おはようございます!!。
今日はかなり雲に包まれてしまった空です。
今のところ、まだまだ、頑張らないことには、先に進めませんので、ちょうど良いかも知れません。
やっと、母の最期の頃の、厳しい状況が、和らいできて、何とか、これからの自分自身の人生に、戻りつつあります。
父は、なんだか、私を、信用しないかのような態度ですが、冷静になれば、私自身は、それなりに、ベストを、尽くしていました。
しかし、昨日の日本全体の私の評価のように、普段から、上からばかり、管理されている社会のために、
謙遜に、他人の話を聞いてしまう私が、一方的な話を、遮らないでいると、確かに今回のように、一方的な損失になります。
私は今まで、人々が、一方的な話をするのは、もしかしたら、経験則として、教会との社会的かかわり方について、
達人的な、知識を蓄積しているのだろうか?、と慎重でしたが、さすがに、大人として、教皇様の退位を、二回も経験すると、
むしろ、大昔に比べて、弱小化したとしても、教会社会の巨大さによって、お互いを正確に知るまでに時間がかかり過ぎると言う
潜在的な大きな問題があるからだ、とやっと気付いたとも言えます。
やはり、この問題解決のためには、かなり社会的に頑張って、「一般」としての揺るぎない行動と実績が、必要と思います。
私が、公立中学生だった頃、良く先生達が、言っていた言葉「正直者が馬鹿を見る」は、確かに似ている問題だと思います。
私の放送大学での専攻の決定に、心の底で作用していた過去の記憶であったと思います。
だからこそ、「発達と教育専攻」から入った私が、長い時間見られていたために、沢山の時間と授業料が必要であったと思います。
結果として、心理と教育コースの卒業が、一時的にも、地域の教育者の間では、歓迎された原因と思います。
そして、東京修道院長として亡くなった「G・ミシェル・ガリエピ神父」様の私への指導が、いつも、一方的な人々に対する完全フォローを、
求められた原因でもあるのだと思います。
その結果は非常に良かったものの、私の精神的負担は一時的に大変でしたが、重大な欠点としては、こうした社会的指導者の交代劇は、
一般社会においても、大きな変動をもたらし、その本質が継続不能な事態の場合には、やはり当事者の大きな努力によって、
その問題を整理するしかないという最も基本的な事態に於いて、あまりに巨大なキリスト教社会の中では、それが正しく繁栄されてくるまでには時間がかかることと、
人間である以上、成長が伴うことによって、さらに、時間がかかったと言えます。
私は、よく、母の主治医について、厳しい批判を書きましたが、難しいことの要求なのではなく「断定的な病態状況を断定的な態度で行うことへの人間としての
霊的な配慮、神知識の欠如、或は、一般的な家族心理への配慮の欠如」を言っているだけだった。
それは、「心理と教育コース卒業生」として、」もし、素直にそのコースのみで、人間発達科学の修士課程に学んでいたならば、未熟な日本の医学偏重に、慎重かつ従順な態度で、
きっと担当医の自尊心は保たれ、その横暴には至らず、もしかしたら、今も尚、苦しいながら元気な母を見ていることが可能であったであったろうと思います。
しかし、それでは、この問題の中核が、無視されたままで、日本の過ちが続けられ、第三の世界大戦を引き起こすまで、気付かれなかったであろうと思います。
結果として、第二次世界大戦の繰り返しの結果に終わる可能性すらあったと心配した私でした。渦中の人物にとってはそのくらい大変なことでした。
それらを考えるとなんで今と思って生き返ってほしいものだとやはり思います。
私は、今は落ち着いて日々を送っています。そして、貴重な反省と記憶の整理が行われつつ新しい努力に進んでいます。
私自身も、相次ぐ教会の指導者の交代で、軽率な言動を柄にもなく、母にしてしまったこともあって、このような結果に終わりました。
そして、自然と環境での大学院の学習を始めた場合にはどうなるのだろう?と思います。私が40年若かったら絶対に起きなかった心配です。
これからは、さらに、しっかりと冷静に教皇様はじめ、各指導者の皆様と、私自身の大きくなった力や立場を考えて、より謙遜な言動の中で、力強く生きようと思います。
※後から追加ですが、もちろん、結婚して、しっかりとした家庭を持ち、今後も、学習研究の継続として、現在のそして、将来の希望の学習を続けます。
皆様宜しくお願い致します。・・・OCNモバイルワンは本当に、限界です。なるべく早く改善したいと思います。
それでは、この世界中に神の平安がありますようにと祈りたいと思います。
Pietro Francisco Xavier Francisco Hiroyuki Sawaguti
**************************マタイによる福音書から続き************************
地の塩、世の光
「あなた方は地の塩である。もし塩がその持ち味を失ったなら、
どうやってそれを取り戻すことができるだろうか。もはやその塩は何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、
人に踏みつけられるだけである。
あなた方は世の光である。山の上にある町は、隠れることはできない。ともしびをともして、
枡の下に置く人はいない。燭台の上に置く。
こうすれば、家にいるすべての人々のために輝く。このように、あなた方の光を人々の前に輝かせなさい。
そうすれば、人々はあなた方の善い行いを見て、天におられるあなた方の父をほめたたえるであろう」。
********************本日の転記はこれまで*********************
今日はかなり雲に包まれてしまった空です。
今のところ、まだまだ、頑張らないことには、先に進めませんので、ちょうど良いかも知れません。
やっと、母の最期の頃の、厳しい状況が、和らいできて、何とか、これからの自分自身の人生に、戻りつつあります。
父は、なんだか、私を、信用しないかのような態度ですが、冷静になれば、私自身は、それなりに、ベストを、尽くしていました。
しかし、昨日の日本全体の私の評価のように、普段から、上からばかり、管理されている社会のために、
謙遜に、他人の話を聞いてしまう私が、一方的な話を、遮らないでいると、確かに今回のように、一方的な損失になります。
私は今まで、人々が、一方的な話をするのは、もしかしたら、経験則として、教会との社会的かかわり方について、
達人的な、知識を蓄積しているのだろうか?、と慎重でしたが、さすがに、大人として、教皇様の退位を、二回も経験すると、
むしろ、大昔に比べて、弱小化したとしても、教会社会の巨大さによって、お互いを正確に知るまでに時間がかかり過ぎると言う
潜在的な大きな問題があるからだ、とやっと気付いたとも言えます。
やはり、この問題解決のためには、かなり社会的に頑張って、「一般」としての揺るぎない行動と実績が、必要と思います。
私が、公立中学生だった頃、良く先生達が、言っていた言葉「正直者が馬鹿を見る」は、確かに似ている問題だと思います。
私の放送大学での専攻の決定に、心の底で作用していた過去の記憶であったと思います。
だからこそ、「発達と教育専攻」から入った私が、長い時間見られていたために、沢山の時間と授業料が必要であったと思います。
結果として、心理と教育コースの卒業が、一時的にも、地域の教育者の間では、歓迎された原因と思います。
そして、東京修道院長として亡くなった「G・ミシェル・ガリエピ神父」様の私への指導が、いつも、一方的な人々に対する完全フォローを、
求められた原因でもあるのだと思います。
その結果は非常に良かったものの、私の精神的負担は一時的に大変でしたが、重大な欠点としては、こうした社会的指導者の交代劇は、
一般社会においても、大きな変動をもたらし、その本質が継続不能な事態の場合には、やはり当事者の大きな努力によって、
その問題を整理するしかないという最も基本的な事態に於いて、あまりに巨大なキリスト教社会の中では、それが正しく繁栄されてくるまでには時間がかかることと、
人間である以上、成長が伴うことによって、さらに、時間がかかったと言えます。
私は、よく、母の主治医について、厳しい批判を書きましたが、難しいことの要求なのではなく「断定的な病態状況を断定的な態度で行うことへの人間としての
霊的な配慮、神知識の欠如、或は、一般的な家族心理への配慮の欠如」を言っているだけだった。
それは、「心理と教育コース卒業生」として、」もし、素直にそのコースのみで、人間発達科学の修士課程に学んでいたならば、未熟な日本の医学偏重に、慎重かつ従順な態度で、
きっと担当医の自尊心は保たれ、その横暴には至らず、もしかしたら、今も尚、苦しいながら元気な母を見ていることが可能であったであったろうと思います。
しかし、それでは、この問題の中核が、無視されたままで、日本の過ちが続けられ、第三の世界大戦を引き起こすまで、気付かれなかったであろうと思います。
結果として、第二次世界大戦の繰り返しの結果に終わる可能性すらあったと心配した私でした。渦中の人物にとってはそのくらい大変なことでした。
それらを考えるとなんで今と思って生き返ってほしいものだとやはり思います。
私は、今は落ち着いて日々を送っています。そして、貴重な反省と記憶の整理が行われつつ新しい努力に進んでいます。
私自身も、相次ぐ教会の指導者の交代で、軽率な言動を柄にもなく、母にしてしまったこともあって、このような結果に終わりました。
そして、自然と環境での大学院の学習を始めた場合にはどうなるのだろう?と思います。私が40年若かったら絶対に起きなかった心配です。
これからは、さらに、しっかりと冷静に教皇様はじめ、各指導者の皆様と、私自身の大きくなった力や立場を考えて、より謙遜な言動の中で、力強く生きようと思います。
※後から追加ですが、もちろん、結婚して、しっかりとした家庭を持ち、今後も、学習研究の継続として、現在のそして、将来の希望の学習を続けます。
皆様宜しくお願い致します。・・・OCNモバイルワンは本当に、限界です。なるべく早く改善したいと思います。
それでは、この世界中に神の平安がありますようにと祈りたいと思います。
Pietro Francisco Xavier Francisco Hiroyuki Sawaguti
**************************マタイによる福音書から続き************************
地の塩、世の光
「あなた方は地の塩である。もし塩がその持ち味を失ったなら、
どうやってそれを取り戻すことができるだろうか。もはやその塩は何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、
人に踏みつけられるだけである。
あなた方は世の光である。山の上にある町は、隠れることはできない。ともしびをともして、
枡の下に置く人はいない。燭台の上に置く。
こうすれば、家にいるすべての人々のために輝く。このように、あなた方の光を人々の前に輝かせなさい。
そうすれば、人々はあなた方の善い行いを見て、天におられるあなた方の父をほめたたえるであろう」。
********************本日の転記はこれまで*********************