あるクリスチャン理学療法士の思いつき日記

クリスチャン理学療法士の私
聖書のこと、日々ニュースに思うこと、大好きな野球の話など
気ままにアップしています。

“番長”ロナウドの誘惑

2016年11月10日 | 聖書から

俺と遊ぶかカカーの宗教か、どちらか選べ」 快速FWを動揺させた“番長”ロナウドの誘惑

theWORLD(ザ・ワールド) 11/8(火) 20:31配信

ミラン時代を回想

ロナウドか、それともカカーか。元ブラジル代表のアレシャンドレ・パトは、かつて偉大なる先輩から“究極の選択”を迫られたようだ。

2007年にブラジルの名門インテルナシオナルからミランへ移籍したパトが、多くの馴染み深い同胞たちと共に華やかなフットボールを楽しんでいたことは記憶に新しい。若くして欧州参戦を果たし、その華奢な体型からか幾度も負傷に悩まされてきたものの、カカーやロナウジーニョ、そしてロナウドらと共に過ごしたミラノでの生活は思い出深いものだろう。しかしながら『Fox Sports』のインタビューに応じたパトは、初めてミランのロッカールームへ入ったときの“奇妙な体験談”を明かしている。

「あれは僕が17歳の時だ。僕の座る席はロナウドとマルディーニに挟まれていて、前にはカカーがいたね。するとロナウドがこっちへやってきて『調子はどうだい?』と聞いてきて、僕にプレイボーイ雑誌を見せながらこう言ってきた。『俺とカカー、どちらかを選べ。遊びと宗教、どっちが好きなんだ? 俺のグループか、カカーのグループのどちらかに入るんだよ』ってね。僕は戸惑ったよ。ロナウドは僕が昔プレステで遊んでた選手だし、そんなことになるなんて想像もしてなかった。でもこの出来事は忘れられない瞬間さ」

最終的にパトが“ロナウド派”に属したのか、それとも堅気なグループへ入門したのかは分からないが、ピッチ上においてはカカーとの連携により深いシンパシーを感じていたように思える。

http://www.theworldmagazine.jp


今の時代を象徴している発言だと思います。
(カカーは熱心なクリスチャンである。)
“番長”ロナウドの誘惑はサタンの誘惑にしか聞こえないのである。

どんなに目立たない人であっても、世界一大きな事業をした人

2015年02月26日 | 聖書から

何事でも、自分にしてもらいたいことは、
ほかの人にもそのようにしなさい。(マタイ7:12)

わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、
天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。(マタイ7:21)


おはようございます。
まずは信仰をもつ、って大事です。
心の変化によって、行動が変わる、人に対する接し方として表に出る、
ってことは無理にすることではなく自然です。

信仰をもたずに、まず行動を変える修行は無理がきます。反動が出ます。

もちろん、心と反対のことを頑張ってすることもありますよね。
苦手な人にも頑張って笑顔で接し(無理してるかな???と思いつつ)、
起きたくないけど布団から出る!!(特に冬はつらい・・・)
それは感情と反対のことをするってことです。
それによって、心が変わってくるってことはあります。
「やろうとおもってできること」それはじゃんじゃんやりましょう!
感情と反対でも良いこと、すべきことならば。

でも、自分と同じように人を愛するっていうのは、感情的には「その通り」でしょ。
でも、簡単じゃないんです。
頑張ってもできることじゃなく、ネタミがなぜか出てくるんです。
なぜか、自分のほうが先に幸せになりたい、まず自分!という自己中心になってしまうんです。
にじみ出てきてしまうんです。
「まず、人のために」って、やろうと思っても、正しいことと分かっていてもできないんです。

信仰をもってでなければ、できないと思いますよ。


自分は不合格でも、合格した友人を祝福できますか?
「人間だもの」
それは無理!無理してまで祝福する必要はないよ。
それもそうかもしれない。そのアドバイスもありかもしれない。
否定はしないけど、でもソコ止まりの人だと思います。

もう一段上へ行こう!
たとえ自分はだめだったけど、でも祝福することはできると思いますし、そのような人はいます。
私もそんな人になりたいと思う。
人のことでも本気で自分のことのように喜べたら、自分の幸せになるじゃないですか。
(逆に人のことでも、本気で腹が立っても、悲しんでもいいと思います。
 川崎の事件は本当に悲しみ、憤っています)

人と共に喜び、人と共に泣きなさい。本気で!
そして、そのために行動(行動の原点がそこ)をする。
これを守っている人がいたら、人から信頼される人だと思います。尊敬に値します。
どんなに目立たない人であっても、世界一大きな事業をした人と言えると思います。
神様がそう約束してくださっているんです。

今日はどんなことができるだろう!!
こんな小さな私でも。そして、あなたにも・・・。


神の国を第一に求める、は超積極的です。

2014年08月02日 | 聖書から

「神の国を第一に求め、そのほかのことはみこころにお委(ゆだ)ねする。」チョキ

この文章を今朝読みました。
クリスチャンの理想像として当たり前、と思っていたけど、新しい発見でした。

これは「神様のことを思ってみこころに委ねる」、って感じで、
「神様がそうされたから、これは仕方ないか。本当はこうなって欲しかったけどあせる。」と諦める消極性でしょうか?
「やることはやった。あとはどうなるか、結果は神のみぞ知る。」と達観することでしょうか?

そうは思いません。
「神の国を第一に求め」という部分は超積極的です。攻撃的な攻めの姿勢ですグッド!
あまりにすごいものを求めているのです。

世のいろんな出来事以上のことを積極的に求めているので、世のことは小さく思えるので気にならない。
あえて気にしないようにしているのではなく、すごいことを求めているがあまりに、世の結果を気にすることにさえ気づかない。ニコニコ
神の国のことと世のことはそれくらいのレベルで、大きな差なんでしょう。

100億円の取引がどうなるかっていう会議に向かう時に、それを欠席してでも1円玉がタダでもらえる場所に行こうか?とか、いつもより10円安いスーパーのタイムセールに行こうか迷うでしょうか?
迷わず会議へ、というか「迷う」ということすら思いつきもしません。

これは「世のことは自分と関係ない」っていう冷たい主義でしょうか?
そうではなくて、世のことは結果的に(神の国のことを求めている結果として)、気にするんです。
これは良い意味であって、困っている人に自然と声をかけてしまう、そうせざるを得ない自分になっているってこと。
そうなったらいいな。
ホントに今日そんな自分であったらいいな。と思います。ラブラブ

換骨奪胎の解釈変更ではなく、憲法を変えることにしてください

2014年07月12日 | 聖書から

<集団的自衛権>「危険切迫」で行使可能 武力事態法改正へ

毎日新聞 7月12日(土)7時15分配信

 集団的自衛権の行使を可能にするための法整備を巡り、政府は11日、武力攻撃事態法を改正し、日本が外国から攻撃を受ける前でも武力行使できるようにする方針を固めた。同法は武力行使を「(外国からの)攻撃が発生した」場合に限定して認めているが、「攻撃が発生する明白な危険が切迫している」場合でも武力行使を可能とする。日本の安全保障法制の大きな転換点となる。

 来年の通常国会での改正を想定している。同法は、有事の際の自衛隊や地方自治体の対処方針の概要などを定める。現行法は外国からの武力攻撃に対しては「武力の行使は、事態に応じ合理的に必要と判断される限度においてなされなければならない」とし、自衛隊の武力行使は日本が攻撃を受けた場合に限っている。

 1日の安全保障に関する閣議決定は「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した場合」でも、日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険があると認めれば、武力行使が可能だとした。改正で、自衛隊が集団的自衛権に該当する活動に従事する際の法律上の根拠とする。

 同法は、防衛のための自衛隊出動には国会承認が必要と定めており、日本が攻撃を受けていない場合の出動にも同様に国会承認を義務付ける。武力行使の程度に関しても、現行法と同様に「事態に応じ合理的に必要と判断される限度においてなされなければならない」との制約を盛り込む。【青木純】


いよいよそういうことになってきましたか。
予想通りの展開とはいえ、早急な進み具合です。
「先制は最大の防御」を良しとするか。
アメリカはそれで失敗、批判も受けています。成功も収めていると思いますが。
安倍首相はそれを覚悟の上で進んでいるのでしょうか。

換骨奪胎の解釈変更ではなく、憲法を変えることにしてください。
もしくは、(本当はこうして欲しくないですが)解散・選挙という形で信を問うてください。
そうでないと、安倍自民党、公明党の覚悟が分かりません。
世界の批判を浴びるかもしれない、アメリカ以外の国(仲間と思っていたような国も)を敵に回すかもしれない決断なのです。
国民を2分するような大きな議論のはずなのに、このままではそれを戦わせる場がまったくありません。叫び

「戦争と平和展 特攻兵が飛び立つとき―松本から知覧へ―

2013年08月18日 | 聖書から
「戦争と平和展 特攻兵が飛び立つとき―松本から知覧へ―」
松本市立博物館へ一昨日行ってきました。


HP 特別展「戦争と平和展 特攻兵が飛び立つとき―松本から知覧へ―」を開催します
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心に残ったこと。
少年飛行兵に小学5年生で志願し、合格。しかし、父の体を張った猛反対により断念した今井常雄さんの話です。
詳しくはこちらのHPをご覧下さい。ぜひご一読ください。⇒ 
子供守った父(松本の今井常雄さん)「入隊阻止」今は誇りに



以下(黒字の部分)は上記HPより抜粋

二十年の六年生になる春、母親と相談し少年飛行兵に志願した。長男だったが学校の先生は「家の人がよいと言うなら」と志願書を出してくれた。父親は松本 医学専門学校(信州大学医学部の前身)に勤め、立派なひげをはやし、威厳があった。近寄りがたく、志願の件は話さなかった。体格検査をパス、筆記試験の通 知はがきが届いた。喜びで体が熱くなった。
 だが、事態は一変した。はがきをみつけた父親は何も言わず、出掛けていった。夕方に戻ると父親の細面の顔は丸く膨れ、形が変わり紫色に。全身は赤黒くは れて、ものを言う元気もなく寝込んだ。顔をはられ、体はムチのようなもので打た れて、ものを言う元気もなく寝込んだ。顔をはられ、体はムチのようなもので打たれた。見れば分かった。
 憲兵分隊の施設へ赴き、試験の取り下げを願い出たと後で分かった。「お国のために志願したのに親が取り下げるとは何事か」「非国民め」とののしられ、暴行を受けながらも考えを通したようだった。憲兵は「泣く子も黙る」と恐れられた。殺される可能性もあったと、今では理解できる。
 しかし、当時は寝込む姿を見て恨んだ。飛行兵になる道を絶たれたと感じたからだ。学校では教室の前に立たされた。先生は「今井君は不合格」と発表した。 「悔しくて悔しくて。おやじの苦しみは二の次だった」

 体が丈夫だった今井さんの父親は寝たり起きたりの状態となった。終戦後、飛行兵に合格した友達が空襲で死亡したと今井さんは知らされた。「おやじが助けてくれたのかも」と、何となく感じた。ありがたいとは思えず、わだかまりはとけないままだった。
 着物の仕立てや染めの技術を習得するため昭和二十五年、修業で京都へ移った。十年間働き、松本へ戻った。黒部ダムの工事で建設関係者が集中したことで芸 者衆の着物の需要が高まるなど、仕事は増え出した。多忙で、思いをくみとる暇がないまま父親は他界した。
 家業が軌道に乗り、心の余裕が出てきたころ「待てよ」と思った。敗戦が近いと見通し、身を犠牲にして、自分を戦争から救ってくれたのかもしれない。 「今、生きているのはおやじのおかげか」。理解できるまで長い歳月が必要だった。
 互いに心を通わせないままだった。「ありがとう」。告げたくても、できない。悔やんだ。仕事の傍ら、道徳を普及する活動に加わり各地で講演をした。話しながら泣けてくることもあった。



子供を守ろうとする親の心はどんなに強く、自分の身にいかに危害が加えられても、どんなことをしてでも子供の死は止めようとするんだなと感じました。
イエス様も私のために、苦しんでくださいました。
私が地獄へ行かないためには、十字架にもかかってくださいました。
(文字で書くと何だか簡単に書けてしまうのですが、簡単なことではありません。
100万回繰り返して書いても、イエス様のしてくださったことの重みを書き表せません。)

イエス様、ありがとうございます。
このことを今日の教会での聖餐式のときに一言話させていただきます。
これから原稿を作ります。また完成したらアップしますね。

今日も神様が全世界で褒め称えられますように。

題して、4つの「とれ」のススメ

2013年08月10日 | 聖書から
明日のショートメッセージの原稿です。
高校野球の好きな方が初めて教会に来られるので、
それを絡めて・・・と思っています。

題して、4つの「とれ」のススメ

この世で生き生きとした老後を送るため、必要なこと3つの「とれ」という話を、あるリハビリの先生から聞きました。
①筋「トレ」
②脳「トレ」
③脂肪「とれ」(「摂れ」でなく取り去れ)

私は4つ目の「とれ」を考えました。
④天(主)から永遠のいのちを受け「取れ」


幸せだな~と思うことはそれぞれあると思います。
でも、この世では絶対に叶わないことがあります。
それはその幸せな状態が「永遠に続く」ということです。
必ず「死」をもって終わりが来ます。
秦の始皇帝を始め、多くの権力者が不老不死の薬を求めたという話がありますが、叶いませんでした。
聖書にも永遠の命を得るためにはどうしたらいいでしょう?と真剣に悩む人は多く登場します。


世の中には「絶対」ということはないですし、将来の予言は当たるものではありません。最近多くなっている地震も洪水も、最新の技術を持ってしても「可能性はある」と言えても、それが絶対とは言い当てられません。
しかし、唯一絶対に起こることが言い当てられるとするなら、私もあなたも全員死ぬということです。
聖書によるとその続きがあります。
「死後に裁きを受けることが定まっている」と。


裁きというと閻魔大王が閻魔帳を開いて、裁判をする、なんていうことをイメージしてしまうわけですが、本気の本気でそれを心から信じる人はいないでしょう。
被告人として裁かれるというと、判決は良くて無罪、悪ければ死刑というのが常識で、被告人が「100万円をもらう刑」なんてことはないのです。
しかし、この裁きは、人間の常識の判決である死刑~無罪までではなく、(それを軽く通り越してお金を逆にもらえることも、なんてどころではなく、)天国行きの判決まであるわけです。


しかし、聖書で言うこの「裁き」が行われるのは裁判所というよりも、表彰台(ギリシャ語でヴェ-マ)であり、裁くのは裁判官というよりも、「審判」なんですね。
審判は「アウト!」ばっかり言うのではなく、「セーフ!ホームイン!」もちゃんと言ってくれるんですね。

高校野球、夢中になりますね。今日来てくださった方も野球が大好き、ということで、野球に絡めてお話させて頂きます。

野球に例えるならば、この世にオギャーと生まれ1塁にランナーとして出ます。この世の人生というベースを2塁3塁と回ってきます。盗塁だったり、バントで送ってもらったり、相手のミスであったり。仕事や結婚、出会いや別れがあり、それはいろんな方法です。
足の速い人は自分の頑張りで次の塁に進み、足の遅い人はバントなど次のバッターの人からの助けなどいろいろ借りまして3塁までは来ます。野球と似ていますね。
でも、ホームまで来てそこで「セーフ!」と審判が言うかどうかは野球と同じではありません。足が速かろうが、遅かろうが、次のバッターが打とうが、相手のピッチャーが凄かろうが、全く関係ありません。
ボールはキャッチャーが持っていて、必ずタッチされます。ポロリと落とすことはありまえん。この世の人生は最後には必ず「アウト」のタイミングになります。すなわち全員が必ず味わう「死」です。
審判の判定は???絶対に「アウト!」がっかりしてベンチの鬼監督のところへ行くことになるんでしょうか?
なんと、「セーフ!ホームイン!」もあるんです。
1つしかホームインする方法はないのです。
いろんな方法があるわけではありません。人それぞれ違ってもいいのでもありません。
イエス様を信じるかどうか、それにかかっています。


最後にある方の詩を紹介いたします。

地上にいる者の心は 喜びに満ちた経験のただ中で
「このことが終わって欲しくない」と言う。
しかし例外なくそのような経験は終わりを迎える。
天にいる者の心は 「このことが永遠に続いて欲しい」と言う。
そしてそれは永遠に続く。
これよりもすばらしい知らせは他にはない。

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

2013年06月04日 | 聖書から
ルカ5章
27 この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。
28 するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
29 そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。
30 すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」
31 そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」


マタイの召命
弟子は色んな個性があるが、弟子の中で最も裕福であったのはマタイ(レビ)であろう。
ラクダが針の穴を通るよりも難しいと聖書には書いてある。
と言うことは、マタイは当時としては信仰を持ちにくい職業・境遇の第一位である。

マタイが「大ぶるまいをした」という記事はルカにのみ出てくる。
(他の福音書では、食卓についていたとだけある。)
この「大ぶるまいをした」マタイの理由がマクドナルド兄の注解書には3つ書かれていた。
①主に敬意を表すため
②主に忠誠を誓うため
③自分の友人に主を紹介するため

これをみて、主が私たちに望んでおられる最も大切な戒めのことを思い起こした。
「神を愛せよ」「隣人を愛せよ」
①②は「神を愛せよ」に通じ、③は自分の喜びをほかの人にも分かち合い、イエス様を信じて欲しいという思いであることから「隣人を愛せよ」に通じると思う。
このマタイ主催のパーティーは、信仰告白であり、バプテスマ式であると言えると思う。
収税人の悔い改めでもうひとり有名なザアカイは、信仰を持つ前に人々からだまし取ったお金を規定よりも多く弁償することで信仰を表しました。

ザアカイの悔い改めルカ19章
7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」


イエス様が来られたご目的が明らかにされています。
「病人を治すための医者として。」
「罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
「失われた人を捜して救うために来たのです。」
他の場所にも、罪人の私たちのために来られたイエス様のことが書かれていますが、ローマ5章に集中的に何箇所も出てきますので見てみましょう。


ローマ5章
6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。しょう。
8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです


弱かった私たち、まだ罪人であった私たち、敵であった私たち、そして病人であった私たちを救うために来てくださったイエス様に感謝します。

死の陰の谷をあゆむ時も私は恐れません。

2013年05月28日 | 聖書から
詩篇23篇4節
死の陰の谷をあゆむ時も私は恐れません。
あなたが私とともにおられますから。

死の陰の谷、暗黒の谷
もともと羊は目が悪い。
羊は目で羊飼いを見てついて行くのではない。
羊飼いの声を聞き分けて、自分の主人について行く。
だから、暗闇では見るのではなく、声を聞く。

聖書が何と言っているか聞きなさい。
正しい主人である、イエス様の声を聞きなさい。
この世には色々な教えがあり、暗闇の中では色んな助けがあるように見える。
しかし、本当に慰めとなり、救いとなる正しいものは一つしかない。
自分(羊)にとって、飼い主である主人は一人しかいないから。

神は最善のことをなしたもう方。 感謝、感謝。

2013年01月07日 | 聖書から
ルカの福音書23章
33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
38 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」


まず、人間の罪ということを見ます。
他の福音書では、「イエス様に向かって犯罪人が二人で悪口を言い合っている。」とあります。
これが人間の姿です。
一人の人(神)に向かって一緒に悪口や文句を言う仲間で、自己中心の塊・自己主張の嵐です。
「同じ人に同じ不満を持っている」そういう間柄って仲良くなるんですよね。

この犯罪人たちの場合、自分の犯した罪を認めないという姿勢には、こんな事情があるのではないでしょうか。
当時、過ぎこしの祭りに囚人を釈放する赦免という習慣がありました。
死刑判決は出ていたものの犯罪人の頭には「凶悪で有名な犯罪者のバラバより自分は罪は重くないだろう。赦免されるのは自分ではないだろうか。」という思いがあったのではと想像できるのです。
そこに自分の命が助かる一縷の希望を持っていただけに「なぜ、釈放されたのが自分でなくバラバなんだ。」と怒っているのです。
「ピラトが『釈放して欲しいのはバラバかイエスか。』なんて言わなければ赦免されたのは自分だったかもしれない。」と怒る。
本当は死刑判決が当然で、「釈放されるはずだ。」というのは自分勝手な希望、言い分なのに、「裏切られた。自分は被害者だ。」と怒り、被害者意識になるのです。
当然死刑である存在なのに、自分は助かるべき人間なのに、裏切られた不幸な人間だと思うのです。


これがまさに私たち人間の姿ではないでしょうか。
神から地獄行きを宣告されても文句ひとつ言えない存在なのに、
「神様がいるならなぜ地獄なんかを用意するんだ。みんな無条件に天国に入れるべきだ。」
「そんな愛のない神は神でない。」と文句を言うのが人間なのです。
自分の理屈に合わないことは受け入れない。思い通りにならなければ、不平不満を言い、自分は被害者だと言い、挙げ句の果てには神はいないと言い、自分が神であると結論づける。
これが罪であります。


33節「イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」とあります。
簡単な一文ですが、そこに神様のご計画を見たいと思います。
これは本当に特別な配慮だと思うのです。
イエス様、犯罪人A、犯罪人Bの並び順で十字架に架けられたらどうでしょう?
犯罪人同士で隣合って悪口をイエス様に向かって一緒に言っていたら、犯罪人はお互いの顔は見えますが、十字架上のイエス様の顔は見えづらく、話していることは聞こえにくかったでしょう。
(特にイエス様から遠い位置にいる犯罪人Bは。)
しかし、イエス様が「真ん中に割って入ってくださった。」のです。
(真ん中はバラバがつくべきところだったのか。それは分かりませんが。)


犯罪人B(悔い改めた犯罪人とします)は、最初は悪口を言っていましたが、それを止め、あくまで悪口を言い続ける犯罪人Aをたしなめるようになります。
そして「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。」「十字架にかかるべき罪を犯した。」と自分の罪を認めました。
「だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」とイエス様に罪がない方であること、自分と同じ人間ではないことを認めました。
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」とイエス様の神性が分かり、神様に頼りました。
立派な信仰告白です。

イエス様が預言通りのメシヤかどうか、そんなことまで吟味したわけではないでしょう。
また、どうしたら救われるのか分かっていたわけではないでしょう。
でもイエス様が真ん中(犯罪人Bの隣)でその信仰告白を導いてくださったのです。
犯罪人Bに語りかけて「信じろ」と強制したわけではなく、架かるいわれのない十字架にかかられたイエス様の姿勢や、人間のためのとりなしの祈りを間近で見ることによって、自分から信じたのです。
はじめは「なぜ、この体の苦しみがあるのでしょう。不当だ。助けろ。」と言っていた犯罪人が、死後のことを考え、「感謝します。」に変えられたのです。


ちなみにイエス様が真ん中におられたのは、悔い改めなかった犯罪人Aの隣にもいてくださったということです。悔い改め、信仰を持つチャンスは平等でした。
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(Ⅰヨハネ5:12)とあります。
イエス様の左右で人の目には同じように十字架で死んだ犯罪人2人。
しかし、霊的には対照的な結果(いのちを持つ者と持たない者)となりました。


もうひとつの疑問。
それは、イエス様は十字架から降りなかったし、犯罪人を降ろすこともなさいませんでした。
今までの例を考えれば、「十字架上の犯罪人は助け、イエス様のみが十字架にかかった」という結論でもいいのでは?と思うでしょう。
姦淫の女を石打ち刑から助け、「もう罪を犯してはならない。さあ、行きなさい。」と言われたイエス様です。
しかし、なぜか十字架では犯罪人を十字架から下ろしませんでした。
これは不公平なのでしょうか?

そうではありません。
十字架という試練は取り除かったが、さらに素晴らしいものを与えてくださったのです。
一緒に天国に行ってくださったのです。
「死ぬべきこの世の体は死ぬが、天の御国に入ることができる。」ということを示してくださった。
そして多くの人がこの聖書の箇所を読んで救われ、励まされることになったのです。
神は最善のことをなしたもう方。 感謝、感謝。


神様が用意される「脱出の道」はかなり奇跡的な方法も。

2013年01月04日 | 聖書から
あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
コリント第一の手紙 10章13節


聖書は「文脈で読むことが大切」とよく言われます。
有名な箇所だけ取り出して、その言葉をいろいろな状況に適用していくのも良いですが、
純粋に文脈から、シチュエーションから考えるのも大事ですね。
どうしても聖句だけ取り出して覚えてしまいますよね。


その時代・場所に自分がいて、自分に向けて書かれたと。(自分がコリントの教会員であると。)
どんなことをパウロは言いたかったのか、
例えば10章13節においては、この手紙では何を「困難」としていたのだろうか?
そう思って書簡全体を読むのは新たな発見がありますよ。

どんな困難が語られ、どんな解決があると言われていたのでしょう?
病気?いじめ?仕事がない?家庭内の不和?そのほか??
その解決策は神様が必ず用意してくれると?
でも、それはあくまで現代の私たち、現代の問題への適用なんですね。
(それも正しいことです。)

文脈をつかむと、パウロは第一義的にはそうではなく、「脱出」は言葉通りの脱出です。
「エジプトからの脱出を神様は成してくださったではないか。」ということです。
モーセに率いられたエジプトから脱出の旅においていろいろな困難がありました。
旅では不満を漏らしたくなることばかり、エジプト軍に追われ、食べ物や水の心配が有り。
こんなことなら「エジプトで奴隷をしていたほうが良かった」ということばかり。
これが「困難」でした。


しかし、神様は必要なものを与えて敵を殲滅し、無事に「脱出」させてくださるのです。

それを自分の生活に適用させるのが正しい解釈ではないでしょうか。
単に苦境から人間でも思いつくような方法で脱出させて下さったり、解決策を与えてくださるのではない。
もちろん食べ物のことのような日常的なことの解決もあるでしょう。
でも、出エジプトのエピソードを知っている方は、どんなに奇跡が行われたか知っておられるでしょう。
天候が守られて食物が畑で育った、なんて方法ではなく、天からマナです。

また、命の危険の時には、紅海がわれた時のようにありえないことをして下さってまで、私たちを安全に導いてくださるのです。

何てものすごい方法を取られるのでしょうか。
そんな方法・そんな力を持っておられるお方が味方についているのです。
家族の救い、本当に壁が高く厚いように見えます。
でも、その脱出・解決の道が「自分の力で」、なんて考える方がおかしく思えます。
出エジプトを思い出してみてください。
緊急事態には奇跡的な方法も必ずや神様はとってくださいます。
(神様がやってくださるから自分は何もやらないでおこう、って慢心につながってはいけませんが・・・。)

言いたいことが伝わったら嬉しいです。
ではおやすみなさい。。。