あるクリスチャン理学療法士の思いつき日記

クリスチャン理学療法士の私
聖書のこと、日々ニュースに思うこと、大好きな野球の話など
気ままにアップしています。

マートンサヨナラ弾 イエス様の名前が日本中に流れた

2013年06月10日 | 気になるニュース
マートン虎史上初の月間2サヨナラ弾で首位再浮上「イイデスネ」
デイリースポーツ 6月9日(日)19時35分配信

“マートンコール”に応えてのお立ち台。インタビュアーとのやり取りも恒例?になってきた。

 ‐コールが鳴りやみません。

 「アリガトウゴザイマス!!」

 ‐6日に続いてまたサヨナラ本塁打です。

 「九回はもしかしたら、(自分の)ラッキーイニングになっているかもしれない」

 ‐その秘訣は?

 「イエス様だけね。オオキニ!!」

 ‐首位再浮上です。

 「イイデスネ」

 大阪弁混じりの日本語に、マジメな英語をミックスさせてのインタビューに、甲子園が爆笑と拍手で応えた。


イエス様の名前が日本中に流れた~~~ニコニコ
今年は絶好調チョキ
ほんと、応援しています!!
どんどんお立ち台に上がってください。。。

ネットの記事でしか見ていないので、
どこかのスポーツニュースでインタビューの映像流してくれないかな。アップ

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

2013年06月04日 | 聖書から
ルカ5章
27 この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい」と言われた。
28 するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
29 そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。
30 すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」
31 そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」


マタイの召命
弟子は色んな個性があるが、弟子の中で最も裕福であったのはマタイ(レビ)であろう。
ラクダが針の穴を通るよりも難しいと聖書には書いてある。
と言うことは、マタイは当時としては信仰を持ちにくい職業・境遇の第一位である。

マタイが「大ぶるまいをした」という記事はルカにのみ出てくる。
(他の福音書では、食卓についていたとだけある。)
この「大ぶるまいをした」マタイの理由がマクドナルド兄の注解書には3つ書かれていた。
①主に敬意を表すため
②主に忠誠を誓うため
③自分の友人に主を紹介するため

これをみて、主が私たちに望んでおられる最も大切な戒めのことを思い起こした。
「神を愛せよ」「隣人を愛せよ」
①②は「神を愛せよ」に通じ、③は自分の喜びをほかの人にも分かち合い、イエス様を信じて欲しいという思いであることから「隣人を愛せよ」に通じると思う。
このマタイ主催のパーティーは、信仰告白であり、バプテスマ式であると言えると思う。
収税人の悔い改めでもうひとり有名なザアカイは、信仰を持つ前に人々からだまし取ったお金を規定よりも多く弁償することで信仰を表しました。

ザアカイの悔い改めルカ19章
7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」


イエス様が来られたご目的が明らかにされています。
「病人を治すための医者として。」
「罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
「失われた人を捜して救うために来たのです。」
他の場所にも、罪人の私たちのために来られたイエス様のことが書かれていますが、ローマ5章に集中的に何箇所も出てきますので見てみましょう。


ローマ5章
6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。しょう。
8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです


弱かった私たち、まだ罪人であった私たち、敵であった私たち、そして病人であった私たちを救うために来てくださったイエス様に感謝します。