東日本大震災の頃より「絆、おもいやり」が再認識され始め
東京オリンピック招致のプレゼンテーションでは「おもてなし」の気持ちを世界に伝えた日本
今日は次世代に繋ぐ、大事とされる日本の、大和民族の心を再認識し、促すことに多く出会います。
本市、常滑青年会議所の主催する竹田 恒泰 氏の講話を、先ほど聞いてきました。
竹田市の持論を織り交ぜた楽しい講演でした。
日本人が骨抜きにされた由縁にある教科書検定基準
戦後の教育とメディアの責任がある事を論じていました。
「我が国」を「この国」と言い換えることにより、当事者から第三者へと意識を転化させ、他人事、無責任な日本人を増やし
日本の良きところを消した教科書で教育をし、等々、次世代に正確なことを伝える大事さを言われていました。
本日の日中は、となり街、半田市の「榊原弱者救済所」の記念碑の除幕式典に招待を受けでかけました。
この出来事は、西 まさる 著「幸せの風を求めて」で紹介され認識していました。
明治31年、半田市の鴉根の丘に開かれた、‐社会から見捨てられた弱い人間を救済し、保護する施設‐として開かれました。
浜松の「金原 明善 氏」に薫陶を受け、開いたものでした。
開設した「榊原 亀三郎」という人物は、侠客ヤクザとして名の知れた人物でした。
そんな人物が開設した当初を援助したのも、舎弟のヤクザでした。
なかなか地域から理解されませんでした。が、のちに援助を続けた舎弟も、足を洗い保護活動に専念しました。
そののちには地域の有力者も影から援助しましたが、時代背景からも表面的に援助できる人の出現は後年になってからでした。
今日は地元、鴉根区をはじめとするみなさんが集まり盛大に記念碑除幕式典、ならびにレセプションが開かれました。
多くの写真資料が、ちびっこ広場として拓かれた救済所跡地に掲げてあります。
その中の一つに常滑焼の写真もありました。
長三 作 白泥土の 『藻掛管耳水差』『藻掛急須』です。
長三 とは 伊奈 長三 のことです。現在のLIXIL、旧 INAX、 伊奈製陶所の開設者の祖先です。
白泥土とは朱泥急須と同様に常滑焼ならではの土です。
板山土として産出され常滑まで運ばれたものです。
救済所の周りで掘り出されました。。。 救済所の仕事でもあったのかな・・・?(想像)
明治31年に始まったこの事業、大正14年に亀三郎が亡くなり閉じてしまいました。
開所以来28年間で15,000人余りの人を救済した施設でした。
榊原 亀三郎に世話になった人々は、馬に乗った亀三郎の写真を大事にしたそうです。
しかし、弱者救済所に関わったことが知られることを避けて暮らし(亀三郎の教えであったとも言われています)、後年、子孫が仏壇などにある写真が「幸せの風を求めて」に掲載されていて祖先のことを知った人が多く出現したのも事実です。
今日1日、人の大事さ、人づくりの重要なことを、また深く知ることができました。
「人と繋がる大事さ」「人を敬い、もてなす心」を認識して、次世代とまたこれからも接していきたいと思います。
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