今日は、プールで、小学生が、バタフライを上手に泳いでいて、末っ子のことを懐かしく思い出していました。
末っ子が、2万人にひとりの難病、ペルテス病にかかったのは、小学1年生の冬でした。
念のためにといわれて行った医大の小児整形で、その宣告を受けた瞬間から、末っ子は車椅子に。
立つことを許されなくなりました。
自宅から、往復4時間かかる療育施設への入院。
母であったぐり先生は、療育施設に毎日通い、心労で1か月で10キロの体重減。
両足装具は24時間つけていなければならず、足を開いたままの状態の末っ子は、ペルテスカーと呼ばれる大きな車椅子に乗って生活しました。
2か月の療育施設では、毎日の水中とマットの上でのリハビリ。
毎日通ったぐり先生は、その全てを覚えました。
2か月後の退院ののちも、ぐり先生が毎日リハビリをしました。
水中でのリハビリと、水中でだけ重力がかからないので自由に動ける末っ子のために、毎日、市民プールに通いました。
そんな中で、覚えた水泳。
末っ子は、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ、全ての泳ぎを習得しました。
全て、泳いでいる人を見ての独学や母からの伝授。
仲のいいプールの知り合いもたくさんできました。
そうして、3年生のときにやっと車椅子から解放された末っ子は、スイミングスクールへ。
いきなり、選手コースに入ることができました。
それからは、リハビリと自主練習のための市民プールと、スイミングスクール。
合間の宿題。
小学校の高学年では、ミニバスケットチームにも入り、ミニバスと水泳と勉強の毎日。
休みの日は、試合で、今も、いくつも残るメダル。
懐かしい表彰台。
一応、重いものは持たないほうがよかったり、一日中立つ仕事は避けたほうがいいなどはあるものの、今は元気な末っ子がいます。
将来、後遺症が出てきても、医学は進み、少し明るい未来が見えてきました。
今、ぐり先生がプールに通うきっかけも、ペルテス病のおかげです。
それまでは、ぐり先生の生活の中に、プールという存在はありませんでしたから。(*^_^*)
写真は、こたつで寝るミルたんです。
ぐり先生は、素人の童話書き。
ホームページは、しがみねくみこの童話~月の光の中で~といいます。
ぜひ、よろしくお願いします!
末っ子が、2万人にひとりの難病、ペルテス病にかかったのは、小学1年生の冬でした。
念のためにといわれて行った医大の小児整形で、その宣告を受けた瞬間から、末っ子は車椅子に。
立つことを許されなくなりました。
自宅から、往復4時間かかる療育施設への入院。
母であったぐり先生は、療育施設に毎日通い、心労で1か月で10キロの体重減。
両足装具は24時間つけていなければならず、足を開いたままの状態の末っ子は、ペルテスカーと呼ばれる大きな車椅子に乗って生活しました。
2か月の療育施設では、毎日の水中とマットの上でのリハビリ。
毎日通ったぐり先生は、その全てを覚えました。
2か月後の退院ののちも、ぐり先生が毎日リハビリをしました。
水中でのリハビリと、水中でだけ重力がかからないので自由に動ける末っ子のために、毎日、市民プールに通いました。
そんな中で、覚えた水泳。
末っ子は、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ、全ての泳ぎを習得しました。
全て、泳いでいる人を見ての独学や母からの伝授。
仲のいいプールの知り合いもたくさんできました。
そうして、3年生のときにやっと車椅子から解放された末っ子は、スイミングスクールへ。
いきなり、選手コースに入ることができました。
それからは、リハビリと自主練習のための市民プールと、スイミングスクール。
合間の宿題。
小学校の高学年では、ミニバスケットチームにも入り、ミニバスと水泳と勉強の毎日。
休みの日は、試合で、今も、いくつも残るメダル。
懐かしい表彰台。
一応、重いものは持たないほうがよかったり、一日中立つ仕事は避けたほうがいいなどはあるものの、今は元気な末っ子がいます。
将来、後遺症が出てきても、医学は進み、少し明るい未来が見えてきました。
今、ぐり先生がプールに通うきっかけも、ペルテス病のおかげです。
それまでは、ぐり先生の生活の中に、プールという存在はありませんでしたから。(*^_^*)
写真は、こたつで寝るミルたんです。
ぐり先生は、素人の童話書き。
ホームページは、しがみねくみこの童話~月の光の中で~といいます。
ぜひ、よろしくお願いします!