が愛されていると知り、自分に自信を取り戻し、再び人との関係を築けるようになることから来ます。誰かと愛を分かち合える、それが真の冨、そして豊かさ。さあ、今こそ、その真の人生の宝を手にする機会がやってきているのです。神は慎重に分析し、試練を配分しています。それは必ず益となるのが約束です。
そしてそうなのです。

すべてはストレスから始まります。それがその人の耐えられる限度を越えてしまうと、心や体に異常が起こってきます。その心のかぜをこじらすと、脳の伝達物質の伝達以上を起こし、心の病気を発症することになります。ですから、ぜひ、そのサインを見逃さないで下さい。それにすぐに答え、助けの手を添えることができれば、その人の苦しみは最小限ですみます。しかし、そうできなかったとしてもがっかりしないで下さい。愛するのにおそすぎることはありません。これはその人に関わる人、すべての成長につながります。これこそ、その目に見えぬものへの信頼の約束の不思議です。 

2022/01/15

2022-01-15 08:14:50 | 日記


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818:楽天する人生









from 818:楽天する人生

by Activate Leaf

楽天する人生

 楽天と聞くと、通販や野球を考える人が多いかもしれませんが、通常の文章の中で「楽天」という言葉を使う時には、「楽天的な性格」とか、「あの人は楽天家だ・・・」のようになります。それでは、楽天とは本来どういう意味なのでしょうか。

 辞書には、「自分の境遇を、天から与えられたものとして受け入れ、くよくよしたり、あくせくしたりせず、人生を楽観すること」とあります。そして、そのように生きている人のことを楽天家と呼ぶのです。こうして意味を知ると、「楽天」ってなかなか素敵な言葉だなと思いました。

 私も常々、もっと楽天的な生き方をしたいと思うものの、いつの間にかあくせくしたり、くよくよしたりしてしまいます。でも今回、「楽天」の意味を調べてみて、面白いインスピレーションを受けました。その漢字から、「天を楽しむ」という意味に取ってみてはどうだろうかと思ったのです。そして思い出したのが、次の聖書の言葉です。

「憂えてはならない。 主を喜ぶことはあなたがたの力です。」 - 聖書 ネヘミヤ8章10節

 「主を喜ぶ」とは、神様がいてくださることや、神様との時間を喜びとすることと言えるでしょう。私の場合、具体的には、神様が造ってくださった大自然を楽しんだり、自分の生活環境を感謝して、その中に小さな喜びを見出したりすることです。そう考えると、さっきの「楽天」の意味に通じるものがあるように感じたので、「楽天」を「神様を楽しむこと」として考えてみたのです。

 でも、どうして「主を喜ぶ」と、それが力になるのでしょうか。「喜ぶ」を「楽しむ」に置き換えると何となく分かってきます。誰かのことを楽しむには、一緒にいて、共に何かをすることになります。だから、神様と一緒にいて、神様と何かをするなら、私たちは神様から力や光を受け取ることになるのでしょう。そんなふうに力を受け取れるなら、もっともっと「楽天しながら生きたい」と思いました。

 聖書には、喜ぶことについての言葉がたくさんありますが、神様は本気で、私たちがいつも喜びに満ちて生きることを望んでおられるようです。

「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。 これが、キリスト・イエスにあって、 神があなたがたに求めておられることである。」 - 聖書 第一テサロニケ5章16-18節

 でも、人生には喜んでばかりいられない状況がたくさんあります。学生の頃、初めてこの聖書の言葉を読んだ時には、「いつも喜んでいなさい」なんてちょっと無理でしょう、と感じたものでした。でも聖書を学んでいく内に、真の喜びは、感情的な嬉しい気持ちとは別物であることを知りました。そして、近年になってからは、喜びは、「喜ぶことを選ぶ」という、心の持ち方についての一つの決断なのだと分かってきたのです。

 そこで、私は新年の標語として、下記の有名な格言をプリントし、額縁に入れて壁に飾りました。なぜなら、その頃、辛いことが重なり、うつうつとした毎日を過ごしており、なかなか明るい気分になれなかったからです。でも、この言葉を見つけ、「そうだ、状況に関わらず喜ぶということを今年の目標にしてみよう。もしかしたら、この滅入った気持ちから抜け出せるかもしれない・・・」と思いました。それは、心の持ち方を変えるという、私の決断の瞬間でした。

 それ以来、何か嬉しくないことが起こっても、前ほど長く落ち込むことがなくなりました。少しずつ、「喜びを選ぶ」ことが心の習慣になってきたからだと思います。それでは、その言葉を紹介しましょう。

“Joy does not simply happen to us. We have to choose joy and keep choosing it every day.”

 これは、オランダ出身のカトリックの司祭であり、元ハーバード大学教授でもあったヘンリ・ナウエンの言葉で、下記のような意味です。

 「喜びとは、何ともなしに湧き上がってくるようなものではありません。私たちは喜びを選びとり、日々そうし続ける必要があるのです。」

 「喜びとは、選びとるもの」 この考え方は、私の人生を大きく変えました。もし、その時その時の感情に流されて、気分次第で行動するなら、物事が順調な時には幸せに感じても、思うようにいかなくなると散々な毎日となってしまいます。でも、たとえ気分が乗らなくても、何か前向きなことをするなら、物事が好転していくことに気づいたのです。

 キリスト教世界では、様々な状況で賛美歌が歌われます。礼拝の時だけではなく、聖書の勉強会の前や、結婚式やお葬式でも。賛美歌は、歌いたい気分だから歌うものではなく、神様がしてくださったことに対する感謝を込めて神様をほめたたえる歌なので、どんな時にもふさわしいのです。

 そして、歌を通して神様をほめたたえていると、おのずと喜びがこみ上げてきます。困難な状況や悲しみの中にあっても賛美の歌を歌う、というのは、喜びを選ぶことです。その選択をすると、天からの不思議な力と平安とが注がれるのです。

 私自身、何度もそういう経験をしました。試練の真っ只中でも、みんなと一緒に賛美歌を歌っていると、賛美歌にある言葉が心の傷をいやし、そのメロディが天からの慰めや力を運んできてくれるのです。

 賛美歌が、歌う人々にどんな影響をもたらすかについて、アメリカのある大学の研究チームが興味深い実験をしました。町の聖歌隊員を対象に、歌を歌う前と後で、唾液に含まれる免疫性物質がどう変化するかを検査したのです。すると、驚くことに1時間の練習で150%、1時間のコンサートの後には250%に増加していたそうです。

 もちろん、賛美歌でなくても、歌うこと自体が健康に良いのは周知の事実なので、今では認知症予防やアンチエイジング、健康増進のために、歌うことが大いに推奨されていますが、これもやはり、気分が乗らないからと歌うことをやめてしまうなら、その益を受け取ることはできません。また、歌うことは、歌が好きな人に限らず、歌の苦手な人にも効果があることが研究で判明しています。

 そのことを知って、私はあらためて「選ぶ」ことの大切さを実感しました。歌いたい気分でなくても歌うことの効果が科学的に実証されたのであれば、喜びたい気分でなくても喜び、感謝したい気分でなくても感謝することを選んだ場合にも良い効果が出るに違いないと思ったのです。

 さらに、優しい言葉を語る気分ではなくても、そうすることを選ぶとか、好きでない仕事でも一生懸命やると決めるなど、気分が乗らなくても前向きに生きることを選ぶなら、人生はどんどん好転していくことでしょう。

 神様はいつも、溢れるばかりの祝福をこの地上に注ぎ、私たちのために数々の素晴らしい約束も与えてくださっているのですから、神様が下さったすべてのものを素直に受け取り、天を楽しむ、つまり「楽天する人生」を送ることで、天からの力と喜びを受けて生きていきましょう。

――――

--- 詩篇 第100篇 ---

全地よ、主(神)にむかって喜ばしき声をあげよ。

喜びをもって主に仕えよ。

歌いつつ、そのみ前にきたれ。

主こそ神であることを知れ。

われらを造られたものは主であって、

われらは主のものである。

われらはその民、その牧の羊である。

感謝しつつ、その門に入り、

ほめたたえつつ、その大庭に入れ。

主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。

主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、

そのまことはよろず代に及ぶからである。

This story is from:

818:楽天する人生

by Activate Leaf

2021/12/23

2021-12-23 11:22:27 | 日記
「幸せは、自分が養ってきた心の習慣による。だから、日々、幸せな考え方を心がけると良い。朗らかな心を養い、幸せ習慣を身に付けるなら、人生は終わりのない宴会となる」 ノーマン・ヴィンセント・ピール