・万人の認める基準には不適当です
当会では、太極拳(𡘷路=とうろ)を全く無視してレッスンしています。
全くという意味は、支離滅裂、無茶苦茶、指針がないというんじゃもちろんありません。
レッスンの目的を
極意習得、極意にふれるというこの点に絞っているためです。
そのため、他の太極拳教室とはまったく異なっています。
異なっていて当然なんですが、変な教室なんですよ。
護身術として太極拳を眺めた場合
今の社会生活をおくる中で
自身の身を護って、わたっていくことに主眼をおいている
ということです。
生物(人間も)の世界の宿命は、「個」の終わりが、「死=無」に直結しています。
武術、武道を学ぶ本質は、個を護ること、自分への護身法です。
そういうことならば、形を教えるのも大事なんですが
武術の究極エッセンスであるところの「極意」と呼ばれる領域を
隠さずにレッスンの中で体現し、感覚していくことだと
それが出来ない限り私は、生徒さんの前に立てないなぁ・・・と自問しています。
どうしてかというと、
通常は、普通は、一般の人は、一人で「極意」を身につけられないんです。
ビデオ、本、ユーチューブ、ネット検索、AIロボット・・・みんなダメです。
わけは、感覚を伴わないからです。
その武術独特の感覚、これが体験なしえない
ところでは何年、何十年とやっても難しいと言わざるを得ません。
私もあと、そうですね、10年~15年以内くらいしか教えることができないと思います。
60歳からは、茶道(表千家)と煎茶道(習軒流)の教室を開く予定ですので
多忙になるためです。
当会では、太極拳(𡘷路=とうろ)を全く無視してレッスンしています。
全くという意味は、支離滅裂、無茶苦茶、指針がないというんじゃもちろんありません。
レッスンの目的を
極意習得、極意にふれるというこの点に絞っているためです。
そのため、他の太極拳教室とはまったく異なっています。
異なっていて当然なんですが、変な教室なんですよ。
護身術として太極拳を眺めた場合
今の社会生活をおくる中で
自身の身を護って、わたっていくことに主眼をおいている
ということです。
生物(人間も)の世界の宿命は、「個」の終わりが、「死=無」に直結しています。
武術、武道を学ぶ本質は、個を護ること、自分への護身法です。
そういうことならば、形を教えるのも大事なんですが
武術の究極エッセンスであるところの「極意」と呼ばれる領域を
隠さずにレッスンの中で体現し、感覚していくことだと
それが出来ない限り私は、生徒さんの前に立てないなぁ・・・と自問しています。
どうしてかというと、
通常は、普通は、一般の人は、一人で「極意」を身につけられないんです。
ビデオ、本、ユーチューブ、ネット検索、AIロボット・・・みんなダメです。
わけは、感覚を伴わないからです。
その武術独特の感覚、これが体験なしえない
ところでは何年、何十年とやっても難しいと言わざるを得ません。
私もあと、そうですね、10年~15年以内くらいしか教えることができないと思います。
60歳からは、茶道(表千家)と煎茶道(習軒流)の教室を開く予定ですので
多忙になるためです。