mipiさんのツイより
アイスショーのとき隣席の方が
教えてくださった。
羽生結弦さんのお姉様はとても
謙虚な方。
五輪2連覇のパレードの日、
アイスリンク仙台には多くのファンが
詰めかけ、やむなく入場打ち止めに
なったそうだ。
館長さんと並んで、羽生さんそっくりな
お若い女性が、本当に申し訳
↓
なさそうに、何度も何度も頭を下げて
いらっしゃったとか。
お姉様だとすぐわかりました、と
その方はおっしゃった。
あの頃はアイリンさんの職員だと公表
されていた。
私は思った。
お姉様は、大事な弟の晴れ姿を見る
ことができたのだろうか。
震災と身を削る努力の末、夢を叶えた
弟の勇姿を。
↓
※下へ続きます。
norakuro_🍀🕊✨さんのツイより
おはようございます!
RE_PRAY 横浜公演まで。。。
画像あり
紀伊國屋書店さんのついより
名古屋空港店
【羽生結弦 さん新刊】
『y 羽生結弦写真集』
(スポーツニッポン新聞社)
小海途良幹/長久保豊
人知れず捧げられる精霊の舞を見て
しまったかのような
息をのむ神々しさ
感想など無粋である
美しい表紙に
言葉もない。
羽生結弦
y
七さんのツイより
星降る夜の準備はできた?
羽生結弦 選手
可愛いイラスト画あり
ミケたん໒꒱さんのツイより
ソチOP
羽生くん
練習のリンクでプル様と一緒になり
ヤバい😳と
ワクワクする姿😆
その時プル様
『結弦は倒しがいがある
どうやって倒すか』と考えて
おられたとか
動画あり
あめんぼ王子さんのツイより
テレ朝さんグッジョブ👍✨
羽生結弦
GIFT_tokyodome
テレ朝ch2
いつものミニゆづくんが成長した
感じになってます
※イラスト画あり
-------------------------------
羽生結弦の死にものぐるいの汗を
知っている私たちは、「可哀想な人々」の
ゴシップ程度では揺るがない
日野百草
ファンしか知らない羽生結弦
1 一転して羽生結弦のない本と
なってしまった
2「報道の自由」として他者の検閲を原則、
受けることなく報じる
3 ゴシップ誌のしぶといところは、この二者を
うまく使い分ける
4 まず羽生結弦はプロである
これほど急なケースは私も経験ない
5 羽生結弦ほどプロとして成功している
フィギュアスケーターは日本にいない
6 羽生結弦という絶対的なコンテンツ力を
まざまざと見せつけた
7 フィギュアスケートで、単独スケーター
の興行が成立している事実
みんかぶさんの記事はこちらです。
-------------------------------
<過去記事シリーズ1>
羽生を虜にした2強対決
1994年12月7日、宮城県仙台市で
羽生は生まれた。フィギュアスケートと
出合ったのは4歳のとき。荒川静香、本田武史ら、
仙台のリンクで育った選手が1998年2月にあった
長野五輪に4人も出場していたことで、
当時の仙台ではフィギュアスケートブームが
起きていた。
元五輪代表の佐野稔氏が仙台で開いたスケート
教室に、姉についていく形で通い始めた
4歳の羽生。数年の月日が流れたころ、楽しく
滑っていた無垢な少年の目の前に現れた
ヒーローが、プルシェンコだった。
2002年ソルトレークシティー五輪。
羽生はテレビに釘付けだった。当時19歳の
プルシェンコと、アレクセイ・ヤグディンの
“ロシア人対決”に胸を躍らせていたのだ。
2強のうち、最初に頭角を現したのは、15歳で
出た1998年3月の世界選手権で銅メダルに
輝いたプルシェンコ。その翌年にヤグディンが
台頭してきた。
2人のトップ争いは熾烈だった。4回転、
コンビネーション——。
互いが互いに勝つために、プログラムを
どんどんレベルの高いものに切り替えていく。
「僕にとって、五輪のイメージは
“プルシェンコとヤグディンが激しいバトルを
繰り広げた場所”なんです」
こうして迎えた2002年2月14日、
男子シングルフリー。
ショートプログラム4位から猛追を見せた
プルシェンコを振り切って金メダルを
獲得したのは、ヤグディンだった。
しかし、羽生を虜(とりこ)にしたのは、
銀メダルに終わりながらも強烈な印象を
世に与えたプルシェンコの方だったので
ある。
たくましい踏み切りから繰り出される
4回転トゥループジャンプはもちろんの
こと、高い柔軟性が求められるため男子に
とっては非常に難しいビールマンスピン
(片足を頭上に伸ばし、体を反らした姿勢で
ブレードを持ち上げながら回転するスピン技)
は圧巻だった。
体の柔らかさには自信のあった羽生は、
すぐにビールマンスピンを練習した。
髪型はプルシェンコを真似て
マッシュルームカットに。
サイン色紙には自分の名前よりも大きな、
キノコのイラストを丁寧に書き添えていた。
「一枚書くのにも時間がかかって大変
だったけど、あのころは僕にとってキノコが
ラッキーチャームだった。プルシェンコ選手は、
僕にとってあこがれの選手で、今もあこがれている」
あこがれの人を超えた瞬間
それから12年の歳月が流れた2014年2月。
羽生とプルシェンコは、ソチのリンクで
初めてともに戦った。羽生19歳、
プルシェンコ31歳。団体の男子ショートプログラム
(SP)が2人の最初の“そろい踏み”だった・・・・
明日へ続く。
-------------------------------
まだまだ、続きますよ~~
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羽生結弦さんのお姉様はとても
謙虚な方。
五輪2連覇のパレードの日、
アイスリンク仙台には多くのファンが
詰めかけ、やむなく入場打ち止めに
なったそうだ。
館長さんと並んで、羽生さんそっくりな
お若い女性が、本当に申し訳
↓
なさそうに、何度も何度も頭を下げて
いらっしゃったとか。
お姉様だとすぐわかりました、と
その方はおっしゃった。
あの頃はアイリンさんの職員だと公表
されていた。
私は思った。
お姉様は、大事な弟の晴れ姿を見る
ことができたのだろうか。
震災と身を削る努力の末、夢を叶えた
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『y 羽生結弦写真集』
(スポーツニッポン新聞社)
小海途良幹/長久保豊
人知れず捧げられる精霊の舞を見て
しまったかのような
息をのむ神々しさ
感想など無粋である
美しい表紙に
言葉もない。
羽生結弦
y
七さんのツイより
星降る夜の準備はできた?
羽生結弦 選手
可愛いイラスト画あり
ミケたん໒꒱さんのツイより
ソチOP
羽生くん
練習のリンクでプル様と一緒になり
ヤバい😳と
ワクワクする姿😆
その時プル様
『結弦は倒しがいがある
どうやって倒すか』と考えて
おられたとか
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知っている私たちは、「可哀想な人々」の
ゴシップ程度では揺るがない
日野百草
ファンしか知らない羽生結弦
1 一転して羽生結弦のない本と
なってしまった
2「報道の自由」として他者の検閲を原則、
受けることなく報じる
3 ゴシップ誌のしぶといところは、この二者を
うまく使い分ける
4 まず羽生結弦はプロである
これほど急なケースは私も経験ない
5 羽生結弦ほどプロとして成功している
フィギュアスケーターは日本にいない
6 羽生結弦という絶対的なコンテンツ力を
まざまざと見せつけた
7 フィギュアスケートで、単独スケーター
の興行が成立している事実
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羽生を虜にした2強対決
1994年12月7日、宮城県仙台市で
羽生は生まれた。フィギュアスケートと
出合ったのは4歳のとき。荒川静香、本田武史ら、
仙台のリンクで育った選手が1998年2月にあった
長野五輪に4人も出場していたことで、
当時の仙台ではフィギュアスケートブームが
起きていた。
元五輪代表の佐野稔氏が仙台で開いたスケート
教室に、姉についていく形で通い始めた
4歳の羽生。数年の月日が流れたころ、楽しく
滑っていた無垢な少年の目の前に現れた
ヒーローが、プルシェンコだった。
2002年ソルトレークシティー五輪。
羽生はテレビに釘付けだった。当時19歳の
プルシェンコと、アレクセイ・ヤグディンの
“ロシア人対決”に胸を躍らせていたのだ。
2強のうち、最初に頭角を現したのは、15歳で
出た1998年3月の世界選手権で銅メダルに
輝いたプルシェンコ。その翌年にヤグディンが
台頭してきた。
2人のトップ争いは熾烈だった。4回転、
コンビネーション——。
互いが互いに勝つために、プログラムを
どんどんレベルの高いものに切り替えていく。
「僕にとって、五輪のイメージは
“プルシェンコとヤグディンが激しいバトルを
繰り広げた場所”なんです」
こうして迎えた2002年2月14日、
男子シングルフリー。
ショートプログラム4位から猛追を見せた
プルシェンコを振り切って金メダルを
獲得したのは、ヤグディンだった。
しかし、羽生を虜(とりこ)にしたのは、
銀メダルに終わりながらも強烈な印象を
世に与えたプルシェンコの方だったので
ある。
たくましい踏み切りから繰り出される
4回転トゥループジャンプはもちろんの
こと、高い柔軟性が求められるため男子に
とっては非常に難しいビールマンスピン
(片足を頭上に伸ばし、体を反らした姿勢で
ブレードを持ち上げながら回転するスピン技)
は圧巻だった。
体の柔らかさには自信のあった羽生は、
すぐにビールマンスピンを練習した。
髪型はプルシェンコを真似て
マッシュルームカットに。
サイン色紙には自分の名前よりも大きな、
キノコのイラストを丁寧に書き添えていた。
「一枚書くのにも時間がかかって大変
だったけど、あのころは僕にとってキノコが
ラッキーチャームだった。プルシェンコ選手は、
僕にとってあこがれの選手で、今もあこがれている」
あこがれの人を超えた瞬間
それから12年の歳月が流れた2014年2月。
羽生とプルシェンコは、ソチのリンクで
初めてともに戦った。羽生19歳、
プルシェンコ31歳。団体の男子ショートプログラム
(SP)が2人の最初の“そろい踏み”だった・・・・
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