島の南部の記録です。南海岸、南揚陸場と戦時中(戦前も?)と呼ばれていた地区で米海兵隊の上陸した東海岸は目と鼻の先の場所になります。宿舎からも近く気楽に行けた場所です。宿舎を出て外周道路沿いに西に向かうとすぐに鹿島建設の現場事務所があります。(鹿島建設は硫黄島の設備維持管理を一手に引き受けていたと思う)鹿島建設にも売店があり平日は毎日営業(営業時間は夕方のみだったような・・・)、自衛隊売店では売っていないタバコも販売している等、魅力のある売店でしたが昼勤の2直は時間帯的に行けなかったので、欲しい物があった場合は他の勤務時間帯の人に買い物を頼んでいました。その鹿島建設現場事務所から南の海岸方面へ抜ける道があり(道というよりも獣道といった表現が近いですが)、海岸へも行けるし分岐して探照灯の遺構へと行ける道もありました。この一帯は海軍の持ち場だったらしく潤沢な建築資材で造ったコンクリートの立派なトーチカが多くありました。トーチカの銃眼から見る東海岸(上陸海岸)は正に目と鼻の先で上陸前の艦砲射撃でやられていなければ上陸後の戦闘で大活躍したでしょう。当時のまま残っていた探照灯は半地下式になっており使う時だけレールに沿って引き出せるようになっていました。そういえばトーチカ群の場所を教えて頂いたベテランバイトのSさんは案内していただいたときに転んで腰を強打してしまった。幸い打ち身程度で済んだがやはり複数人でジャングル、地下壕を巡る大原則は必ず守った方が良い。
そして硫黄島に来る前からここだけは行っておきたいと思っていたのが「初弾必中・水際撃滅・冷静沈着」等当時壁面に書いた標語がいまだ残っているトーチカだ。その場所は意外と近く外周道路から少し横に入るとあった。(実際には文章で書くほど気楽な感じではなく100mほどだが藪漕ぎで進み皮膚がやられたりして大変だった)当時の人が書いた文字は感じ入るものがあった。(戦時中にこの標語を壁に書いたのが硫黄島警備隊司令和智大佐らしい、和智大佐は戦後硫黄島協会を設立して慰霊活動の中心となる。戦後に渡島した際、トーチカの文字が消えかかっていたので文字をなぞって分かりやすくしたらしい)
南海岸は宿舎から行きやすかったので在島中は何度も訪れた。