今月、3日、ハワイのゴルフ場でお亡くなりになった、氷川きよしさんの“育ての親”事務所の会長、長良じゅんさんの葬儀が、今日の午後、都内の青山葬儀場で、しめやかにいとなまれました。
情報ライブ・ミヤネ屋で葬儀のもようと、きよしくんのコメントが放送されました。
祭壇には、ご家族が選んだ、笑顔の写真と、長良会長を囲むように、17種類、60000本の花が飾られています。穏やかな、長良会長の笑顔です。
ミヤネ屋より・・・“人を見る目が芸能界随一”と言われた長良会長。その面倒見の良さから多くの人に慕われてきました。生前、ゆかりのあった、友人、関係者など、5000人を越える方々が弔問に訪れました。その中には、歌手、氷川きよしさんが・・・
氷川きよしさんを“演歌界の貴公子”に育て上げた、長良会長。二人の間には、ある秘話がありました。高校を卒業後、演歌歌手を夢見て、福岡県から上京した、氷川さん。しかし・・・オーディションに落ち続ける苦難の日々が続きます。何の手がかりもないまま、3年が経過。「これで最後だから」と、長良プロダクションの門を叩きます。
藁にも縋る思いで歌った、氷川さん。長良会長は、氷川きよしさんの、その“歌声”にあるものを見出したと言います。「(氷川きよし)は、今は、あまり無くなっちゃった少年らしさみたいなものを、彼自身が気づかずに持っていると思うんですよね。だから良いと思う。作ったものじゃないから。」
氷川さんの荒削りながらも、芯のある歌声に魅了された、長良会長は、その場で事務所に迎えいれることを決断。人生の大勝負と、企画、制作のみならず、営業に駆けまわる毎日が続きます。
そして・・・生まれたのがこの曲。箱根八里の半次郎
「箱根八里の半次郎」は演歌としては異例の 160万枚というヒットを記録。日本レコード大賞最優秀新人賞など、新人賞を総なめにします。その後も氷川さんは、ヒット曲を世におくりだし続けました。数多くの歌手の才能を発掘してきた長良会長。面倒見の良い親分肌で多くの芸能人の人から親しまれました。生前、親交のあった仲間から、哀しみの声が・・・
きよしくんのインタビューと、コメント
『哀しい歌も笑顔で歌いなさいっていうふうに言われたことがあって哀しい時に哀しい歌を歌っちゃいけないよと、会長から教えていただいて・・・お別れさせていただく気持ちはないのと、会長の魂は、永遠にぼくの心の中に、ずっと生きてるんで・・・会長に、ご恩返しができるように、これからもこの長良グループで歌手として、一人前になれるように、前進していきたいという決意をさせていただきました。(会長が急逝された直後の奈良コンサートで泣かれたとお聞きしましたが・・・?の問いに・・・)泣かないつもりだったんですが・・・“櫻”という曲があまりにも、歌の世界が、リアル過ぎて・・・正直コンサートで、歌いたくなかったんですが、会長が真心こめて、一生懸命、作ってくださった作品なので、歌ったんですけど・・・どうしても自分の気持ちが入ってしまって泣いてしまいましたけども、ずっと泣いてはいられないので前を向いて、会長が喜んでくださるような、人としての生き方や、そして歌手としての最高の歌を表現できるように、そして、人としての最高の、ふるまいが出来るような氷川きよしになっていきたいです。(会長のどんな言葉を思い出されますか??)もう、いっぱいあり過ぎて会長が亡くなって、もう、全部思い出そうと思って、ノートに書き留めたんですよ。今までも、会長に言われたことは、そのまますぐ紙に書いたら、会長が「きよし!おまえ、えらいなぁ~!!ちゃんと成長して、一人前になれよ!!」って、ずっと言っていただいて・・・ぼくもデビューする前、会長に、ひろっていただいて、当時、男性の演歌歌手は、なかなかデビューが決まらなくて、最後の僕も懸けでそれがダメだったら福岡に引き上げようと思っていたところに、長良会長が「よし!!うちでやろう!!」って、言ってくださって、そのひとことで氷川きよしが誕生して、会長が僕を育ててくださって・・・そんな思い出が、たくさんあって、ひとことでは、纏められないんですが・・・とにかくこう氷川きよしの全てですね!!長良会長は・・・会長の笑顔と、会長の声・・・誰に対しても優しいかたでした・・・』
きよしくんは、哀しみを堪えながら、ひとこと、ひとこと、ことばを嚙み締めるように、話されました。
こうして、書いていても涙が出てきます。改めて、長良会長さまのご冥福をお祈りいたします。