あるクリスチャン理学療法士の思いつき日記

クリスチャン理学療法士の私
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2013年01月21日 | 気になるニュース
麻生氏、終末期患者を「チューブの人間」と表現
読売新聞 1月21日(月)19時42分配信

麻生副総理は21日、首相官邸で開かれた社会保障制度改革国民会議で、終末期医療の患者を「チューブの人間」と表現し、「私はそういう必要はない、さっさと死ぬんだからと(遺書を)書いて渡してある」と語った。

 その上で、「死にたいなと思って、生かされるのはかなわない。政府の金で(延命治療を)やってもらうなんてますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと解決しない」と述べた。

 麻生氏はその後、財務省内で記者団に対し、「私の個人的なことを申し上げた。終末医療のあるべき姿について意見を申し上げたものではない」と釈明した。また、「公の場で発言したのは適当でない面もあった。当該部分について撤回し、議事録から削除するよう申し入れる」とするコメントを発表した。

プンプンふざけるな。ですね。
「死にたいと思ってる。」人=終末期医療を受けている人なんでしょうか。
とんでもない、何を言ってるんですか。その理解が既に間違っています。
適当でない、言う場所を間違えた、だけなんでしょうか?
言ってる内容も間違っていますよ。

また、麻生さんが「自分がどう思っているか。」なんて、ここでは関係ないですよ。
それに、自分が終末を迎えた時に本当にそう言うのかも分からないですよ。
健康な時は何でも言えますよ。

延命治療にお金がかかる。国民の負担も大きい。これは事実。
延命治療を望まない人がいる。これは事実。
しかし、延命治療をすべきかどうか、どう判断するかは本当に難しい。
そして意思確認が難しい場面が多い。
倫理的に自殺・他殺との違いはないのか。
残された家族の後悔・罪責感は続くことの苦しみ。それも事実。
本当に難しい問題。解決があるのかどうかもわからない問題です。
部外者の「本音はこう」で終わる問題でも、当事者となったら解決を求めてもがきまくるような問題です。
それだけに簡単にコメントできない問題です。

それなのに「ごちゃごちゃ言わずに本音を言って解決しましょう by麻生」ですか。
ズバッと本音を言う言葉、皮肉のような言い方、好き放題な言い方、
麻生節かなんか知らないですが、どんな言い方をしたとしても、理解できません。
本音はそうだよね、で、そのあとこの議論は発展していくんですか?
どうやって現実に法制化するんですか?
どうやって意思を確認するんですか?
自殺をすすめるんですか?(チューブがついていれば特例で自殺に当たらないとでも?)
「死にたいな。」と思ったら、その人は死なされるんですか?
こんな発言をしても、何にも進みませんよ。

今回の発言は「自分の気分を言っただけ」で、まったく馬鹿げていると思います。
ただの酔っぱらいのたわごとレベル。

意外に麻生発言を支持するコメントが多いのにビックリです。

延命治療を考えるのなら、もっと議論や研究は進んでいますよ。
何となく「こうしてしまえ」と感想で言ってしまうのは勉強が足りないだけ。
健康な人が何も知らずに言う、まさに素人レベルの大臣。
庶民の声を代弁しているかもしれないですが、頭の中が庶民レベル・素人レベルの大臣じゃ困る。
プンプン



温泉&おすすめの本

2013年01月20日 | 日記
おはようございます。ニコニコ
今日は朝から近くのお風呂に行ってきました。
ゆっくり入りながら、いろんなことを考えているのが好きなんです。

昨日から、事故の影響なのか、右の首から肩甲骨の周囲まで突っ張りがあって、
首の前屈(下を向く)と右向きが痛くてできなかったのです。
その痛みも楽になるといいなぁと思って。

朝からおじさんたちは入りに来ていましたよ。
元気ですね。
今日は大寒だそうですね。
それほど極端に寒くはならないとのことですが。

追突後のむち打ちは、寒くなると痛みが出ると言われていますが、
痛みが良くなるようお祈りいただけるとありがたいです。
よろしくお願いします。かお





最近読んでいる本です。
どのようにして人は怠けたり、欲望に走ってしまうのか。
それは制御できるのかどうか?
気合とか、精神論ではなく、生理学的・心理学的にどのようなことが起こっているのか。
理論的に書いてあるのがとても嬉しいです。

「すべきこと、すべきでないことが分かっているのに制御できない。」
というのが多くの人の悩みだと思います。
(だって、分かっていないからできない(してしまう)なら、あまり悩まないのです。
その点については判断が子供だったわけで、学習して、これから直せばいいだけなのですから。)

私は「すべきこと、すべきでないことが分かっているのに制御できない。」
ということが「解決できるのか」「本能だから解決できないのか」が知りたいのです。

この本は解決(の糸口)を与えてくれると思います。
余談ですが、久しぶりに本屋さんで(信仰書以外の本で)定価の本をその場で買いました。
スタンフォードの自分を変える教室/大和書房

¥1,680
Amazon.co.jp


神は最善のことをなしたもう方。 感謝、感謝。

2013年01月07日 | 聖書から
ルカの福音書23章
33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
38 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」


まず、人間の罪ということを見ます。
他の福音書では、「イエス様に向かって犯罪人が二人で悪口を言い合っている。」とあります。
これが人間の姿です。
一人の人(神)に向かって一緒に悪口や文句を言う仲間で、自己中心の塊・自己主張の嵐です。
「同じ人に同じ不満を持っている」そういう間柄って仲良くなるんですよね。

この犯罪人たちの場合、自分の犯した罪を認めないという姿勢には、こんな事情があるのではないでしょうか。
当時、過ぎこしの祭りに囚人を釈放する赦免という習慣がありました。
死刑判決は出ていたものの犯罪人の頭には「凶悪で有名な犯罪者のバラバより自分は罪は重くないだろう。赦免されるのは自分ではないだろうか。」という思いがあったのではと想像できるのです。
そこに自分の命が助かる一縷の希望を持っていただけに「なぜ、釈放されたのが自分でなくバラバなんだ。」と怒っているのです。
「ピラトが『釈放して欲しいのはバラバかイエスか。』なんて言わなければ赦免されたのは自分だったかもしれない。」と怒る。
本当は死刑判決が当然で、「釈放されるはずだ。」というのは自分勝手な希望、言い分なのに、「裏切られた。自分は被害者だ。」と怒り、被害者意識になるのです。
当然死刑である存在なのに、自分は助かるべき人間なのに、裏切られた不幸な人間だと思うのです。


これがまさに私たち人間の姿ではないでしょうか。
神から地獄行きを宣告されても文句ひとつ言えない存在なのに、
「神様がいるならなぜ地獄なんかを用意するんだ。みんな無条件に天国に入れるべきだ。」
「そんな愛のない神は神でない。」と文句を言うのが人間なのです。
自分の理屈に合わないことは受け入れない。思い通りにならなければ、不平不満を言い、自分は被害者だと言い、挙げ句の果てには神はいないと言い、自分が神であると結論づける。
これが罪であります。


33節「イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」とあります。
簡単な一文ですが、そこに神様のご計画を見たいと思います。
これは本当に特別な配慮だと思うのです。
イエス様、犯罪人A、犯罪人Bの並び順で十字架に架けられたらどうでしょう?
犯罪人同士で隣合って悪口をイエス様に向かって一緒に言っていたら、犯罪人はお互いの顔は見えますが、十字架上のイエス様の顔は見えづらく、話していることは聞こえにくかったでしょう。
(特にイエス様から遠い位置にいる犯罪人Bは。)
しかし、イエス様が「真ん中に割って入ってくださった。」のです。
(真ん中はバラバがつくべきところだったのか。それは分かりませんが。)


犯罪人B(悔い改めた犯罪人とします)は、最初は悪口を言っていましたが、それを止め、あくまで悪口を言い続ける犯罪人Aをたしなめるようになります。
そして「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。」「十字架にかかるべき罪を犯した。」と自分の罪を認めました。
「だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」とイエス様に罪がない方であること、自分と同じ人間ではないことを認めました。
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」とイエス様の神性が分かり、神様に頼りました。
立派な信仰告白です。

イエス様が預言通りのメシヤかどうか、そんなことまで吟味したわけではないでしょう。
また、どうしたら救われるのか分かっていたわけではないでしょう。
でもイエス様が真ん中(犯罪人Bの隣)でその信仰告白を導いてくださったのです。
犯罪人Bに語りかけて「信じろ」と強制したわけではなく、架かるいわれのない十字架にかかられたイエス様の姿勢や、人間のためのとりなしの祈りを間近で見ることによって、自分から信じたのです。
はじめは「なぜ、この体の苦しみがあるのでしょう。不当だ。助けろ。」と言っていた犯罪人が、死後のことを考え、「感謝します。」に変えられたのです。


ちなみにイエス様が真ん中におられたのは、悔い改めなかった犯罪人Aの隣にもいてくださったということです。悔い改め、信仰を持つチャンスは平等でした。
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(Ⅰヨハネ5:12)とあります。
イエス様の左右で人の目には同じように十字架で死んだ犯罪人2人。
しかし、霊的には対照的な結果(いのちを持つ者と持たない者)となりました。


もうひとつの疑問。
それは、イエス様は十字架から降りなかったし、犯罪人を降ろすこともなさいませんでした。
今までの例を考えれば、「十字架上の犯罪人は助け、イエス様のみが十字架にかかった」という結論でもいいのでは?と思うでしょう。
姦淫の女を石打ち刑から助け、「もう罪を犯してはならない。さあ、行きなさい。」と言われたイエス様です。
しかし、なぜか十字架では犯罪人を十字架から下ろしませんでした。
これは不公平なのでしょうか?

そうではありません。
十字架という試練は取り除かったが、さらに素晴らしいものを与えてくださったのです。
一緒に天国に行ってくださったのです。
「死ぬべきこの世の体は死ぬが、天の御国に入ることができる。」ということを示してくださった。
そして多くの人がこの聖書の箇所を読んで救われ、励まされることになったのです。
神は最善のことをなしたもう方。 感謝、感謝。


神様が用意される「脱出の道」はかなり奇跡的な方法も。

2013年01月04日 | 聖書から
あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
コリント第一の手紙 10章13節


聖書は「文脈で読むことが大切」とよく言われます。
有名な箇所だけ取り出して、その言葉をいろいろな状況に適用していくのも良いですが、
純粋に文脈から、シチュエーションから考えるのも大事ですね。
どうしても聖句だけ取り出して覚えてしまいますよね。


その時代・場所に自分がいて、自分に向けて書かれたと。(自分がコリントの教会員であると。)
どんなことをパウロは言いたかったのか、
例えば10章13節においては、この手紙では何を「困難」としていたのだろうか?
そう思って書簡全体を読むのは新たな発見がありますよ。

どんな困難が語られ、どんな解決があると言われていたのでしょう?
病気?いじめ?仕事がない?家庭内の不和?そのほか??
その解決策は神様が必ず用意してくれると?
でも、それはあくまで現代の私たち、現代の問題への適用なんですね。
(それも正しいことです。)

文脈をつかむと、パウロは第一義的にはそうではなく、「脱出」は言葉通りの脱出です。
「エジプトからの脱出を神様は成してくださったではないか。」ということです。
モーセに率いられたエジプトから脱出の旅においていろいろな困難がありました。
旅では不満を漏らしたくなることばかり、エジプト軍に追われ、食べ物や水の心配が有り。
こんなことなら「エジプトで奴隷をしていたほうが良かった」ということばかり。
これが「困難」でした。


しかし、神様は必要なものを与えて敵を殲滅し、無事に「脱出」させてくださるのです。

それを自分の生活に適用させるのが正しい解釈ではないでしょうか。
単に苦境から人間でも思いつくような方法で脱出させて下さったり、解決策を与えてくださるのではない。
もちろん食べ物のことのような日常的なことの解決もあるでしょう。
でも、出エジプトのエピソードを知っている方は、どんなに奇跡が行われたか知っておられるでしょう。
天候が守られて食物が畑で育った、なんて方法ではなく、天からマナです。

また、命の危険の時には、紅海がわれた時のようにありえないことをして下さってまで、私たちを安全に導いてくださるのです。

何てものすごい方法を取られるのでしょうか。
そんな方法・そんな力を持っておられるお方が味方についているのです。
家族の救い、本当に壁が高く厚いように見えます。
でも、その脱出・解決の道が「自分の力で」、なんて考える方がおかしく思えます。
出エジプトを思い出してみてください。
緊急事態には奇跡的な方法も必ずや神様はとってくださいます。
(神様がやってくださるから自分は何もやらないでおこう、って慢心につながってはいけませんが・・・。)

言いたいことが伝わったら嬉しいです。
ではおやすみなさい。。。


仕事始めです

2013年01月04日 | ダイエット・健康法
みなさん、お正月は食べ過ぎなかったですか?
今日お風呂に入る前体重計に乗ってびっくり。
体年齢が40歳に・・・ガーン
ある意味、順当だったんですけどね。
お腹がいっぱいなのにさらに食べる、そうすると必ず太ってるんです。
お正月もそんな生活してました。
親戚の方が来られて話をしていて、間があくとついつい食べてしまうんです。

昨日から仕事が始まりました。
リハビリ病棟はお正月も関係なくリハビリを行っています。
昨日はお正月ボケで疲れましたね。
患者さんとのトークもイマイチ汗

今日は体が軽かった。
家に帰ってから聖書もしっかり読めました。
今年は一年で聖書通読目指したいと思います。