京都の闇に魅せられて(新館)

京都妖怪探訪(170):北野天満宮・その1





 本シリーズで何度もとりあげたことのある“学問の神様”にして魔王級の大怨霊・菅原道真
 日本人ならば誰でも知っている、最も有名な怨霊で、神様として祀られた人間の中で最も有名な人物の一人です。
 その菅原道真を祀っている神社の中で、京都で最も大きく有名な神社が、今回から何回かにわたって紹介する北野天満宮です。

 ここで菅原道真(845~903年)について簡単に解説を。
 菅原道真は、参議・菅原是善の三男として生まれ、幼少の頃から和歌や漢詩など優れた学才に恵まれ、さらに宇多天皇に重用されて右大臣にまで出世します。
 そこで数々の改革に取り組みましたが、当時の権力者・藤原氏の策謀によって冤罪を着せられ、九州・太宰府に左遷させられ、不遇のうちに世を去ります。
 しかしその死後、藤原時平(871~909年)など、道真を陥れた者たちやその縁者・関係者が次々と病死や変死を遂げます。
 特に、延長8年6月26日(西暦930年7月24日)に御所・清涼殿への落雷によって、道真を冤罪に追い込んだ人々が壮絶な最期を遂げ、醍醐天皇も心身を病んで3ヶ月後に死んだという事件は、当時の世に大きな衝撃を与えました。
 当時信じられていた「怨霊信仰」によって、「道真=怨霊=雷神」とする数々の伝説が広まり、その霊を鎮めるために、神として祀られるようになりました。
 「雷神」として「農耕の神」として。
 「正直・誠意の神」「冤罪を晴らす正義の神」として。
 また生前優れた学者でもあったことから、「学問の神様」としても祀られるようになり、さらに後世には「火難除け」「水難除け」などの神様として、広く信仰されるようになります。

 北野天満宮のHP「ご由緒について」によれば、「平安時代中頃の天暦元年(947)に、京都に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが、当所に神殿を建て、菅公をおまつりしたのが始まり」とされています。
 なお、本シリーズ『第36回:文子天満宮』では、多治比文子(たじひのあやこ)という人が、道真の霊から託宣を受けて祀ったことが、後の天神(道真)信仰や北野天満宮建立にもつながったことについても、少し触れています。

 前置きが長くなりましたが、ここから北野天満宮の境内に入っていきます。
 今回は、入り口の一の鳥居から楼門・梅苑の前までの参道とその周辺についてとりあげます。



 まずは、アクセスから。
 最寄りの交通機関は、京都市営バス「北野天満宮前」停留所、西行きバス停です。






 また、「京福電気鉄道・嵐電」「北野白梅町」駅から、今出川通りを歩いて5~10分ほど東へ歩けば辿り着けます。




 

 今出川通りに面した、北野天満宮入り口の大鳥居前。





 京都でも有名な場所のひとつだけあって、ここには常にたくさんの参拝者や観光客、客町タクシーや露店などで賑わっています。

 その鳥居を両脇から守る狛犬。








 さすが、北野天満宮の入り口を守っているだけあって、なかなかいい面構えです。
 いかにも上から見下ろし、にらみをきかせたり、威嚇をしているような感じです。


 入り口を入ってすぐ、参道脇に立つ松の木は、「北野天満宮七不思議」のひとつにもあげられている「影向松」です。





 「毎年三冬(初冬より晩冬まで)の間に初雪が降ると菅原道真の霊が降臨して雪見の歌を詠む」という伝説があり、その時は初雪祭が行われ、硯・筆・墨がとりそろえて供えられるそうです。
 また、「師でもある天台座主・尊意僧正より道真に伝えられた仏舎利が、初雪の降った日に大宰府より飛来してこの枝にかかった」という伝説も遺されています。
 この松自体も神様として祀られているようで、両脇を狛犬が守っています。
 この狛犬も、かなり古くていい面構えをしています。









 さらに参道を進んでいきます。
 北野天満宮の敷地は広く、長い参道です。












 参道にはいろいろなものがあります。
 多くの石灯籠とか。





 
 梅と共に天満宮を象徴する牛の像とか。









 参道脇に立つ摂末社のひとつ、「伴氏社(ともうじしゃ)」。





 菅原道真のお母さんを祀っているという社です。
 息子を優れた学者・役人に育て上げたということから、「子供の成長と学業成就を守護する神様」として祀られています。
 言い換えれば、「教育ママの神様」……などという言い方をしたら、私個人としてはちょっとイヤな感じも(苦笑)。
 母君が大伴氏の出身であるから「伴氏社」というそうです。

 なお、道真の母を祀っているためなのか、この社のそばには母子の牛の像も見られます。





 ところで。
 確か大伴氏も、藤原氏が台頭していくる以前は名門貴族のひとつだったのですが、菅原道真や他の名門貴族などと同じように、藤原氏がしかけてきた策謀や権力闘争などによって没落させられた一族のひとつだった。
 そんなことも思い出してしまいました。


 伴氏社からさらに参道を進みます。









 道真が筆の達人としても有名だったことから、天満宮には「筆塚」などの塚や石碑なども付き物です。






 こんなところにも、牛の像が。






 ほほえましい母子牛の像も見られます。






 楼門と梅苑の入り口とが見えてきました。






 ご覧のように、多くの参拝者や観光客、露店などで賑わっています。


 ところで、この参道から離れた駐車場にもなっている敷地内には、かつてこの地で豊臣秀吉が開催したという大茶会で使われたという井戸と、それを示す石碑もあります。









 あと、『君が代』にも登場するというさざれ石も。






 さて、楼門から中に入る前に、期間限定で公開中だった梅苑に入ります。
 が、記事もそこそこの長さになりましたので、一旦ここで切ります。

 今回はここまで。
 また次回。




*北野天満宮のHP
http://kitanotenmangu.or.jp/




*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm




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