私の生活も、ようやく、落ち着きを、取り戻しつつあります。
考えてみると、小さい子供の頃から、言葉には、敏感に、反応?
考え、疑問を、良く追っておりましたし、特に、30歳過ぎ頃からは、
磐梯雪の聖母修道院(女子修道院?であるにもかかわらず)に、
泊り込んで、日常の会話のあり方と信仰生活について、
深く、考えを、まとめ、良く、
改心して、信仰的には、
長時間かかって、神への、新たな回心を、
自分なりに、生きている環境に、合わせて、
様々な、思い、行い、言葉について、自己改革をして、実は、
普通の人々とは、雲泥の差が、生じていた日常生活において、
その、雲泥の差が、生じた、知識と経験が、原因となって、
このところの、私の生活や家族・親族の苦しみを、
もたらした事は、確かでした。
特に、自分自身を、ベテランで、良く判ったつもりの、日本流には、
「生臭坊主」という言葉のぴったりな、様々な人々の、他人への
干渉で、他者崩壊を、起こさせて、生き残ってきた、
恐ろしい者達との、(実際は、大した事はない問題!安心して!)
戦いの方法について、考えたり、社会の問題を、考えたりして、
大いに、苦しんだのでした。
最も、私自身の分析力は、すばらしく、他人に対して、冷たく
なりきれていたならば、と思いいます。
しかし、私は、社会のバランスを、見る力が、神に、
与えられていたので、このように苦しみ、今に至っていますが、
今後は、十分に割り切る予定です。
とは言え、家族の生活の心配があって、教皇様の望むような、
純粋なキリスト教指導者には、なれません。
現在の社会の特徴でしょう。
今でも、お気づきの様に、かなり、割り切り、始めています。
とは言え、非常に優しいのですが、やはり、かなり、
割り切り始めています。
と言う訳で、私の証は、自分の中では、もう形成されています。
それを現実の生活の表現を、表すだけです。
今後、無意味な干渉については、無意識に、神のお力に、
ゆだねてゆきます。
どうぞ、お気をつけて、皆様も、頑張って、
生きてゆくようにしてください。
それでは、この世界に生きる全ての皆様に、神の相応しい恵みと、
平安と祝福がありますよう、心から、お祈り致します。
Francisco Xavier Hiroyuki Sawaguti.