あるクリスチャン理学療法士の思いつき日記

クリスチャン理学療法士の私
聖書のこと、日々ニュースに思うこと、大好きな野球の話など
気ままにアップしています。

理由、答えのない苦しみ 石巻工(宮城)・阿部翔人主将が行った選手宣誓 

2013年04月30日 | 気になるニュース

リハビリ室に一枚の紙が貼ってあります。
作業療法の一環で、患者さんが何かを見て各練習のために習字で書いたものです。
なんの文章かというと、第84回選抜高校野球大会の開会式で、石巻工(宮城)・阿部翔人主将が行った選手宣誓の全文です。

とてもいい文章です。私もリハビリ中に何度も見ます。(↓に記載しました。)
特に好きな部分があります。
「人は誰でも答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです。」
というところです。

病院でも、病気やケガについてよく考えさせられます。
確かに病気に原因はある。

しかし、病気に「なぜ私ではなく、あなたが?」という理由、答えはない。
(自分の不節制ということはあり得るが、不節制をしても病気にかかる人もいればかからない人もいる。危険性は高まるが、「必ずかかる」のではない。
喫煙をしても肺病にかかるとは限らず、その副流煙で病気にかかる人もいる。)

「自分が悪いことをしたからこんな罰(ばち)が当たったのかな。」と病気を悲しむ人が大勢います。
無意識なのかわかりませんが、何か「自分が病気にかかった理由」を探したいのです。

でも答え、理由のない苦しみばかりです。

関越道ツアーバス事故から今昨日で1年。
答えのない苦しみでしょう。私には分かりませんが、相当な苦しみでしょう。
家族を失った家族や、今も心や体に痛みや障害を負っている方々にとっては。
自分の責任で負った傷であれば、心は少しは違うかもしれません。
でも乗客には何の落ち度もなく、突然降りかかった災難です。

多くの方々の回復のために祈ります。



宣誓。
東日本大震災から一年、日本は復興の真っ最中です。
被災をされた方々の中には、苦しくて心の整理がつかず、
今も、当時のことや、亡くなられた方を忘れられず、
悲しみに暮れている方がたくさんいます。

人は誰でも答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです。

しかし、日本が一つになり、その苦難を乗り越えることができれば、
その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。

だからこそ、日本中に届けましょう。感動、勇気、そして笑顔を。
見せましょう、日本の底力、絆を。

我々、高校球児ができること、それは、全力で戦い抜き、
最後まで諦めないことです。
今、野球ができることに感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います。

平成24年3月21日、選手代表、宮城県石巻工業高等学校野球部主将、阿部翔人

記憶障害の花嫁 最期のほほえみ

2013年03月10日 | 気になるニュース
「記憶障害の花嫁 最期のほほえみ」
北海道放送 2011年12月29日 16:00 ~ 16:54

今日は妻とこの番組の再放送を見ました。
萩田つかさんという方の実話です。
*内容は以下のサイトをご覧ください。
報道の魂 TBS
エンタ魂のサイト

悲しい結末ではあるのですが、本当に生きる勇気をもらいました。素直に。
萩田つかささんの言葉がとっても印象的であったのですが、紹介のサイトには載っていないですね。
それがちょっと残念です。正確ではないかもしれませんが、紹介しますね。

合格つかささんの考える「自立」とは・・・
「自分のやりたいこと(でも自分では難しいこと)を誰かに「お願いします」と言って、やりたいことをやれること。」

ひらめき電球電動車椅子生活のつかささんにとって、「バリアフリー」(道路や家・施設など)は・・・
「世の中が完全なバリアフリーにはならないほうがいい。
 それは人の温かさを感じられなくなってしまうから。」

医療・福祉に身を置く人間として、私はこのつかささんの言葉を覚えていたいなって思いました


余談かもしれませんが。。。
番組としてエピソードがTVで紹介されると、いろんな意見が2ちゃんねるやブログなどを使って言われます。(私もブログで意見を言う、その一人であるのですが。)
でも、言いたいことを言ってもいいとは思いますが、
見られるということも意識して、そしてその意見を読んだ人がどう影響を受けるか、それを考慮して意見を書くべきではないかと思います。
そして、万が一、遺族の方も見るかもしれないということを考えるべきだと思います。
人間として、大人の対応も大事かなって思います。
(避難されるべき人が一人もいないっていう、今回のようなエピソードに関しては。)


ネットの情報ですが、このお話が映画(ドラマ?)になるってことですね。
ただの安っぽい恋愛ものにならないようにと願うばかりです。
(障がいがドラマチックな効果をもたらすために、恋愛の布石として使われる、なんてことのないように。)
命をかけて、ハンデがあっても、ただただ真っ直ぐに一生懸命に生きたつかささんがクローズアップされるようにと思います。
障がいは関係ない。一人の女性として描いて欲しいです。

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2013年01月21日 | 気になるニュース
麻生氏、終末期患者を「チューブの人間」と表現
読売新聞 1月21日(月)19時42分配信

麻生副総理は21日、首相官邸で開かれた社会保障制度改革国民会議で、終末期医療の患者を「チューブの人間」と表現し、「私はそういう必要はない、さっさと死ぬんだからと(遺書を)書いて渡してある」と語った。

 その上で、「死にたいなと思って、生かされるのはかなわない。政府の金で(延命治療を)やってもらうなんてますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと解決しない」と述べた。

 麻生氏はその後、財務省内で記者団に対し、「私の個人的なことを申し上げた。終末医療のあるべき姿について意見を申し上げたものではない」と釈明した。また、「公の場で発言したのは適当でない面もあった。当該部分について撤回し、議事録から削除するよう申し入れる」とするコメントを発表した。

プンプンふざけるな。ですね。
「死にたいと思ってる。」人=終末期医療を受けている人なんでしょうか。
とんでもない、何を言ってるんですか。その理解が既に間違っています。
適当でない、言う場所を間違えた、だけなんでしょうか?
言ってる内容も間違っていますよ。

また、麻生さんが「自分がどう思っているか。」なんて、ここでは関係ないですよ。
それに、自分が終末を迎えた時に本当にそう言うのかも分からないですよ。
健康な時は何でも言えますよ。

延命治療にお金がかかる。国民の負担も大きい。これは事実。
延命治療を望まない人がいる。これは事実。
しかし、延命治療をすべきかどうか、どう判断するかは本当に難しい。
そして意思確認が難しい場面が多い。
倫理的に自殺・他殺との違いはないのか。
残された家族の後悔・罪責感は続くことの苦しみ。それも事実。
本当に難しい問題。解決があるのかどうかもわからない問題です。
部外者の「本音はこう」で終わる問題でも、当事者となったら解決を求めてもがきまくるような問題です。
それだけに簡単にコメントできない問題です。

それなのに「ごちゃごちゃ言わずに本音を言って解決しましょう by麻生」ですか。
ズバッと本音を言う言葉、皮肉のような言い方、好き放題な言い方、
麻生節かなんか知らないですが、どんな言い方をしたとしても、理解できません。
本音はそうだよね、で、そのあとこの議論は発展していくんですか?
どうやって現実に法制化するんですか?
どうやって意思を確認するんですか?
自殺をすすめるんですか?(チューブがついていれば特例で自殺に当たらないとでも?)
「死にたいな。」と思ったら、その人は死なされるんですか?
こんな発言をしても、何にも進みませんよ。

今回の発言は「自分の気分を言っただけ」で、まったく馬鹿げていると思います。
ただの酔っぱらいのたわごとレベル。

意外に麻生発言を支持するコメントが多いのにビックリです。

延命治療を考えるのなら、もっと議論や研究は進んでいますよ。
何となく「こうしてしまえ」と感想で言ってしまうのは勉強が足りないだけ。
健康な人が何も知らずに言う、まさに素人レベルの大臣。
庶民の声を代弁しているかもしれないですが、頭の中が庶民レベル・素人レベルの大臣じゃ困る。
プンプン



温泉&おすすめの本

2013年01月20日 | 日記
おはようございます。ニコニコ
今日は朝から近くのお風呂に行ってきました。
ゆっくり入りながら、いろんなことを考えているのが好きなんです。

昨日から、事故の影響なのか、右の首から肩甲骨の周囲まで突っ張りがあって、
首の前屈(下を向く)と右向きが痛くてできなかったのです。
その痛みも楽になるといいなぁと思って。

朝からおじさんたちは入りに来ていましたよ。
元気ですね。
今日は大寒だそうですね。
それほど極端に寒くはならないとのことですが。

追突後のむち打ちは、寒くなると痛みが出ると言われていますが、
痛みが良くなるようお祈りいただけるとありがたいです。
よろしくお願いします。かお





最近読んでいる本です。
どのようにして人は怠けたり、欲望に走ってしまうのか。
それは制御できるのかどうか?
気合とか、精神論ではなく、生理学的・心理学的にどのようなことが起こっているのか。
理論的に書いてあるのがとても嬉しいです。

「すべきこと、すべきでないことが分かっているのに制御できない。」
というのが多くの人の悩みだと思います。
(だって、分かっていないからできない(してしまう)なら、あまり悩まないのです。
その点については判断が子供だったわけで、学習して、これから直せばいいだけなのですから。)

私は「すべきこと、すべきでないことが分かっているのに制御できない。」
ということが「解決できるのか」「本能だから解決できないのか」が知りたいのです。

この本は解決(の糸口)を与えてくれると思います。
余談ですが、久しぶりに本屋さんで(信仰書以外の本で)定価の本をその場で買いました。
スタンフォードの自分を変える教室/大和書房

¥1,680
Amazon.co.jp


神は最善のことをなしたもう方。 感謝、感謝。

2013年01月07日 | 聖書から
ルカの福音書23章
33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
38 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」


まず、人間の罪ということを見ます。
他の福音書では、「イエス様に向かって犯罪人が二人で悪口を言い合っている。」とあります。
これが人間の姿です。
一人の人(神)に向かって一緒に悪口や文句を言う仲間で、自己中心の塊・自己主張の嵐です。
「同じ人に同じ不満を持っている」そういう間柄って仲良くなるんですよね。

この犯罪人たちの場合、自分の犯した罪を認めないという姿勢には、こんな事情があるのではないでしょうか。
当時、過ぎこしの祭りに囚人を釈放する赦免という習慣がありました。
死刑判決は出ていたものの犯罪人の頭には「凶悪で有名な犯罪者のバラバより自分は罪は重くないだろう。赦免されるのは自分ではないだろうか。」という思いがあったのではと想像できるのです。
そこに自分の命が助かる一縷の希望を持っていただけに「なぜ、釈放されたのが自分でなくバラバなんだ。」と怒っているのです。
「ピラトが『釈放して欲しいのはバラバかイエスか。』なんて言わなければ赦免されたのは自分だったかもしれない。」と怒る。
本当は死刑判決が当然で、「釈放されるはずだ。」というのは自分勝手な希望、言い分なのに、「裏切られた。自分は被害者だ。」と怒り、被害者意識になるのです。
当然死刑である存在なのに、自分は助かるべき人間なのに、裏切られた不幸な人間だと思うのです。


これがまさに私たち人間の姿ではないでしょうか。
神から地獄行きを宣告されても文句ひとつ言えない存在なのに、
「神様がいるならなぜ地獄なんかを用意するんだ。みんな無条件に天国に入れるべきだ。」
「そんな愛のない神は神でない。」と文句を言うのが人間なのです。
自分の理屈に合わないことは受け入れない。思い通りにならなければ、不平不満を言い、自分は被害者だと言い、挙げ句の果てには神はいないと言い、自分が神であると結論づける。
これが罪であります。


33節「イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」とあります。
簡単な一文ですが、そこに神様のご計画を見たいと思います。
これは本当に特別な配慮だと思うのです。
イエス様、犯罪人A、犯罪人Bの並び順で十字架に架けられたらどうでしょう?
犯罪人同士で隣合って悪口をイエス様に向かって一緒に言っていたら、犯罪人はお互いの顔は見えますが、十字架上のイエス様の顔は見えづらく、話していることは聞こえにくかったでしょう。
(特にイエス様から遠い位置にいる犯罪人Bは。)
しかし、イエス様が「真ん中に割って入ってくださった。」のです。
(真ん中はバラバがつくべきところだったのか。それは分かりませんが。)


犯罪人B(悔い改めた犯罪人とします)は、最初は悪口を言っていましたが、それを止め、あくまで悪口を言い続ける犯罪人Aをたしなめるようになります。
そして「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。」「十字架にかかるべき罪を犯した。」と自分の罪を認めました。
「だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」とイエス様に罪がない方であること、自分と同じ人間ではないことを認めました。
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」とイエス様の神性が分かり、神様に頼りました。
立派な信仰告白です。

イエス様が預言通りのメシヤかどうか、そんなことまで吟味したわけではないでしょう。
また、どうしたら救われるのか分かっていたわけではないでしょう。
でもイエス様が真ん中(犯罪人Bの隣)でその信仰告白を導いてくださったのです。
犯罪人Bに語りかけて「信じろ」と強制したわけではなく、架かるいわれのない十字架にかかられたイエス様の姿勢や、人間のためのとりなしの祈りを間近で見ることによって、自分から信じたのです。
はじめは「なぜ、この体の苦しみがあるのでしょう。不当だ。助けろ。」と言っていた犯罪人が、死後のことを考え、「感謝します。」に変えられたのです。


ちなみにイエス様が真ん中におられたのは、悔い改めなかった犯罪人Aの隣にもいてくださったということです。悔い改め、信仰を持つチャンスは平等でした。
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(Ⅰヨハネ5:12)とあります。
イエス様の左右で人の目には同じように十字架で死んだ犯罪人2人。
しかし、霊的には対照的な結果(いのちを持つ者と持たない者)となりました。


もうひとつの疑問。
それは、イエス様は十字架から降りなかったし、犯罪人を降ろすこともなさいませんでした。
今までの例を考えれば、「十字架上の犯罪人は助け、イエス様のみが十字架にかかった」という結論でもいいのでは?と思うでしょう。
姦淫の女を石打ち刑から助け、「もう罪を犯してはならない。さあ、行きなさい。」と言われたイエス様です。
しかし、なぜか十字架では犯罪人を十字架から下ろしませんでした。
これは不公平なのでしょうか?

そうではありません。
十字架という試練は取り除かったが、さらに素晴らしいものを与えてくださったのです。
一緒に天国に行ってくださったのです。
「死ぬべきこの世の体は死ぬが、天の御国に入ることができる。」ということを示してくださった。
そして多くの人がこの聖書の箇所を読んで救われ、励まされることになったのです。
神は最善のことをなしたもう方。 感謝、感謝。


神様が用意される「脱出の道」はかなり奇跡的な方法も。

2013年01月04日 | 聖書から
あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
コリント第一の手紙 10章13節


聖書は「文脈で読むことが大切」とよく言われます。
有名な箇所だけ取り出して、その言葉をいろいろな状況に適用していくのも良いですが、
純粋に文脈から、シチュエーションから考えるのも大事ですね。
どうしても聖句だけ取り出して覚えてしまいますよね。


その時代・場所に自分がいて、自分に向けて書かれたと。(自分がコリントの教会員であると。)
どんなことをパウロは言いたかったのか、
例えば10章13節においては、この手紙では何を「困難」としていたのだろうか?
そう思って書簡全体を読むのは新たな発見がありますよ。

どんな困難が語られ、どんな解決があると言われていたのでしょう?
病気?いじめ?仕事がない?家庭内の不和?そのほか??
その解決策は神様が必ず用意してくれると?
でも、それはあくまで現代の私たち、現代の問題への適用なんですね。
(それも正しいことです。)

文脈をつかむと、パウロは第一義的にはそうではなく、「脱出」は言葉通りの脱出です。
「エジプトからの脱出を神様は成してくださったではないか。」ということです。
モーセに率いられたエジプトから脱出の旅においていろいろな困難がありました。
旅では不満を漏らしたくなることばかり、エジプト軍に追われ、食べ物や水の心配が有り。
こんなことなら「エジプトで奴隷をしていたほうが良かった」ということばかり。
これが「困難」でした。


しかし、神様は必要なものを与えて敵を殲滅し、無事に「脱出」させてくださるのです。

それを自分の生活に適用させるのが正しい解釈ではないでしょうか。
単に苦境から人間でも思いつくような方法で脱出させて下さったり、解決策を与えてくださるのではない。
もちろん食べ物のことのような日常的なことの解決もあるでしょう。
でも、出エジプトのエピソードを知っている方は、どんなに奇跡が行われたか知っておられるでしょう。
天候が守られて食物が畑で育った、なんて方法ではなく、天からマナです。

また、命の危険の時には、紅海がわれた時のようにありえないことをして下さってまで、私たちを安全に導いてくださるのです。

何てものすごい方法を取られるのでしょうか。
そんな方法・そんな力を持っておられるお方が味方についているのです。
家族の救い、本当に壁が高く厚いように見えます。
でも、その脱出・解決の道が「自分の力で」、なんて考える方がおかしく思えます。
出エジプトを思い出してみてください。
緊急事態には奇跡的な方法も必ずや神様はとってくださいます。
(神様がやってくださるから自分は何もやらないでおこう、って慢心につながってはいけませんが・・・。)

言いたいことが伝わったら嬉しいです。
ではおやすみなさい。。。


仕事始めです

2013年01月04日 | ダイエット・健康法
みなさん、お正月は食べ過ぎなかったですか?
今日お風呂に入る前体重計に乗ってびっくり。
体年齢が40歳に・・・ガーン
ある意味、順当だったんですけどね。
お腹がいっぱいなのにさらに食べる、そうすると必ず太ってるんです。
お正月もそんな生活してました。
親戚の方が来られて話をしていて、間があくとついつい食べてしまうんです。

昨日から仕事が始まりました。
リハビリ病棟はお正月も関係なくリハビリを行っています。
昨日はお正月ボケで疲れましたね。
患者さんとのトークもイマイチ汗

今日は体が軽かった。
家に帰ってから聖書もしっかり読めました。
今年は一年で聖書通読目指したいと思います。

若さを保つ柔軟体操

2012年12月26日 | ダイエット・健康法
若さを保つためには、柔軟体操は大事なんですねべーっだ!
冬はじっとしてしまいやすい季節。
そして自分が霜降りになるべく??霜降りを食べてしまう季節あせる
まずストレッチから始めようかなアップ
「筋肉のばして 若さをのばせ!」

年をとるにつれ避けられないのが、筋肉の衰え。その大きな原因は、筋肉細胞のもととなる「筋芽細胞(きんがさいぼう)」が、筋肉細胞ではなく脂肪細胞に変化し、筋肉が「霜降り化」してしまうことにあります。

しかし、ネズミの筋肉細胞を使った最新の研究によると、筋肉細胞を単純に伸び縮みさせるだけで、筋芽細胞が脂肪細胞に変化することを防げることがわかったのです。

なんで年とともに「霜降り化」が進むの?

筋芽細胞が脂肪細胞に変化する割合が、年とともに増えて行くことが原因です。しかし、どうしてそのような現象が起こるのか、大もとの原因については詳しく分かっていません。

どれくらい体操をすれば「霜降り化」を防げるの?

現在、さまざまな研究が進められていますが、詳しくはわかっていません。しかし、たとえわずかな運動であっても、伸び縮みさせたぶんだけ、霜降り化を防ぐ効果が見込めると考えられています。そのため番組では、どんな形でもよいので体操を始めて頂き、無理のない範囲で続けて頂くことが重要であると考えています。

今日はクリスマスイブですね。

2012年12月24日 | 日記
今日はクリスマスイブですね。
スーパーに行ったのですが、残っているお惣菜が少なかったですね。
今日パーティーをしている人が多いのでしょうかね?

今日は午前中はのんびりして、午後3時くらいから妻とファミレスに行ってきました。
話をしたり本を読んだりして、夜7時くらいまでいました。
お客さんは意外に少なかったですね。

朝紹介しました「私を祝福してくださらなければ」読み切りました。
かなり感動でした~~~あせる
著者の遠藤嘉信牧師は2007年に48歳の若さで天に召されました。
その一年前に出された本であると思うと、また感慨深いものですね。

私を祝福してくださらなければ―荒削りの信仰者ヤコブの生涯/いのちのことば社

¥2,100
Amazon.co.jp

私は好きなゲームがあり、ゲームセンターに通っていました。
でも、霊的には「止めたほうがいいんじゃないか」っていつも思っていたのです。
でも楽しくてスリルがあって、つい仕事帰りにゲームセンターに寄りたくなってしまうのです。
また仕事中もそのことを考えてしまったりするのです。

でもこの本を読んで、今日そのカードをファミレスのゴミ箱に捨ててきました。

「15章 そこに祭壇を築きなさい」
イエスキリストなる神を礼拝する者として、全く相容れないものを同時に抱きしめていないか、
矛盾するものを自分の中で握りしめていないか、
その箇所を読み、自分にぐっと語られている、自分にチャレンジを与えていると感じたからです。
私を祝福してください!

NHKスペシャル「ヒマラヤ8000m峰 全山登頂に挑む」

2012年12月13日 | 気になるニュース
NHKスペシャル「ヒマラヤ8000m峰 全山登頂に挑む」
標高8000メートル。酸素が薄く「死の領域」と呼ばれる世界だ。そうした過酷なヒマラヤの山々に登り続けてきた登山家がいる。竹内洋岳(ひろたか)さん、41歳。日本人が誰一人として成し遂げていない8000メートル峰14山の全山登頂に長年にわたって挑み、ことし、最後に残った14番目の山、ヒマラヤ山脈のダウラギリに挑んだ。先輩の登山家が犠牲となった死の山に、万感の思いを込めて登った竹内さんの挑戦を追う。
NHK ON LINEより



この前の日曜日のNHKスペシャル見られましたか?良かったですね。
それにしても、撮ったカメラマンもすごい体力と勇気ですね。

竹内さんの「登山は例えるなら、息を止めて深い湖に潜り、その底に手をタッチし、そして水面まで上がってくるまでという感覚に似ている。」といった内容のコメントが心に残った。
頂上に登るまでが登山ではなく、ベースキャンプまで戻ってくることが登山である。

これは、「人生の意味」にもそのまま言えることである。
(遠足でも自宅に帰るまでが遠足です。と言われますね。)
そして神様に対する信仰を持った人生と言えると思いました。
「放蕩息子のたとえ」を知っている方なら、なるほどと思われるでしょう。

例えば会社や学校に向かう子供の親は、息子が帰ってくるまで何を一番願っているでしょう。
会社での成功?学校での優秀な成績?それもあるでしょうが一番ではないはずです。
何よりも、息子が無事で帰ってくることではないでしょうか。
登山家の親は、登山に出かけた息子の無事を一番願っているでしょう。
例え登頂に成功しても、下山中に遭難してしまったら何にもなりません。
遭難するならば何で登頂にこだわらず、諦めて帰ってこなかったのかって無念に思うでしょう。

人生もそうではないでしょうか。
人生の成功は競争社会を勝ち抜くこと?有名になること?お金持ちになること?
ゴールはなんでしょうか?
でも、最後に天国に行けなかったら何の意味があるでしょう?
ゴールは、父なる神様の待つ天国に帰ることです。
(もちろん、人生で何をしたかっていうことも評価してもらえます。
登頂成功も、もちろん栄光ですよ。)