人生道場

お互いに悩みや考えを述べ合い、それぞれの人生の糧にしませんか。

男女共同参画に思う

2004-11-30 06:18:18 | Weblog
少子化時代になり、働き手が少なくなってきた今日、
女を働き手に駆り出す為か、「男女共同参画」が
強く叫ばれている。女の権利の主張でもあるのかも
してない。
「男女共同参画」見ても聴いても、美名である。
税制面からも女を働き手に駆り出すためか、
控除の優遇面が廃止されたりして、働く女性と
家庭にいる女性の格差を無くす政策が取られている
ようだ。

私は、この「男女共同参画」が疑問に感じてならない。
働きたい女性は働けばいいし、男と同じように仕事一筋
もいいでしょう、それに異論を唱えるつもりはない。
しかし、子育てに専念したり、専業主婦に専念したい
人はそれも大切な選択ではないのか。
夫婦の基本は何か。昔も今も変わるものではないのでは
なかろうか。
少子化に歯止めをかけるためにも、安心して子育てが
できる社会環境ではないのだろうか。
それが「男女共同参画」とはどうしても思えないのだが。

『「冬ソナ」にみる人気に』思う

2004-11-28 12:46:43 | Weblog
私は、残念ながら「冬ソナ」を見てはいないが、それに対する
人気振りから感じるものがある。

昭和30年代或いはその前後の時代、松島トモ子さんが子役時代、
或いは吉永小百合さん他皆さんの青春時代の我国の映画もまた、
今の「冬ソナ」的素朴な純愛物語であり、金よりも愛を大切に
したり、純潔を守る為には命をも掛ける、といった「心を大切に
した物語」があらゆる方面から上映されていたように記憶して
いる。

そのような経験からか、「冬ソナ」への人気振りをよそ目に
「なんだ、それって、昔の日本ではないのか。」と思ってしまう
のである。そして感じることは、それ程日本の女性、それも特に
30代40代の女性は純愛に枯渇しているのか、ということである。
その裏側には、社会的側面の問題と日本男子のあり方の問題が
あるのではないのだろうか。

「自衛隊イラク派遣延長の考え」に思う

2004-11-27 17:43:31 | Weblog
私は、自衛隊の撤退はあの邦人人質事件の時点だった、と思っている。
しかし、いち早く見殺し的発言が飛び出し、救出はならず、残念ながら
殺されてしまった。

だとしたら、今更何故の撤退か、である。

ある日の朝日新聞の社説の冒頭の1節に「ダチョウのように砂のなかに
頭を隠す、という言い回しが米国にある。都合の悪い現実が現われると、
それから目をそらしてしのごうとする意味だ」とあった。

何の為に自衛隊を派遣しているんだ、信念をもって国家の将来を考えて
派遣しているのではないのか。5人もの尊い命を犠牲にし、尚且つ、
撤退もせず、派遣を継続するのなら、形だけ見せれば、それで済むような
考えでいいのだろうか。
イラク人が満足するように大々的に増員し、鉄砲など捨てて、穴倉に入らず
正々堂々と胸を張ってロケット弾を身体で受けて、お国の為に死んで来い、
と送り出し、将来を展望した時天下国家の為には命を掛けてもやらなければ
ならないと、国民に胸を張って断言してもいいのではないのか。
そして、多くの国民が犠牲になった時は、自ら靖国の神となるくらいの覚悟が
欲しいものである。

「誰の為に」が、「自分の為に」でいいのだろうか。

2004-11-25 13:57:48 | Weblog
誰でも、確かに「自分の為に」動き生きているのであって、
決してそれに異論を唱えるものではない。
しかし、果たしてそれでいいのだろうか、という疑問が
湧いてくる。
特に、公的立場にある人は、「国民の為、県民の為、
市民の為、町民。村民の為」にが抜け落ちてはいないだろうか。
どうも見ていると、そこのウエイトが少なくて、
自分の為、自分達の為の仕事をされているように感じられて
ならないのである。
また、民間においても「消費者の為」にが忘れられてしまって
いることも感じられる。

それぞれの立場において「誰の為に」があるはずだと思う。
その「誰の為に」が置き去りにされ、全てが「自分の為に」
「自分達の為に」だけに意識も目も向けられているのでは
ないだろうか。
今一度、それぞれにおいて「誰の為に」を再確認してみる
必要があるのではないのだろうか。

ほんとに、日本は豊かなのだろうか。

2004-11-24 05:19:01 | Weblog
私は、時々思い浮かべる疑問がある。それは、日本は豊かなのか、
我々は豊かなのか、である。
確かに高額所得者は増え、公務員でも1000万円以上の所得者も
いるようになった。
しかし、私が25年位前に20万円の手取りがあれば何とか、生活
できるかなぁ、と思ったことがある。
ところが、今も20万円の収入があれば、何とか生活をやって
いけるかなぁ、との声が聞こえる。
ということは、余り変わっていないということではないのだろうか。
多くは左程生活が豊かになってるとはいえないのではないのか、
という疑問である。
25年経っても「20万円あれば何とか」は、
何を意味するのだろうか。

国は自分達の為に税金を使い放題、他国へは大判振る舞いのように
見えなくも無い。
もっと、国民が真に豊かさを享受できるような金の使い方をして
貰いたいと願うのは、単なる甘えだろうか。

「弱い者には手を出さない」心の誇り

2004-11-23 05:46:12 | Weblog
子供の頃を振り返ると、まだ、年下や弱い者には手を出さない、
年下や弱い者の味方をし、守ることに何かしら誇りを感じていた。
また、年下や弱い者をいじめている者に対しては、例え相手が
強かろうと体ごとぶっかっていくことに憧れを抱いていた。

ところが今の時代、報道される事件をみるにつけ、明らかに
力関係がはっきりとしている幼児や児童や女や老人に対しての
殺人事件を初め、虐待・暴行傷害・詐欺・わいせつなど等の
多いこと。

何時も、何故、何故、どうして、どうして、と思わずには、
いられない。
幼児が、児童が、大人に立ち向かえるとでもいうのか。
大人と対等なのか。老人を対象とした詐欺事件にしても同様
である。金を誰であれ取りさえすればいいのか。
一昔、二昔前ぐらいまでは、まだ一つのルールのようなものが
ありはしなかっただろうか。
自分の中の正義であったり、弱い者には目を向けない心の誇り
であったり。

人の喜びを自分の喜びに換える心(心豊かな人生を送るために)

2004-11-22 17:19:02 | Weblog
自分は自分、他人は他人、と人とのかかわりでの煩わしさから
逃れる世界を求めつづけて今日があるように思える。
しかし、何か変だと思う方達も増え、疑問視され始めているが、
まだまだその流れを止めるには至らないのではないのだろうか。

私は、「人の喜びを自分の喜びにかえること」を方針の一つに
掲げ、限られた範囲だが提唱もしている。
これは、何を言っているのか、と質問してもそのものズバリの
返事を返す人は、中々いない。

あなたはあなた、私は私の今の世の中において、それぞれ個々の
努力によって喜びを勝ち得、本人の喜びもさることながら、
それを周囲の人が喜ぶ姿はよく見かけもするし、ごく自然のように
も思える。
しかし、ここでの「人の喜びを自分の喜びにかえること」とは、
自分が相手の為に尽くして、その尽くされたことに相手が
満足した時の喜びをもって、自分の喜びとすることをいうのである。
即ち、「尽くす喜び」でもあるわけです。

何かを感じられた方は早速始めてみませんか。

人生で心がけるべきこと2点(心豊かに生きるために)

2004-11-21 20:29:44 | Weblog
人生で心がけることは沢山あり、人それぞれに違うことだろう。
色々の中で私は、次の2点を挙げてみたい。

1つは、「健康であるということ」である。
    これとて、何となく容易いことのように感じながら、更に
    気をつけているようであるが中々持続できないのではない  
    だろうか。そして、ついつい若さ任せにし、やっと老い先
    短くなってから慌てて健康管理に注意を始める感ではなかろうか。
     やはり、健康が第一であることは誰しも異存はないことと
    思う。それは、やはり若い時から自覚し、僅かでもその意識を
    もつことが大切と思う。若くても身体を壊してしまえば、
    それは歳を経たのと差して変わらない状態になるのである。
     歳を経ても健康であれば何時までもある程度はやりたいことが
    やれていくのである。
    若い時から健康への意識高揚こそが基本ではないだろうか。

2つ目は、「若さの維持」である。
    年齢的な加齢はこれは自然なものであり、これには抗しきれない。
    しかし、若さの維持向上は努力次第である程度は効果をあげれる  
    ものと考えている。
    その努力すべき項目は様々なものがあると思うが、先ずは、その
    意識を自分の中に育てないと何事も実行には移せないないのでは
    ないだろうか。ある程度の年齢にならば自然と若さを考えるように
    なることと思うが、やはり若い時から心がけることが大切だと思う。
     ある程度になってから努力してもそれなりの効果があるように
    思うが、若い時からその意識をもち心がければ、又相当に違うよう
    ように思えるからである。
    歳を経て、健康管理と同じ位「若さ」が重要さを増してくるからで
    ある。

 「健康」で何時までも「若く」、心豊かに生きたいものである。
 そのためには、不断の努力なしでは得られないのである。
     

今や「正義の使者」は、何処に(奈良小1女児童殺害事件を痛む)

2004-11-20 07:04:26 | Weblog
我々の子供の頃はまだ、正義が悪をやっけるという風潮が強かったように思う。
そして、子供心に「正義の使者」に憧れ、強い者に歯向かっていった。

その頃の「正義の使者」の代表的なものは、月光仮面であったり、スーパーマン
であったり、ハリマ王だった。
また、その他にも数多くの「正義の使者」が登場した。

それらの「正義の使者」を気取って、弱い者を守り、弱い者をいじめる者や強い者に
歯向かうことにどこか誇りを感じていた。

ところが今や、「弱気を助け、強気を挫く」どころか国を挙げてこれでもか、
これでもかと弱い者へ、弱い者へと攻撃の力が働いているように感じてならない。

今回の事件を含めて本来守られるべき、いや守るべき子供や女や老人に対する
殺人事件、その他数々の事件等が毎日ように発生して後を絶たないの見るに
聴くにつけ心が痛む。

「正義の使者」は、何処へ行ってしまったのだろうか。
今こそ、我々一人一人が努力してそれぞれの心の中に「正義の使者」を呼び戻す時代に
来ているのではなかろうか。

50手習い

2004-11-19 05:27:20 | Weblog
私が、23歳頃だったか、ある雑誌にエッセイを投稿されている先生に
「50手習い」を知っているかと問われて、まともに答えられなかった。

その時その意味について「50歳から手習いを始めてもある一定のところ
までは上達するということをいう。例えば、書道であれば50歳から
習い始めても、書道教室の先生をやれるくらいまでにはなれる、ということだ」
と教えていただいた。
更に、まだ若い、50歳から始めても先生になれるのだから、今から始めたら
大変のものになれるぞ、直ぐにでも始めなさい、と諭された。

それを聞いて、よぉ~し、やるぞぉぉ~~~、と決意はしたものの。
中々、実行するには至らず、今に至ってしまった。
あの時から何でもいいからやっておけば、今ごろはと・・・。
後悔の念のみが残る。

国民ひとり一人の力の大きさを自覚しよう。

2004-11-18 17:07:19 | Weblog
私は、国民の力には物凄いものがあるのではないのか、と考える方である。
確かに一人でも大きな力をもつ方もおいでになることだろう。
しかし、私のような普通の国民の一人の力たるや知れたものでは、
ないのだろうか。
ただ、その一人一人の力が結集した時には、大きな力のうねりにとなり、
時に耳にする「山をも動かす」力となりえるのではないのだろうか。
にもかかわらず、その力が中々発揮できないのは、それぞれが無関心で
あったり、価値観の違い等から中々結集できないためなのではないのだろうか。
何も、結社を組まなければできないとか、組織を作らなければできないとか、
価値感を常に同じくしていなければできない、ということではないのでは
ないのだろうか。

同じ環境の中に生活をしていれば、全ては難しいぃにしても
多くは、同じ事を感じ、同じ事を考えるのではないのだろうか。
そして、自ずと集まる方向に集まるのではないだろうか。

そのためには、先ずは、あらゆることに自分のこととして関心をもつこと
こそが大切ではないかと思う。

「学ぶこと」について思う

2004-11-16 16:38:21 | Weblog
「学ぶこと」についての、ほんの一面にしか過ぎないが、
社会に出て初めて「学ぶこと」について、その大切さと「学ぶとこと」が
どういうことかを知った。それと同時に後悔もした。

私は、子供のころを振り返ると、学校の試験のために少しでもいい点数を
とることを目指して勉強したし、進学のために勉強した。
将来の夢も漠然とはあったが、それでも、あくまでも進学のための勉強に
過ぎなかった。
従って、進学以外に何のために勉強するんだぁ、という意識はなかった。
また、残念ながら「勉強しなければダメよ。大学いかなけらばダメよ」と
言っても私の周りに「何のために勉強すのか」を教えてくれる人はいなかった。
もし、それを教えてくれる人がいて、私がそれに素直に応えていれば、
私の人生は、今の人生とは変わっていたかもしれない。

社会に出て初めて、「何の為に学ぶのか」
         「何のために学ばなければならないのか」
が思い知らされた。
そして強く感じたのは、社会に出るまでの「学び」は、仕事の選択の幅を広め、
人生の大半を占める仕事とつながっていく、ということだった。
それは、如何なる人生を歩くかにも通じることだった。

子育ての過程で感じたこと(その2)

2004-11-15 05:58:15 | Weblog
前回の続きになりますが、幾つかのことを感じました。
そして、最終的には、親の非力さを痛感致しました。

私は初めての子育てでもあった為か慌てたところもあり、
幾つかの反省点も感じています。
先ずは、双方の先生達に相談をし、最初は彼の親や学校側から
親が悪いと非難され、なんでや、内は女やでぇ、と憤慨も致しました。

市民大学の心理学教室も受講致しました。
市の青少年補導センターにも相談しました。
しかし、双方を呼んで説諭して貰いたいと願ったのですが、親が悪い
といった印象で、娘が逆に可哀想と、それ以上の進展はみられません
でした。
市の児童福祉センターのテレホン相談にも相談しました。
しかし、電話を掛けた本人への応対だそうで、私が説諭されたとて、
何等の解決にもなりません。彼への指導はできないのか、と相談しましたが、
その権限は無く、あくまでも電話を掛けた人の悩みを聴くだけとのこと。
管轄の交番へも相談しましたが、補導の対象事案ではないため、
呼び出して説諭することはできないとのこと。
このようなケースに対応する権限をもった公的機関は皆無なのです。
なんでないのよぉ、と悔しい思いを致しました。

自分が男親なら息子を彼女の家に連れて行き、先方の親の前で頭の一つでも
殴って迷惑をかけないようにするところですが、そのような気配は彼の親に
感じられないまま、ただただ、手をこまねいて見てるだけで、時間だけ過ぎ
一向に好転しませんでした。
このような状況にある時は、似たケースが耳に入ってくるもので、娘に付き
まとわれて困った挙句、遠くへ転居を選択された方もおいでになるとのこと
だった。その他にも可也、似た悩みを抱えておいでになる方が多いように
感じられました。

今に思えば、放っぽっておけば良かったかなぁ~、と思う時もありますが、
その当時は、親として後でやっとけばよかったと後悔しないように、
やるだけのことはやりとうそう、と心に決めて動きました。
それと、娘が歳を経た時、親の娘への思いや娘への愛が伝わってくれたら、
と願いつつ、とことんまで奮闘しました。
しかし、結果的には親の思いどおりにはならず、娘本人が決断するのを
待たざるを得ませんでした。

今思い起こしても、やるだけはやったと、満足こそすれ後悔の念はありません。
娘も親の愛はしっかりと受け止めていることと思います。
ただ、人生の先輩としてあらゆる選択の広さを与える方向へ導けなかった点に
おいては、親の非力さが未だに胸の痛みとして残って消えません。

心豊かさとは

2004-11-14 14:52:06 | Weblog
「心の豊かさ」は、何処から来るものなのだろうか。
いや、何によって得られるものなのだろうか。
心豊かに生きたいと願う人は、いったいどれ位おられるものだろうか。

「心豊かでありたい」と願えば、その豊かさが得られるものなのだろうか。
お金が有り余るほどあれば、「心豊か」になれるのだろうか。
物が豊富であれば、「心も豊か」になるのだろうか。

日本は敗戦後大先輩達の努力により、貧乏さから抜け出し、今や物は豊富に
溢れ、金さえあれば殆どのものが手に入るようになった。
物が無い故に物を大切にした時代から大量消費の時代を迎えることができた。
貧乏からの脱却のために物質文明をめざし、それが達成されたわけである。
それで果たして、物が豊富になることで、心も豊かになれたのだろうか。

私は、お金や物が豊富であることも一つの要素ではあっても、それだけでは
「心に豊かさを」得ることはできないのではないかと思う。
以前に書いた「誰のために生きるのか」に通じ、自分の為に生きることは、
誰しも自然のことであるが、それだけでは「心に豊かさを」感じるまでには
至らないのではないだろうか。
やはり、如何に「人のことを考え、人のために生きるか」を考え、それを
行動に移せた時に「心に豊かさを」感じさせてくれるのではないのだろうか。
人のことを考えれば考えるほど、人の為に生きれば生きるほど、
心に豊かさがもたらされ、心豊かな人生をおくれるのではないのだろうか。

子育ての過程で感じたこと

2004-11-13 14:20:06 | Weblog
我が家の娘も、親にとっては何時までも子供であるが、既に大人の
仲間入りをしている。
その娘が高校入学間もなく好きな彼が出来た。自然な流れと黙認
していた。しかし、その交際の仕方に注意すべきと感じ、ある時点
から親として二人の間に係わり始めた。

それは、娘だけでなく、彼についても将来を考えた時、大切な時期
にあると考えるからだった。
何とか、二人が将来を見据えた切磋琢磨するような交際をしてくれ
るよう願ったからでもある。

娘を諭しても、どうしても男に引っ張られてしまう。
そこで彼の親と共に指導しなければ効果はでないと考え話し合いを
もったが、その時大きな考えの違いを感じた。

それは「子供の権利」である。「子供の自由権」である。

私は、どちらかと言うと、何時までも生涯子供に対する親の責任は
消滅しないと考えている。それ故、現在は20歳を成人と定められて
いる以上、20歳までは親の責任であり、子供に対する親としての
権限をもっていると考えている。その権限は、子供の権利を場合に
よっては制限無視できるものと捉えている。子供にも人としての
基本的人権があることは承知し、尊重すべきものとも理解している。

とこらが、彼の親の考えが、私と相容れないところがあった。
それは「子供には基本的人権があるのだからそれを親が無視すること
は許されない、あくまでも子供の考え等を尊重する」という考えだった。
そんな馬鹿なぁ、と思ったが、後で意外とその考えの方が多いのに、
更にビックリした。

私がここで疑問に感じたのは、それでは親とはいったい何なのだと。
子供の成長過程で修正指導すべき点がみられても、子供の権利・自由を
尊重し、子供任せにするということは、親としての役割は何なのか、
それで親の責任を果たしている、と言えるのか。
ただ、子供の人権を掲げて放任し、親の役割を放棄しているのではないのか。
と感じてならなかった。
例えば、それで善しとしたときに、では、親としてイザ、子供を抑え
指導しなければならないとした時に親の言うとおりに子供を導けるれば、
いいと思う。しかし、それは中々難しいのではないだろうか。

子供の人権を唱えて、子供任せにしているとしても親として見守り
何時でも親として子供に誤りがあればそれを匡し、正しい方向へ導けること
こそが大切であり、その時子供を匡すことができず、親の言うことは聞かない
からしょうがない、とするなら、それは単なる放任主義であり親の責任を
放棄しているに過ぎないのではなかろうか。